2024/5/15:一部表現の修正を行いました。内容に変更は無いので既読者は無視してください。
その日は朝まで雨が降っておりバ場は泥濘んでいた。そんな重バ場の中開催される今年の凱旋門賞には、まさにヨーロッパのチャンピオンを決めるに相応しい顔ぶれが揃っていた。1番人気の仏ダービーウマ娘ダラカニを始め、独ダービーウマ娘のダイジン、昨年の英セントレジャーズを勝ったボーエンエリック、本格化を迎え3戦3勝と波に乗っているムブタカ、昨年の香港ヴァーズ覇者アンジェガブリエル等々錚々たるメンバーが揃う中、単身極東から挑みにきたガイセンカグラはやはりと言うべきかダントツの
「良いね。お天道様が微笑んでる」
「雨降ってたけどね」
「だからこそだよ。おまけに運も向いているときた」
凱旋門賞のレース前、いつも通りトレーナーを後ろから抱きしめてガイセンカグラは不敵に笑った。
最早ルーティンとなった彼女の行動に今更照れるなんて初心な真似などするはずも無くトレーナーはガイセンカグラに身を委ね、太腿に重なる彼女の尻尾を撫でながら話に耳を傾けた。
「最低人気の逃げウマ娘の実力なんて誰も見向きもしない。況や意識なんてするはずもない。お蔭でこっちは楽にハナを取れる。それさえ出来れば後はこっちのモンだ」
彼女は尚も高らかに1人で喋り続ける。しかしトレーナーの腰に回された手は僅かに震えていた。
ガイセンカグラは笑う。その笑みの裏に潜む恐怖をひた隠すように。
トレーナーは彼女の抱える恐怖を肌身で感じていた。生まれてから何度も夢見ては敗れた舞台。彼女の人生そのものとも言える凱旋門賞、そのターフに彼女は立つのだ。怖くない訳がないのだ。どれほど努力を積み重ね、虚勢を張り、不安から目を逸らしてみても、何度も見た悪夢が彼女の網膜から焼き付いて離れない。きっと今もその笑みの裏では悪夢が彼女を苛んでいるに違いない。
ならばトレーナーとして彼女にしてやれる事はなんだろう。どうすれば彼女は万全を期してレースに挑める。何をすれば彼女を悪夢から解き放つ事が出来るのか。
トレーナーはガイセンカグラと向き合うように座り直し、彼女を包み込むように抱きしめた。結局人肌に触れ、孤独を紛らわせてやる事しかトレーナーのは思い付かなかった。
トレーナーの突然の行動にきょとんとしているガイセンカグラを胸に埋め、母が子を慈しむように手付きで頭を撫でる。彼女の不安が晴れるよう、一つ一つに願いを込めながら。
やがてガイセンカグラは笑うのをやめてトレーナーの首元に顔を埋めた。腰に腕を回されては力強く抱き締められ、息苦しさと同時に多幸感がトレーナーを包み込む。かかる鼻息が妙に擽ったく、しかし嬉しいと感じてしまう辺りすっかり絆されたものだと苦笑する。
「えっと、その……落ち着いた?」
「……うん。ごめん、トレーナー」
「ううん。良いよ、これくらい。これでカグラの不安が取り除けるなら」
気が遠くなるような長い抱擁を交わし、そろそろレースの時間だと思いトレーナーは声をかける。名残り惜しそうに背中に結ばれた腕を解くガイセンカグラの名残り惜しそうな表情に、私もすっかり甘くなってしまったなぁと再び彼女の頭を胸元に抱き寄せては頭を撫で続けた。ガイセンカグラもそれに抵抗せず、寧ろ自ら耳を横に寝かせて彼女に甘えた。
お互いに言葉を交わす事はなく、ただ心臓の鼓動だけが時の流れを伝える。
永遠に続けば良いと願えども、しかし現実は無常である。
「カグラ、そろそろ時間だよ」
「……ん」
抱擁を解き、甘えたりなさそう不服な表情を浮かべるガイセンカグラを見上げる。
海外の大舞台でも変わらぬ彼女の姿に妙な感慨に耽ったトレーナーはこれまでの日々を思い出す。
勇気を持ってスカウトし、合宿では思わぬ過去に触れ、時に甘いひと時を過ごし、ファインモーションらと共に鎬を削りあい、あれやこれやとしているうちに遂にここまで来てしまった。
いつまで彼女とこうしていられるのだろうか。あと何回、こうして彼女を見上げる事が出来るのだろうか。彼女はドリームシリーズに行くのだろうか、それともターフから去って新しい人生を歩むのだろうか。私の知らないところで、私の知らない笑みを浮かべて、彼女は幸せに生きていくのだろうか。
そう考えると途端に恐ろしくなり、気づけばトレーナーはガイセンカグラを抱きしめていた。足元の地面が消え去り、底なしの闇に落ちていくような恐ろしさから逃れるように強く、強く抱き締める。
「どうしたの、トレーナー?」
「……ごめん、ちょっとだけで良いから、お願い」
「そっか。うん、良いよ、全然良い」
ガイセンカグラは嬉しそうに腰に手を回し頭を撫でる。そしてしっぽを彼女の大腿に巻き付ける。先ほどとは完全に真逆の光景であった。
「オレは貴女の、貴女だけのウマ娘だよ、トレーナー。これまでも、これからも」
トレーナーの心情を知ってか知らずか、ガイセンカグラはトレーナーの耳元にそう呟いた。やがて一際強く抱きしめてから、トレーナーは晴れ晴れとした顔でガイセンカグラを見送った。
「ありがとう。いってらっしゃい、カグラ」
「うん。行ってくるね、トレーナー。今までありがとう」
ガイセンカグラは最後にそう言い残して去っていった。
物音一つたたない部屋の中でその言葉が何度も耳の中で甦り、トレーナーの胸にしこりを残していったのであった。
▽
「凱旋門賞というか海外のレースにおいて何故逃げが不利なのかというと、理由は多々あれどやっぱりペースメーカー*1の存在が大きいんですよね」
パドックの様子が映し出されたテレビに視線を向けながらトレーナーは訥々と語った。
「彼女たちのせいで逃げてもペースが乱される事が無いので、こっちがどれだけ突き放しても足を潰す事が出来ないんですよね。だからと言ってペース管理のプロを掛らせるなんてのは、今まで頭脳戦なんてしてこなかったカグラには土台無理な話です」
「では彼女はどうしたんだ?」
「それはもう実力で叩き潰すしか無いでしょう」
丁度トレーナーがしたり顔で言い切ったと同時にゲートが開きレースが始まった。
「凱旋門賞のコースはスタートから400メートルまで平坦な道が続き、そこから600メートルほど坂を駆け上がります」
「あの高低差10メートルのやつか」
「それです。そして坂を降ったら今度は250メートルほど直線、俗にいうフォルスストレートに入り、そしてコーナーを曲がりに最終直線533メートルを走り抜けます」
心臓破りの坂と呼ばれる中山レース場の坂の高低差が約5メートル、最終直線が長いと言われる東京レース場が529メートルである事から、凱旋門賞のコースが如何に過酷であるかは伝わるだろう。
「そのため前半の1000メートルまではペースがゆったりしているんです。なので序盤にハナを奪うこと自体はそんなに難しくないんですよ」
実況の声に耳を傾ければ、彼らは凱旋門賞でもハナを抑えたガイセンカグラに驚きつつも、その声に僅かな期待を含有していた。かつてエリシオが見せた圧巻の逃げ切り、いやそれ以上の物を再び見せてくれるのかと実況は鼻息荒く語る。
ガイセンカグラはそのままペースを上げ続け、坂に突入してもペースを落とす事なく駆け抜けた。その時の2番手であったディアプールとの差は実に7バ身差であった。恐らくガイセンカグラが最低人気であったためか、彼女を知らないウマ娘がどうせ垂れると判断し脚を溜めたお蔭で楽にここまで差を広げる事が出来た。
「ハナに立った後に足を溜めるか、それとも突き放すかは賭けでした。エリシオの時みたいに先頭でペースを作れるなら前者が良かったんですが、ダラカニのペースメーカーであるディアプールがいる以上彼女が後続を牽引する展開になるのはなんとなく予想出来ていました。
それに脚を溜めても瞬発力に欠ける彼女では早いうちにスピードに乗っていないと結局今まで通り差されるのは目に見えていましたので、無理をしてでも前半で出来るだけリードを作る必要がありました」
下り坂に入ると後続のペースも徐々に上がり始め、ガイセンカグラとの差も詰まっていく。ディアプールはバ群に埋もれ、入れ替わるようにダラカニなどが前へ位置を上げていく中、ガイセンカグラは多少苦しそうに顔を歪ませながらもフォルスストレートを走り抜ける。
ここでガイセンカグラが垂れてくると思っていたウマ娘達は、しかし落ちてくるどころか更に加速しようとするガイセンカグラを見て漸く自身の判断ミスに気づき、急いでペースを上げて彼女に喰らい付いていく。
「これまでのレースを見てもらったから分かると思うんですけど、カグラの持ち味はスタミナとパワーなんですよね。重バ場をものともしない力強い走りに加え、逃げてなお最終直線で垂れるどころか加速なんて馬鹿げた事をやるのが彼女です。今まではスピードが足りず差されていましたが、本格化を迎え更には下り坂を利用する事でそれを克服しました。
……ただ一つ誤算があったとすれば、高低差10mの壁を甘く見過ぎていた事でしょうね。そのせいで想像以上に体力を削られてしまい折角取ったリードが徐々に埋められてしまいました。これはトレーナーである私の慢心が招いたミスでした。もし私があの過酷さを知っていれば、あんな無茶な真似を彼女にさせませんでしたし、きっとあんな事にもならなかった」
最終直線に入った時、ガイセンカグラと後続との差は5バ身にまで縮まっていた。
スピードそのままにコーナーを曲がったために空いた内側からはムブタカが追い上げ、外からはダラカニが猛追してくる。ガイセンカグラも負けじと吠えるが無情にも差は徐々に失われていき、ついに追いつかれてしまった。
『最後の直線に向かってくる先頭はガイセンカグラリードは5バ身。2番手にはムブタカ追い上げてくる。内からはブラックサンブラミンその後ろにはハイチャパラル。そして緑の勝負服ダラカニがやってきた! ダラカニが外に持ち出した。大外にはドバイエンちょっと手応えが怪しいぞ。
さぁ残り300を切って先頭はガイセンカグラしかしリードはもうありません! 2番手ムブタカ。ダラカニが並んできました。ダラカニが3番手から2番手へ、2番手から先頭へと上がってくる。ハイチャパラルは4番手。
200を切りましたダラカニがガイセンカグラと並びました。しかしガイセンカグラがまだ粘る! 先頭はガイセンカグラとダラカニ、3番手にはムブタカ。3人が完全に抜け出しました! ガイセンカグラ先頭! その横にはダラカニ! その半バ身後ろにはムブタカ! ダラカニ! ガイセンカグラ! そのまま並んでゴールイン!』
誰もが固唾を飲んでレースを見守った。沈黙が重くのしかかり、言葉を放つ事がひどく億劫であった。それは熾烈なレースの余韻に浸っていたいからなのか、それともこの後に訪れる悲劇から目を背けたいがためなのかは誰にも分からなかった。
『今年の凱旋門賞勝ったのはフランスダービーウマ娘ダラカニか?! それとも日本の悲願達成なるかガイセンカグラ?! タイムは2分31秒2。
……着順が決まりました。同着です! なんという事でしょう、凱旋門賞史上初の同着で日本初の凱旋門賞ウマ娘となりましたガイセンカグラ! そしてフランスダービーウマ娘の意地を見せましたダラカニ!』
トレーナーは今でもあの時の景色が目に焼き付いている。西日の射すターフの上、見事凱旋門ウマ娘となったガイセンカグラはこちらに振り返し何かを呟いた後、力尽きたように倒れたのであった。
耳を劈いた悲鳴は果たして自分のものであったか、それとも別の誰かであったか、トレーナーには分からなかった。ただ視界から徐々に色彩が失われ、世界から音が消えていく中で地面に倒れ伏せるガイセンカグラが担架に乗せられ運ばれていくのを見ているばかりだった。現実を受け入れられずに呆然と立ち尽くしているところを、誰かに腕を引き摺られ気づけば救急車に投げ込まれていた。
呼吸器をつけて浅い呼吸を繰り返す彼女を見下ろし、次第に涙が嗚咽と共に流れてくる。いくら拭えども涙は枯れず、嗚咽は慟哭となって只管彼女の名を呼び続けた。
世界一のウマ娘を決める凱旋門賞。その終わりは歓声ではなくサイレンと悲鳴に包まれ、その後には耳が痛くなるほどの静寂を残して幕を閉じたのであった。