吸い殻でいっぱいの灰皿、白と黒の2匹の猫の小物、コーヒー入りのマグカップ、そして『茶髪で泣き黒子が可愛らしい女子高生』が『2歳程の男の子』を抱き上げている写真。
それ以外の私物らしい私物が無い執務机に向かって仕事を熟すのは、NERVの科学技術の全てを統括する赤木リツコその人だ。
そんな彼女に、背後から這い寄る影が1人。
リツコを音もなく後ろから抱き締めたその影の主は、ビクリと肩を跳ねさせるリツコの耳元で、低音の効いた男らしい美声を響かせた。
「ちょっと痩せたかな? りっちゃん」
「……残念。1570gプラスよ」
そう答えるリツコは緊張を解き、『やれやれ』と言いたげな様子で苦笑する。
「肉眼で確認したいな」
「良いけど……この部屋、記録されてるわよ?」
「No problem。既にダミー映像が走ってる」
「相変わらず用意周到ね」
「負け戦が嫌いなだけさ」
そう軽口を叩く男に対し、リツコは視線を窓の外に向けて、一言告げた。
「でも、負けよ。こわぁいお姉さんが見ているわ」
その視線の先を確かめた男が見たのは、怒り狂う般若————ではなく葛城ミサトであった。
* * * * * *
「久しぶりねリョウちゃん」
「やあ、しばらく」
「なんでアンタがここに居んのよ!? ユーロ担当でしょ!?」
男————もとい加持リョウジの拘束から解放されたリツコと、彼女に抱きついていた加持リョウジ。そして窓の外から睨んでいたミサト。
リツコの執務室でコーヒーを片手に旧交を温める彼らは、東京大学の同期であり、NERV職員としても同期である面々だ。
だが、ミサトの言う通り、三羽烏の黒一点である加持はユーロ支部の監査の為に国外赴任して久しい。
そんな彼が戻ってきているとなればミサトの反応も当然と言えるだろう。————まぁ、彼らの関係性からして、ミサトの発言の意図はそれだけでは無いのだが。
だが、それに対する加持の反応は飄々としたものだった。
「特命でね……しばらく本部付さ。また三人でつるめるな、学生の時みたいに」
「昔に帰る気なんてないわよ! 私はリツコに用事があっただけなの! アスカの件、人事部に話通しておいたから。じゃっ」
「ちょっと待ちなさいミサト。アスカの件って何かしら。人事部への手続きなんてあった? 既に書類自体は彼女の入国前にユーロ支部から届いていたはずよ?」
「大した事じゃ無いわよ。アスカも日本で顔見知りが居ない生活は寂しいでしょうし、私とルームシェアしないか誘っただけ」
そう聞いたリツコは、思わず加持と顔を見合わせ、2人揃って呆れた口調で、ミサトへと言葉を放つ。
「葛城、お前そりゃあ————」
「————大した事過ぎるわよ、ミサトの場合」
「なんでよ!?」
そう言って憤慨するミサトに対し、溜息を吐くリツコと「あちゃ〜」と頭を押さえる加持はしばし悩んだ後に「自分のたわわな胸に訊け」とミサトに告げる。
そして、彼らが危惧した未来は、その日の夜に早速現実のものとなるのであった。
* * * * * *
その日の夜。気楽な1LDKタイプの独身寮のキッチンでカレーを煮込んでいたシンジは、突然のインターホンに慌てて火を止め、玄関ドアの覗き窓を覗いた後に、意外な来客を迎えるべく扉を開けた。
「えっと、アスカと綾波さん? 夜遅いけどどうしたの?」
「アタシ達今日から此処に住むから」
「は? ……綾波さん、コレどういう状況?」
「わからない。家に居たら式波さんが急に来て、それで連れ出されたから」
「……とりあえず、中で事情を聞こうか。狭い部屋だけど、まぁ上がって」
「レイみたいに玄関先で押し問答しないのは良い心がけね!」
「本当に何があったのさ……」
そう嘆息するシンジだが、うら若き少女達を夜の玄関先で立たせておく趣味もない彼は、ひとまずリビングダイニングの食卓へとレイとアスカを招き入れた。
家具は最低限ながらも調度品にはこだわりが感じられるその部屋は、一人暮らしの男子の部屋としてはかなり綺麗な方であり、夜中に同年代の女子2名が強襲して来ても問題ないレベルに整理整頓が為されている。
そんな部屋をキョロキョロと見回して「狭いけどアレとアレに比べりゃ天国ね」と呟いているアスカは、昼間とは打って変わって赤いリボンとフリルが可愛らしい白のキャミソールを着ており、かなり印象が違う。
が、シンジにしてみれば、むしろその格好でわざわざシンジの下宿までやってきた事の方が異様だった。
「アスカ。それが部屋着か寝巻きかわからないけど、そんな格好で出てこなきゃいけない状態だったの?」
「話せば長いわ————ところでなんか良い匂いするわね」
「晩御飯にカレー作ってたんだよ」
「
「いや、
「ふぅん? よくわかんないけど……それにしても良い匂いね」
そう言ってスンスンと鼻を鳴らすアスカをみれば、余程の鈍感でもない限り彼女の腹具合に気がつくと言うもの。
そして、着の身着のまま飛び出して来た腹ペコ少女に対して、掛けるべき言葉など一つしかないだろう。
「……晩御飯食べてないならご馳走するよ?」
「ふふん、気が利くじゃない。不味かったら承知しないわよ」
「食事をたかる側のセリフとして斬新過ぎる……綾波さんも食べていく? 肉は取り分けとくから」
「ええ」
「ちょっと、レイだけ肉多めはズルイわよ」
「逆だよ。綾波さん肉が嫌いだからさ。……じゃあアスカのカレーに綾波さんの分の肉を乗っけとこうか?」
「レイ、アタシ達良いコンビになれそうね」
「そうなの?」
「肉の奪い合いにならないからって現金な……。まぁ、仲良くなれそうならきっかけは何でもいいけどね」
そう告げて、3人分の器にカレーを盛り付けて配膳し、突然の来客2人と食卓を囲んだシンジは、「いただきます」と手を合わせてからカレーを食べ始める。
「いっただきまーす……コレめっちゃ美味しいわね」
「碇くんのご飯はいつも美味しい」
「ありがとう。このカレーは学生時代に行きつけだったフルーツパーラー・ゴンって店の店長に教えてもらったんだよね。————それで、何があったのアスカ」
その問いに促される様に、頬張ったカレーをよく噛んでから飲み下したアスカは、溜息と共に口を開いた。
「実はね————」
* * * * * *
「なぁにコレぇ!?」
そう素っ頓狂な声をアスカが上げたのは、夕刻のこと。
NERV本部で各種の手続きを終えた後、プラグスーツを脱ぎ、着替えとしてとりあえず手荷物に準備しておいたキャミソールに着替えて、NERVの手配した引越しトラックと共にミサトに案内された住居を訪れた彼女を待ち受けていたのは、テレビ特集になりそうな怒涛の汚さを誇るゴミ屋敷。
————こんな所に住めるか!
と露骨に渋面を浮かべたアスカの反応も無理はない。そして、ネルフの引越し屋ですら、アスカに「とりあえず、荷物トラックに戻して預かっておきましょうか?」と提案したのだからそのヤバさはお墨付きだ。
もちろんアスカは引越し屋のその提案を即刻受理し、怒り心頭のままミサトに「アタシ帰る!」と言い放ってNERV本部に逆戻りしたのである。
まぁ、そこまではよかった。しかし問題だったのは、アスカの住居申請が、ミサトとの同居という事になり人事部で破棄されてしまっていた事。
慌ててホテルでも取れないかと探すアスカだが、第3新東京市のホテル需要は使徒に家屋を吹き飛ばされた職員への住居提供などの用途で逼迫しており、同様の事情で住居申請も今からではかなりの時間を要する事となるらしい。
なんて事だと神を呪うアスカだが、そこに救いの手を差し伸べたのが、『こうなるだろうな』と思い善意で人事部に託けをしていた赤木リツコ博士の采配だった。
彼女が提案したのは、綾波レイか碇シンジの住居への同居案。もしアスカが人事部を訪れた場合、シンジとレイの住所を開示するように人事部へと要請しておいてくれたのである。
ついでに、引越しの為の荷物を技術部の倉庫で一時預かりする手続きも済ませて居てくれたその手回しは、流石はNERVの頭脳と呼ぶべき気配りであった。
これこそ天佑神助、神様仏様リツコ様と救いの手に縋ったアスカは、まず当然の様に同性であるレイとの同居を考え、単身タクシーでレイの家に向かったのである。
そして。
「なぁにコレぇ!?」
本日2度目の叫びは、「泊めて」「何故?」の問答の末、どうにかレイの家に押し入ってからの第一声。
完全に廃墟なその場所で、パイプベッドとサイドチェスト以外何も無いようなスーパーミニマリスト生活を行なっていたレイの部屋は、アスカにとっては衝撃であった。
まぁ、一応泊まれるだろうが、ゴミ屋敷よりはマシとは言え、これはこれでヤバい。
————というか14歳の少女がこんなボロ家で一人暮らしはいかがなものか?
自身も家なき子状態であるにも関わらず、そんな義憤に駆られたアスカは、「どういう状況なんだろう?」とでも言いたげに首を傾げているレイに、常備薬などの身の回り品を学生鞄に詰め込むように言いつけて、彼女を半ば無理矢理廃墟から連れ出したのであった。
「————というわけよ」
「なんというか。大冒険だったんだね」
「そうなのよ。だから泊めなさい」
「……アスカはわかった。でも綾波さんは? 実は廃墟マニアで廃墟風住宅に住んでたとかじゃないよね?」
「……? 家賃、タダだったから」
「ほら見なさい、こんな色々騙くらかされてそうな女の子を放り出すっての?」
「いや、綾波さんにも泊まってもらうよ。でも部屋がね……とりあえず、今日はアスカと綾波さんが寝室を使って。シーツは流石にこの時間から洗えないし、僕の布団なのは我慢してくれると嬉しいかな。あと2人で同じベッドに寝るのも我慢して」
「今までの事故物件に比べたら破格の待遇ね。とりあえずそれで良いわ。でもアンタはどうすんの?」
「椅子3つぐらい繋げればリビングで寝れるでしょ」
「……なんか悪いわねそれ」
「今更? ……まぁ流石に僕も毎日は厳しいから明日にでも寝室用の二段ベッドを買って、リビングにもソファベッドをおこうかな。中学は来週月曜まで臨時休校だしちょうど時間あるからね」
そう言って苦笑するシンジに対し、じっと彼の顔を眺めたアスカは、パクリとカレーを頬張りつつ口の中で小さく言葉を紡ぐ。
「ありがとね、シンジ」
「どういたしまして、アスカ」
そんな短い会話の中、ふとアスカは『助けを求める声』に快く応じた彼の瞳の奥に、孤独の様な物を感じ取り、自然と言葉を紡いでいた。
「まぁ、その何? 借り一つね。いつかアンタが困った時は、このアスカ様が助けてあげるから感謝しなさい」
そう告げた、アスカの言葉に目を丸くしたシンジは、一瞬瞑目した後に、天使の様な笑顔で言葉を返す。
「ありがとう、アスカ」
その笑みが余りにも綺麗で、言葉に詰まったアスカは、カレーと共に詰まった言葉を飲み下して「フン」と1つ鼻を鳴らす。
だがその頬はどうしようもなく赤く。隣に座るレイに見られまいとするかの様に、彼女はそっぽを向くのであった。