ハロウィンの日。子供たちへのお菓子配りのボランティアに参加する、志貴、シエル、有彦、弓塚の4人。
なんでもない、日常のひとコマの話。
*『月姫』リメイクのネタバレを含みます。
「トリック・オア・トリート!」
「おやおや、いたずらされては困りますねえ。はい、ではお菓子をあげますので、見逃してください」
「やったー! ありがとう!」
かぼちゃをあしらった包みが、先輩の手から子供たちに渡される。中は市販のクッキー類だが、もらう方からすれば中身よりも受け取ることそのものの方が重要だろう。魔法の言葉を投げかけるだけで、なぜかお菓子がもらえる。たしかに子供にとっては堪えられない素敵イベントだ。
「ハッピーハロウィン!」
不器用に羽織ったマントを翻して駆けていく小さい背中を見守って、先輩は口元に微笑を浮かべている。その様子を、少し離れたベンチに腰かけて俺は見ている。そしてその俺の隣で目じりを下げている男女がひと組。
「うーむ、眼福眼福」
「そうだね。喜ぶ小さい子の顔はいつ見てもいいものだよね」
いまいちかみ合わない会話である。しょうがないので割って入る。
「いや、弓塚さん。有彦が言っているのは子供たちの顔じゃなくて、先輩と弓塚さんの衣装のことだよ」
「え? そ、そうなの、乾くん?」
「うーむ。ここはあえてのノーコメントで!」
真っ赤になって自分の出で立ちを確認する弓塚さんだが、別段おかしなところはない。小さい帽子をかぶって、マントを羽織っているだけだ。メイクはすこし変えているのか、まつげを足して目元にワンポイト、星を描いている。
先輩も似たようなものだが、それだけで衆目を集めるのはさすがの美貌というところだろうか。俺たちにとっては「いつもと違って新鮮」という程度の喜びだが、公園に集まった人たちにとっては突然現れた美女ふたり、である。
「あれー、変かなあ」
「変じゃないよ。大丈夫、かわいい」
「――あ、ありがとうっ!」
弓塚さんは真っ赤になってうつむいてしまった。変じゃないと告げたはずなのに、なにが恥ずかしいのだろうか、と首をひねっていると、有彦に小突かれた。
「お前さあ……ホントこう、天然ナチュラルに超クソ野郎ですよね」
「なんだよ」
「……いや、なんでもねえ。とりあえず転んで頭打って死ね」
意味不明に辛辣な有彦である。
今年は秋が遅かったので紅葉はもう少し先かと思っていたが、先週からの冷え込みでモミジもケヤキも見事に焼けた。ソメイヨシノもハナミズキも一気に色づいて、ニシキギなど燃えるように赤い。
錦彩なす、とまでは言えずとも、この公園はひそかな紅葉の名所なのである。
「先輩ー、交代しますよ」
「おや、弓塚さん。ありがとうございます、ではお言葉に甘えまして」
お菓子の入った籠を受けとって弓塚さんがポイントに立つ。交代で先輩がこちらのベンチに腰かけた。
「乾くんも遠野くんも、せっかくの休日に手伝っていただいてしまってすみません」
「なんのなんの。先輩のお願いならオレはいつでも大歓迎っす! 365日24時間いつ呼び出していただいても構いませんとも!」
「俺も助かったくらいです。家にいるよりこうしていた方が何倍も楽しいから」
10月最後の週末、地域の子供たちのためにスタンプラリーをしたい、と言い出したのは複数の町内会だったようだ。ポイントを回って魔法の言葉を口にするとお菓子がもらえるという、実にハロウィンらしい思い付きである。ところが、ボランティアだけでは人手が足りないということで、うちの学校にお手伝い募集の泣きつきが入ったのが先週のこと。もちろん高校生も暇ではない。校内で募集をかけたところで希望者など集まるはずもなく、晴れてこういう時のワイルドカード、シエル先輩のお出ましと相成った。
そうなると不思議なもので、やっぱりその日暇だったかも、とお手伝い希望の男子生徒が殺到した、ところまでが予定調和。先輩はそのすべての申し出をうまくさばいてあちこちに尖兵を派遣した上で、自分の持ち場であるこの公園に俺と有彦と弓塚さんを配置したのだった。
地域貢献のボランティアと言えば、我が伏魔殿の首領たる秋葉も首を横に振るわけにいかない。「遠野家の長男として、悪くない心がけです」などと苦虫を数匹まとめてかみつぶしたような顔で許可を出してくれた。
秋空を見上げる。幸いなことに、雲一つない晴天である。風は冷えるが、陽はあたたかい。しばらく雨が降っていないせいか大気は埃っぽく、空の色はわずかに白みがかっている。
「あ、絡まれてる。仕方ねえ奴らですねえ、もー。夏の終わりは蚊と馬鹿が増えやがる」
有彦が頭をかきながら立ち上がり、弓塚さんの方へ寄っていく。夏はとっくに終わってるだろうと思いつつ視線をやると、どうやら空気を読めない大学生にナンパされているようだった。子供相手のボランティアの最中に声をかけるとか、まったくどういう神経をしているのやら。たしかに蚊トンボは退治しておくべきかと加勢を検討したのは一瞬のこと。有彦ひとりで十分だろうと判断し直して、浮かしかけた腰を落ち着ける。
「でも、良かったんですか、先輩?」
「はい? なにがでしょう?」
「だって、ハロウィンって、たしかカトリックじゃご法度じゃなかったっけ?」
「おや、詳しいですね遠野くん。そうですね、たしかに10月末日の夜は万聖節ですし、そもそも子供に魔の衣装を着せて恫喝させる、なんていう催し、ヴァチカンが推奨するはずありません。そのせいか、欧州ではハロウィンを盛大に行う国はほとんどありませんね」
「へえ。でも、先輩はお手伝いをしている」
「そういうのとは関係なしに、子供が喜ぶならそれはいいことでしょう」
にこにこ笑っている。言い切られてしまえば反論はない。
「いいものはいい。そうやって受け入れていくことも必要だと思います。もっとも、そんなふうに考えちゃうから、わたしはいつまでも褒められた信徒ではないと言われるんですけどね」
「はあ。そんなものですか」
有彦の介入に気を悪くした大学生ふたりが、人数を頼みに横柄な態度を取り始めた。なんというか、相手が悪い。今夜は反省してもらうしかない。
「ハロウィンという呼称こそキリスト教由来ですが、もともとはケルトの風習だと言われています。それがアメリカにわたって一気に知れ渡った」
「今でも仮装パーティはニューヨークが本場ですもんね」
「19世紀半ば、ジャガイモ飢饉もあいまって、アイルランドから多くの移民がニューヨークを目指しました。ハロウィンの風習も、そのころに本格的に持ち込まれたんじゃないでしょうか。セント・パトリックス・デーと同じようなものでしょう」
ちなみに、と先輩は続ける。もともとジャック・オー・ランタンはカブで作るものでした。カボチャが用いられるようになったのはアメリカにわたってからのことで、今でもアイルランドなどの一部の地域ではカブでランタンを作るそうです。
「へえ、先輩、物知りですね」
「伝承の類は魔術に近しいですからね。元ネタを知っていれば看破できる呪というのは少なくないんです。職業柄のお勉強と言ったところです」
なるほど、頭の下がる話である。
なお、大学生のナンパの方は片が付いたらしい。有彦も弓塚さんの前ではさすがに遠慮したのか、手は出さずに済ませたようだ。いつの間にかずいぶん器用になったものだ。
遠巻きに成り行きを見ていた子供たちが、場の安全な空気を察してか、ふたたび弓塚さんの周りに集まり始める。にこにこと笑いながらお菓子を配る姿は、あまりにも魔女の衣装に不似合いだった。あんなにふんわり感をまとった魔女なんていてたまるものか。
もう問題ないと判断したのか、有彦がこちらへ戻ってくる。
「ってことは、ハロウィンは、世界的にはマイナーな行事なんですね」
「どうでしょう。この国もその一つですが、アジア圏には根付き始めているようですよ。アメリカの文化を背負った人が戦争や留学、出張、駐在などで世界中に出ていくと、そこでまた新しい文化を根付かせます。それを現地の企業が経済活動に利用できないかと試行錯誤し、こうして地域の方々が日々のうるおいの一つとして受け入れていく。良くも悪くも、そうやって世界はより均一化されていくのです。日本だって、ひと昔前まではハロウィンなんてマイナーだったというでしょう?」
「らしいですね。今じゃ、この季節にはあっちこっちでカボチャのオバケを見かけますけど」
あはは、と先輩は笑った。
「あれは魔除けの類ですから、お化けと言ってしまうとちょっとかわいそうですね。まあ、大枠変わりませんけど」
「そうなんですね」
もともと世上のことごとには関心が薄いタチなので、そこら辺のことはよくわからない。が、のんびりとしたこの会話の心地よさだけで、休日出勤の対価としては十分だった。
「なになに、ずいぶん楽しそうにお話し中ですねえ。で、カボチャのオバケがどうしたって?」
「何でもないよ、世間話。ご苦労さん有彦。立派なナイトだったな」
「ったく、にらまれただけで退散するならナンパなんてするなっつー話ですよ腰抜けどもめ」
どかっとベンチに腰掛ける。モミジに負けないくらいの赤毛に、立派な三白眼である。これに睨まれて引き下がらないヤツは、むしろナンパに命を懸けすぎだろう。その上。
「明らかに睨んだだけじゃなかったろ。何らかの恫喝もセットだったじゃないか」
「どっこい、ただの世間話ですぅ。恫喝なんて、そんなおっかねえことオレがするわけねえのだ」
「はいはい、そうだな。そういうことにしておこう」
「ああ、ぜひともそうしておいてくれ。よーしじゃあ交代だ。今度はお前が行ってこい、遠野」
有彦が弓塚さんの方へ顎をしゃくる。寄ってきているのは子供たちだけだ。
「……ナンパは解決したろ?」
「ガキどもがもっといっぱいお菓子が欲しいって駄々こねてるんですよ。そんなの、手に余るだろ。お前、ちょっと行って諭して来い。子供相手ならオレより遠野だ。あと、せっかく来てくれてるんだから役得の一つもなきゃかわいそうでしょうが」
「役得?」
「なんでもねえよスットコドッコイ」
最後のよくわからんところを除けば、まあ言わんとしていることはわかる。こちらも、お手伝いの名目で来てベンチに腰かけているだけというのも居心地が悪かったところだ。
「わかった。じゃあ先輩、俺ちょっと行ってきます」
「はい、よろしくお願いします」
にっこりと笑う先輩と有彦を残し、小走りで弓塚さんのところに向かう。よく見れば、マントを引っ張られたり袖を掴まれたりで大変そうだ。子供というのは、いたずらしても怒られない無害な人種というのを本能的に悟るものなのだろうか。
「秋葉を立たせたらちょっと面白いかもな」
などと罰当たりなことをつぶやきつつ、加勢に入った。
***
「すんませんね、先輩。ちょっとだけでいいんで、譲ってやってもらっていいっすか?」
遠ざかる志貴の背中を見守って、有彦はちょこんと頭を下げてそう言った。
「おや、なんのことでしょう?」
シエルのとぼけ顔も、もはやおなじみである。苦笑しつつ、のっかっておく有彦である。
「いや、何でもない。んじゃ、オレの見込み違いってことにしておきますかね。それより、さっきのカボチャのオバケの話、もっと聞かせてくださいよ」
「ご興味が?」
「いやそれが、実のところ、カケラもねーのです。でも、暇つぶしにはなりそうだから、ね?」
おやおや、とシエルは笑った。正直すぎるでしょう、その反応は。
「でも、そういうことならお安い御用です。あんまり楽しいお話じゃなくて申し訳ないですけど」
「うっす。あざます、恐縮です!」
はらはらと、葉が落ちていく。散り敷いた朽ち葉を蹴り上げて駆けまわる子供たちを見ながら、夢見るようにシエルは語る。
「ジャック・オー・ランタンをオバケと表現するのは、実はさほど間違っていません。伝承によれば、あれは生前に悪行三昧を働いたために天国にも地獄に行けずに、現世をさまよう男の魂の姿ですから。そういう意味ではお化けと何も変わりません」
「でも、魔除けなんすよね?」
「ええ。先祖の霊がそうして現世にとどまり、家族を災厄から守ってくれる風習だった、と解釈するのが現在の主流です。このあたりがキリスト教と徹底的に相性が悪いので、ハロウィンはカトリック的には異教の邪悪な催しなんです」
「はえー、そりゃあまた、ずいぶんと心が狭いこって」
「同感です。ちなみに、ウィル・オー・ウィスプの話も似ているところがありまして、どちらも天国へ行けなかった男の話です。同根なのでしょうね」
「うぃるおうぃ……?」
「鬼火のことですよ。夜に青白く光る、あの現象。この国だと火の玉とか言われますか」
「あー、墓場のあれ! たしかに、カボチャにろうそく入れて光らせるのって、火の玉に似てるかもなー」
「そうです。カボチャに入れるあの火は、死後の世界に立ち入ることができなかった男に、悪魔が渡した哀れみの火種だという話です」
「ほえー、なるほど。勉強になった。きっと明日には忘れちまってるんだけど」
からからと笑う有彦の横顔を見ながら、シエルは首を傾げた。
「乾くん、今日はお誘いしてしまっても大丈夫だったんですか?」
「ん? いいっすよ、どうせ暇だったし。たまにはこういうのも悪くない。眼福だし。あ、最後のがいちばん大事なポイントね?」
「でも、街の方では仮装のお祭りがあるというじゃないですか。そちらにはご興味は?」
ないない、と有彦は乾いた表情で手を振っている。
「ああいうのはオレ、スーパー苦手なんすでよねえ。なんつーか、下品すぎるっつーか? いや、下品なのは悪いことじゃないんですけどね、性欲を隠したいのか隠したくないのかよくわかんねーっつーか? オレの好みはもうちっとこう、ぱきっと割り切れるタイプのやつなワケです」
「ははあ?」
「わかんないっすかね。わかんないよなあ。まー、有彦の好みはわかりにくすぎるって遠野にもよく言われますんで、あんま気にしないでください。あと、先輩もあんまり気にしない方がいいっすよ」
「はい?」
「なんだかよくわかんないけど、ハロウィンとかさっきのカボチャの話とか、実はあんまり得意じゃないでしょ? 頼んだオレが言うのもなんですけど、苦手なことを無理して話す必要はないんじゃないっすか」
「―――」
シエルの沈黙は、意図したものではなかっただろう。その顔をあえて見ずに、有彦は続ける。
「話を聞いてみたところで何が引っかかるのか、結局オレなんかにゃまったくわかんなかったっすけどね。気が向いたら遠野には話してやってもいいんじゃないすか。あいつ、最近かなり元気だから、多少の重荷なら尻尾振って背負うっしょ」
「元気、ですか。遠野くん」
「そりゃあそうっすよ! え、もしかしてお気づきでない? 先輩の横にいるときのアイツの顔、オレが今まで見たことないくらい頭悪そうですよ。すげえ馬鹿。そんでやっと人並みになったっていうか。詳しいことはよくわかんねーけど、それ全部、先輩のおかげなんでしょ?」
「わたし、の?」
「ははん、これもまたお気づきでない?」
こいつは参った、と有彦は額に手をやった。
「遠野を元気にしたのは先輩ですよ。だから……あれ、なんていえばいいんだ。こういうとき。ありがとう、じゃないよな。別にオレ、家族でも何でもない、あいつのただの友達だしな」
「それだと、ありがとう、は変なんでしょうか?」
シエルにとっては先ほどから有彦の論理展開がよくわからない。
「そりゃそうでしょー。友達なんて軽薄なもんっすよ。オレはあいつが死にかけてても、自分の命が危なくなったら見捨てて逃げますから。だから「遠野を元気にしてくれてありがとう」なんて、そんな恥知らずな台詞を言える立場にはないわけです、おわかり?」
言いながら笑っている。よくわからない。それは極論にすぎるのでは、とシエルは思っている。
うーん、と思い悩む有彦に、遠くから声がかけられた。どうやら子供たちのようだ。知り合いだろうか。おーい有彦ー、相撲しようぜー、と言っている。
「呼ばれてますよ」
「あー。いいんすよ、ああいうのは放っておきましょう。相手にすると調子に乗る」
「お知り合いでは?」
「この近くの施設のガキっすよ。たまに顔出してたらすっかり懐かれちまって、往生往生」
驚きはシエルの顔に出たのだろう。有彦はバツが悪そうに顔をしかめた。
「あ、なんか勘違いされた? 違う違う、別に褒められた話じゃないっすよ。うちも早くに両親亡くしたんで、ちょっと借りがあって、その関係でたまに顔出してるだけです。ほら、悪い遊びはちゃんとした手順で教わっておいた方が火傷が軽く済むって話もありますし? その辺、オレなんかもはやプロの域ですし? ……あれ、なんかオレ今、わざわざ好感度下げた?」
「あ、いえ、そういうわけでは」
子供たちが有彦を呼ぶ声はだんだんと大きくなる。もはやそれは挑発と言えるほどのものだ。
「やーいありひこー。よわむしー。こわいから無視してんだろー。ばーか」
ぴき、と有彦のこめかみに筋が走る。あー、もう、とガシガシと頭をかきながら、これは教育的指導が必要ですねえ、という低い呟きを漏らす。
「というわけで、やっぱりいっちょ、年長者へのケイイの示し方ってやつを叩きこんでこなきゃならんみたいっす。これもひとつの社会貢献ってことで、オレ、ちょっと行ってきますわ」
「ええ、はい。ぜひお手柔らかに」
それは残念、自信ねえですねえと言いながら歩き始めた有彦は、しかし三歩で立ち止まり、くるりと振り返った。
「お、わかった」
「乾くん?」
「オレ、こう言えばいいんすね。だって、元気になって楽しそうになったの、遠野だけじゃないんだから」
「な、なんの話です?」
「うん。だから、おめでとう先輩。先輩にも遠野にも、きっといいことがあったんだ。良かったっすね。んじゃ、ハッピーハロウィン! 俺にもステキな彼女が見つかるようにぜひ祈っててください。あ、くれぐれも真剣に全力で目いっぱいヨロシクどうぞ」
にかりと白い歯の輝きだけを残し、有彦が腕まくりをして子供たちのもとへ向かっていく。背中から聞こえてくる声は、これが同一人物のものかというほどに低く、ドスが効いている。
「よーし、このスットコドッコイども。散々ナメた口きいた覚悟はできてんだろうなぁ、あーん?」
「やべえ、ありひこキレてる。逃げろ!」
「っざけんなコラ! 一匹残らず公園の土にしてやる」
砂埃を上げて走り回る有彦の後ろ姿を見ながら、なるほど、とシエルはうなずいている。なにに納得できているのかは、自分でもわからない。
***
東の空に光が溜まって、水に溶かしたような朱が流れている。空を彩る白、朱、藍のグラデーションは、今日のように空の色が薄い秋の日にもっとも美しい。
名残を惜しむようにカーテンを閉めて、先輩は振り返った。
「今日はお疲れ様でした、遠野くん」
「先輩こそ、お疲れ様でした」
ボランティア活動を終えて夕方、先輩の部屋である。朝の間に仕込んでおいたというカレーの香りが漂っている。
今日のお礼に夕食をごちそうする、という先輩の申し出を断って、有彦と弓塚さんは帰ってしまった。有彦が、弓塚さんの腕を半ば強引に引くようにしていたように見えたのは気のせいだったろうか。
ひとりではとても食べきれない、ということで、俺だけでもお呼ばれすることになり、現在に至る。ちなみに、ひとりでは食べきれない、というのは先輩の嘘である。この人なら絶対に食べきれる。
「ところで遠野くん。乾くんが、おめでとう、だそうです」
「はい?」
首をかしげると、かくかくしかじか、先輩が昼の公園での会話をかいつまんで教えてくれた。
「ありがとう、じゃなくて、おめでとう、か。いかにもあいつらしい意味のないこだわりですね」
喉の奥に笑いが溜まる。
「乾くんらしい、ですか」
「誰に迷惑をかけるでもない筋が気になって、誰に頼まれたわけでもないのに足りない頭をひねって考えて、出した結論は至極まっとうで美しく、その一方で本人は答えを誰にも押し付けることなく自己完結で自己満足。ほら、これぞまさに乾有彦って感じじゃないですか。なにしろ人の世になんの影響も与えない」
「さあ、わたしにはよくわかりませんが、遠野くんが乾くんをどう評価しているのかはわかりました」
うん。
ただの馬鹿だと思ってる。
「それにしても乾くん、どうして恋人ができないのでしょう?」
「どうしたの先輩、藪から棒に」
「いえ、なんとなく気になりまして。だって、欲しいとは思ってるわけですよね。積極性もありますし、悪い人ではないと思うのですが」
なんだよそれ、と笑って、ひらひら手を振る。散々、有彦のアプローチを袖にし続けた先輩の言うことじゃない。あと、有彦は悪い人だ。
「そりゃ、あいつの問題じゃなくて、運の話です」
「ほう?」
「だって有彦ですよ。あんな奴に釣り合うような人なんて滅多にいないってことです。よっぽどの聖女か悪女じゃなけりゃ手に負えない。出会えなきゃ口説けない。そんで、不幸なことに有彦が好意を持つ相手は有彦に好意を持たないような人だけなんです。不幸な趣味としか言いようがない。わが友ながら不憫な奴です」
先輩は一瞬、呆けたように黙って、くすりと笑った。どうやらウケたようだ。何よりだ。
「有彦が何言ったかわかんないですけど、気にしなくていいと思いますよ。あいつ、口で言うほど恋人欲しいなんて思ってないから」
なにが琴線に触れたのか、なるほどなるほど、と先輩はしきりにうなずいている。それから何をどう結論したのか、笑顔で顔を上げて、
「遠野くんは、いいお友達を持ちましたね」
と言った。もちろんこちらはノーコメントだ。その沈黙をどう取ったのか、先輩はますます笑みを深くするのであった。
「ご馳走様でした」
「はい、お粗末様でした」
カレーをお腹いっぱい食べて、夜である。今日に限っては門限の交渉は済ませてあるので、もう少しゆっくりしていける。
「それにしても有彦の奴、俺がいない間にあることないこと喋ってたんですね」
やれやれ、と首を振る。食事時の話題に、俺が席を外しているときの有彦との会話を詳しく教えてもらった。
「乾くん、ああ見えて意外と鋭いところがあるんですね」
「え、ああ。バランスがいいんだか悪いんだか、微妙にわかんないヤツですよね」
腰を浮かせて、皿をキッチンに運ぶ。慌てて立ち上がりかけた先輩を制して、スポンジを手に取る。ごちそうになったのだから、後始末くらいは引き受けないと。
「長い付き合いですけど、わかるようでわかんないっていうか、不思議なヤツですよね。筋が通ってるんだか通ってないんだかわかんないけど、自分の中に変な哲学だけはあるっていうか」
「それ、遠野くんが言います? きっと、向こうも同じことを言ってますよ」
「違いない」
笑って、皿を洗い始める。スポンジでこすると汚れはあっという間に落ちていく。
人の世の様々なわだかまりも、こうして拭い去れたらどれほど楽だろう、などと詮無いことを考える。
「そうだ先輩。有彦の言ってたことで、なかなか面白い話があってさ」
「はい」
「人にとってもっとも大事なものは、居場所なんだそうです」
「居場所、ですか」
泡を呑んで、水が流れていく。泡切れはお湯の方がいい。湯気が立って、少しだけ視界が悪くなった。
「居場所がその人の存在を定義するんだと。《どういう人間か》よりも、むしろ《どこにいる人間か》、の方が人間の本性を表す。同時に、たしかな居場所を持たない人間は不安定になって、とにかくどこかに属そうとする。ふさわしくない場所に属せば毒されて染まる。人の世の悪事っていうのは、だいたいがその居場所のミスマッチに起因する、ってのが有彦の持論らしい」
「……なかなか含蓄のある話ですね」
でしょう、と相槌を打って、水を止める。二人分の皿洗いなど数分で終わる。小さなテーブルに戻って、ふたたび先輩と向かい合った。
「まあ、いい友達って言ってもいいのかもしれないですね。客観的に見れば」
まったく認めがたいが、認めてやってもいい、だなんて我ながら矛盾したことを考えている。
「遠野くん?」
「俺には抜けなかった棘を抜いた。なら、今日に限って乾有彦は、確実にいい仕事をしたんだ」
「何の話ですか?」
「ジャック・オー・ランタン」
びくり、と先輩の肩が震える。当たりだな、と思ってため息を吐いた。
「自分みたいだなって、思った?」
先輩が怯えたように視線を上げる。目が合うと、そらされた。まだこの人は、俺に弱みを見せるのをためらっている。
そのことに傷つくのは、もうやめた。
「……死んだにもかかわらず死後の世界に拒まれ、ただ憎しみの火を持って現世と煉獄をさまよい続ける」
ゆらゆらと、それこそ置き忘れられた火のように、先輩は語り始めた。
「ええ、そうです。はじめて伝承を聞いた瞬間に思いました。これはまるで、わたしの話みたいだなって。わたしのように、この世にもあの世にも、居場所を失くした魂の話だと」
「うん」
「だから、実のところ、ハロウィンのことはずっと苦手でした。でも幸いほら、わたしの所属はカトリックですから、縁遠くにいられたんです」
「うん」
「もう大丈夫かなって思って。――いえ、違いますね。もう大丈夫なんだってことを証明したくて今日の役回りを買って出たんですけどねえ」
「うん」
「遠野くんならともかく――乾くんにまで指摘されるとは思いませんでした」
そう言って、傷ついたように笑う。その先輩の身体を優しく抱き寄せて、背中に手を回した。
「そういうこともあったのかもしれないね。でも、もう先輩の旅は終わったろ?」
はい、と震える声で先輩は言う。
「不思議ですね。問題はもう残っていないのに、わたしの中にはまだ居場所がないころの自分を恐ろしく思う自分がいます。ここに、こんなに安心できる場所があるっていうのに」
「ま、どっちかって言ったら、それは俺の力不足かなあ。先輩を安心させてあげられる場所になれていないってことだから」
そんなことはありません、と答える先輩の声は、わずかに笑いを含んでいる。
「ねえ先輩。有彦の居場所理論には続きがあってね」
「え?」
「それでも人間には、どうしようもなく、どこにも属せない期間があるんだと。大切なのはその時に、自分の輪郭を見失わないことなんだって」
「―――」
「ひとりでいてもいい。居場所がなくて、足場が不安定で、踏ん張りも効かない。それでも、その頼りない孤独から逃げずに受け止めれば、人間はちゃんと独立できるようになっている。それができれば、きっと誰でも優しくなれる。……強いっていうのは、そういうことを指すんだって」
「それ、いつの話です?」
「ええと、中3かな?」
「……驚きますね。乾くん、悟りでも開いたんですか?」
「同じことを言ったよ。そしたらなんて答えたと思う? 『ちなみにオレはそういう人間にはなれないしなりたくもないから、手っ取り早く何らかに属してなるべく楽に生きることをモットーにしてますです。は、悟り? んなモンは、犬にでも食わせとけ』だそうです。しかも、そんなことを言っておきながら、今も昔はあいつはずっと一匹狼です」
「なら、やっぱり悟ってるじゃないですか」
「あ、なるほど、たしかに」
漏れた呟きを聞きつけて、先輩は息を切るようにして笑った。
「わたし、うれしかったんです」
「……うん」
「本当に、自分でも驚くくらい、うれしかった。不思議ですね。きっと、なんてことない言葉なのに」
先輩は、俺の胸の中で身じろぎして、安心したように大きな息を吐いた。
まったく、とつられて息を吐く。まったく有彦らしいことだ。なにがなんだかわからないうちに、誰も気づいていない、放っておいてもいいような問題を見つけ出し、人知れず勝手に解決して消えていく。飄々と、風のようにあいつは生きている。
だから、感謝なんてしてやらない。ただ俺は、妬ましいと思うだけだ。俺にはできないことをやってのけた、あいつのことを。
――彼女は、この世のすべてから石を投げられるために生きてきた。
だから、幸せのようなものを手に入れても、欲しくて欲しくて仕方がなかった結末を手に入れても、喪われたものへの哀惜が彼女を縛る。この世の誰一人として、彼女の幸せを望んでいないという迷妄を振り払えない。
その呪いは、当事者である限り、俺には消せないものだ。だから、必要だった。はたから見ているだけの、第三者の、これ以上ないほど無邪気な感想が。
「おめでとうって、祝福されたことが、わたしは本当にうれしかった」
「先輩……」
その、たった五文字だけが与えられる、彼女にとっての赦しがあった。
少なくともひとつ、この世のどこかに、あなたの幸せを寿ぐ命がある。
そんなものが、これからずっと、彼女にとっての支えになるのだと。
「違う世界を旅して、それでもわたしたちは、同時にここにたどり着いた。ねえ遠野くん。わたしは満足してました。だってこれ以上の結末なんてなかったじゃないですか。だからそれでいいと思ってたんです。……それでも、欲張りですね。気づいてなかった。わたし、心の底では望んでたんです」
きっと、ずっと、誰かに。
「良かったねって、言ってほしかった」
そんなことを、消え入りそうな声で、先輩は言った。
言葉に、もはや力はなかった。俺はただ黙ったまま、先輩の震える身体を抱き続けた。
「おや、もうこんな時間。大変です、遠野くん、門限が近いのでは?」
「あー、まあ、そうかな」
時計を見ると、秋葉と約束した時刻が近づいていた。しかし、いつものことながら健全な男子高校生に課されるにしてはずいぶんと健康的な門限だ。こんなんじゃかえって不健康になってしまう。
特に、こんな日は。
「急ぎましょう。そこまで送ります」
微笑んでコートを羽織ろうとする先輩の手を掴む。
「遠野くん?」
「先輩。俺、まだ今日のお駄賃もらってない」
「へ?」
目を白黒させる先輩を無視して、本能の命ずるままにベッドに押し倒す。
「と、遠野くん? ど、どうしたんですか?」
どうしたもこうしたもない。頬を紅潮させる先輩の唇を無理やり塞いで、逃げられないように後頭部に手を回す。
くぐもった声が漏れる。時計の針が進む音が、部屋に響く。すでに日はとっぷりと暮れている。ハロウィン・ナイトの刻限だ。
唇を離すと、先輩があえぐように息をした。その無防備な首筋に、さらに唇を落としていく。先輩は短く悲鳴を上げて、肌をいっそう赤くした。
「き、急にどうしたんですか、何があったんです!?」
答えるのも癪だったが、ここまで狼狽されるとさすがに気も削がれる。鎖骨のあたりに軽く歯を立てて、のしかかるように先輩の瞳をのぞき込んだ。
青い瞳に、酷薄なほどの笑顔を浮かべた自画像がある。
「何があったって、そりゃ嫉妬してるんですよ」
「ほえ!?」
「先輩があんまり有彦のことを持ち上げるもんだから、頭に来ました。門限なんてクソ喰らえです。こんな状態じゃ帰れません」
「ちょ、違いますよ、そんな意味では決して――あっ!」
「さて先輩。先輩は賢いから、次に俺が何を言うか、もうわかってますよね?」
ぐっと唇が結ばれる。わずかにうるんだ瞳が助けを求めるように左右に泳ぐが、残念ながら救済措置は売り切れだ。
「
「っ。お約束ってヤツですね。ちなみに、トリックを選ぶとどうなりますか?」
「思う存分、先輩にいたずらします。昼間の子供たちには、とても見せられないようなやつ」
「では、トリートでは?」
「思う存分、先輩をいただきます。腹いっぱいになってもう十分ってなるまで、何度でも」
「……それ、つまり結末は同じでは?」
「そうですね。だから、安心して選んでください」
じゃあ答える意味なんてないじゃないですか、と先輩はほほ笑んで。
不意打ちのように、下から俺に口づけた。
「いつまでたっても遠野くんは女心が分かってません。……帰したくないと、わたしが思ってなかったと思うんですか?」
「……あ」
がばりと先輩の胸元に顔をうずめる。もう止まるなんて不可能だ。そのまま手を伸ばして先輩の服をまくり上げた時、かすれ声を聞いた。
「……、です」
「え?」
「だから、その」
そうして、真っ赤になった先輩は。
「
はにかみながら、そう言った。
もはや言葉を返す余裕はない。すまない万聖節。今年は君の出番はめぐってこない。すまない秋葉。お小言は明日、ゆっくり聞こう。
なぜならこの瞬間、
「――あ、」
ささやくように声は響く。やんわりとした抑止を振り払い、先輩の柔らかい肉を自分の身体で押しつぶす。こうして、何度でも何度でも、満足するまで確かめさせてやる。
天国でも地獄でもなく、あなたの居場所はこの腕の中なのだと。
もう二度と、くだらない虚妄に捕らわれないように。
そして目が合う。青い青い瞳はゆっくりと細められ、
「はい、お願いします」
この夜最後の、人間の言葉が紡がれた。
かくして夜は更ける。細い細い爪月が輝く空に、綿の雲がわずかに横たわる秋の夜。悲鳴に近い押し殺した喜びの声が、営みの中から漏れてくる。
これはただ、そんなありふれた、何でもない日々の暮らし。
これからも続く、彼女と彼の日々の、小さな小さなひとかけら。
五文字の福音、了
いまさらハロウィンの話でした。間に合わなかった……。