————時はしばし遡る。
その日、多少の遅れがあったものの無事にNERV松代基地へと運び込まれたエヴァ3号機は、着々と起動準備を進めていた。
輸送されてきたエヴァは受領から仮設実験施設に完全に搬入されるまでは作戦課の管轄。その指揮のために現地に向かうミサトが手ずから運転する実験設備輸送用のトラックに便乗する形で、アスカもまた現地へと到着した。
ドアを勢いよく開けて駐車場の地面に降り立ち、それなりの長距離移動で凝った背中をぐっと伸ばしてから、座っていた座席の下から手荷物を詰めた鞄を引っ張り出せば、中に突っ込んであった携帯に一件の留守番電話。
着信名は『バカシンジ』。忙しい時に何の用かと再生を押してみれば、流れてくるのは聞き慣れた面々の声だ。
『一件の新しいメッセージがあります。一番目のメッセージです』
『センセ、もうこれ始まっとるんか』
『そのはずだよ』
『ほうか! えー、式波! なんや重大ミッションやて聞いたで! 頑張れよ!』
『トウジ、無駄に声がデカいよ。……あー、相田です。武運長久を祈る!』
『お前もデカいやないかケンスケ』
『2人とも、アスカの耳が痛くなったらどうするのよ……あ、ヒカリです。私も応援しかできないけど、応援は全力でしてるからがんばってね!』
『いいんちょが一番デカないか……?』
『ははは、まぁ気持ちが篭ってて良いんじゃないのかな? ……ほら、綾波さんも』
『アスカ。温泉、約束だから』
『……うん。じゃあ最後に僕から。————アスカ、僕と綾波さんもこれからNERVで待機してるから、危ない時はすぐに呼んでね! もちろん、そんなことが無く無事に帰ってきてくれるのが一番だけど!』
『センセが一番やな、声のデカさは』
『愛の力ってやつ?』
『こら2人とも、揶揄わないの!』
そんな騒がしい声達に思わずアスカは苦笑を漏らし、「バカばっかね、いつも通りエヴァに乗るだけなのに」と呟いてから、照れ隠しのように、近くに立つミサトに声を発する。
「3号機、アタシが気に入ったら赤く塗り替えてよね!」
そう告げて、パタパタと更衣室に駆けていくアスカの背中を、ミサトは優しげな微笑みを浮かべて見送るのだった。
* * * * * *
『エヴァ3号機、有人起動試験総括責任者到着。現在、主管制室に移動中』
そんなアナウンスに迎えられたのは、白い鍔広帽子を被ったリツコ。オスプレイから降り立った彼女が見つめる先にあるのは、搬入されたエヴァ3号機を拘束する仮設ケイジだ。
『地上仮設ケイジ、拘束システムのチェック完了。問題無し』
『アンビリカルケーブル接続作業開始。コネクタの接続を確認、主電源切り替え終了。内部電圧は規定値をクリア』
『エントリープラグ、挿入位置で固定完了。リスト1350までをチェック。問題無し』
そんなアナウンスの響く中、ミサトの声が「了解、カウントダウンを再開」と仮設の発令所から指示を出し、地上人員の退避勧告と共にカウントダウンが再開される。
そんな中、医学検査を受け終えて、移動式の隔離室の中でテスト用プラグスーツに着替えるアスカは、ふと思い立ったように、ミサトに向けて電話を掛けた。
事前の打ち合わせでは、そろそろ指揮権はリツコへと移譲予定。なら今電話してもさほど問題はない筈だと踏んだのである。
そして、その予想通り、ミサトは数度のコールで電話に出た。
『どうしたのアスカ、本番前に』
「なんだかミサトと2人で話がしたくってさ」
『そう……今日のこと、改めてお礼を言うわ。ありがとう。あの時アスカ、レイを庇ってくれたでしょう?』
「礼はいいわ。愚民を助けるのはエリートの義務ってだけよ。……だってのにアイツら妙に気張っちゃってさ。大体アタシはみんなで仲良くってのは苦手だし。他人と合わせて楽しいフリをするのも疲れるし。他人の幸せを見るのが嫌だったし。私は……エヴァに乗れれば良かったんだし。元々1人が好きなんだし、馴れ合いの友達は要らなかったし。私をちゃんと見てくれる人は初めから居ないと思ってたし。……戦績のトップスコアさえあればNERVで1人でも食べていけるしね」
そう、ポツポツと呟くように声に出していくアスカ。そんな彼女は、しかし一拍置いて晴れやかな声で、なんて事のないように、ミサトに告げる。
「でも最近、他人といるのもいいな、って思うこともあったんだ。……私には似合わないけど」
『そんなこと無いわよ。アスカは優しいから』
「……ふふ、こんな話、ミサトが初めて。なんだか楽になったわ。————誰かと話すって心地良いのね。知らなかった……」
そう呟くアスカの目は、窓の外の景色を見つめながらも、遠い過去、暗く寒いドイツでの孤独な日々を見つめている。
たった1人の『式波・アスカ・ラングレー』になる前も、なった後も。結局アスカは一人ぼっちで。
でも、そんな日々の中で、ある冬の日に木立の中で一瞬だけ目があった『知らない夫婦に連れられた男の子』が、手を振ってくれた事だけは覚えている。
————覚えてはいたけれど、まさか、その当人と、お互いエヴァパイロットとして再会するとは思ってもみなかった。
そして、再会した『男の子』はバカみたいなシンクロ率と百周回ってバカとでも言うべき脳味噌で、バカみたいな勝率の死線を潜って、バカげた身体に成り果てていたのだ。
エヴァの呪縛というにはあまりにも酷いその身体。一度死んだ後に気合だけで自らを再構成し復活するなんて、それはもうヒーローアニメの主人公の所業だろう。それか、聖書の神の子だ。
それがアスカはずっと気に食わなかった。
だからシンジはいつまで経ってもバカシンジで。
————その理由が、『好意』からだと気づいたのは、たった今の事だった。
アスカはあの日に出会った男の子に恋をして。そんな彼が、ボロボロのズタズタのヒーローなんかに成り果てて、あの日の普通の男の子でなくなっていたのが、どうしようもなく悲しかったのだ。
だからこそ。
「ま、ちゃっちゃと終わってシンジの奢りで温泉旅館ね!」
『あら、羨ましいわねそれ』
「ミサトも彼氏と行けばいいじゃない。シンジからあの加持って人と付き合ってるって聞いてるわよ?」
『ちょ!? シンジ君何言いふらしてんの!? デマよデマ!』
「はは〜ん? これはデマじゃないパターンね」
『後でシンジ君にはオハナシが必要ね……というか、私“も”ってアスカ、シンジ君と付き合ってるわけ? ドイツと違って日本では愛を告白しなきゃ恋人関係にはなれないのよ?』
「……マジ? 恋愛までシステム化されてるのねこの国って。やっぱり日本人ってサイボーグなんじゃないの? ……まぁ良いわ。逆に言えば手続きさえ踏めば良いんでしょ?」
『あら前向き。……というか、否定しないのね』
「うん。私はあのバカが好き。……多分、ずっと前から」
————そう、冬の木立の中で、まだアスカではない『アタシ』を見つけてくれた時から。
そう語るアスカの声に乗った隠しきれない熱と甘さは、ミサトに揶揄う気を無くさせるほどに『素敵なもの』で。
『ふふふ。良いわね、なんか。アスカとこういう普通の話が出来て嬉しいわ』
「そう? ……私も楽しかった。じゃあ、またねミサト」
『ええ。テストが終わったらまた話しましょ』
そう言って切られた通信。携帯を閉じたアスカは、ふと鏡を見返して、テストスーツ姿の自分に照れるように、ポツリとつぶやいた。
「それにしても、透けすぎじゃない?」
その呟きで隠したかったのは、姿というよりは彼女の顔に浮かんだ微笑み。
生まれてこの方、心を表に出してこなかったアスカにとって、その笑顔は、初めての心の表出だったのだ。
* * * * * *
「エントリースタート」
そんなリツコの声で開始される実験。
オペレーターの声が無数に飛び交う中で、プラグ内のアスカの心は今まで以上に落ち着いていた。
「そっか、私笑えるんだ。……ううん。きっと今までも。気付かなかっただけね」
思い返せば、レイとシンジと自分の3人で過ごす生活の中では、今までよりずっと心が軽かった。だからきっと、今までアスカが気付かなかっただけ。
————式波・アスカ・ラングレーは普通の女の子である。
そんな事実に目を向けてみれば、後は簡単。自分の心に素直になって見る世界は、心を殺して睨んでいた世界より何千倍も美しい。
だが。
次の瞬間アスカを襲ったのは、美しいというよりは悍ましい、血の赤のような風景の浸食。
エントリープラグから見えていたはずの世界が血に飲まれ、その奥底に輝く青く不気味な光の渦へとアスカは落ちるように飲み込まれていく。
「きゃぁッ————!?」
絶対に何かマズいことが起こっている。そう分かってはいても、渦潮のように自らを飲み込もうとする流れに押し負けて、アスカは抵抗も許されぬまま、光に飲まれ。
『プラグ深度100をオーバー! 精神汚染濃度も危険域に突入!』
「なぜ急に!?」
『パイロット、安全深度を超えます!』
「引き止めて! このままでは搭乗員がヒトでなくなってしまう!」
「実験中止! 回路切断!」
『ダメです! 体内に高エネルギー反応!』
「まさか————」
「————使徒!?」
リツコとミサトが同時にその結論に辿り着いたその直後、アスカと3号機を飲み込んだ第九使徒が咆哮し、周囲に青いエネルギー波が吹き荒れる。
そんな爆発の中心で、不幸にもアスカの意識だけは、一切の体の自由が利かぬままに健在だった。
「どうして?」
そう問いかけても、使徒との強制的なシンクロを通じて目に映る光景は、何もかもが吹き飛ばされてしまった松代基地の姿。
「嫌、イヤぁッ————こんなの嫌ッ————助けて————」
みっともなく泣き叫んでみても、乗っ取られたエヴァは全く言うことを聞かず、ゆっくりと第3新東京市に向けて進撃を開始してしまう。
このままでは、自分が、使徒として、自分の大切な街を破壊してしまう。
そんな絶望の中で、もはやエリートのアスカとしての人格は保てない。
使徒の原初的な赤子のような精神パルスの奔流に中てられたアスカは、もはやただの無力な女の子として、泣き叫ぶ事しか出来ないのだ。
だが、しかし。
アスカの身近にはそんな無垢な少女の悲しみを、決して許さないものが居る。
そんなか細い声を、アスカの心が発した直後。
————バリバリと雷鳴の様な音と共に3号機の眼前の空間を引き裂いて、紫の巨人がその行く手を阻む様に現れた。
「アスカッ! 今助ける!」
何故か使徒に侵食されているのに動く通信設備から伝わるその声に、アスカはエヴァの深淵で涙を溢し、自身を救いに現れた『ヒーロー』の存在を頼りに、絶望の中で足掻き始める。
内と外。第九使徒に抗う少年少女それぞれの戦いが、夕暮れの迫る松代で幕を開けた。