ハーメルンよ。私は帰ってきた。
夜の帳が降り、灯りと呼べる物などは何一つ無い深い森を一人の男が走り抜けている。
人が殆ど足を踏み入れず正しく獣道と呼ぶに相応しいそれは、青々とした葉に覆われた木々に切り立った岩や足を絡め取ろうとしているのかと思わせる木の根が至る所に存在し、息を切らしながら走る男をこの先へ進ませまいとしているかのようだ。
唯の人であれば中天に日が昇っていようともこの様な場所を駆け抜ける事など出来ようもないだろう。しかし恐怖と焦燥感に顔を歪め、足を決して止めてなるものかと走り続ける男はそんな大自然の妨害を物ともしない。
「畜生、何でこんな所にあんな化け物が居やがるんだよ……!?」
しかして男の心境は絶望に支配されつつある。それは静かに、ゆっくりと、されど確実に男の命を脅かさんとする追手の存在があるためである。
一刻ほどだろうか。二刻だろうか。いや、本当はまだ半刻にも満たないかもしれない。最早男には自分がどれだけ走っていたかなど分からなくなっていた。
そうして走り抜けた先。深い森の中にポツンと開けた場所に飛び出した男は荒く息を切らせながらようやく足を止める。それは決して男の足腰が限界を迎えたわけではない。
男が足を止めた。いや、止めてしまった理由はほんの一瞬の邂逅で己に絶望を刻み込んだ男を目にしてしまった為である。
「…………な、何で後ろから追ってたお前が目の前に居るんだ」
背丈は6尺ほどだろうか。無駄なく鍛え抜かれた肉体を持つもう一人の男が鬱蒼とした深い森の中に差し込む月明かりが照らす先にいた、モノに対して静かに口を開く。
「────化け物か。人為らざる貴様にそう言われては我等も立つ瀬が無いな」
まるで目の前の男を人に非ずとするかの様な物言いだが、それは間違いではない。男の指先から伸びる爪や開いた口から覗く歯は猛獣の如く鋭く伸びており、目の瞳孔は猫のように縦に割れていたからである。
男は人を喰らう、鬼と呼ばれる存在だった。
「クソが、こんな所で死んで溜まるか! 俺はまだ────」
こうなれば追手を殺すしかない。己が追い詰められている事を漸く認めた鬼は低く体勢を落とし、拳を握り締めた。
目の前の敵の一挙手一投足を見逃すまいとする鬼はふと、気づく。己の視界が反転し、己の身体が持つはずの感覚が一切感じられない事に。目の前にいる男がいつの間にか腰に佩いた刀を抜きはなっていた事に。
頸を斬られた、という事に。
信じられなかった。人を喰えば喰う程に力を増す鬼の中でも、百を越える数の人を喰ってきた自身の力は並の鬼狩りでは太刀打ちが出来ない程のものであった筈だと。
事実として鬼狩りの剣士と戦うのはこれが初めてではなく、幾度と無く襲撃され返り討ちにしてきた。中にはそれなりに力を持った剣士もいたが、その全てを自身の拳と異能の力で打ち砕いてきた。
しかし目の前の剣士にはどうか。拳を届かせる事も異能の力を使う事すら出来ない、などと言う生易しい話ではない。目を逸したわけでも、瞬きをしたわけでもないのに刀を抜き放った瞬間が見えなかったのだ。
思えばおかしな事ばかりだった。
逃げている最中も喉元に刃を突きつけられているような、まるで真後ろにピッタリと張り付いている様に錯覚する程の威圧感を味わい続けた。遮蔽物ばかりの森の中であって、常に睨みつけられているかのような不快感を感じ続けた。
そして脇目も振らずに逃げていた筈なのに、目の鬼狩りはまるで鬼自身が漸く追いついたかのように立ち塞がったのだ。
間違いなく並の鬼狩りではない。優秀と呼ばれるレベルの鬼狩りでも此処までの事は出来るかと聞かれれば難しいだろう。頸を斬られた鬼は一つの可能性に思い至る。
「まさか、お前は……」
「鬼殺隊、鳴柱・水無月伊織。さらばだ、名も知らぬ人喰いの鬼よ」
水無月伊織と名乗った男が抜き放った刀、その刀身には鬼殺隊にて最強戦力の柱のみが刻む事を許された悪鬼滅殺の四文字。名乗りを聞き届けたかどうかは伊織には分からない。彼が刀を鞘に納めると共に、頸を斬られた鬼は灰のように崩れさった。
「まだまだ夜は長い、か」
鬼が消え去るのを見届けた伊織が空を見上げると、そこにはまだ月が煌々と輝いていた。
「…………腹が減ったな。帰るとしよう」
如何に美しく輝き、人の心を満たす満月も人の腹を満たす事は出来ない。月を見上げるのをやめた伊織は来た道を引き返す様に森の中へ再び足を踏み入れた。
…………のだが。
「ヒャハハハハッ!!こんな所に迷い込んだバカが居やがったァ!!」
「コイツは俺の獲物だ!!テメー等は他所に行きやがれ!!」
「筋張って硬そうな肉だが、余すとこなく喰ってやるよぉ!!」
「………………………………………………………………………」
満天の月を見ながら腹が減った等とのたまった事が余程仏の癇に障ったのだろうか? 伊織の顔に心底面倒だと言わんがばかりの表情が浮かぶ。
虫の鳴き声でも聴きながら歩こうかと思った矢先に小物臭に溢れる鬼が三体と、暗闇に潜んでいる目の前の鬼よりも少しだけ賢い鬼が五体。これだけの鬼に村の一つでも襲われれば根絶やしにされかねない程の脅威なのだが、伊織としてはなかなか複雑である。「…………貴様等人喰いの鬼は人の命だけでなく先程までの静かな余韻すらも奪うのか」と思うのも無理はない。
「…………こんな阿呆共でも人喰いの鬼。改めて探す手間が省けたと思えばどうという事はない」
帰路の道すがらに斬っておけば位の低い剣士や隠達の負担も減らせるならば。そう結論付けた伊織は再び刀の柄に手を添えた。
真夜中の森に雷鳴が響きわたったのはそれからすぐの事だった。
キャラ紹介
名前:水無月伊織
年齢:26歳
使用する呼吸:雷の呼吸
経歴:先代の鳴柱である桑島慈悟郎の継子として研鑽を積み、彼の引退と共に鳴柱の席に就いた。柱としての就任期間は悲鳴嶋行冥に次いで長い。
プロフィール:濃紺の髪を背の半ば程に伸ばした青年で、背丈は6尺程で柱の名に恥じぬ鍛え抜かれた肉体を持つ。大太刀と小太刀を二本ずつ腰に差していて、戦闘時は状況に応じて大太刀と小太刀を使い分ける戦い方をする。
性格は鬼殺隊の中では年長の部類である為、相応の冷静さと産屋敷家への忠誠心を持つ。
他の柱とは比較的良好な関係も築いており柱同士の衝突時には仲裁役となる事もありやや苦労人。
大正コソコソ噂話
伊織は日輪刀を合計四本使用する為、大太刀担当と小太刀担当の刀鍛冶がそれぞれいるらしい。