「ウマソウルってうるさいよね」「えっ」「えっ」   作:バクシサクランオー

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千里の道の道標

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 スピード、パワー、スタミナの三本の柱を重点的に鍛えるトレーナーが多い中、桐生院トレーナーは根性といった精神的なものや、賢さなどの幅広い要素をバランスよく伸ばすことを重視したメニューを組む。

 それは特化型に比べ器用貧乏になりかねないリスクをはらむが、反面すべてを高次元に伸ばすことができれば付け入る隙のない絶対的強者となりうる。

 

《シニア二年目で現時点のミークのステータスが見た感じ、ざっとオールB~B+。これが全盛期に入ってA~A+になるのだとすれば、アプリ版でのURAファイナルズは戦うのが早すぎたか遅すぎただけだったのかもしれないね》

 

 それにバランスよく鍛えると言うことはつまり負荷が偏らないということであり、故障に繋がりにくい。

 なんでもできるし、なんでもやりたい、なにより最後まで健康のまま走り抜けたい私の目的に実に合っていると言えるだろう。

 

 ちなみに、桐生院トレーナーとある意味で対極にあるのが彼女の同期、スカーレットとウオッカという世代の双璧のスカウトに成功したという新進気鋭の某トレーナーだ。

 通称ゴルシT。もちろん本名はちゃんと存在しているはずなのだが、ゴールドシップ先輩と一緒に『最初の三年間』で歴史に名を刻む数々の偉業(および学園史に残る奇行)を成し遂げたのが印象的過ぎて誰も憶えていない。学園内どころか外部でさえゴルシTで通じるほどだ。

 そんな彼のメニューは破天荒にして大胆。高度な柔軟性を維持しつつ臨機応変に対応している。

 

《それはなんかダメそうだ。従軍した三分の二が未帰還になりそう》

 

 なにそれ?

 

 中央のトレーナーなら一度は身に覚えがあるという『そのとき、ふとひらめいた!』。

 日常の何気ない出来事を担当育成のトレーニングに繋げる。そのトレーニングは通常のものと違い長期的な活用こそできないが、短期的にはより大きな効果を見込めるそうだ。

 いやどんなだよ。中央のトレーナーは変態しかいないのか。

 とはいえ、一応そんなものを思いつくのはトレーナー人生の中で数えるほどらしい。天啓と呼ばれることもあるほどに、ひらめきはそう簡単に起こるものではない。普通なら。

 

 ゴルシTは半月に一度のスパンで天啓を得る。

 彼のトレーニングはひらめきで満ちている。

 

 それが飽き性のゴールドシップ先輩に三年間みっちりトレーニングを行わせ、それによって結ばれた強固な信頼関係が歴史に残る偉業に繋がったのだ……とこの前『月刊トゥインクル』で特集やってた。

 

《この世界線にも乙名史さんいるんだなーってあれ読んだときには思ったよ》

 

 まあしょせんは雑誌だし話半分に聞くのが正解なのだろうが、テンちゃんが言うにはあの記者は信頼できるそうだ。

 だとすれば恐ろしい話である。いったいどれだけの時間、ウマ娘のことを考えているというのか。ドン引き、いや畏怖の念を抱かずにはいられない。

 

《もはや『日に数度、心が「ウマ娘」から離れます』ってレベルじゃないかな》

 

 彼が中央のトレーナーからさえも敬意と畏怖を向けられているという噂、まんざらデタラメでもないのかもしれない。

 天才は私だけじゃない。

 優秀なウマ娘がいれば、優秀なトレーナーもいる。その全員が死に物狂いで上を目指す、そんな魔窟が中央トレセン学園だ。

 せっかく好スタートを切ったとはいえ油断は禁物。なので今日も私は手を抜かず、青春の汗を流すのであった。

 

 

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「ねえねえ、リシュちゃんの足音の出ない走り方ってどうやってるの?」

 

 そんなある日の〈パンスペルミア〉合同トレーニング終わり。

 クールダウンも済ませ、呼吸も整ってさてシャワーでも浴びようかというタイミングでマヤノにそう聞かれた。

 

「おおっ、私もそれ気になっておりました! あの技術はいかにして生まれ、どのように磨かれたのでしょう。是非ともお聞かせ願えますか!?」

 

 バクちゃん先輩も素早くそれに乗ってくる。

 トレセン学園の校則には『廊下は静かに走るべし』なんてわけのわからないものがある。学級委員長としてのスキルアップに繋がるとか、そんなことをバクシン的に考えているのかな。

 

 デジタルとミーク先輩は大人しいが、注意がこちらに向けられているのは感じる。特にデジタルの耳は口以上にものを言っている。

 

「えーっと……」

 

 どうしよう。けっこう悩ましい。別に秘密とか話したくないとかそういうのじゃないんだけど。

 中央の生徒はその九割が良家のお嬢様だ。幼いころの習い事は流鏑で、なんてことを共通の話題にして盛り上がれるハイソな方々だ。

 

《明確に生活が苦しい描写があるのってアイネスフウジンとタマモクロスくらい? あと庶民っぽいのはスぺとオグリか。カワカミも駄菓子屋にいっている描写があったっけ? それでもブラッドスポーツと言われるだけあって良家のお嬢様が多いこと多いこと》

 

 自分の家が貧乏だったとは思わないけど、この技術の発祥は我が家のお財布事情がおおいにかかわっている。平民の苦労自慢というか、貧乏自慢というか、そんな風に聞こえなくもない何かを聞かせてしまっていいものだろうか。

 

《いいんじゃね別に? これが酒の席で上司が部下に語り始めるなら下手すりゃこのご時世パワハラ認定だけど、あっちから聞いてきたし、相手こっちと同い年か年上ばかりだし》

 

 じゃあいっか。相棒のゴーサインに迷いは消えた。そこまで深いこだわりがあることでもなし。

 

「そうですねぇ、どこから説明するべきか。うーん、あえて最初から、順を追って話すのならば――」

 

 

 

 

 

 きっかけはちびっこ運動会でスカーレット(予定)をぶっちぎった一件だった。

 

 その頃はまだコミュ障を今ほど拗らせていなくて、今となっては顔も思い出せないがたしか友達がいた。

 その子たちは名門のスカーレット(予定)に勝った平民ウマ娘にすごいすごいと喜んでくれて、親にも友達にもほめそやされたその平民ウマ娘は調子に乗った。

 

――リシュちゃんならトゥインクル・シリーズで走れるんじゃない?

 

 言ったのは誰だったか。

 その友達の誰かかもしれないし、両親のどちらかかもしれない。はたまた私自身が言い出したなんて可能性もある。

 とにかく、当時の私はまだ純粋無垢で、振り返れば目を覆いたくなるほど怖いもの知らずだった。だからそのキラキラした言葉に乗ってしまったのだ。

 

 わかった。トゥインクル・シリーズを目指そう。あのレースで走って、夢の舞台でセンターを踊るんだ。

 

 生まれたときから使命を背負って走るメジロなどの名門ウマ娘が聞けば怒るのか、呆れるのか。

 あるいは微笑ましいと笑ってくれるなら幸いだけど、そんな風に軽いノリで幼き日のテンプレオリシュの夢は決まった。

 

 そして、その日から私の生活は少しずつ変わっていった。

 

 それまでも趣味で走ってはいたけど、夢を決めたその日からそれは明確に身体づくりのトレーニングになった。

 本格化という不思議要素があるウマ娘と一概に比較できるわけじゃないが、ヒトミミでいうなら成長線が閉じるどころか第二次成長期もまだ来ていないような年頃だったし、マシントレーニングのようなものは一切なし。本当にゆっくり基礎を積み重ねるような身体づくり用のメニューだった、けれども。

 

 私の身体は当時の私が把握していた以上にずっとずっと規格外だったのだ。

 

 テンちゃんの言うとおりにトレーニングを積み重ねて。

 何だかんだ身体を動かすのは嫌いじゃなかったし、鍛えれば鍛えるだけ成果が出るのは楽しかった。テンちゃんも乗せるのが上手かった。すべてが順風満帆に思えた。

 

 音を上げたのは靴と蹄鉄だった。

 

 ウマ娘用モデルとはいえ所詮は大量生産品の運動靴。私のトレーニングについていけず、あっという間にボロボロになってしまった。

 このままでは怪我が怖いからと両親の勧めで競技用モデルに変えて。

 でも競技用ってひとつひとつがお安くないくせに専門的というか、用途によって細かく仕様が分かれているのよね。

 短距離、マイル、中距離、長距離、そしてダート。公道用モデルに加え、トレーニングの種類に合わせてそれぞれ必要になった。

 シューズ一足の値段にびびっている私の前で、両親はぽんぽん全種類を買い物かごに放り込んでいくんだもん。めっちゃ焦るってもんだ。

 

――今はまだ、どのレースに出たいのか決まっていないんだろう? せっかくそれだけ幅広い適性を三女神さまからいただいたんだ。今はできることをできる限り伸ばしておきなさい。なぁに、それだけの稼ぎはあるさ。

 

 両親は遠慮するなと笑った。

 デザインが気に入ったなんて嘘をついてより安いメーカーのものに変更しようとしたが無駄だった。安全にかかわることだからと、しっかり品質が保証されたお値段それなりのものを買い揃えてくれた。

 

《勝負服というワイルドカードが身近に存在しているからつい失念しそうになるけど、いくらウマ娘とはいえ年がら年中物理法則を超越しているってわけじゃないんだよな。

 むしろゲームの頃から多種多様なシューズ自体は存在していたし、何ならアイテム欄の詳細からフレーバーテキストを拝むこともできる》

 

 シューズは消耗品。

 それはもはやレース関係者の間では共通認識と言ってよい。トゥインクル・シリーズのレースだって優勝の副賞でスポンサーからそのレースの距離に合わせたハイエンドモデルのシューズが贈られるくらいだ。

 

《今明かされる優勝賞品で距離に対応したシューズが獲得できる理由。レベルアップ時のあのコストって処理優先で簡略化されてるけどそれだけの量シューズを履き潰したってことなのかなあ》

 

 テンちゃんは相変わらず明後日の方向から電波を受信している。

 まあ私はそれなりの量、お安くないシューズを履き潰すことになった。その日のメニューによってシューズを使い分けていたから、損耗自体は分散されて緩やかだったことは不幸中の幸いだろうか。

 トレーニングに合わせて食べる量も増えた。個人差はあるが平均的にウマ娘はヒトミミより多く食べるとされている。私も例外ではない。一般家庭では無視できない程度に食費が上がった。

 

 以前に語ったことがあっただろうか。

 私の母親はパートタイマー。小さい頃は専業主婦だったが、昨今の不況の波には勝てず私が小学生の頃に近所のスーパーでレジ打ちを始めたのだと。

 たしかに不景気な話だろう。父親の稼ぎだけでは一人娘の養育費を賄いきれなくなったのだから。でも、より直接的な原因は私が走り始めたことだった。

 

 お金があるから幸せとは限らない。お金がないから不幸だと決めつけることもできない。

 ただ、お金がなかったせいで変わってしまうものがある。お金が足りなかったから変えざるを得ないことがある。

 幼心に刻まれた人類社会の厳しさだ。たぶんこれが、私が賞金にこだわるルーツのひとつだろう。

 

 幼い子供にとって家庭とは世界そのものである。

 私のために母が働かなくてはいけなくなった。私の行いの結果、誰もいない家に鍵を持って帰宅しなくてはならなくなった。私のせいで。

 それはまさに幼い私にとって世界の崩壊だった。テンちゃんがいたから独りになることはなかったけど、それでもおかえりと言ってくれていた母がいない家に帰るのはとても寂しかった。

 

 なにかしなくては。

 具体的になにがどうこう、ではなく。臓腑を指でかき回されるような気持ち悪さから逃れるためにそう考えた。あの感覚を焦燥と呼ぶのだろうか。ある程度知識がついた今となってもよくわからない。

 

 食べる量を減らそうかと考えた。

 テンちゃんに止められた。

 

 いっそ裸足で走ってみようかと思った。

 テンちゃんに叱られた。

 

 考えて考えて考えて考えて。ろくでもないアイディアは実行までにテンちゃんのインターセプトが入るから考えるだけ考えて。

 考えすぎてよくわからなくなって、ついに幼き日の私の頭は明後日の方向に思考を向け始めた。

 

 そもそも、どうしてシューズと蹄鉄がダメになるのだろう、と。

 

 幼き日の私は無知で無邪気で、そして無鉄砲だった。物理の法則も作用反作用も知らなかったのだ。

 だからこんな結論に至った。

 無駄があるからだと。脚力を十全に推進力に変換できていないから、そのロスがシューズや蹄鉄を痛めつけているのだと。

 ここまで明確に言語化できていたわけではないが、そう思いついてしまえば目指すべき境地は単純明快だった。

 脚力の運動エネルギー変換率を100%にすればいい。そうすればシューズや蹄鉄のダメージとして発生していたロスは無くなり、壊れなくなるはずだ。

 

《本当にできるようになるとはさすがに思っていなかったよ。でも、何でもかんでもダメダメ言っていたら、ただ自分を否定されていると判断して結局何も聞いてくれなくなりそうだと思ったから。

 一番危険が無さそうな案をとりあえず許可したんだよね。もし怪我しそうになればそこで改めて誘導すればいいし》

 

 そんな思惑がありつつもテンちゃんの許可が下りたため、その日から私の少しでも家計の負担を減らそう大作戦は始まった。

 正直、少年漫画のような特訓をしていたスカーレット(予定)を笑えない。思い返すだけで顔から火が出そうだ。少なくとも知恵のついた今の私ならやろうとは思わない。

 

 ……でも私。目標があって、努力する時間が確保できて、そして努力して結局できるようにならなかったことって、あんまり無いんだよね。このときも例外ではなかった。

 

 路面をとにかく観察した。些細な凹凸も見逃さず適切な位置に、適切な角度で蹄鉄を下ろせるように。

 振り下ろす脚に細心の注意を払うようになった。しっかり地面を捉え、それでいて無駄なく力を籠め、押し込め、適切に蹴りつけることを心がけた。

 最初は煩わしくて走りにくいことこの上なかったが、雨の日も雪の日も続けていればいずれは慣れるというもの。意識せずに繰り返せるようになってくる。

 

 気づけば少しずつ私の脚からは音が消え、力みが消え、するすると流れるように走れるようになっていた。

 目論み通りにシューズと蹄鉄の損耗はぐっと緩やかになったし、副産物でスタミナの消耗も減った気がする。

 スカウト待ちの模擬レースでは我ながらそこそこ頭の悪いローテで走ったものだが、特に疲労に足をとられることもなく全て走りきったのはこの走法の恩恵が無関係ということはないだろう。

 

 今では足音が完全に無いとは言わないが、周囲のバ蹄の轟きにまぎれて消えてしまう程度のささやかなものだ。他のことに気を取られていれば接近に気づかれないこともままある。

 

《ある意味、史実馬だったころの無いぼくらのアドバンテージなのかもな。ウマソウルは多かれ少なかれ史実馬のエピソードに引っ張られる。足音を立てずに走るなんてエピソードを持った馬なんていない。

 でもぼくらには史実が無い。ウマソウルの不思議パワーをフリーハンドで使えるんだ。勝負服の足首をガチガチに固めたブーツで運動靴より速く走るのに比べたら、運動エネルギーのロスを無くすことくらい些細なものだろうさ》

 

 テンちゃんはいつも言ってくれるね。

 私は何にだってなれる。どこにだっていけるって。いつも励まされているよ。それが無ければもしかすると、本当に中央トレセン学園なんて目指そうと思わなかったかもしれない。

 

 地元では走れば走るほどに、私の周囲からは人が減っていった。

 

 ついていけない。おかしい。周囲に合わせなよ、と口々に雑音をこぼして。それが私の耳に雑音としてしか届いていないことを知ると、距離が開いていく。

 痛くないわけじゃなかった。

 けど、私らしさを歪めてまで周囲に合わせるには、友達というものの価値は私にとってそこまで大きいものではなかった。

 私にはテンちゃんがいて、テンちゃんには私がいる。ふたりでひとつのテンプレオリシュというウマ娘。私たちは一人になっても独りになることはあり得ない。

 孤独の寒さを恐れる必要がない私にとって、相対的に交流の重要性は薄弱になる。無理してまで誰かと仲良くしようとしなければ、周囲に誰もいなくなってしまうのは私がおかしいのだろうか。

 残ったのはスカーレットくらいだ。だから彼女は特別。

 でも、仲良くしようと心を砕いていない相手を友達と呼んでいいものか悩むので、腐れ縁だとか幼馴染だとかそういう言葉で表現してしまう。

 

 いや、そういえば周囲に誰もいなかったわけじゃないか。

 付き合いがあったのは私じゃなくてテンちゃんの方だったけど。

 友達でもないし。舎弟? パシリ? なんかそーゆーやつ。クラスメイトの男子という関係性だったものの成れの果て。

 

《うん、なんかゴメン。ノリでやっていたら思ったよりデカい規模になっちゃってさー》

 

 テンちゃんは謝ってくるけど、別に怒ってないよ。

 私たちは異常者だ。それは自虐とか、自分を特別視したいこのお年頃によくある病気とかじゃなくて、客観的な事実。

 みんなのウマソウルは喋らない。

 私は世間一般でいうところの二重人格に分類される。そしてその事実をまるで悪いことのように、こそこそ隠して背中を丸めて生きていこうとも思っていない。

 あるがままに生きていたい。とはいえ声高に主張するつもりも無いけどね。承認欲求も自己肯定感もいまのところは足りている。

 

 子供というのは無邪気だが同時に悪意に塗れている。おふざけという名前で始まったものは容易くエスカレートする。

 テンちゃんはいじめの芽、になる前の種の段階で摘んでいただけ。

 護られていたのだということは理解している。文句を言うことなどあろうはずもない。

 

 まあ実際はこうして中央に食い込み、デビューが内定した状態でチームメイトと雑談をしているのだけど。

 テンちゃんがいなければきっと私は今の私そのもののスペックがあったとしても、きっと今ここにはいなかったんだろうなと思う。

 

 

 

 

 

「――と、そんなわけで私の走法からは音が消えたわけです。参考になりましたか?」

 

「なるほどっ! 必要から生まれた修練の成果だったのですね!! リシュさんがご家族に向ける親愛の情に私は敬意を表しましょう!」

「……どんな精度の観察眼と身体コントロールがあればできるのかな? マヤ、『わかりたくなーい』って思ったのは初めてかも」

 

 素直に感心してニコニコしてくれるバクちゃん先輩と、つつーと冷や汗がつたうマヤノが実に対照的だ。

 うん、マヤノの気持ちは実によくわかる。

 私だってできるようになり、それに慣れた今となってはどうってことないけど、実のところどんな理屈でそれができているのかはサッパリだもの。なんとなくできているから出来ている。それに尽きる。

 まあ貧乏自慢っぽくなってしまったが、自分でも理屈がよくわからん走り方の方はともかく過去エピソードの方に引いている様子はない。それだけで一安心だ。

 

「是非ともっ、私にもその技術を伝授いただきたいものです! 廊下を静かに走れるようになった暁には学級委員長としてさらなる高みに到達できるでしょうっ! 何かコツはありますでしょうか!?」

「えーっと、そうですねぇ」

 

 ぐいぐい詰めてくるバクちゃん先輩。そのポジティブは素直に賞賛に値する。

 とはいえ困った。やってる本人からしてひどく感覚的なもので、理屈のカタマリであるところのコツの伝授などできようはずもない。

 だが、それでも強いて言うのなら。

 

「コースを『線』ではなく『点』で捉えることでしょうか?」

「ほほう、その心はっ!?」

「たまに聞くでしょう? 『レースの最中、走るべきコース取りが輝く一本の線で浮かび上がって見えた』と。あの延長線上です」

 

 暗闇の中で、灯篭が行き先を導くように。

 コースに蹄鉄の跡が浮かび上がる。かつて誰かが走った痕跡ではなく、これから自分が切り開くべき道を標すものとして。

 

「蹄鉄で踏むべきポイントが鮮やかに『点』で見える。そのくらいの精度は必要だと思います」

 

 厳密にはそこがスタートライン。

 地面を見ながら走っても速度は出ないし、バ群でそもそも地面の様子が見えないことも、他者に踏まれて一秒前とは地面の具合が変化することも往々にして存在する。臨機応変な対応は必須。

 見えたところでそこを的確に踏み抜かねばならないし、角度と力加減の調整もなかなかに苦労する要素だ。私はもう慣れてしまったので無意識かつ直感的にすべてこなせるが。

 

「なるほどっ、ありがとうございます! あとは実践あるのみですね!! バクシーン!」

 

 バクちゃん先輩は言うが早いか走り出してしまった。ズドドドドドッ、と足音を響かせて。

 あの前向きさとチャレンジ精神は本当に嫌味抜きで尊敬すべき彼女の美点だと思う。見習いたいか、というとちょっと言葉に詰まるが。

 それに意識したわけではないのだろうが、私の過去話で場に漂いかけていたわずかな黒いモヤモヤ。それが完全に換気され消え去ってしまった。

 得難い人で、尊敬すべき先輩だ。

 

「あー……あはは、さすがバクシンオーさん」

「うん、さすがだ」

 

 何となくマヤノと顔を見合わせ、二人で軽い苦笑を浮かべた。ちなみにデジタルはどこかのタイミングで尊死していたから静かなものだ。

 

「……いっちゃい、ましたね」

 

 開きっぱなしだった部室のドアをミーク先輩が冷静に閉める。もうクールダウンも終わってたんだけどなー。

 次のスケジュールどうするんだろう? バクちゃん先輩のトレーナーさん。

 後輩として慕う分には十分すぎるお人だが、それはそれとして担当トレーナーの苦労がしのばれる。

 

 

 

 

 

 ちなみに余談だが。

 

「みてみてリシュちゃん。できたー!」

 

 後日、マヤノがある程度形になった『足音の無い走り』を見せに来た。

 この天才め。

 

 


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