遥か彼方を杳々と、   作:にいるあらと

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橘遥は、魅せられる。

「立派な……お家ね」

 

「ああ、私もそう思う」

 

 橘と書かれた表札の前に立ち止まった千早がぽつりと呟いた。

 

 世間一般で言う高級住宅街、そこに橘家はある。

 

白を基調とした清潔感のある、庭付きガレージ付の三階建ての家。

 

可愛い娘たち(息子一人含む)のため、父様が監視カメラがあったり玄関近くには人が接近すると光る証明などを設置してたりもする。

 

 なに不自由ない安全な暮らしができているのも、私たちのために一生懸命働く父様と母様のおかげだ。

 

「両親も姉も妹も、まだ帰って来てないみたいだ。楽にしてくれ」 

 

「え、ええ。お邪魔します」

 

 セキュリティーを優先したらしく鍵が複数ついている重厚な扉を開き、千早を迎え入れる。

 

滅多に使わない来客用のスリッパを靴箱から取り出し上がり框(あがりかまち)に置く。

 

 彼方姉さんは置いといて、社交性豊かな杳子は友達が多いはずなのに家には呼ばないので客人用に用意されているスリッパを使う機会は滅多にない。

 

最後に使ったのは……父様の同僚を招いた時に使ったくらいだと記憶している。

 

 折り目正しくわざわざ『ありがとう』と言う千早に『どういたしまして』と返礼し、一階の廊下を歩く。

 

「家に取りにくるものでもあったの?」

 

「もうちょっとだ、すぐわかる」

 

 この家は五人家族だというのに無駄に部屋の数は多いし(なんなら余っているほどだ)、私から見れば必要以上に広くも感じるが、すごいのはそこではない。

 

「すぐわかるって……怪しいことなのかしら」

 

「どんな発想してるんだ。ドラマや映画の見過ぎだろ」

 

「くっ……」

 

 少し話は逸れるが、私は小学生のころから『例の彼女』の影響で料理をするなど母様の家事を手伝っていたこともあり、両親の印象はすこぶる良かったようだ。

 

そんな私が中学生になってできた趣味、アコースティックギターを始めてからギターの練習場所に困っているのを見かねた父様が『いつも頑張ってお手伝いしているから』とわざわざ増築してくれた部屋がある。

 

一階の一番端、私がもってこいの部屋と称した場所。

 

「ここだ、千早」

 

「まさか、家に……作ったの?」

 

 防音室。

 

今では人ひとりが入れる程度の大きさの、公衆電話のような形をした簡易型もある程度普及しているらしいが、これはそうではない。

 

一階で使わなくなっていた隅の一部屋を丸ごと作り変えたのだ。

 

 分厚く重たい扉を身体を傾けて開く。

 

今の私の小さな身体では開けるのだけでも一苦労だ。

 

「すごい……。いろいろ機材もある。座り心地の良さそうなソファまで置いているわ」

 

 お姫様のドレスをショーウィンドウ越しに見る少女のように瞳をきらきらと輝かせ、口元を綻ばせる千早に思わず笑ってしまいそうになる。

 

大人びた印象の外見とはあまりに正反対だったからだ。

 

「私の数少ない自慢だな、この部屋は。父様と母様には感謝してもしきれない」

 

 面積は四帖、この家の他の部屋と比較すると狭めだが防音室としては十二分だし、基本一人でここにいるわけなのだからこのくらいの広さのほうがリラックスできていい。

 

貧乏性な私にはここが自分の部屋でもいいほどだ。

 

 ちなみにほぼ私用と言っても差し支えないこの防音室なのだが、驚くことに彼方姉さんからも杳子からも『一人だけズルい!』などの文句は言われなかった。

 

彼方姉さんからは『杳ちゃんならともかく、ハルちゃんなら当然よね』と言い、杳子は『彼方姉ならともかく、ハル姉なら当然だよねっ』と快く許してくれた。

 

その後二人がお互いの言い方にケチをつけて喧嘩にまで発展したというのは余談。

 

「ここなら誰に(はばか)ることなく、(とが)められることなく、好きなように自由に歌えるだろう。さぁ、千早。お前の歌を聴かせてくれ」

 

 ものぐさであまり他人と関係を持とうとしない私が千早を連れてきた理由、その全ては千早の歌を聴くためだ。

 

あの腐りきった音楽室の中でさえ埋もれはしなかった、小川のせせらぎのような清涼感を思わせる千早の声を、またこの耳で近くから味わってみたかった。

 

そのためだけに初めて自分の家に友人を招き、迷いなく私の宝物と断言できるこの部屋を千早に見せたのだ。

 

そういえば、規模に差はあるし私の欲のためとはいえ、初対面の人間に対してここまでしたのは『例の彼女』以来だな。

 

「…………」

 

 私は歌に対して貪欲な千早であれば、この環境を見せれば喜び勇んで一も二もなく快諾してくれると踏んでいた。

 

だが、千早はゆったりとした動作で首を横に振る……否定の動きだった。

 

 必然、『なぜだ』と私は千早に尋ねる。

 

問い詰める、と表現してもいい迫力だったことだろう。

 

 心を乱して語気を荒げてしまった私に一歩も引かず、どころか歩みを進めて近づき、落ち着き払った声音で千早が語り掛ける。

 

「私だけではここで歌うには足りない。遥……あなたも一緒に歌ってくれないと届かないわ」

 

 首をかすかに傾け、私に右手を伸ばし、触れれば壊れてしまいそうなガラス細工のように繊細な微笑みで千早は言った。

 

 

 

あなたの声も聴かせて、と。

 

 

 

 a cappella(アカペラ)で、もしくは邪魔にならない程度にギターの伴奏でもして千早の歌を心ゆくまで堪能しようと思っていたのだが、千早の条件――というよりお願い――は私との重奏(デュエット)だった。

 

千早のセリフには理解が及ばないところが多分にあるが、歌に全てを捧げているといっても過言ではない千早のことだ。

 

なにか特別なこだわりがあるのだろう。

 

……などと平静ぶった考えをまとめていられたのはこのあたりまでだった。

 

 初めて見せた千早の本当の笑顔にはかなりの力があり、私の心を根底から揺さぶる破壊力があった。

 

身体の真芯を駆け抜ける、身を焦がすほどの熱量を持った激情。

 

思考を焼き切り視界はぼやける……何も考えられなくなるような多幸感。

 

女だった時には感じたことのない、衝撃を伴うなにかが私の身体を走った。

 

 私はすでに、千早の歌声に取り憑かれてしまっているのか……それとも。

 

「わ、かった。私も歌う。歌わせてもらう」

 

 絞り出した声は、夢遊病患者のようにふらふらとしておぼつかないものだった。

 

 彼方姉さんや杳子がまだ帰ってきていなくて本当に良かったと、心底そう思う。

 

こんなところを見られたら絶対にちょっかいを出してうんざりするくらいからかってきただろうから。

 

 鉄の塊でも括り付けているのかと思うほど動かしづらい右手を気合で持ち上げて、千早が差し出している手を握る。

 

とてもか細い手、私よりもわずかに低い体温。

 

熱に浮かされた私を冷静にさせてくれるような、優しく落ち着かせてくれる温度だった。

 

 

 

 

 

「……っ、はぁ……っ。今の私は、とても気分がいいぞ」

 

「ふふ。そうね、私もとても気持ちよく歌えた。こんな高揚感は久しぶり……」

 

 結局ギターの伴奏もしながら、千早と和音(ハーモニー)を奏でた。

 

なるべく千早の歌声をそのまま聴くためにギターはリズムを取るため使った程度、基本フォービート、サビでもエイトビートでダウンストロークのみと最小限に抑えたもの。

 

ピックを持つ指もできるだけ力を抜き、もはや弾くというよりこすると表した方が的確なほどだった。

 

 日頃から練習しているのだろう、千早の歌声はよく響き、良く通る……『(とお)る』と言い換えてもいいほどの透明感。

 

時にしっとりと、時に力強く歌い上げ、歌詞に込められた感情を歌で体現するさまは凄絶の一言だった。

 

 しかし、本人の趣味もあるのだろう。

 

ポップな曲、よくあるアイドルソングなどはいまいち乗り切れていない様子が見えた。

 

千早の声質にもあまりマッチしないという理由もあるのかもしれない。

 

 その点、バラードとなると打って変わって水を得た魚のようにいきいきとやりやすそうに、見事なまでに見惚れるほどに完全完璧に歌いきって見せた。

 

窮屈なかごから解き放たれ翼を広げる一羽の鳥が如く、清々しいまでに自由に、爽快なほど快然と歌う千早は混じりっけがなく純粋で、見ているこっちの頬が緩んでしまい顔を引き締めるのに苦労した。

 

 拙いながらも一緒に歌って、実感する。

 

千早との歌唱力の差を、この身で体感した。

 

 私も千早と同じレベル……とまでの分不相応な高望みはしないものの、もっと上手く歌いたいと……目の前の、歌に対して尋常ならざる信念を持った、同い年とは思えない少女のように、誰かの心を震わせたいとそう思ったのだ。

 

「千早、歌ってどうすれば上手くなるんだ?」

 

 だから尋ねた。

 

音楽室で部員たちにあれほど言っていた千早のことだ、練習の仕方などはたくさん知っていることだろう。

 

「遥は十分上手だと思うわよ? 高音はとても可愛らしく、それなのに低音も出せる幅の広さを持っている。それは誰しもが持っているものではないわ」

 

「私は向上心が高いんだ。上があるのなら、もっと上を目指したい。上手くなれる余地があるのなら、もっと上手くなりたい」

 

 私の言葉に、『そうね……』と黙り込んだ千早。

 

 するとなにか思いついたみたいに表情を明るくして私の目を見る。

 

「遥は歌う時、どうやって息してる?」

 

「どうやってもなにも、普通に、だ」

 

 やってみて、と言われたので疑問を抱きつつも言われるがままいつも通りに、歌っていた時と同じように息を吸って、吐く。

 

「呼吸するときに胸が動いているでしょう? それは胸式呼吸と言うの。つまり遥は歌っている時も胸式呼吸だから、これを腹式呼吸にすれば多少変わってくると思うわ」

 

「疑うわけではないが、腹式呼吸にしたらどう変わるんだ?」

 

「一般的には胸式呼吸より空気を多く取り込めるようになると言われているわね。取り込める空気量が増えればそれだけ長く息を吐けるし、息を吐く時の空気圧が上がるから声が良く通るようになるわ。ロングトーンもより伸びるようになるし、結果としてビブラートも安定する」

 

「ほわぁ……」

 

 私が投げかける質問にすらすらと淀みなく答える千早。

 

ここまで迷いなくはっきりと返答することができるということは、脳に常識として刻み込まれるまで勉強しているということの証左(しょうさ)だな。

 

取ってつけたような付け焼刃の知識ではない。

 

「まるで先生のような回答」

 

「千早先生、と呼んでもいいわよ」

 

 私が手放しで褒めると気を良くしたのか、身体の前で腕を組み、ない胸を張って背を反らした。

 

数時間前に初めて会った時と比べればだいぶ打ち解けることができていて、こうして冗談を言い合える仲になれたというのは率直にとても嬉しい。

 

ただなんだろう、たしかに私にはない知識を有しているし、こと歌に限定すれば博識であることに些かの疑惑も疑念も挟む隙はないのだが、ここまで尊大にドヤ顔されるとちょっとこう……そうだな、忌憚なく言ってしまうとイラッ☆とくる。

 

 なにより、腕を組んで不遜な態度を取るというその姿勢は私の専売特許だ。

 

平均よりちょびっと、ほんのちょびっとだけ背が低い私の威厳を保つために必要不可欠なポーズなのだから、そうやすやすと譲ってやることはできない。

 

 これから同じことをさせないために釘を刺しておく。

 

 こほん、と一つ咳払い。

 

「ちはゃせーんせぇー、おうたおしえてー」

 

「くふ……っ。わっ、私が悪かったわ。だからやめて」

 

 これ以上私に喋らせないように手をぷるぷると震わせながらも肩を押さえにかかる千早。

 

 これからいいところなのに。

 

頭のてっぺんよりさらに上から出ているような、とても甲高く幼い声。

 

今回は低学年の女子小学生くらいをイメージしてやってみた。

 

 これぞ私の密かな特技、変声術だ。

 

使い所なんてほとんどなく、珍しく興が乗った時に一発芸として彼方姉さんや杳子に披露するか、同じく二人にギターの弾き語りを聴いてもらっている時に、遊びでプロの歌手の声真似をして遊ぶくらいしか今まで使い道がなかった。

 

 なぜ今その変声術を使ったか。

 

それは冗談にマジな反応を返されるととても恥ずかしいという、人間の心理をついた小粋な仕返しのためである。

 

私も多少、心にプライドに傷を負うけれど肉を切らせて骨を断つの精神だ、千早に恥ずかしめを与えられるのならそれでいい、それで満足。

 

「もう……ちょっと調子に乗ったらすぐ落とすのね。いじわるだわ」

 

 肩を落とす千早とは対照的に、私は腕を組んで踏ん反り返り、にやりと口の端を少しつり上げる。

 

んむ、やはりこのポーズは私にこそ似合うのだ。

 

「先生と呼ぶように指示したのは千早だろう?」

 

「ただの冗談じゃない。本気にしないで」

 

「喜べ、家族にもなかなか見せない私の一芸だ。姉さんなら狂喜乱舞するところだぞ」

 

「ユニークなお姉さんね……。たしかに……ごく……愛かった、けど」

 

 恥ずかしかったからか、顔をほんのりと赤らめ口をもごもごさせる千早を見て、思わず笑いがこぼれてしまう。

 

悪戯が成功したような気分だ。

 

 ……んむ? なんの話をしていたのだったか。

 

「そうだ、腹式呼吸の件だ。まったく、千早が話を逸らすから」

 

「話が脱線したのを私のせいにしないで」

 

 大げさに嘆息する私を呆れたような目で見る千早。

 

お互い、くすりと笑って長時間歌っていた疲れを雑談で紛らわし、本題に移った。

 

 千早の指導の下、腹式呼吸の練習をするがなかなかコツが掴めない。

 

『お腹や横隔膜を意識する』とか『吸って吐くというよりも吐いて吸う』、『吸った時間より吐く時間を長くする』など、いろいろ助言はしてくれるのだが……進捗状況は芳しくない。

 

千早は、こういうのは毎日練習して日頃から気を配ることが大事だから、とフォローしてくれたが、自分のあまりの不器用さに早くもめげそうだ。

 

 物覚えの悪い私にどうすれば意図を伝えられるか、と目を瞑って顎に手を添えて考えていた千早が急に目を見開いた。

 

ぴこんっ、と頭上にエクスクラメーションマークを浮かべているような錯覚を私は見た。

 

泉から水が湧出するように、にわかに不安感がこんこんと湧いて出てくる。

 

 千早は唐突に右手を上げ、次の瞬間びしっと振り下ろし、防音室の片隅に置かれているソファを指差した。

 

自信満々に微笑みさえ(たた)えながら、魅力の一つである良く通る声ではっきりと口にする。

 

 

 

「遥、寝ましょう」




どこかしかから漂う、千早のコレじゃない感。


更新遅くてすいません。
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