それでは皆様良いお年を。
春光の香り
ガイセンカグラが引退を表明した日から暫く経ったある日の事である。
カグラの怪我に責任を感じ共に引退すると言って聞かないトレーナーをあの手この手で言いくるめて続投させたり、そのくせ一向にトレーナー離れをしないカグラを無理矢理引き剥がしたりと色々ありつつも彼女達は冬を越え、新たな春を迎えた。
トレーナーは新たなウマ娘を担当に持ち、ガイセンカグラはサポート科でトレセン職員としての知識を身に付ける傍らトレーナー資格の勉強を始めた。順風満帆な生活なように思えた。少なくともトレーナーにとっては順調なように思えたが、どうやらそう言うわけでもないらしかった。
「あの、トレーナー……」
「ん? どうしたのポロちゃん?」
新たな担当ウマ娘でありガイセンカグラの実妹でもあるポップロックは弱々しげにトレーナーの元へ訪れた。
カグラの妹ということでどうしても子供扱いしてしまうトレーナーがポロちゃんと呼べば、ポップロックは何か恐ろしいものを思い出したようにぶるりと身を震わせた。
「あの……お姉ちゃんと最近会ってますか?」
「カグラと? いや、忙しくてあんまり会えてないね。それがどうかしたの?」
トレーナーはポップロックの練習メニューや今後のスケジュールを組むのに忙しく、またカグラ自身も新たな環境に適応するのに少々時間がかかっていた事もあり、ここ最近は滅多に会う時間は取れていなかった。あとは怪我で弱っていた時に献身的に励ましてくれたトレーナーにカグラが依存しかけている事に気づいたアドマイヤベガが彼女を諌め、なるべく会わないようにしている事も理由の一つであるが、いずれにしてもポップロックに直接関係のある出来事ではない筈だ。
「ここ最近ずっと落ち込んでて……というかなんかもう人を殺しそうな目で見てくるんで早く会ってくれませんか?」
普段はポワポワとしていて何も考えていなさそうなカグラがそんな恐ろしい事をするのだろうか。
首を傾げながらもポップロックの切羽詰まる様子に頷いたトレーナーは再び仕事へと戻った。久しぶりに会う愛しいウマ娘に期待を弾ませて。
▽
一方その頃ガイセンカグラは深い、それはもう
「ト゛レ゛ー゛ナ゛ー゛に゛あ゛い゛た゛い゛」
「ええいやめろカグラ。仮にもGⅠウマ娘、いやそれ以前に年頃の乙女がそんな汚らしい声を出すな」
エアグルーヴが煩わしそうにガイセンカグラを叱る。引退後の手慰みで始めた花の水やりをエアグルーヴと共に楽しみながらも、彼女の瞳に映るのは鶯神楽の鮮やかな花弁ではなく愛しのトレーナーであった。
この花をトレーナーに見せたらトレーナーは一体どんな反応をするだろうか。この花のように満面の笑みが咲き誇るのだろうか。いや、それよりも飽きっぽい自分がここまでちゃんと育てていることに驚いてそうだ。トレーナーは自分のことならなんでも知っているから。そうだ、これを押し花にしてプレゼントしたら気に入ってくれるだろうか。それか耳飾りに加工するのも良いかもしれない。そしたらペアルックだ。
嗚呼、早くトレーナーに会いたいな。人肌が恋しい。どうもこの季節はまだ少し風が冷たくっていけない。走れない私には寒くて寂しくて仕方がないのだ。ポロちゃんは毎日トレーナーに会えてるのに、付いて行こうとしたらアヤベ先輩とかファインが何処から共なくやってきては会えず終いである。悔しいな、辛いな。こういう日にトレーナーにギュッと抱きしめてくれたらそれだけで寒さも忘れられるのに。
「トレーナー……」
か細い、人間の耳であれば聞き取れないほどに小さく弱々しい声が漏れた。しかしウマ耳を持つエアグルーヴはしっかりと彼女の弱音を聞き取り、溜息を吐いては皺が寄った眉間を揉みほぐした。
「お前がトレーナーを好いている気持ちを否定するつもりは無いが、其れにしても限度というものがある。同性であることは置いておくとしてもトレーナーと学生という立場は勿論、そもそも四六時中一緒にいてはトレーナーも疲れるだろう? それにまだ足の不自由なお前をずっと見てやれるほどトレーナーが暇な職業でない事はお前が1番知っているはずだ」
「……そうですけどぉ……」
エアグルーヴが子どもに言い聞かせるように諭してくるのを聞き、車椅子に座ったガイセンカグラは聞き分けの悪い子どものように折り曲げた膝に頭を埋めた。
ガイセンカグラとてその事は胸が苦しくなるほどに理解している。怪我の後遺症で歩くことさえままならなくなったカグラが移動するには車椅子か杖が必要不可欠だ。もう担当でも何でもない彼女に合わせる事がトレーナーにとって意味の無い行為である事は、共にトゥインクルシリーズを駆け抜けたガイセンカグラが1番知っている。
そしてトレーナーに向ける感情が大きすぎる事も当然自覚している。
しかし、我が儘な自分を認めてスカウトしてくれたのはトレーナーだった。悪夢にうなされた時に頭を撫でてくれたのも、負け続きでも見捨てなかったのも、倒れた時に目を腫らして心配してくれたのも、もう2度と走れないと聞かされた時に傍で励ましてくれたのも、どれもこれもトレーナーであった。
今の自分がいるのはトレーナーのお蔭だ。ウマ耳の先から爪先に至るまでの心身の全てがトレーナーで成り立っていると言っても過言では無い。今更彼女無しで生きていけと言われても不可能だ。ガイセンカグラは片時もトレーナーから離れたくもないし、叶うのなら死ぬその時まで彼女の温もりに包まれていたい。
だが自身がトレーナーに向ける愛情が所謂重バ場であると自覚しており、そしてそれがトレーナーの負担になってしまうと彼女自身恐れていたからこそ、アドマイヤベガから諌められた時に渋々ながらも身を引いたのだ。
そもそも、とっくに引退してしまったガイセンカグラとトレーナーには会う理由もなければ繋がりも無いのだ。だから今こうして少しでも会えているのはトレーナーの善意であり、これ以上何かを求めるのはいささか気が引けた。
彼女を想う気持ちに揺らぎがなければ曇りもない。それどころか大きくなる一方だ。
トレーナーを愛しているからこそ、彼女に嫌われる様な事はしたくない。彼女に負担になりたくない。ただこうして彼女を求めてしまうのは許してほしい。汚い叫び声や嫉妬に狂った目で妹を見てしまうのはご愛嬌ということで。多少ふざけないと心が持たないのだ。
「これは重症だな……いっそファインに頼んで連れ出してもらうか?」
諦めた様にエアグルーヴが呟く。世間では悲劇の白毛だの奇跡のウマ娘だのと持ち上げられてはいるが、彼女には目の前の少女が恋に生きる1人の乙女にしか見えなかった。そして今同じウマ娘としては彼女の純粋すぎるとまで言える一途な思いには応援したくなるほど好ましいものでもあった。
しかしそれはそれ、これはこれである。そう言った色恋と言うのは健全な精神状態の上で行うべきであり、その点では彼女は非常に危ういものがあった。なのでガス抜きとしてたまに会う事はあっても、まだまだエアグルーヴやアドマイヤベガ達の監視抜きでガイセンカグラが日々を過ごす日は来ないだろう。尤も、例えカグラの精神状態が良くなったとして、歩くことすらままならない彼女を1人にする薄情者はこのトレセンにいないのだが。
「ほら、もうすぐ昼食の時間だ。どうせトレーナーの部屋で食べるのだろう? ならもうちょっと我慢しろ」
「どうせ邪魔するくせに……」
「お前が授業をサボってまで一緒にいようとしなければ私たちとてそんな事はしないとも。何度も言うが、お前の気持ちは否定しない。ただ常識と節度は保て」
「つまり私に死ねと」
「どうしてそうなる……」
まだまだ先は長そうだとエアグルーヴは空を見上げた。
新緑が芽吹き桜が舞い散り、晴れやかな青空に雲が揺蕩う。青空はカグラの蒼穹の瞳のように澄み渡っており、穏やかに風に揺られる雲は目の前で揺れる彼女の白毛と重なって見える。そして散りゆく桜は舞のように美しかった彼女の走りを想起させた。
皐月賞から暫く経ったある日のトレセン学園の日常であった。
人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける