「ウマソウルってうるさいよね」「えっ」「えっ」   作:バクシサクランオー

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あまいクリームで覆い隠して

 

 

U U U

 

 

「とりあえずその皿は横に置いておきな」

「……捨てないの?」

 

「捨てないよ、焦げたくらいでもったいない」

 

 言いながらフライパンの前に移動して数枚さくっと焼き、とりあえずこれでも食べてなとテイオーの前に並べてやる。

 彼女は浮かない表情を捨てきれないまでも、言われるがままフォークを握り、もそもそと食べ始めた。そこは腐ってもGⅠウマ娘。メンタルが落ち込んでいても食べることはできるというわけか。

 

「リシュの火力強くない?」

「慣れだよ、慣れ」

 

 そのままざざっと私もいま食べる分以上に焼いて、数枚まとめて積み重ねておく。生クリームを使うのなら余熱を冷ましておかないと。

 とはいえ、店に並べる商品でもなし。しょせんは目安だ。世の中には生クリームどころか熱々のケーキに冷たいアイスを乗せるトッピングだってあるのだし、多少熱でクリームが溶けたところでこの場の誰かが困るというわけでもなかろう。

 新たに焼いた三枚を食べ終わったあたりでちょうどいいタイミングということにして作業に取り掛かる。

 まずはナイフをテイオー作ホットケーキに入れる。ただし方向は縦ではなく、横に。

 

「え、それ食べるの? 無理しなくていいよぉ、焦げちゃったんだから……」

「無理はしないよ。焦がしたときの対処法を知っているだけ」

 

 さすがに炭と化している表面部分は食べられないので削ぎとって捨てる。だがその薄い炭の層を剥ぎ取ってしまえばその下は無傷だ。

 良くも悪くも砂糖の入っているものは焦げやすい。表面が焦げてもその下にはまだ火が通っていないことが往々にして存在する。

 表面が剥ぎ取られて少しばかりみすぼらしくなってしまった部分を生クリームで覆い隠し、さらにフルーツで飾りつけしてしまえば。

 あっという間に豪華なトッピング付きホットケーキに早変わりだ。あんまり熱すぎると表面を剥いだ部分に生クリームが溶けたバターみたいに沁み込んでしまうから、ある程度は冷ます必要があった。

 

「わぁ……!」

 

 テイオーの顔がぱっと明るくなった。

 単純なやつめ。

 

「すごーい! 手慣れてるねー」

「テイオーも料理するようになればできるようになるよ。どんな分野だって最初に覚えるのは失敗と、そのフォローの仕方でしょ? 人間なら誰だってそう」

 

「リシュもそうだったの?」

「そうだよ」

 

 その疑問は『私も失敗から学んだ』って部分に向いているのであって、『リシュも人間なの?』ってところを疑問視しているわけじゃないよな?

 私も人間だからね、いちおうは。

 

 さて、私もそろそろクリームとフルーツを乗せて食べたくなってきたな。……私が食べる分はもう少しホットケーキを冷ましてからクリームを塗るとするか。手元のやつ、ちょっと溶けて見栄えが悪くなったし。

 テイオーにトッピングホットケーキの乗った皿を押しやりつつ、もう一度フライパンの前に陣取る。ボウルの中身も少なくなってきたし、今のうちに残りの生地を全部焼いてしまおう。

 二人で食べているから消費が早いな。これを焼いて食べ終えたらもう一回生地から作るかな。材料にはまだ余裕がある。

 

「……ねえ、リシュ」

「なに?」

 

「ありがとっ、えへへ」

「どういたしまして」

 

 宝物を受け取ったように慎重な手つきで皿を引き寄せながら、照れ笑いを浮かべるテイオー。

 こういうところを見たら普通に可愛い後輩なんだけどねえ。

 

「紅茶を淹れるのはあんなに上手かったのに、料理はやってこなかったの?」

「むう。お茶会だとお茶を注ぐのはホストの役割だからね。そこは練習させられたんだよ。でもべつに、スコーンを目の前で焼かないといけないわけじゃないから……どの店で買えばいいのか、その評判と味さえ知っていれば何とかなるからさ……」

 

 ボクはカイチョーみたいになりたかったから、よけいなことに時間をつぎ込むよりは走っていたかったしー、などと言いながら目を逸らす。

 お茶会の練習と来たか。これでもお嬢様なんだよな。

 

 それにしてもテキトーだな、お嬢様。

 もっと礼儀作法とか習い事とか、幼少期から徹底的に叩き込まれるものだとばかり思っていたけれど。

 

《いや、これはウマ娘の名門において『走る』ということがそれだけ大きな割合を占めているのだと解釈するべきじゃないか》

 

 ああ、そういう受け取り方もあるか。そしてたぶんそれで正解だ。

 

「そのカイチョーさんはホスト側もゲスト側もその『よけいなこと』を含め完璧にこなしそうなイメージがあるけどねぇ」

「それは言わないでよー。今になっていろいろと後悔していることもあるんだからさ」

 

 くちびるを尖らせるテイオーの言葉は軽く聞こえて、それでいてわりと本気で言っているように感じた。だったらこれ以上私がツッコむのは意地悪でしかないだろう。

 自分の性格が良い方だと思ったことは無いが、これでもいたずらに誰かを傷つけたことはないつもりだ。肩をすくめてこの話はここで終わりだと示す。

 

「ま、紅茶を淹れるのが上手いのは自慢していいことだと思うよ。それは過去のテイオーがちゃんと頑張った証だ。美味しかった」

「でしょー? パリの老舗なんだ。缶もオシャレでお気に入りなんだよ!」

 

「ふーん」

「興味がないってことをもう少し隠したらどうなのさ」

 

 いや別に興味がないってわけじゃないんだよ。

 私の反応レパートリーが貧弱なだけだ。

 あとあまり縁のない世界であるのも事実かな。むしろ縁のある世界には踏み込みたくないというか。面倒なのは好きじゃないんだ。

 

 私も今やこんな戦績のスターウマ娘だから、名門の方々と接点が無いってわけでもないんだよね。それこそテイオーみたいに個人的な知り合いもいるわけだし。

 URA主催みたいなある意味で公共の場ではなく、お金持ちなお家の個人的なパーティーへのご招待とかは、よほど相手と親しいでもない限り断っているけれど。

 逆に言えばそのよほど親しい相手が申し訳なさそうに招待状を渡してくれたら応じることもあるわけで。

 

《学生ってのはいいご身分だよな。たいていの場所は学生服と、GⅠウマ娘なら勝負服で事足りるんだからさ》

 

 まあ場合によってはドレスの方が適切なこともあるし、そういう場所でわざわざ事を荒立てる必要も無いからいまや私もドレスの一着も持っていたりはするけどね。

 お金で未然に防げるトラブルなら惜しむ必要は無い……などと考えられる時点で、私もだいぶお金持ちの感覚が身に付いてきたものだ。

 ああいうドレスの購入費用は自身のレース賞金から出すことができるからね。普段は見ていて嬉しいだけの額面も、こういうときには役に立つのである。

 そして庶民的な価値観からすれば一着の服にばからしくなるような金額が飛んでいくのに、それでちっとも総額が目減りしない。

 嬉しさや充足感が無いとは言わないが……もしかしたら自分がお金持ちになった実感よりも、住んでいる世界が違うんだなと華やかな舞台との距離感を覚える割合の方が大きいかもね。

 

 さいわいスターウマ娘というのがあくまでレースが強いだけの学生だってことはみんなわかっていることだから、いちいちマナーがどうのこうのと目くじらを立てる人間はあまりいない。格式あるタイトルに絡む場だと品性に欠けるとかふさわしくないとかグチグチいう人がたまにいたりすることもあるけど。そういう人間に限って発言力があったりもするけど。

 

《礼儀作法やマナーって要するに『無駄に洗練された無駄のない無駄な動き』の結晶なんだよなー。私はこれだけ無駄にリソースつぎ込めるだけの余力ある人生の持ち主ですって全身でアピールしてんだ。ま、共通の慣習を作ることで同族意識を高めるやり方が間違っているとまでは思わんがね》

 

 脳内では相変わらずテンちゃんが不特定多数の生き様に喧嘩を売るような持論を垂れ流している。

 さすがに暴論だろう。人間から礼儀作法を剥ぎ取った先に待つのが自由と平等と幸福だなんて、この歳にもなると素直に信じることはできない。

 寒さを防ぐためだけに獣の皮を身に纏い、栄養補給のためだけに焼いた肉を齧る。礼儀作法やマナーが人間の文化と同一のものだとまでは言わないが、あらゆる慣習を破壊し捨て去った先にあるのはそういう生き方だという気がするから。

 

 とはいえ、私の半身がこんなスタンスなのだ。

 つまりテンプレオリシュというウマ娘の五割以上が、貴族的ともいえる名門ウマ娘の在り方に大した価値を見出していないということでもある。

 失礼をはたらかないように、恥をかかないように、手に入る範疇で礼儀もマナーもひととおり頭には叩き込んだけど。

 やっぱり魅力的には感じないんだよね。格式高い生き方ってやつはさ。

 

《もちろんそれとは別に、そういう生き方を選んだ彼女たちへの敬意はちゃんと持ち合わせているつもりではありますがねえ》

 

 不特定多数のハイソな方々に憧憬を抱くのは無理だけど。顔と名前が一致するなら。

 そう生きるのだと決めた彼女たちを私たちは知っているから。粗末にはしない。

 

「リシュの次走は安田記念?」

「うん」

 

「それで、その次は宝塚?」

「安田記念の結果次第だけど、そうなる可能性は高いね」

 

 安全第一。

 その方針は今もなお変わっていない。少しばかり意図的に無茶をする機会が増えただけだ。

 安田記念を無難に通過してそのまま宝塚記念に出走できるなんて保証はどこにもない。GⅠが通過地点だったことなどこれまで一度も存在しない。

 私の最終的な目的がGⅠ制覇ではない以上、それは成果ではなく経過ではあるのかもしれない。でもひとつひとつ、慎重に踏みしめるように、凄まじく苦労して乗り越えたものだ。

 

《次回の安田記念じゃレジェンド級はウオッカとタイキシャトルくらいしかいないのが不幸中の幸いかなー? ごちゃまぜ時空だからわけわかんない邂逅とか稀によくあるんだけど、やっぱり中長距離での遭遇率が高い印象だよね》

 

 テンちゃん評価レジェンド級。

 別にそれ以外のウマ娘が雑魚ってわけじゃない。そんな失礼なこと言うやつは蹴っ飛ばして空中で三回転半くらいさせてやろうか。

 GⅠに出走する以上それぞれが自分だけの勝算を持ち合わせている、絶対に雑魚ってわけじゃない優駿揃いなのだが。

 テンちゃんが『レジェンド級』と評した相手はこう、違うのだ。

 レベルが違う? 格が違う?

 どれもしっくりこない。微妙なニュアンスの差ではあるのだが……。

 

 “モノ”が違う。

 

 これが一番、曖昧な感覚と合致する表現だろうか。

 GⅠという大舞台で対峙するレジェンド級は、まるでレースの歴史が人の形に圧縮されたような重圧がある。脈々と受け継がれてきた何かがそこに集結し結晶化しているような、単純に強い弱いではない『怖さ』がある。

 その上で絶対に強い。迎え撃つ側からすればたまったものでは無い。

 レジェンド級が二人しかいないというか、二人もいるというか。やっぱりシニア級って魔境が過ぎる。

 同年代しかいなかったジュニア級やクラシック級は天国みたいなところだったんだな……などと言い切るには抵抗があるか、同世代の顔ぶれを考えるに。

 

「タイキシャトルとウオッカ、どっちの方がこわいのー?」

「どちらも怖いけど、現時点でより警戒に値するのはウオッカかな」

 

 ホットケーキを四枚重ねにして、クリームとフルーツでふんだんに飾り付けたそれにナイフをさくりと投入する。

 甘いものって口に入れた瞬間も素敵だけど、こうやって切り分けている時間もなかなかに甘美で幸せだと思う。

 テイオーも私が新しく焼いてやったホットケーキにはちみつをたっぷりかけていた。本当に好きだな、はちみつ。私も嫌いじゃないけどさ。そこまでの量を一度に摂取したら流石にくどく感じるだろう。

 

 テイオーの質問に答えるかたちで何気なく発した己の言葉がなんだか感慨深い。

 ああそうか、ウオッカもいまやレジェンド級。あのタイキ先輩を超える脅威なのか、と。

 

《東京レース場でマイルのウオッカとやり合うとかさー。ほんとさー、もうさー》

 

 日本ダービーのときから片鱗は垣間見たが、ついにそこまで育ったのか。

 まあ私だってシニア級の今ではレジェンド級と真正面から渡り合えるまでに成長しているのだから、同期のトップクラスが同様にその域まで到達しているのは何もおかしな話ではない。

 ぴーちくぱーちくいっていた頃の自分たちを思い出して、お互いに強くなったものだとは感じるけれど。

 

――東京レース場じゃあ俺はもう二度と負けねえ。そう決めた。いま決めた!

 

 あの日のウオッカの覚悟を問うときが、一年越しについに来るわけだ。

 こちらの持てる手札をすべて切った時点で、そのレースの結果にかかわらず最終的な私の負けがほぼ確定してしまうわけだけど。

 絶対に楽に勝てる相手ではないし。はてさて、どうしたものかな。

 

《ライスシャワーもそうだったけど、もうこの段階になってくると【陽炎】のデバフは通用しないからな。シニアGⅠのレジェンド相手だとその場で最適化したこちらの情報反射なんて、本当にきわっきわまで研鑽したあちらの下位互換にしかならない。

 もともとが学習のおまけみたいなもんだったとはいえ、本当に通ってほしい相手に通らないのはいやーきついっす。ガチンコ勝負で上回るしかないんだもんなー》

 

 その名前、まだ生きてたの……?

 

 ああそうだ。ダービーでひとつ思い出した。

 お互い忙しかったから、こうして面と向かってまだ言っていなかったことがある。

 

「そういえばテイオー」

「んー?」

 

「日本ダービーの制覇おめでとう。無敗のクラシック二冠だね」

「……ありがと」

 

 私が順調に勝ち進んでいるように、私の後輩も夢を着実に叶えつつあった。

 テンちゃんが何やら危惧していたようだけど、怪我らしい怪我も今のところ無し。

 

「無敗のクラシック三冠を成し遂げて、いずれ“皇帝”シンボリルドルフを超えた“帝王”になる。着実に叶いつつあるね」

「そーだねー。リシュに言われてもなんか微妙な気がするけど」

 

 私、あくまで数字だけを比べたときの話ではあるけど。

 今の段階でルドルフ会長のGⅠ七勝を超えるGⅠ十一連勝だもんね。

 

 テイオーの才能は頭一つ抜けているものがある。残すはクラシックロード最後の一冠たる菊花賞。3000mのあのレースで障害になりそうなテイオーの同世代といえば、歴史と伝統の化身たるメジロ家出身のステイヤー、メジロマックイーンさんくらいか。

 だが、そのマックイーンさんは名門メジロ家ゆえにクラシックロードよりも天皇賞の方を重視している。彼女は同時期に行われる天皇賞(秋)の方に出走する可能性が高く、このままいけばテイオーの夢が結実する可能性は低くない。

 

「テイオーの次走は宝塚記念?」

「まーねー」

 

 ただ、その順風満帆な未来予想図をあろうことか、テイオー自身が崩そうとしている。

 

「クラシック級で宝塚を勝ったウマ娘が歴史上何人いるか、ちゃんとわかった上での選択なんだろうね?」

「あったりまえじゃん! このボクがそんなこともわからずに次に走るレースを決めるとでも思ってんのー?」

 

「やりそうだとは思っているよ」

「なんだとー!」

 

 テイオーの人生だ。テイオーの未来だ。彼女の好きにすればいいと思う。

 その判断を私は否定も肯定もしない。それは私のものじゃないから。

 お前のためだとその意志決定を否定し、己が正しいと盲信する選択肢を押し付けるのは少なくとも私の役割じゃない。個人的にはファンの権利でもないとも思う。

 

 先輩として尊重し、受け入れよう。私の領分はその程度だ。

 でも同時に先輩として、確認しておきたかった。

 

「安田記念の結果次第では、私も出るんだけど」

「うん。知ってる」

 

 だろうね。いくらなんでも今さっき話題にしたばかりだ。

 忘れるには時間が足り無さ過ぎる。

 

 目と目が合う。

 私の青い瞳と、テイオーの青い瞳が重なる。

 快晴の日の空と海を合わせたような綺麗な色をしていると思った。

 

 もちろん、それがすべてというわけでもなかろうが。

 昨年の年末にあったアオハル杯プレシーズン第三戦での一幕を考えるに、テイオーがこの段階で宝塚に挑戦するのは私と戦いたいという動機が大きな割合を占めるのだろう。

 

 だが宝塚記念に出走するのは私とテイオーだけではない。

 グランプリは伊達ではない。

 ミーク先輩やゴールドシップ先輩が出てくるらしいし、このお二人がいる時点で十分すぎるほどにひどい。

 彼女たちは私たちの前に一つの時代を築き上げた双璧だ。

 流星のように現れ、スターウマ娘の階段を『最初の三年間』で駆け上がり、ついにはURAファイナルズ長距離部門の初代チャンピオンに輝いたゴールドシップの名コンビ。

 そんな黄金の不沈艦に食らいつき、ときに引き離されながらも、最後には見事な追い上げを見せて当代の桐生院ここにありと示したハッピーミークの名門コンビ。

 世代交代を演出する舞台としてグランプリレースはふさわしい格を持つかもしれないが、それはそれとして相手にとって不足が無さ過ぎる。

 現在のアオハル杯ランキング一位からビターグラッセやショートスリーパーも来るらしいし、普段の態度がアレなため後輩たちからはべろんべろんに舐められているがデジタルだってマジモンの天才である。

 見ている方は絢爛豪華だと素直に喜んでいればいいだろうが、その中から一着を勝ち取らねばならない身とすれば頭がクラクラしてくるような優駿揃い。

 

 テイオーはどこまで覚悟できているのだろう。

 いや、それに関しちゃ人のことを偉そうに言える立場でもないか。

 真に覚悟が問われるのは物事が順調に進んでいるときではなく、想定外の方向から現状が崩れたときだとテンちゃんが言っていた。

 幼いころからの夢だった無敗のクラシック三冠が夢と散るリスクを看過してまで選んだローテに覚悟がないわけがない。ただそれが、順調の上に成り立った覚悟であるというだけ。

 テイオーの決断の真価が問われるのは夢が破れてからだ。そしてそれは私にとっても同じことが言えるのだろう。

 だって私、これまで本当に本気で努力してどうにもならなかったことってあまり無いし。私が覚悟しているつもりのあれやこれやも、しょせんは絶望的な逆境を経験したことがない『つもり』でしかないのかもしれないのだ。

 

「後輩がちいさいころからずっと大切にしていた夢を打ち砕くのは少しばかり心が痛むよ。ほんのちょっぴりだけね」

「だいじょーぶ。ボクが勝つから。これまでだって一度も負けたことが無いんだ」

 

 どのみちレースである以上、勝つのは一人だけ。

 レースには長い歴史があるから重賞であっても同着とされた例が無いわけではないが、私たちの戦いに決着がつかないことなどありえない。そう根拠もなく確信している。

 テイオーのことはかわいいと思っているけど、同じステージに立とうというなら特別扱いする理由はどこにもない。

 他人のことを心配する前に、まずは自分からだ。

 

「奇遇だね。私たちもだよ」

 

 長い六月が始まろうとしていた。

 




次回、ウオッカ視点まさかの3回目
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