綾波レイという少女にとって、この1ヶ月は激動の日々であったと言っていい。
まず始まりは、エヴァ零号機の暴走事故。
命の危機を碇ゲンドウに救われ、空虚な彼女の生に、『碇司令』という寄る辺ができた事で、閉じていた彼女の世界は少しばかり外へとその扉を開いた。
そして、開きかけたその扉を豪快にこじ開けて現れた少年、碇シンジ。
突如葛城二佐に連れられて現れた彼は、綾波レイにとって、初めは『碇司令の子供』でしかない存在だった。
だが、その認識は程なくして変わることになる。
マメに見舞いに訪れ、なにかと世話を焼き、退院後も暖かく日常のサポートをしてくれる彼の優しさに、レイは心の扉を少し、また少しと開けていったのだ。
そうして開いた心の扉の中に、シンジによって友人たちが招き入れられ、暖かな関係は更に広がりを増していく。
そしていつしか、レイは友人達と談笑し、シンジの作ったお弁当を食べる昼休みにはこの上ない充足感を覚えるようになっていた。
彼女にとって、そんな素晴らしい時間を過ごすきっかけとなったシンジの弁当は絆の象徴で、彼女が初めて受けた無償の愛。
だが、そんなお弁当を作ってくれていた優しい少年は、初号機の残骸と共に箱根山で焼けている。
それが悲しくて、辛くて、苦しくて、許せない。
この1ヶ月で育ったレイの心は、この日初めて『悲憤』という感情を発露させることとなったのであった。
* * * * * *
夕日はとうに沈み、住民のいない第3新東京市の中で、第六の使徒だけがサーチライトに照らされて佇んでいる。
そして、遠く二子山からその威容を望むのは、今も狙撃準備を進めるNERVスタッフたちだけだ。
「敵先端部、第17装甲帯を突破。NERV本部到達まであと4時間55分」
「西箱根新線及び、南塔ノ沢架空3号線の通電完了」
「現在、第16BANK変電設備は、設置工事を続行中」
「50万V通常変圧器の設置開始は予定通り、タイムシートに変更なし」
「全SMESの設置完了」
「全超伝導超々高圧変圧器集団の開閉チェック完了。問題なし」
そんなオペレーター達の声が慌しく飛び交う中、銃座に据え付けられるのは、超巨大な陽電子砲。
葛城ミサトがコネと権力を総動員して戦略自衛隊から徴発した狙撃作戦の要であり、超遠距離から第六の使徒のATフィールドを貫き得る唯一の武器だ。
だが、それを見上げるリツコやマヤ、作戦課の日向マコトの表情は決して明るくはない。
「これが大型試作陽電子砲ですか」
「急造品だけど、設計理論上は問題なしね」
「零点規正は、こちらで無理やりG型装備とリンクさせます」
「まっ、アテにしてます」
「当てになりそうもないのはエヴァね。……レイはよく頑張っては居るけれど、寝起きの零号機で精密狙撃はいささか無理があるわ」
「そこは先輩と私の照準補正プログラムで対応するしかないですね」
そう告げて無理に笑うマヤの目元にはストレスのせいと思しき隈が滲み、それに応じるリツコの目元は、涙で浮腫んでいる。
男である日向とて、溜息が増えるのは隠しようもない事実だった。
それほどまでに、碇シンジという存在は、NERVに属する者たちにとって大きなものになっていたのである。
そんなシンジ少年の弔い合戦に臨む彼らの士気は低くはないが、何処か暗い影がさしているものは多い。
そしてそれは、作戦の要であるエヴァンゲリオンパイロットも同様であった。
* * * * * *
「では、本作戦における、担当を伝達します」
「はい」
ミサトとリツコ、そしてレイの3人が一堂に会したのは、狙撃姿勢で固定されたエヴァ零号機の足元。
NERVスタッフ全員が多かれ少なかれ使徒に対して殺気立つ中で、静かながらも最も怒りの炎を燃やしているレイに対して、ミサトとリツコは努めて淡々と作戦を伝達していく。
「レイ、あなたはエヴァ零号機で使徒を狙撃。照準補正システムを頼りに、使徒のコアを正確に撃ち抜いてちょうだい」
「はい」
「チャンスは一度切り。狙撃に失敗すれば、後はないわ」
「はい」
「……レイ、日本中の電力と皆の思いを、貴方に預けるわ。頼んだわよ」
「はい」
全ての指示に即答するレイの眉間には珍しく皺が寄り、その目は黒い決意を帯びている。
仇討ちに臨む武者の様なその有様に、もはやミサトもリツコも、掛ける言葉を持ち合わせていなかった。
「よろしい。では、作戦開始!」
そう吠えるミサトの号令で慌ただしく動き始めるスタッフ達には目もくれず、レイはプラグスーツへと着替えて、エヴァに乗り込むべく駆け出していく。
その手には、メガネケースと共に、お菓子のビニール袋が握りしめられていた。
* * * * * *
作戦開始と同時に、陽動として双子山とは異なる方向から第六の使徒へと打ち込まれていく数多のミサイル。
しかしその全ては第六の使徒が放つビームに悉く焼き払われ、溶ける様に消えていく。
「第二砲台被弾!」
「第八VLS蒸発!」
「第四対地攻撃システム攻撃開始!」
「第六ミサイル陣地壊滅!」
「第五射撃管制装置、システムダウン!」
「レーザー放射群、第3波放射します」
「続いて第七砲台攻撃開始!」
無人攻撃とはいえど、損耗は甚大。オペレーターから次々と上がる報告は、馬鹿馬鹿しいほど呆気なく、戦力が減っていく様を伝えてくる。
しかし、その甲斐あって主目的である陽動には成功。急ピッチで進められていく発射準備により二子山に集中する日本全国の電力は、今のところ第六の使徒には感づかれずに済んでいた。
「陽電子加速器蓄積中、プラス1テラ」
「収束回転数は3万8千をキープ」
「事故回路遮断! 切り替え急げ!」
「電力低下は許容値内。系統保護回路作動中、復旧運転を開始」
「第四次接続、問題なし」
「最終安全装置解除! 撃鉄起こせ!」
ミサトの号令のもと、零号機は射撃態勢に入り、プラグ内のレイの眼前には、MAGIによりリアルタイムで補正された射撃管制システムからの映像が展開される。
地球の磁場や自転、この場における全てのデータを入力されたMAGIが導き出すのは、必中の弾道。その狙いを過たず、レイは研ぎ澄まされた怒りと悲しみを注ぎ込むかのように、陽電子砲のグリップを握り込む。
「第五次接続。全エネルギー超高圧放電システムへ。第一から第九放電プラグ、受電準備よし」
「陽電子加速菅最終補正。パルス安定、問題なし」
「発射まで、10、9、8————」
カウントダウンと共に、自然と押し黙っていくスタッフ達。その沈黙の中で、レイがプラグ内で独り反芻するのは皆で食べていた平和で温かな食事の思い出だ。
玉子焼きに砂糖を入れるか入れないかで激論を交わすトウジとヒカリに意見を求められて『塩味しか食べたことがないから分からない』と返せば、翌日のお弁当にはシンジが両方の味の玉子焼きを入れていてくれた。
ラーメンが好きだと言った時は、何故か意外だという話になった。スープの味でまた言い合いになったけれど、下校途中に皆で食べ比べたカップ麺は結局どれも美味しかった。
楽しい記憶。けれど、今は思い出すたびに悲しくなる記憶。
喜びを得たからこそ、喪失の怒りと悲しみは激しく、ドロドロとマグマの様に煮えたぎって、レイの心を染めていく。
しかし、溢れる涙をLCLに溶かしながらも、レイの思考は冷徹な機械のように、使徒を見据え、発射の瞬間を待っていた。
そして。
「————3、2、1」
「発射ッッ!」
ガチリ、と押し込まれた引き金と共に、放たれる陽電子ビームが使徒のコアを目掛けて突き進み、その威力に使徒は悲鳴のような金切り音と共に、歪な針山へと変形する。
溢れ出す赤い血のような、使徒の体液。
砕けた様な使徒の身体。
それに「やったか!?」と拳を握るミサトだがその直後、使徒は崩壊しかけた肉体を修復し、元の正八面体形状へと回帰する。
「外した————!」
「まさかこのタイミングで!?」
「目標に高エネルギー反応!」
「総員直撃に備えて!」
そうミサトが叫んだ直後、使徒は巨大な星形に変形し、二子山に向けてビームを照射。その斜線上にある箱根山の裾野をドロドロと溶かした事で減衰しつつも、二子山の陣地に甚大な被害を齎した。
それはもちろん、ミサト達の乗る戦闘指揮用車両も例外ではない。
「ぐっ————エネルギーシステムはッ!?」
「まだいけます、既に再充填を開始!」
「陽電子砲は!?」
「健在です。現在砲身を冷却中。……ですがあと一回、撃てるかどうか」
「確認不要、やってみるだけよ。……レイ、大丈夫?」
そうミサトが気遣う先で、既に零号機は白煙を立てながらも這う様にして陽電子砲に向かうと、ゆっくりとその砲身を持ち上げ使徒へと突きつけていた。
最早銃架はなく、腰だめに抱えた得物を向け合っての早撃ち勝負。使徒とエヴァンゲリオンで西部劇のガンマンじみた対決を演じる羽目となったNERVには、最早一切の余裕はない。
「射撃最終システム、マニュアルに切り替えます」
「第二射急いで!」
「ヒューズ交換、砲身冷却完了、送電システム最大出力を維持」
「各放電プラグ、問題なし」
「射撃用諸元再入力完了、以降の誤差修正はパイロットの手動操作に任せます」
「圧力、発射点まであと0.2」
着々と進む再発射の準備。
しかし————。
「目標に再び高エネルギー反応!!!!」
「ヤバいッ————!」
————早撃ちは、使徒の方が早かった。
再び放たれる超高出力ビームは今度こそ狙いを過たず二子山のエヴァを目掛けて正確に突き進み、エヴァ零号機と陽電子砲を葬るべく、破滅的な閃光の奔流となって襲いかかる。
眼前に迫る死。その中で、レイはATフィールドを全力で展開し、最後の瞬間まで戦意を失わずに照準補正も無いままに、使徒へと目掛けて陽電子砲を撃ち返す。
だがこの状況下で、補正もなく直撃出来る程、運命は甘いものでは無い。
日本中の電力と、人々の願い、人類の希望、そしてレイの悲しみと怒りを乗せた陽電子ビームは、一瞬使徒のビームを押し返したものの、その勢いに押し返されて大きく逸れた
————その、ハズだった。
しかし。
その時、不思議なことが起こった。