お月見ウマ娘合同 作:お月見ウマ娘合同
お月見。
子供の頃には何やら団子が出され、大人が何かしみじみとしながら月を見ているなという風流もへったくれもない感想しか抱いていなかった行事だが、歳を取ると━━と言ってもまだ20後半だが━━どうやら見方が変わるらしい。とは言っても、自身の休養のための都合のいい理由にしかなっていないわけだが。
確かに風情を感じるが、それ以上に疲労感が凄まじいのだ。多少心が休まるとはいえど焼け石に水である。やらないよりはマシではあるけれど。
しかし、今年は中秋の名月だからと仕事を早く切り上げることはできなかった。重要な書類の作成を言いつけられてしまったのだ。お月見をしたいから今日くらいはと言ってはみたが、しかしそんなわがままが許されるはずがなかった。それにこういうものは忘れる前に早く終わらせるに限る。
そんなわけで、やむなくお月見を諦めて作業中なのだ。
机の端に団子と小さなうさぎのぬいぐるみを置いて気分だけでもと足掻いてみたが、やっぱり何の効果もなく、むしろ何やってんだ俺はという虚しさと寂しさが増しただけだった。
その虚しさ寂しさを紛らわせるために酒を飲むというのも考えなかったわけじゃないが、酒を飲みながら仕事をする勇気は俺には無かった。
酒に弱い俺がそんなことをしようものなら、ベロンベロンに酔い潰れてとんでもないミスをやらかすか、急性アルコール中毒でぶっ倒れて救急車に乗せられて病院行きになる未来しか見えない。下手なことはしない方がいいのだ。
「やっほートレーナーさん。お仕事中?こんな時間なのに精が出るねぇ」
そうして虚しさと寂しさに心を支配され、感情を失いかけていた頃。黄昏時というには少し遅い時間、大体夜の七時くらいだった。
部屋の扉が急に開いて、向こう側からそんな言葉と共に俺の担当ウマ娘のナイスネイチャが現れた。その手にはコンビニ袋が握られていて、中にジュースとお団子が入っているのが見える。明らかにコンビニ帰りだろう。
なぜこんな時間に彼女がここにいるんだろうか。まさか幻覚か?そう思って何度か目を擦ったり瞬きしてみたりしたが彼女は消えなかった。うん、紛れもない本物のネイチャだ。幻じゃない。
「…何やってんの?」
「……いや、気にしないでくれ」
少し冷たい目線。流石に失礼すぎたかと自分の行動を振り返り反省する。せっかく来てくれたというのにああいうことをするのは失礼にも程がある。相手は年頃の女の子だ。その辺りもう少し気をつけなくてはいけない。
いやそうじゃなくて。
「なんで来たのさ」
問題はそこだ。もしあれな理由でここに来てるんなら帰さないといけない。同年代の子に比べてだいぶしっかりしてるネイチャに限ってそんなことはないと思いたいが、さっきも言ったように年頃の女の子だ。変な気を起こすこともありえないわけじゃない。
もしそうだったら大人として止めなくてはいけない。いくら可愛くても、例え相手からそういうのを誘ってきたとしてもだ。絶対に越えてはならない一線を越えるわけにはいかない。
少し覚悟をして腹を括っていると、ネイチャは中に入ってソファに腰掛け手に持っていたコンビニ袋を机に置いて中から団子を取り出し、それを美味しそうに頬張る。
「いやー、今日って中秋の名月らしいじゃん?せっかくだしトレーナーさん誘って見ようかなって。どうせ仕事ばっかでろくに休めてないでしょ」
その言葉を聞いて罪悪感が凄まじく、自分の汚れた思考を呪い、恥じた。そうだよな、俺の心が汚れてるだけで、誰よりも清い心の持ち主のネイチャがそんなこと考えるわけないよな。なんて失礼なことを考えてたんだ俺は。
一瞬謝ろうと思ってすまんの三文字が口から出そうになったが、懸命に喉の奥に押し留める。今この瞬間にそれを言うとまるでお月見の誘いを断ったように聞こえてしまう。ネイチャに申し訳ない。
代わりに
「俺を誘ってか?」
と言ってキーボードから手を離して、俺も買ってあった団子に手を伸ばした。確か美浦寮でも栗東寮でもお月見イベントを企画していて、そこに所属するウマ娘の女性トレーナーに手伝ってもらっているのを今朝方に見かけた気がする。
男性トレーナーが呼ばれていない理由は言うまでもないだろう。
そんなことはともかく、なんで誘う相手が俺なんだろうか。いや、誘ってくれたのは素直に嬉しく思う。しかし寮で月見をした方が友人もいるだろうし多人数だし、頭の中が仕事のことで埋まっている俺といるより確実に楽しいと思うのだが…。
「だってトレーナーさん以外に誘う人いないんですもん。マヤノはマーベラスとかテイオーとかと一緒に部屋でお月見パーティするって言ってたし」
「混ざればいいのに」
そう言うとネイチャは苦笑いして、俺の机の上に置いてあったうさぎのぬいぐるみを抱えると、
「こんなかわいい趣味あったんだトレーナーさん…ちょっと意外。で、あのキラキラ三人組が静かに月見すると思う?」
と問いかけてきた。俺は団子を飲み込んで少し考え、苦笑いして言った。
「まあ月より談笑といったところだろうな。絶対月そっちのけで雑談して終いには遊び出す」
「でしょー?……抱き心地も触り心地もいいねこれ。トレーナーさんが買うのも納得」
「勘違いしてるみたいだけどそのぬいぐるみは少しでも月見気分を味わおうと惨めに足掻いた結果であって、決して俺の趣味ってわけじゃないぞ」
俺がそう説明すると、ネイチャはどこか疑うような目線でふーん…と言ってうさぎのぬいぐるみを見つめる。そんなに気に入ったのならあげようかな。ここにあっても買った理由が理由なだけに虚しくなるだけだからいらないし。
言ってから気づいたが、確かにあの三人が揃って静かに月を眺めているとは思えない。女三人寄れば姦しいという言葉がこれほど綺麗に当てはまることがあるだろうか。少し意味合いが違ってくるような気がしないでもないが…まあ、概ねそういうことになるだろう。
試しに想像してみたが、静かに月を見ているだけというのは彼女たちらしくないな、というのが率直な感想だ。
「でもそれも良くないか?可愛いらしいじゃないか」
「うーん否定はしないけどねぇ…。でもアタシの求めてる月見とはちょーっと違うっていうかなんていうか」
その言葉を聞いて俺はなるほど、と頷いた。
つまりネイチャは、集まってワイワイしたいわけじゃなくて、ただ静かにお月見をしたいと。多分そういうことで俺を誘ってくれたんだと思う。
なんという偶然か、ちょうどまとめなくちゃいけない資料もキリのいいところまで終わった。ここから先は明日の俺に託すとしよう。きっと何とかしてくれるはずだ。
そんなどうしようもないことを裏で考えつつ、言った。
「…わかった。しようか。お月見」
月見するついでに、G1初出場に向けてのプレッシャーやらでガタガタになってるかもしれないメンタルのケアもできるし。
…いや、こんなことを考えるのは止そう。そんなんだから疲れが抜け切らず、果てはネイチャに余計な心配をかけてしまうんだ。今日は単純に月を見るだけ。そういうことにしておこう。
ネイチャは俺の言葉を聞くとうさぎを抱いたままソファから立ち上がり、
「物分かりのいいトレーナーさんで助かりますよーっと。あ、フジキセキ先輩に外出届出してあるからそこんとこの心配はしなくて大丈夫だよ」
「こっちこそしっかりしてるウマ娘で助かってるよ。あとそれ気に入ったんならあげるよ?俺いらないし」
「え、ホント?じゃあもらっちゃおっかなー、なんて」
そんな雑談をしながら部屋を出て鍵を閉める。しかし月見か…屋上で見るのも悪くはないが、どうせならもっと星が綺麗に見えるところでしたい。
あ、そうだ。
「トレーニングがてら山まで走るか?」
「お、スポ根炸裂させちゃいます?」
「させちゃいましょうさせちゃいましょう」
緩い会話をしながら廊下を歩く。さて、外は晴れていただろうか。
*
学園を出た時はくっきりと晴れていて、これなら問題なさそうだ。そう安心して山に向かったところまではよかったのだが。
「…まさか途中で曇ってくるとは」
神は俺に月見をさせるつもりはないのだろうか。無慈悲にも曇ってきてしまった。自分の運の無さに思わずため息を吐く。
「あはは…まあこんなこともありますよね〜」
仕方ない、と言って手を上げ苦笑いするネイチャ。一見割り切ったようにも見えるが、よく見ると耳が垂れてしまっている。やはり落胆しているのだろう。もし曇ったのが俺のせいだったらかなり申し訳ないが、こればかりはどうしようもない。
かろうじて半分ほど見えるのが唯一の救いだろうか。何にせよ、縁起が悪いと思ってしまうのは仕方がないことだろう。
「まぁ、その、なんだ…一応月見はできそうだね」
「半分くらいしか見えてないけどね」
はぁ、とため息を吐くネイチャ。よほど月見するのが楽しみだったのだろうか。
「気にしたら負けだ負け」
寄ってくる羽虫を手で払いながら言った。こういうのは雰囲気で楽しむものなんだよ雰囲気で。それに若干隠れてる方が風情があっていいような気もするし、曇ってるってのが悪いことばかりじゃない。
「トレーナーさんは、さ。どう思う?」
「どうって…」
一体何のことだろうか。思い当たる節といえば…。
「菊花賞のことか?」
「うん」
「やっぱりか」
菊花賞。今まで怪我のせいでクラシック路線に出走出来ていなかったネイチャにとっては初のG1レースになる。そりゃあ不安にもなるだろう。まして今年はとんでもない化け物がそのクラシック路線を欲しいがままにしているのだから無理はない。
この話をされた時点でトレーナー室で決めたメンタルケアとかは何も考えない、などという自分の中の取り決めは即刻廃止した。ネイチャから話を振られたのだ。担当ウマ娘の相談に乗らず適当に流すやつがいたら、そいつはトレーナー失格だ。
「トウカイテイオー…あの子がどうするかによるところは、まぁあるね」
正直にそう言った。
トウカイテイオー。彼女がその化け物だ。もはや説明する必要もないほどの有名人で、無敗で二冠を達成した実力者。ネイチャの言うキラキラの代表格で、彼女の目標。
菊花賞じゃテイオーがレースの中心になるだろうから、彼女をマークしてスタミナが切れたところを差し切れれば…というのが俺の頭の中にあったレースプランだ。
まぁそのレースプランはほぼ白紙になってしまったわけだが。
「復帰出来るのかな…」
「さぁ…。あの子のトレーナーは絶対間に合わせるとか言ってたけど…」
無理だろうな。その言葉を飲み込んで月を見上げる。
彼女はダービーの後、骨折していたことが判明してしまったのだ。こればっかりはどうしようもない。テイオーやトレーナーは何としてでも菊花賞に出走しようと奮闘しているらしいが、菊花賞の出走登録の締め切りまで二日しか猶予のない今ですら、出走予定者にトウカイテイオーの名前は無い。つまり、彼女が菊花賞に間に合わせるのはそれほど難しいというわけであって。
それは彼女の目標がなくなってしまったことを意味しているわけで。
「アタシはさ。前にも話したけどずっとキラキラな連中みたいになってみたかったんだ」
月の光に当てられたのか、ポツリポツリと押し出すように話し出した。
「それで中央に来て、覚悟も何も無しで、キラキラになりたいっていう漠然とした思いだけでデビューして、テイオーっていう主人公みたいな子と同世代になって。勝てないのはそんな奴がいるからだ、モブの私が勝てるわけないんだって甘えてばっかでさ」
「うん」
「覚悟決めていざテイオーに勝つぞって意気込んでたらこれでさ。目標も覚悟も全部無くなって、どうすればいいのかわかんないんだよね」
そう言って半分しか見えなかったというのに更に隠れ始めた月に手を伸ばす。ネイチャの目にはどう映っているんだろうか。
「G1で走れるだけでも凄いんだよって商店街の人たちは励ましてくれるけど、だからこそ嫌なんですよ。他の子達はちゃんと覚悟とか目標を持って挑んでる。私だってそりゃ勝つってのはあるけど、それだけじゃ足りないっていいますか。こんな私で大丈夫なのかな…って」
言わんとしていることはわからなくもない。今の彼女はテイオーという目標を失って空っぽ状態になっている。そんな状態で走って勝てるのか、と。まぁそういうことが言いたいんだと思う。
俺にはネイチャがどれだけ不安に感じているかわからない。出来るのは彼女の不安を少しでも軽くすることだけだ。
「別にいいんじゃない?」
サラッと言い放つ。ネイチャはそれを聞いて少し固まり、月にやっていた目線を俺に向け、また固まった。
「おーいネイチャさーん?もしもーし?ローディング中ですかー?」
ふざけてそう言ってみたが反応は返ってこない。彼女の目の前で手を振ってみると彼女は少し体を跳ねさせて、言った。
「…ごめん聞こえなかった。なんて言いました?」
「別に空っぽでもいいんじゃないかって言ったの」
「でもそれじゃあテイオーみたいな…目標のある子には勝てないじゃん」
「そんなの実力でひっくり返したらいいんじゃない?そもそも君らの年齢であんな目標掲げられるのなんて極々僅かだし」
どこそこのG1で勝つ、とか、あの子には負けない、とか。特に三冠だの連覇だのなんて目標は、思っていてもなかなか周りに言えなかったりするものだ。その点に関してはテイオーやその周りの連中の自信がおかしいだけだ。これだけは断言出来る。あの連中は色んな意味で普通じゃない。
「まずは目先のレースで勝つ。それでまた考えたらいいんだよ。目標なんてのはそんなもんだよ」
「そんなもんかなぁ」
「そんなもん。ネイチャは気負いすぎというかなんというか…」
言うべき言葉を探す。なるべく説教じみたことは言いたくない。少しでも気が楽になれるような言葉は、何かないだろうか。何度か口ごもり、頭をフル回転させて見つけた言葉を口にする。
「考えすぎなんだよ。勝つことだけ考えて走って、多分その先にまた目標が出来て、それを達成するためにまた走ってを繰り返したら良いんだよ。だからネイチャもとりあえず今は菊花賞は勝つことだけ考えて走ろう。俺も最大限の協力はするから」
途中から何を言っているのかわからなくなってきたが、考えすぎるのはあまり良くないということが伝わってくれればいいかな。そんな薄っぺらい考えとともに吐き出した。その言葉はネイチャに何を感じさせるだろうか。
「…そう、ですよね」
小さく呟いて地面を見るネイチャ。その顔には自嘲するような笑みが張り付いていて、でもすぐにそれは何かを決意したかのような硬い表情へと変わる。
「はぁー……なに悩んでたんだろうね私。馬鹿馬鹿しくなってきちゃった」
「気は楽になった?」
「うん、ちょっとスッキリした」
硬い表情はどこへやら、いつもの柔らかい笑顔が戻ってきた。その言葉に俺は少し安心して、
「ならよかった」
と言ってネイチャの頭を撫でる。ネイチャが毎日ちゃんと手入れしているからだろう。かなり柔らかい。
「え、ちょっトレーナーさん?急にどしたの」
「ネイチャって同年代の子に比べてだいぶ大人びてるっていうかしっかりしてるっていうか。そんなイメージだったけどちゃんと年相応の子なんだなって思って」
にっこりと笑ってそう返すと、何それと言いながらにへらと笑うネイチャ。天使だ…天使がいるぞ……、いやそんなことは置いておいて。
「お、月出てきたな」
手を離し、空を仰いで指差した。さっきまで隠れていたはずの月が、雲からゆっくりと顔を出し始めている。雲越しに見える淡い光に風情を感じるのは多分俺だけじゃないと思う。
「あれ、ほんとじゃん。はぁー、やっぱ綺麗だねぇ」
俺の言葉につられて空を見て、嘆息を漏らすネイチャ。落ち着いているようにも見えるがその目は輝いていて、ようやくまともな月見が出来るというのもあって相当嬉しいのだろうなというのが伝わってくる。
「……」
しばらく二人で静かに月を見続けた。何を話すでもなく、ただただ同じ時間を、空間を、静かに共有する。
誰かと二人きりでいるときというのは、静かな時間が流れると大体気まずくなるのだが、今回に関してはそんなことはなかった。それどころか心地良さすら感じている。心が落ち着くというか、なんというか。
なぜこんなに心地良いんだろう。月が出ているからとか、絶対にそんな理由じゃないし、多分ネイチャ以外と来ていたらこの感覚はなかったと思う。俺が気を許していて、彼女もそれなりに俺に気を許してくれている。そんな二人だからかもしれない。
「トレーナーさん」
「どしたのネイチャさん」
先に口を開いて沈黙を破ったのはネイチャだった。お互いに月を見上げたまま、話す。
「どれだけ負けてもさ、私のキラキラになりたいってワガママに付き合ってくれます?」
「当たり前だよ。俺の仕事は君を支えることだし純粋にネイチャのこと応援してるからさ」
「ならよかった」
ポン、と俺に体を少し預けてきた。少しびっくりしたが、信頼してくれている証だ。悪い気は一切しない。
「これからも変なこと言ったり相談したりするかもだけどその時はよろしくね、トレーナーさん」
俺を上目遣いで見つめてそんなことを言い出すネイチャ。俺は大きく頷いて
「任せなさいな。…で」
ふと時間が気になり腕に目をやり、大きく見開いた。すでにいつの間にやら9時を周りかけている。ここに着いたのは確か八時過ぎくらいだった記憶があるが、もうそんなに経っていたとは。
思わず顔を引き攣らせてネイチャに確認する。寮の門限が何時かは覚えていないが、これはマズイんじゃなかろうか。
「…時間大丈夫なの?」
「え?今何時なの」
ネイチャはそう言って俺の腕時計を覗き込み、頭を抱えて叫んだ。
「嘘っもうこんな時間だったの!?ヤバいじゃん!!」
辺りに彼女の声が木霊する。許容範囲がどれくらいなのかは知らないが、いくら外出届を出したとはいえ帰りがこんなに遅くなってしまえば流石に許されないのだろう。
「走って帰っても間に合うかどうか…。え、本当にどうしよ。フジキセキ先輩に怒られる未来しか見えない」
かなり焦っている。まあそれもそうか。真面目な子だから校則違反なんてしたこともないだろうし、そもそも違反スレスレになるようなこと自体しないから当然の反応だ。
「俺たちの詰めが甘かったみたいだな」
「呑気に言ってる場合じゃないでしょ!?ちょ、車乗せてってよ」
くいくいと腕を引っ張りながら車の方を指差すネイチャ。走って帰った方が早い気がするのだが…まぁ疲れているんだろう。走って帰れと厳しく当たる必要もない。というかそんなことをしたら俺の心が痛む。
「じゃ、さっさと帰るか」
「うん」
車に向かいながら鍵を開ける。二つの足音だけが辺りに響いて、でも途中でそれは一つになった。
「…そんなところで止まってどうしたのさネイチャさんや」
立ち止まって振り返ると、空を仰いで月を見つめていた。月の光に照らされる彼女はとても美しく、俺は思わず息を飲み見惚れてしまった。しかしどうしたのだろう。まだ月を見足りないのだろうか。なんにせよ早いところ出発しないと本当に遅れてしまう。
「いや、なんでもない。行こっか」
振り返って微笑みそう言ったネイチャ。振り向き美人というのはこういう子のことを言うんだろうなぁ、などというアホらしい考えを口にすることはせず、
「そっか。早くしないと本当に遅れるかもだから急いでね」
と言って車に乗り込む。ネイチャははいよー、と言いながら地面を跳ねながら車に近づいてドアを開け、ゆっくりと助手席に座る。
俺はネイチャが車に乗り込んだのを確認してアクセルを踏み込んだ。ゆっくりと加速して、その場を去っていく。
「トレーナーさんはさ」
俺の方をチラッと向いて話しかけてくる。人と話す時は相手の目を見て、とはよく言うが、運転中にそんなことをしたら事故って話をするどころの話ではなくなってしまう。
「おう」
かなり短い返事をした。ネイチャは何度か言うのを躊躇ったのち、気恥ずかしそうに窓の外に目をやって俺に問いかける。
「何があっても私を支えてほしいって言ったらどうする?」
「支えるよそりゃ」
即答した。彼女のトレーナーになった以上、自分の全てを捧げてでも支える覚悟でいるのだから当たり前だ。勝手に途中下車することなど許されない。
「そっか。…へへ」
なぜか嬉しそうに口角を上げ頬をかく。そんなに嬉しい言葉だったんだろうか。当たり前のことを言っただけだが、彼女が喜んでくれるのならそれでいいか。
上機嫌に鼻歌を歌い出す彼女に釣られて俺も微笑む。
「言質は取ったからねトレーナーさん。後になってやっぱり嘘でしたは通用しませんよー?」
再び俺の方を見て何かを企んでいそうな笑みを浮かべて急にそんなことを言い出すネイチャ。
「ん?どういうことよそれ」
「んー、まだ秘密かな?」
ニヤリと笑ってまた外を向くネイチャ。
まだ秘密ということはそのうち教えてくれるということなんだろうが、どういう意味なのか気になる。今後に関わってくるようなことなら教えてくれないと困るわけだし。
「良いじゃんか教えてくれよ」
「まだ秘密だってば」
「ちょっとだけ!ちょっとだけでも良いから!」
「そんなお願いしてもダメだって…ってちゃんと前見て運転してって!事故るじゃん怖いじゃん!」
そんなことを話しながらトレセンまで車を走らせる。
もちろん、運転をしている俺が、彼女の頬がほんのりと赤くなっていることになんて気付くはずもなかった。もしそれに気付いていたら、もしかしたら彼女のその言葉の意味を推し測ることができたのかもしれない。
俺が彼女の真意を知るまで、あと四年。