お月見ウマ娘合同   作:お月見ウマ娘合同

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ライアンと見えないものを見ようとする話です。


明り明き明き メジロライアン 作者:ほし。

『moon over』という慣用句がある。

 恋に上気して、のぼせた頭でぼうっと時を過ごす、みたいな意味。

 

「──だから、あたしと一緒になってくれませんか?」

 

 いつからこうだったのかは分からない。

 闇も切り裂けない微弱な光のもと、それとは知らぬうちにそんな言葉をかけられていたのだ。

 片月見の日、よく覚えていない会話の流れ。

 

 ただひたすら、いつの間にかmoon overしていたみたいだと、そう悟った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 透明な過去の駅に向かわねばならない。

 

 

 

 中秋の名月。十五夜。お月見。

 毎年秋の中ほどに訪れるこの日に魅力を感じ始めたのは、悲しいことに大人になってからだった。

 

 子供の頃は特にこれといった意識もせず、ただ「たのしいイベントがあるもんだな」程度に思っていたわけだけれど、こうした行事の真価には自由な時間を失ってから気付くものだ。

 今この時のように、休日なのにも関わらず担当ウマ娘のトレーニング内容を考えている大人にとって、ただ楽しむためだけのイベントは遠く恋しい。イベント事に仕事相手との付き合いを関連付けてしまったり、前に月見したのいつだったかな、とか思い始めたりしたらもう重症だ。

 

 そうした侘しさにあてられたのだろう。

 明日の仕事に支障をきたさないための控えめな酒も、今日ばかりは物足りなく思う。

 

 (おぼ)()()め、微酔酔い酔い。

 

 せっかくの月見の日なのに勿体ない。

 べつに実際に月を見るつもりもないけれど、それにしたってこういうのは雰囲気が大事なのだ。中秋の名月、だなんてもっともな趣を理由にできるのに、飲まないのは味気ないというか、遊びが足りないというか。

 

「あの、月見に行きませんか……?」

 

 などと人生の面白くなさに腐っていた午後7時ごろ。

 休日なのにトレーナー用の寮まで尋ねてきたのは、間違えようもなく担当ウマ娘のメジロライアンだった。

 

「……え、なんで来たの?」

 

 玄関口のドアを開いたままの体勢で留まって、しばらく現状を理解するための準備をする。彼女の緊張した面持ちを確認して、そのあとすぐに自身と彼女のための保身を考える。

 決して部屋に入れてはならないとか、誰かに見られる前に話を済ませようとか、間違いを起こしちゃだめだとか、そういう類。

 

「えっと、こういうのは押せるときに押さなきゃダメだって、アイネスが……」

「ん……んん?」

「あ、いえ……その……あ、あはは!」

 

 誤魔化すような笑い。彼女の目を逸らす仕草に、成り行きと動機をなんとなく察しつつも、それはそれとしてこの場をどうおさめるべきか考え始める。

 帰れとひとこと言ってしまえばその通りになるだろうが、それではあまりに心が痛む。せっかくここまで足を運んでくれたのだから、それなりの対応をして然るべきだ。

 

「あー、まあいいか。うん。月見はいいんだけどさ」

「……! いいんですか!?」

「うん、うん……いいんだけど。寮長にどやされないか」

「いえ! 外出の許可は取ってきてるので!」

「……なるほど。まああの寮長なら許可は出しそうか」

 

 近場で茶でも飲んで帰らせようと適当に断る理由を探していたが、思ったよりも簡単に引き下がりそうにない。

 

「でもこのへん月見にくいしな……場所変えるにしても、近くに見晴らしのいい場所ないし、俺酒飲んでて車使えないし」

「あ、それだったら。ここから近くの山にひらけたいい場所があるんです。メジロ家で管理してるログハウスとかがあるんですけど……自由に使えますし、そこならと思って」

 

 だいたいの場所を察する。ここからそう遠くない、ちょっと小高いだけの山だ。

 車は使えないため徒歩になるが、きちんとした山道を通ればたいしてスタミナのない俺でもバテないだろう。

 

「いや、でもなあ」

「ダメ……ですかね。突然の話ですし、無理なら断ってもらっても……」

「んにゃ、無理とかじゃないんだけどな。君んちの管理下にあるんだろ? いきなりそこに世話になるのもなあ」

「……えっと、その。い、いつもお世話になってますから!」

 

 大丈夫か大丈夫じゃないかなら、ギリギリ大丈夫なはずだ。ただちょっとそこらのコンビニで月見団子を買って、そう遠くない場所で一緒に月見をして、健全な時間帯に彼女を帰らせるだけ。彼女は特に息抜きが大切なウマ娘だし、その意味では異論ない。

 どちらかというと、明日の仕事に響かないかなーという懸念の方が強いわけで。大人になることの弊害のひとつだ。少し前までは大丈夫だったのに、今となってはちょっとした無理が数日にわたって残ったりする。

 

 ……のだけれど、今日くらいはもうちょっと騒いでいたかった。さながら子供の頃のように。過ぎ去った「あの頃」を大切にするように。

 少しグラついてきた。

 

「ほ、ほら! 走っていけばトレーニングにもなって一石二鳥ですし!」

 

 揺らいでいる間にこう必死に力説されてしまうと、どうしても社会人としての気も緩むものだ。

 あ、べつにいいやこれ。行ってまえ。

 

「ふふ。いいなそれ。走るか」

「……! やった……!」

 

 大げさに喜ぶ彼女を目の前に、もう少し距離感考えないとなあ、とか、明日からの筋肉痛しんどそうだなあ、などと考えつつ。

 酔いのすくない頭で財布とスマホだけを持って寮を出る。

 

 一度吹っ切れると歯止めが効かない。すでに浮ついた足取りのまま、街灯のもとを歩みだす。

 いちばん近いコンビニはどこだったか思い浮かべながら、ゆっくり。

 

 そうして目当てのものを買って、目的地を近くの山に据えてからは、あとは擦り切れたソールで軽く走りだす。

 足並みを合わせてくれる彼女に感謝などしつつ。

 

「ヒトの走りだとちょっと時間かかりますけど、大丈夫ですか?」

「いざとなったら背負ってくれるだろ」

「はい! 任せてください!」

 

 余韻の酔いでは今宵は善い日だヨヨイのヨイ。

 月見の山までよーいどん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──と、わざわざ山に月を見に行ったけれど急に曇りだして何も見えなかったのがひと月前。

 

「今日こそ大丈夫ですから! 秋晴れしやすい今月なら!」

 

 と、弁当を届けに向かった際に力説されたのが今日の昼前。

 

 十五夜の月は見られなかったが、せめて十三夜の月は見ておきたいとのことらしい。

 それって片月見なんじゃないの……と口をはさみそうになりつつも、彼女が望むならそれでいいかと考える。こちらとしても月見酒が楽しみで仕方ないのだ。

 

 昼前の時点では空は曇っていたが、そこは晩秋。日本全体が高気圧に覆われるこの時期は夜に晴れやすい。愚鈍な空などすぐに消し飛ばしてくれるはず。

 それなら大丈夫かと二つ返事で承諾したあとは、いつも通りトレーナー業に専念して、ライアンの筋肉に対する情熱を受け止めるなどして。

 

 ──なにか好ましくないことがあったのだろう。

 早めに切り上げたトレーニング終わり、どこか浮かない表情をしていた彼女をシャワールームに放り込んで。

 

「晴れないもんだねぇ」

 

 ひと月前と同じ山に向かった暮れ方ごろには、ふいに落胆のため息がこぼれていた。

 前回よりも時間に余裕のある振る舞いをして、とことん月見を楽しむ構えをしていたのだけれど、生憎空は一面雲で覆われている。

 

 今年の十三夜は満月の二日前で、綺麗に見えるはずだった。

 十三夜の空は晴れやすいと聞くのだけど、なんとも運がない。

 

「ま、ゆっくりやればいいよ。それよりログハウスとか久しぶりで興奮してるんだけど。普段外でないし」

 

 木々もひらけ整備されている土地に荘厳な存在感を示すログハウス。その二階部分に張り出した、外観から目を引く一際おおきなバルコニー。

 ログハウスなど幼少の記憶にしか残っていなかった俺は、そこに持ち出した長椅子で丸テーブルの前に腰掛け、年甲斐もなくはしゃいでしまっていた。

 

 隣で同じように腰掛け、しかし微妙に表情が晴れないでいる彼女に、どうしたものか迷いつつ。

 

「トレーナーさん、仕事以外はインドア派ですもんね。仕事用の体力とかじゃなくて、たまには思いっきり体を動かした方がいいと思いますよ! せっかくいい体つきしてるのに、筋肉が泣いてます!」

「いやー、はは……」

「せっかくだから今から筋トレとかして──ほら、私も手伝いますし!」

 

 落ち込んだ様子を見せて雰囲気を悪くしたくないのか、無理して元気そうに振舞っている。

 長椅子から立ち上がって諭すことには、トレーナーさんは自身の筋肉の限界を決めてしまっているから、それを超えるべき、とか。

 

 筋トレの方は丁重にお断りさせていただくと、悲しそうにしぼんで隣に座りなおした。

 なんだ。こちらは一切悪くないのに心が痛む。

 

 しばらく無言。

 

「あー、その。月見団子。食べるか」

「……えっ。あ、はい」

 

 うつけた素振りで声が返される。

 トレーニング中に何かがあったのは間違いないようで、それが今に至るまで尾を引いている。今日は小一時間ほどトレーニングを監督できなかったから、その時だろう。

 目を離してしまったことを後悔しつつ、とりあえず月見団子を食べることにする。

 

 「いいんですか」とためらう声を横目に、コンビニで売れ残って値引きされていた安っぽい月見団子を、身の丈に合わない高級そうな皿に移し替える。

 「いいんだ」と返して我先にとひとつつまむと、やがて彼女も続いてくれた。

 

 主役の月こそ見えていないが、美味しいものは美味しい。レジ袋の中身もまだいくつか残ってある。これくらい先に食べてもいいだろう。うま。

 

「……レースの話でもするか。それか筋肉」

「筋肉を……」

「すまん。レースで」

「……はい」

 

 不器用なりに彼女の好みそうな話を持ち掛ける。悩みでも聞き出せたら万々歳の心持ちで。

 彼女の耳がすこしだけ動いたのを確認して、纏まりのない言葉を繋げていく。

 

「皐月賞と東京優駿、京都新聞杯を勝利で突き抜けた今、次は菊花賞だ。長距離3000mと長いが──まあ、君なら誰もが納得する結果を残せると信じている」

「……はい。勝ちます」

「ん。君は勝つ。それだけのトレーニングをしてる。そうでなくても、もはや君の実力を疑う者はいない。少なくとも友人や後輩を牽引する存在になるはずだ」

 

 出走さえ憧れだったクラシック。

 既に二冠を押さえた彼女は、三冠目を目の前に最高のコンディションでいる。劣等感を抱いてきた憧れの少女との戦いにはなるが、きっと彼女なら心の弱さと共に努力で押し下げるはずだ。

 

 俺も彼女もそう信じてやまないが、走りにかける自信に反して、その表情は浮かない。

 どうもそこではない部分に引っかかったようで。

 

「……今後、後輩に頼られることが増えると思うんです」

「今までもそうじゃなかったか?」

「はい。……でもそれって、レースやトレーニング関連のことじゃなくて、あくまで運動のできる先輩として、というか」

「…………」

「──今日のトレーニングで、はじめてそういうことがあったんです。できるだけうまく教えようとしたんですけど、結局うまくいかなくて」

 

 なるほど。そこか。

 

 憧れや劣等感、心の弱さを努力で殺して身に着けた強さが彼女のスタイルだ。筋肉がその最たる象徴。

 後輩がついてこられないのも無理はない。もう少し時間をかける必要があるだけで。

 

 それくらい彼女も理解していそうなものだが。

 

「……あたし、ちゃんと後輩たちのことを引っ張っていけますかね」

「うん。君なら。後輩たちにとって、それこそ月みたいな存在だと思うけど」

 

 それでも納得がいかないのは、自身の未熟さを誰よりも知っているからだろう。

 

「月……」

 

 伏しがちだった顔を上げ、彼女がゆっくりと声を漏らす。なにか感じるものがあったらしく、そのままの調子で月を見上げはじめた。

 しかし天候は空気を読まない。相変わらず厚く広がる断雲に遮られ露わることのないそれに、彼女は再度目を落とした。

 

「ちゃんとそんな凄い存在になれてますかね」

「うん。自信ないか」

「……今のあたしじゃだめなんです。慕ってくれてるのは分かるんですけど、自信が持てなくて。勝負服なんかも未だに慣れなくて、着られているような気さえして、視線が怖くて」

「…………」

「失敗するたびにウダウダ考えちゃって。だから、向いてないんです」

 

 ライアンはもともと本番に弱いタイプだ。練習でうまくできていたことも、周囲の期待や言葉によって簡単に押しつぶされてしまう。

 そうして練習でないところで失敗して、後悔や「もっとこうすればよかった」が後を引く。それらはすべて実力に沿わない自信のなさに帰する。

 

 レースに関してはそこのところ上手く乗り越えてくれたが、他の部分ではまだ厳しいのだろう。

 

「月なんて、あたしにはなれません。眺めてるのがちょうどいいんです。……曇ってますけど」

 

 才能と自己評価。

 ちぐはぐな態度は現時点での彼女らしさではあると思うが、いつかは克服していくべきものだ。

 

「……そっか。まあ、今のは話半分でいいよ。とにかく、次のレースには勝つつもりで挑んでくれ。言われなくてもそうだろうけど」

 

 今はどうしようもないと判断して、会話を切り上げにかかる。

 たかがトレーナーひとりが心のケアまで担えるならどれだけよかったか。目下のところ走ることには問題ないので、菊花賞のあとにでも対処できればいいが。

 

 話題を変える。

 

「にしても……今日は片月見にすらなりそうにないな」

 

 盈月は雲隠れ。

 

 月光の残り香すら見えないほど分厚く遮られた空に、つい不満が漏れる。

 片月見──十五夜と十三夜の片方でしか月見をしていないと幸が薄い、とかそんなかんじの古い文化。縁起のよくなさを覚悟したうえで月見に来たのに、天候は不幸の享受すらさせてくれない。

 

 十五夜が曇りやすいのはともかく、「十三夜に曇りなし」などと宣った先人たちはもうすこし観測期間を延ばすべきだった。

 ここ数年じゃ十三夜の方が曇りが多いから、せめて去年まで。

 

「たまにはこんな月見もあっていいよな。酒も月なんて見なくても飲めるし」

 

 既に天候が変わるには十分な時間が経っていた。まだ明るかった空が、もうしばらくで暮れようとしている。ここまでくるとなんとなく察しがつくもので、このまま晴れることはないんだろうと半ば理解する。

 言葉とは裏腹に月見酒を諦めきれない俺は、もしかしたら何かの拍子に晴るんじゃないかと期待をこめて空を見上げていたが、ライアンが空を眺めることはなかった。

 

「すみません。あたし、空回りしてばかりで」

 

 絞り出すように、声。

 おおよそ今回も曇ってしまったことに心を沈めているのだろうが、こう落ち込まれては心配だ。自責などしないでほしいものだが。

 天候などどうしようもない要素だ。気にする必要はないが、気にするのだろう。

 

「……海でも行くか」

「え?」

「安直だけど。ここはもう晴れそうにないし」

 

 この山をすこし行けば海に面した場所に出る。

 小さな港があるのでそこに向かえたらいいし、そうでなくても山の上から海を眺めることくらいはできるはず。月光の残滓くらいは見えるかもしれない。

 

 日は沈みはじめて間もない頃。まだ外は明るさが残っている。

 

「う、海に行くのはいいんですけど。トレーナーさん、お酒飲むつもりだったんじゃ……」

「うん。月見酒は外せない。だから車では移動できない。ので、走ろう」

「えええ!?」

 

 

 

 

 

 

 

「いや、ごめんほんと……車で来ればよかった……」

 

 照明灯が訥々と設置された山道を抜け、舗装された道路とすこしの街並みから抜ければ、あとはだだっ広い水面があった。

 

 さびれた港。秋の夜らしく気温を落した陸風に、染み出した汗があてられる。

 仕事以外でのまともな運動だった。ライアンはヘロヘロになったこちらを居心地悪そうに眺めている。

 

 いやまあ、そりゃそう。彼女にとってはそこまで息の上がる距離じゃなかっただろうから。

 駆け下りてきた山も標高がかなり低いため、高地トレーニングにすらならない。彼女の言う通り、仕事用ではない体力を作るべきなのかもしれない。

 

 蒸発熱で寒気すら感じ始めた頃合いになって、ようやく息が落ち着く。

 活力のすくない港だった。船がいくつかとまっている細く短い埠頭が、みっつかよっつだけ。そのうちのひとつを選んで舳先の方に進み、街灯で弱く照らされた海面が揺らぐのを見つめる。

 

 薄暮の明るさは薄らいできている。日の暮れに感化されて薄黒い色をした海を目の前に、ここにやってきた理由を思い出した。

 

 空の様子を見る。

 鈍い。

 

「相変わらず天気は変わってない、けど」

 

 空気を読まない空は解雇だ。

 代わりに海の方へと視線を向ける。

 

「いいものは見れそうだな。ほら」

 

 沖の方はよく晴れているようだった。

 

 こちら側の空は曇っていてなにも見えない。代わりに、遠く向こうの海には月らしき光が反射して揺らいでいた。

 照らされた海面。月の道は流動的な雲間に従うようにこちら側まで続こうとしている。

 

「あ……綺麗……」

 

 間接的な月光だ。

 ムーンロードと称される光景にはすこしこちら側が欠けているが、海を渡っていけそうなほどの光の道はひどく自信に満ちていた。

 

 ──遥か昔の日本では、月は海を渡って登ってくると言われていたらしい。この光景もそれに近いと考えるなら、なかなかどうして気持ちがいい。

 

「ふふ。(うつ)()()え」

「映り……? なんですか。それ」

「ん、いや。こういう表現ハマってて」

 

 両手で作った囲いに景色をトリミングして、写真におさめて映えそうな位置を考える。しばらくしてやめた。素人がいくら頑張っても無駄だ。

 こういうのは記録じゃない。一瞬の光を、永遠の記憶に留めて然るべき。

 

「…………」

 

 海に照った月光を脳裏に焼き付けた頃には、日暮れの残骸だった薄明るさもしずかに絶え、あたりは街灯と住宅の漏れ灯ばかりが目立つようになっていた。

 相変わらず空は鈍色で、直接月を臨むことは叶わない。

 

 だから海を選んだのだろう。

 月見には向かない天候だというのに、それでも月は愚鈍ながらせいいっぱい存在感を示そうとしている。

 

「──皆が憧れる月もあんなもんだ。こんな道でしか存在を示せないこともある」

「…………」

「ただその魅せ方が綺麗なだけで」

 

 これはきっと励ましだった。月になれないと憂う彼女に、視野を広げさせるための。

 都合がいい。口をついて出る詭弁に身をゆだねる。

 

「月が嫌なら他のものでもいい。太陽でもいいし、それも手が届きそうにないなら今度は中心核にでも向かえばいい。とにかく、君は何にでもなれるんだ。星なんかやりやすそうじゃないか」

「星……」

 

 それまでずっと光の道を眺めていた彼女が、ふいに空を見上げる。目当てのものは何も見えないはずだったが、彼女が目を落とすことはなかった。

 彼女にとっての星が憧れの家族なのか、実力だけで界隈を唸らせた先輩なのか、そこは分からないけれど……ええと。

 

 …………。

 

 ……あ、あー。

 失敗した。恥ずかしい。

 

 月の狂気にあてられたのだ。

 なにかそれっぽいことを言おうとして──いや、それっぽくもなかった。変なことを言ってしまったんじゃないか。そんな気がする。

 いや恥ずかしくなってきた。月がどうとか星がどうとか。まったくキャラじゃないことを言ってしまった。酔っているならともかく、まだ素面なのに。

 精神衛生上これはとてもよくない。今すぐにでも死んでしまいたい。顔が赤いのは暗がりに紛れて気づかれないのが幸いかもしれない。

 

 いや、とにかく話題を変えよう。そうしよう。それがいい。

 

「あの、あたし──」

「お、なんか晴れそうじゃないか?」

「え? ……あ、ほんとですね! 綺麗……!」

「まだ怪しいけど。ちゃんと顔出してくれるまで月の話でもしとこうぜ」

 

 都合よく雲間に顔を出してくれた月に、震えた声で提案を寄越す。

 

 話題に困らないことに、月はまるまる太った雲と薄氷のようなそれに縁取られ、歪ながらも三日月形になっていた。

 

「……あの、あれだ。三日月って舟っぽいよな」

「……そうですか?」

「いやまあ、形だけだけど」

 

 昔は三日月を舟にたとえたみたいだけど、故人たちの感性にはとても共感する。

 遠い昔の、月と海の信仰。海の上を舟の形で渡ってくる三日月。

 

 これがエモってやつだ。しらんけど。

 

「あたしはイルカっぽく見えます」

「イルカ」

「はい。でも、三日月本体はイルカのフィンでしかなくて、灰色のボディは夜の暗さに隠れてるんです」

「……尾びれだけが水上に見えてる、みたいな感じ?」

「そんな感じです。青白くて暗い海の中を、ぐーっと背を伸ばして精一杯泳いでるみたいで」

 

 幻想を追うように、彼女は揺蕩う月を見上げている。

 

 水圧と低酸素。悲鳴あげる肺胞。

 夜に押しつぶされないように、月は輝きながら海を登ってくる。

 

「面白いな、それ」

 

 自信のなさに左右されない、彼女のそうした感性が好きだった。

 

 

 

 

 

 

 

 月はまだまだくっきりと見えないけれど、それはそれとして買ってきたものをつまみだす。埠頭の舳先で行儀悪く座り、メジロの子を地べたに座らせていることに若干恐怖を感じて。

 走ってきたので激しく吹き出した炭酸水に悲しくなりつつ、柑橘系のリキュールやら安い缶やらを持ち出す。ライアンとの会話も普段通りはずみ、完璧な月見ではないにしろそこそこ楽しく過ごせていた。

 酒よりもむしろ会話が楽しい。人との付き合いとはこういうものだったなと、酔いのすくない頭で思い直す。

 

 覚え覚め覚め、微酔酔い酔い。

 

 せっかくの月見の日、こういうのを求めていた。

 団子より月で、月より会話だ。ほんとうは酒やつまみじゃなくて、休みの日に気楽に話すことのできる友人やその空間が大事なのだろう。遥か昔に失くした遺失物がようやく見つかった。

 いやまあ、酒も団子も大事なことには変わりないけど。

 

 ところで適度なお酒は自制をある程度なくしてくれるもので、気恥ずかしさで今まで聞いてこなかった話題すらも振ってしまえる。

 

「そういや、なんで月見しようって言いだしたんだ?」

「えっ。それは……あ、あの……えっと」

「先月は生徒会も月見のイベント用意してくれてたし、今月もハロウィンのイベントあるし。べつに俺とじゃなくてもよかったんじゃ」

 

 ライアンが答えあぐねているのを傍目に、次々と言葉を投げる。意地悪く責めるつもりで。

 なんとなく答えは知っているが、せっかくなら酒の勢いにでも任せて確かめておきたかった。

 

「……あたしが勝てるように導いてくれましたから」

 

 しばらく躊躇いで無言を貫いたのち、訥々と答えが落とされる。しみじみと言葉を噛み締めるようなそぶり。

 おおよそ予想どおりのものだった。

 

 しかし『導いた』とは些か誇張が過ぎる。

 もともとレースに勝つだけの力量は持ち合わせていたのだから、九割九分彼女の努力が実を結んだだけだ。

 

「違います」

「え?」

「レースだけじゃない……少し前までのあたしは、『あの子には自分じゃ適わない』って自分の限界を自分で決めてしまって、自分だけで燻ってて」

「…………」

「そんなあたしを輝けるようにしてくださったのは、間違いなくトレーナーさんですから」

 

 いつになく真剣な表情だった。

 まっすぐに刺す視線で、今の言葉が疑いようもなく本音であることを思い知らされる。

 

 彼女がそう言うならそうなのだろう。

 とはいえ過大評価には変わりない。きっと俺も彼女が輝く一助にはなったのだろうが、しかしそれは俺だけじゃなかった。親しい家族や友人など、彼女の言葉通りなら他に連れ立てる奴はもっといたはずだ。

 

 その上で俺を選んだということは、ひとまず彼女にとっての月にはなれているのだろうと理解する。導くというより、一緒に寄り添えるような存在に。

 アイネスの方が適任のような気もするが、彼女は今療養中だ。その代わりなのだろう。

 

 ──ライアンでも、自分の気持ちを素直に伝えるのは恥ずかしいものらしい。

 

 言葉にしてしまった思いをすこし後悔するような素振りで、うう、なんて小さく呻いている。

 それでも思いは止まらないようで、次の言葉を放とうとしていた。

 

「そ、それに、憧れてるんです」

「何に?」

「……好きな漫画なんですけど。月が綺麗な夜に、し、親しい人と、二人だけで会って」

「うん」

「それで──ええと、あの……!」

 

 そこで途切れた。

 ひといきに言ってしまうには息と心の準備が足りなかったらしく、いくつか浅い呼吸を繰り返している。ばっちりと合っていた目も落として、整理のつかない気持ちを鎮めているようだった。

 

 しばらくして落ち着いたのだろう。

 胸に両手を組み当て、月とも海ともつかない場所に目を逸らしながら、やがて彼女はゆっくりと空気を震わせる。

 

「月明かりの中で、き、キス……とか、して……」

 

 一瞬、光芒じみた月光に照らされた気がした。

 

「……あ、あああ! やっぱり今のナシでお願いします! 忘れてください!」

 

 光はすぐに閉ざしてしまった。

 この付近だけが静止した空間で、彼女は忙しなく慌てふためいている。大げさな手振りと空回る口振りがかみ合わない様子で、不自然な動きばかり晒して。

 

 ふわふわと酔った今の自分では、この現状にうまく対処できるはずもない。

 仕方なく頼りどころにする相手は、酔いのない素面の自分だ。

 

 普段ならどんな対処をしていただろう。きっとうまく切り抜けるはずだ。

 普段なら──

 

「そういうとこ可愛いよな、ライアン」

「か、かわ……ッ!」

 

 ──ああ、飲みすぎたのかもしれない。

 

 なにかとんでもないことを口走ってしまった気がしつつも、ふわふわとした心地が勝ってしまう。

 『大したことじゃない』と一人で勝手に結論付けて、彼女の様子を抑えきれない笑みで見守る。

 

「可愛くなんてないですよ、あたしなんて……! マックイーンとかドーベルとかの方がずっとキラキラしてて、女の子っぽいっていうか……!」

 

 いっそう深く混乱した彼女が、なにか弁解するような必死さで言説を唱えている。

 冷たい陸風に這わせた言葉は彼女の動揺に伴して軽く、すぐにでも吹き飛ばされそうだ。

 

 ライアンのあまりよくない側面。

 どうせ素面の自分ではなかなか触れようとしない部分だ。ちょうどいい機が用意されているこの時にこそ、是正するべきなのかもしれない。

 

「ライアンは自覚が足りないんだと思う」

「え……?」

「普段の様子を見る限り、本気で『女の子らしくない』って悩んでるみたいだけどさ」

 

 何を言われるのか察したのだろう。

 緊張と動揺を濃くしていく様子を目の前に、決壊した言葉たちを連ねていく。

 

「十分感じてるよ。女の子らしさとか、それに憧れてる部分も」

「え、あ、あの……」

「三日月をイルカに喩えるのも、ライアンらしさがあっていいよ。そういうところに君だけの女の子らしさがあるというか、可愛いというか、好きな部分で」

 

 酔っていても分かる。

 これは恥ずかしい部類の台詞だ。

 

「~~~~っ!!」

 

 案の定彼女は悶え苦しんでいる。

 こういうのに慣れていないのは知っていた。そのつもりで言葉を選んだ。自覚の足りない彼女に自信を持たせるには、これくらいは必要だと判断して。

 

「…………!!」

 

 少し待ってみても言葉を返してくれない。

 キャパオーバーかな。いつもの彼女なら羞恥を殺すためどこかに走り去っていきそうなものだが、それすらできないらしい。

 

 対処のしようもないといった様子を確認して、かわいそうだなあと内心に思う。

 

「いやあの、ごめん。ちょっと言い過ぎた?」

「…………!!」

「あれ。ライアン?」

「…………!!」

「あー完全に固まってる」

 

 何度か語りかけても反応を返してくれない。

 心臓でも止まったかなと不安になるほど動かないが、ちょっと試した感じ瞳孔反射はある。よし。

 

「…………! か、かわいくなんてないです!」

「おーラグがすごい」

 

 数秒後にはこの世に戻ってきてくれた。

 あれだけ生命活動を止めてもほとぼりは冷めないようで、何度も深呼吸を繰り返している。

 

 しばらく息を整えて、彼女はようやく体勢を立て直した。

 

 恥ずかしいついでになにか決めたらしい。

 決心を隠そうともしない瞳で、こちらをまっすぐ見つめてくる。

 

「……トレーナーさん」

「ん?」

「その、ありがとうございます」

「なにが?」

 

 羞恥も通り越して変にまともになってしまった彼女は、話の方向を急に捻じ曲げてくる。明らかに内積の符号が変わった。

 ははあ、これは話題逸らし。

 

 まあ乗ることにしよう。

 夕暮れごろには、(うれ)()()い、といった様子だった彼女も、本来の爽やかで触り心地のいい声色に戻ってきている。

 それで根本的な問題を解決できたとは思わないが、ひとまず気分転換にはなったのだろうし。

 

「海まで走ろうって言ってくれたのって、あたしを励まそうとしてですよね」

 

 買い被りすぎだと思う。

 あのときの俺はきっと、ただ月見がしたかっただけだ。山じゃもうどうしようもないと思ったから、安直に場所を変えてどうにかしようとしただけ。そうに違いない。

 

 ただ、都合よく月の道が見れたのは正解だったのかもしれない。

 

「あたし、こんな性格なので。うだうだ悩んでることが走りに直結することなんてしょっちゅうで」

「…………」

「でも、だからこそ自分の問題に気付けることも多いんです。トレーナーさんも知ってますよね」

「……まあ。でもそれは、君が勝つためにここに来たからだ」

 

 彼女の勝利にかける熱量は誰よりも知っているつもりだ。

 走る理由や自らの感情に自信が持てないことはあるが、『負けてもいい』と思うようなことは一度もない。

 

 結果を出せるかどうかはともかく、トレーナーである以上それに応えないと思える方が難しい。

 

「それでも。見てくれているのが、すごくうれしいんです」

 

 懇篤だとか、べつにそう褒められるような大層なもんじゃない。

 ウマ娘に時間を捧げる人生であることに不満がないだけで。

 

「身勝手な献身だと思ってくれ。俺は君たちが好きなんだ」

 

 君のためなら死ねる。

 ターフの上を駆けていく彼女たちの姿が、幼いころに焼き付いて離れなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 一度は晴れると期待させておいて、結局雲は月を覆うばかりだった。

 三日月型に縁取られていた月も潜水し、海辺を照らす光も息をひそめて姿を現さない。

 

 明り明き明き。

 

 向こうの水面に浮かんでいた光も絶え絶えになって、辛うじて見えていた間接的な空の光さえも見えなくなってくる。

 時計の針が60度ほど進めば、あたりに見える光は街灯と遠くの家屋の漏れ灯だけに留まってしまった。

 時刻を確認すれば、もう帰っておくべき時間帯だ。そろそろ引き際だろうと判断する。

 

 帰路につく準備だけ済ませてはしばらくぼうっとして、祭りのあとのような余韻を楽しむ。

 

「結局見れなかったなあ。綺麗な月」

「……残念ですね」

「落ち込んでる?」

「いえ! むしろ満足してます。トレーナーさんと話ができて楽しかったので!」

 

 まぶしい。

 一切淀みようがない笑み。

 

 喜ぶ彼女は好きだ。

 爽やかでかっこよくて、楽しんでくれたことがよくわかる。これで好きにならないのは無理がある。

 

「今年は微妙だったけど、また来年にでも見ればいいよな。来年も無理ならその次だ」

 

 再来年くらいならまだ彼女との付き合いはあるだろう。それまでは走っているだろうし、月見にも一緒に行けるはず。

 それくらいがちょうどいい。付き合いのあるうちに淀みのない月見ができたら、それで。

 

「その次が駄目でも、また付き合ってくれますか?」

「ん……まあ、ライアンさえよければ」

「じゃ、じゃあ、その次が駄目なら」

「またその次に期待するかな」

 

 となると4年後。すこし遠い未来だけれど、付き合いはあるのかもしれない。

 今よりも薄くなっている可能性はあるが、きっと彼女ならまだ友人と呼んでくれるはず。

 

「それまでにはちゃんと月見できるといいよな。今日だって、ちゃんと見れてたとしても片月見だから縁起悪かったし」

「……えっ」

「ん?」

「縁起悪かったんですか……?」

「……あれ。知らなかった?」

 

 初耳、といった表情。だんだん後悔の気色が強くなっていく。

 十三夜の月見を知っているくらいだから、てっきり理解したうえで誘ってくれたものかと思っていた。

 

「あああ……あたし、ことごとく失敗してる……」

「……あー、いや、その。それくらい気にしなくても」

 

 今日は失言してばかりだ。彼女が大げさに頭を抱えて懊悩しはじめる。

 どうしよう。

 

 十三夜の月見はそれ自体認知度が低いうえに、片月見となるともっと知られていない古臭い文化だ。知らなくても仕方ないし、縁起がどうこうといっても別に信じちゃいない。

 ……と言ったところで、彼女の性格的に気にしてしまうのは変わりないか。

 

 落ち込んでいるわけではなさそうだけど、なにか声をかけてあげたい。

 頭の海を寄せては返す言葉で、彼女のためになる道を辿る。

 

「片月見も突き抜けば形見になるから、俺はずっと片月見でもいいぞ」

 

 ──口を飛び出てきたのは、結局ただの言葉遊びだった。

 

「いやほら、二人の形見になればいいよねー、みたいな……まあ、今日は片月見っぽくもなかったけどさ」

 

 まともに黙っていられなくて、情けない笑みでそう締めくくる。

 たぶん酔っているせいだ。まともな言葉で励ましを与えようとしても、靄に霞んだ頭がそれを許さない。

 

「……いやー、はは」

「…………」

 

 無言。

 気恥ずかしさでへらへらしているこちらを、彼女は不思議な表情で眺めている。

 

 記憶の中にいくつか見覚えのあるこれは──憧憬?

 

「……あたし、トレーナーさんでよかったです」

「へ? なにが」

「ずっと努力を見てくれて、認めてくれたのはトレーナーさんが初めてでした」

「ん、お、おおう。へへ。ありがとう」

 

 脈絡のない言葉。

 なかなか照れくさいことを言ってくれる。

 

「……だから、これからもずっと近くで見ていてほしいです」

「ん、まあそりゃ。君が走ることを望む限りは。君は俺の担当ウマ娘だからな」

「……えっと、そういう意味じゃなくて、その……」

 

 どういう。

 なんとなく身に覚えがありそうな気がして、どうにか真意をくみ取ろうと考える。

 

 いつだったか──そう、メイクデビューを果たしたあたりだったか。レース後の熱意が冷めやらぬ空間で、彼女から『ずっと一緒にいてくれますよね?』なんて言われたことがある。先ほどと似たような趣旨の発言。

 もちろんズッ友的な意味のものだったが、その通り今までうまくやってきたつもりだ。指導者のようで友人のような、一歩引いた近い存在として。彼女はそのあと『ふつつか者ですけど、末永く』なんて言ってしまって自爆していたが。

 

 今のそれはあの時とは違う意味をもっていたらしい。

 となると友人的な意味のものではないのだろう。

 

 それを踏まえて、彼女の態度から考えられる可能性を考慮すると──

 

 ……え。そういうあれ?

 

「いつか、ほんとうに自分に自信が持てる時まで。こんな幼稚園児みたいなあたしですけど、それまでの間だけでいいので」

 

 緊張したような声色で訥々と言葉が落とされる。光のすくない波止場近くでは、暗闇に慣れた目でも彼女の表情はうまく読み取れない。声色どおりのものなんだろうと覚悟して、目を凝らして様子を窺ってみる。

 なんとか確認できたのは、上気した頬と潤んだ瞳。

 

 ……あー、まずい。酒のせいか? いつの間にこんな流れに……?

 

「だ、だから、あたしと──」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんなかんじで。

 なんだか不思議なくらい自然な流れで、いつまでも一緒にいることを前提に次の約束をしたわけだけれど。

 

 これは……結び結い結い?

 

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