コートを羽織らず、ワイシャツの袖を捲り、車内の点検を黙々とこなすクリープ。彼が行っている点検は、先程からタイヤやエンジン周辺機器を確かめている単純作業であった。最終確認を終えて、車を見つめながらため息を一つ。免許を持たずにこれを運転しなきゃならないと考えると中々憚られるものだ。
丁度その時だ。錆びた金属の音と共に車庫の扉が開く。開け放たれた扉から入ってきた陽差しが宙に舞う埃を照らしだす。
「クリープ!」
閉鎖されていた空間に大きな声が反響した。黒いパーカ、黒いズボンそして黒い布で口元を隠した彼女。パーカーが開いている部分からは白いティーシャツが見えている。
彼女は近づいてきて「ほら!」と車の鍵を投げてきた。その鍵を受け取ったクリープは手を振ってクラウンに近づき声を掛ける。
「車の点検は終わったぞ。十四時には出発する」
「りょうかーい」
意気揚々と返事した彼女の姿にクリープは違和感を覚えた。彼自身の記憶では彼女が高級感漂うものが苦手といった申告を記憶している。それはこの車も例外ではない。今の彼女からはしかし、そんな様子は覗えない。さっきの膝枕のお陰だろうかと一瞬考えてみたものの自分で否定する。クラウンは純粋ではあるが、それほど単純ではない。
「どうした、まだ足が痺れてるのか?」
下から顔を覗き込んで来たクラウンにクリープは先程の違和感を彼女に尋ねる。それを聞いた途端、彼女は「あ~」と反応して片手でフードを深く被りこむ。ちょっとした好奇心で表情の見えない彼女に言いたくないかと問えば首を横に振るう。やがて、頭を掻きながらフードをずらした彼女。
「慣れたって言ったら嘘だけど、うん。強いて言うなら膝枕のお陰かな」
尻尾を揺らしながら緋色の眼差しを向けてきた。普段滅多に見えない肌色の耳は、心なしか赤みがかったように見える。
「そうか」
クリープは反射的に膝枕にそんな効果ないだろと思ったが相槌を打って誤魔化した。
「うん。それだけ」
まぁ、本人が楽しそうだから良いかと結論づけ、後部座席に置いといたトレンチコートーに袖を通す。一旦事務所に戻ろうとするが、コートのポケットが震えた。最初はこれといって気にしてなかったが、仕事の案件だろうかと思い至ったクリープは携帯を取り出す。
ホーム画面表示された一件のメッセージ。差出人は近衛局のチェン隊長から。このタイミングで連絡が来るなど微塵とも思っていなかったクリープ。スワイヤーの一軒を含め、連絡を見るか迷ったが万が一のこともあるのでざっと目を通す。
見馴れた文章に何とも言えない感情を抱きながら画面を閉じた。信頼できる情報であることは確実だが、内容が内容だ。どうしたものかと思案するが、とにかく、動かないことには始まらないと判断して車のエンジン掛ける。
「クラウン、悪いが計画変更だ。今すぐ出発するぞ」
「分かった。それでどこに行くんだ?」
「近衛局だ」
車庫のシャッタ―を開いた。室内と変わらない明るさの外に違和感を感じ、空を仰ぐ。太陽は出ているが曇天が広がり、影が段々と大きくなりつつあった。空を睨んでみたものの、今は悠長にしてはいられない。
運転席に乗り込み、クラウンがシートベルトを締めたことを確認してから車を出す。流れていく景色を目尻に、微かに手を震わせながら運転すること十五分。都心部をこえて、古い軒並みの通りに差し掛かった時だ。クラウンが「近衛局は信用できないとかいってなかったか」と切り出してきた。メールの内容を知らない彼女にとっては当然の疑問だろう。メールの内容を一部伏せて簡潔に伝える。
「まぁ、知り合いを迎えにいくのさ。詳細は本人から聞いてくれ。ああ、それとなるべく会話以外のことはしないで欲しい」
「つまり、手を出すなってコト?」
「今回の件は完全に俺が悪いからな。ただ、俺が視線を送り続けた時は臨機応変に対応してくれ」
今回の件について一応、他人に勝手に話していいものではないことを補足しておいた。なるべく前回の二の舞にならぬようクラウンに注意を払いながら。クリープの言葉から何を察したかは分からないが、クラウンは「ふーん、注文が多いな」なんて淡白な反応であった。ミラー越しに一瞬だけ彼女の顔を覗うが、これといった変化は分からなかった。ただ、余りの無反応に返って落ち着かない。十字路に差し掛かった所で赤信号に引っかかりブレーキを踏む。反動で車内が揺られると同時に横からボソリ。
声が聞こえた。ハッキリと聞き取れなかったが、クラウンの声で間違いはない。彼女に何か言ったかと聞いてみたものの何でもないの一点張りで笑うばかり。彼女自身が言いたくないのであれば、それで構わない。逆にそこまで誤魔化したいことなど聞きたくない、というのがクリープの本音だが。前に向き直ると赤が青に変わった。アクセルを踏み込んで直進する。
古かった軒並みはチラホラとビルや飲食店に変わり、目的地が見えてきた。近くにある馴染み深い駐車場に車を止め、携帯を取り出す。時刻を確認したクリープは車から降り、正面口を目指す。後からのクラウンの足音に耳を傾けて歩いていると、正面口から小さな人影が見えた。
「クリープ、あの小さなコータスか?」
「ああ」
歩調を速め、項垂れている彼女に声を掛けた。
「久しぶりだなロープ」
「っえ、クリープ?」
コータス特有の細長いウサギ耳が飛び跳ね、ぼさぼさな紫色の髪が揺れる。初対面の時の反応よりは幾分かましだろう。ただこの反応をしかし、信用と捉えるべきかと複雑な心境になったクリープ。取り敢えず、このまま入り口で駄弁るのは良くないだろうと判断し、ロープを駐車場まで連れて行く。
「それで、ボクに何のようって、うしろの人は誰?」
やや不機嫌な様子だった小柄なロープは、視線をずらした。後ろにいたクラウンが前に出てくる。
「始めまして。俺はクラウン。クラウンスレイヤー。クリープの所で住み込みで働いてるんだ」
「......へぇー。ボクはロープ。ロープって呼んで」
初対面にしては二人の相性は悪くはなさそうである。二人の会話が終わった頃を見計らって、クリープは今回、此処まで来た理由を語る。途中までロープは一切反応を示さなかったが、話が終わるとゆっくりと寄って来る。
「ふーん。ボクを迎えに来た訳ね。そっか、そっか。でも、どこに送ってくれるの。また新しい住み込みバイト?」
「あー。そうだな」
痛いところを突かれたクリープ。実際、そこは問題視していた。今までロープに住み込みのバイト先を紹介してきたことがあったが、長く続いたためしがない。今回もそうだ。それはロープの悪癖と感染者であることが関係しているだろうが、一番の原因はロープのスラム街で生きてきたとは思えない性格が原因だろう。
ロープを受け入れて、かつ住み込みが出来る職場。そしてロープが配慮しなくても良いような存在がいるところ。クリープが知っている限りそんな確実な場所は一つしかない。だが、避けておきたい手段でもあるが、人手不足なのも事実。そう結論づけたクリープは横にいるクラウンに目をやる。
「えっと、どうかしたか?」
眉を八の字にするのも仕方ない。こんな状況で見つめられれば誰だって困惑する。
すまないクラウン。密かに心で詫びたクリープはわざとらしく言葉を吐く。
「いや、そういえば家の事務所が広いくせして二人だけだと寂しいと感じてな。しかもこれから忙しくなるときた。どう思うクラウン?」
クリープの唐突なパスにたどたどしくも、相槌を打ってくれる。ここでクリープは自分の口角を自然と上げた。これで彼女の同意を得られたようなもの。後は勢いと覚悟だけだ。
「よし、ロープ。しばらく家で働け」
「は? なんで?」
突拍子のない提案はロープの巧言令色とした態度を剥がすには十分だったようだ。だが、どこか納得がいかないのか彼女は問い詰めてくる。
「あの時は私が頼み込んでも、雇ってくれなかったのに。人が足りないってなったら手のひらを返すんだね」
棘のある一言は正しくその通り。どんな理由があろうとも彼女を突っぱねた事実は間違いないのだから。自分の責任であるのは明白だ。 クリープは腰をかがめ、ロープに目線を合わせた。
「すまない」
謝罪の一言。それだけで許されるようなことでもないと、重々承知している。
「「「…………」」」
三者三様の沈黙。重くて、深い沈黙だ。
「その、ごめん」
以外にも、ロープからも謝罪の言葉が出てきたことに面を食らう。クリープ自体、殴られたり罵倒の一つや二つは覚悟の上で言ったことだ。にも拘らず、ロープが逆に小さくなり、謝る始末。恐らくだがクラウンも予想だにしてなかっただろう。その証拠に目の前に出てきて、あわあわとしている。
「その、ね。本当のことを言うなら嫉妬しちゃったんだよね。本当はさ、クリープが僕を雇えない理由があるって、薄々分かってたんだよ。ハハハ。バカだよね、ボク。自分で想像してたより、ボクって弱いんだから」
乾いた笑いにただ無言で見つめ返すことしか出来ないクリープ。クラウンにいたっては視界の端で微動だにせず立っていた。
「いいの? ボクを雇って。きっと色んな物がなくなって困らせるよ。そんなボクでも、君達の空間に、一緒にいてもいいの?」
罪の告白。声を震わせ、目の前の存在が俯きながらも訴えかけてきた。ロープの訴えにクリープは答えない。その代わりに、端で佇んでいたクラウンに視線を投げた。クラウンは微動だにしない。それでもクリープは視線を送る。クラウンは無理だといわんばかりに頭を横に激しく振るう。諦めないクリープはなお視線を送る。クラウンは眉を引きつらせながらも、ロープに近付いていった。一瞬だけこちらに振り返り、恨めしそうな表情を見せたが。
「えっと、俺は全然構わないよ。その点に関してはきっとクリープも一緒だと思う。だから、大丈夫だよ」
「ほんと?」
ロープの湿った瞳がクリープに向けられた。その瞳には一体どんな思いが秘められているか。汲み取ることはできない。だが、大人としてこれくらいはやらなければ格好がつかない。
「ああ、約束しよう。むしろ、お前こそ良いのか。こんな
ロープは可笑しそうに笑う。表情を見る限り、ロープを雇わなかった理由は彼女自身、本当に理解していたらしい。
「うん。仕方ないから、力を貸してあげる」
馴染みのある駐車場にて、目の前のロープがニヒルな笑みを浮かべた。目元はさすりながらも、大胆不敵に宣下する。その姿は正に我が道を進まんとする小悪党だ。
一旦、ロープに話をつけ、車の後部座席で待ってて貰うことにした。理由は簡単。目の前の彼女に謝罪をするためである。最近、謝り過ぎて自分の謝罪が軽くなってきた気もするが。クラウンと共に駐車場を離れ、人影が一つも見当たらない場所で口を開こうとしたが、彼女はそれを抑止してきた。
「別にクリープは謝らなくて良いよ。だって俺は、相棒だから。ただ、あれはちょっと露骨過ぎて困ったぞ」
「いや、良く言うだろ。何事にも経験が必要だって」
クラウンは「そうだけどさぁ」なんてことを腕を組みながら不満げに漏らす。クリープ自身、これっぽちも悪気を感じてない訳では無い。それはこの場を利用したロープにも、無茶振りを出したクラウンにもである。今であればクラウンがお詫びに膝枕を要求してきたとしても、難なく応じるほどには。ただ、どうしてもクラウンに伝えたいことがある。
「クラウン。今朝の答えをまだ言ってなかったな。相棒になりたい、それは大変結構なことだ」
彼女の反応を見ていると、耳が小刻みに震え、尻尾が彼女の足の間に納まる。そう、最初はそれで構わない。誰だって怖いものはある。
「......ただ、視野を広く持て。俺の相棒としてじゃなくて、クラウンスレイヤーとしての視点じゃなくてお前自身の視点だ。当たり前だが世界は広い。いろんな背景があって、いろんな人物がいる」
「うん」
「井の中の蛙大海を知らず、されど空の深さを知る。俺の恩人の言葉だ」
彼女は頭を傾げながら、クリープの言葉を反復していた。どうやら意味は知らないらしい。
「ならその視野をもてた時、俺は――」
「ああ、好きなようになのって好きにすれば良いさ。思ったよりもこの世界は美しいことが腐るほどある」
「そ、それも良いけど、俺は真の相棒なんだろ!」
相棒をやたらと誇張しながら、しっかり不満点を述べてくる発言。これもクラウン、いや、彼女との信頼関係を築けている証拠だろう。取り敢えず相棒ということに関しては同意を返すクリープ。それに満足したのか、クラウンは車の方へ歩いて行く。その少し大きくなった後姿を目に留める。
毎日毎日、鍛錬で殺さんとばかりに首を狙ってくる彼女。最初の頃はあんなにも冷静沈着だったのに、嬉しいことがあるとすぐに尻尾を振るう感情豊かになった彼女。ドジな彼女。妙に感の鋭い彼女。そして――
「――
感傷に浸っていた脳を叩き起こす。肉体は精神に引っ張られるというが、これ程だとは思いもよらなかった。
「ん? なにか言った?」
「いや、何でもない」
小さく呟いたつもりの言葉に反応したクラウン。そんな彼女の背中を捉えながら、歩き始めた。
車に乗り込んだ後、事務所に戻った。本来なら、このままリー探偵事務所に行こうと考えていたクリープ。ただ、ロープがこのごろ野宿で過ごしていたことが明らかになり、食事を用意して急遽シャワーを浴びさせる事に。そこまでは良かったのだが......。
「あ~あたまが、ぼーっとする」
来客用ソファーに寝込み、うわ言のように同じ言葉を繰り返すロープ。両頬を赤く高揚させ、ニヘラとした表情。風呂に浸かっただけでこれほど幸福そうな顔でのぼせた奴はそうそう居ないだろう。
その近くでひたすら団扇を扇ぎつづけているクラウン。目の前の状況に頭を抱えながらも、携帯を手に取り、アーに電話を掛ける。自分の椅子から動くのも面倒だ。
「もしもし、クリープだ」
「もしもしぃ。お久しぶりですねぇ~。クリープさん」
電話の向こうから聞こえた声はアーではない。胡乱とした独特な喋り。思わず電話を切ってしまう。近くにいたクラウンがもう終わったのか、と声を掛けてきた。いいやと答えれば不思議そうに頭を傾げつつも、扇ぐのを辞めない。
しかし、なんでアーの電話から彼が出てきたのか。今彼は龍門に居ない筈。今のは間違いなくアーの電話番号であった。そんな思考を遮るように携帯が震える。再び手に取り、耳を傾けた。
「ちょっと、ちょっと! 何でいきなり切るんですかぁ。掛けてきたのはそちらでしょう」
「すまない。驚いたんだ。アーの携帯のはずなのに詐欺師みたいな奴の声がして咄嗟に、な」
電話の向こうからはわざとらしく嘆息をついた音がした。嘆息をつきたいのはこっちの方だ。気軽に友人に電話を掛けたつもりが、龍門の裏ボスが電話に出るなんて厄日に違いない。ちょっとした眩暈で椅子から落ちそうになるところだった。
「それで、ウチのアーにご用件は、なんてさすがに聞きませんがね。あいつは今、大怪我して休養中ですから」
「怪我か?」
「そう、怪我」と短く応じた彼。その言葉にクリープの背筋が力む。詳しい説明を求めたが、電話の向こうからは沈黙が帰ってくるばかり――
「いや~アイツから口止めされてまして。なんでも“今回のことを話したらクリープの旦那が気に病んじまうから”って」
打って変わって軽い口調で唐突に言葉を返してきた。それは実質答えを言っているのとなんら変わりない。つまるところ、黒い粉末が関与していて巻き込んでしまったのだろう。胸に渦巻く気持ち悪い感覚を押し込め、脆弱な人差し指でデスクを小突く。
「......それで、本人の様態は」
「ワイフーとウンがつきっきりで見てますからぁ。ぼちぼちですよ。とまぁ、それはさて置き、本題に入りましょう」
雰囲気をガラッと変えた声音にクリープは胃を傷めながらも携帯から手を離さない。どんな理由で帰って来たのかは分からないが、彼がこの町に居ることは自体は僥倖である。博学才穎で戦闘能力を有している彼なら、この件に巻き込んだとしても問題はない。少しでも信頼できる人手が欲しいところ。そして何より、
「ご用件は何でしょうか、パラベラム・クリープさん」
「実は書類の整「おおっといけない。なんだか急に頭痛が」冗談だよ、冗談。本人だっていう確認は取れたから後で依頼を伝える。あくまで、個人的に依頼をしたいんだ」
彼に何者かが化けたとしても容易に見分けがつく。料理以外の私生活に無頓着で馴染みのある彼であれば。最悪、リー探偵事務所の方に乗り込めば直ぐに分かる。
「はぁ? はあ。構いませんよ、ウチのガキに怪我させた奴の顔を拝んでみたいですからぁ。とまぁ、そんな話しをしてる間に着いたんですけどねぇ」
思いもよらぬ一言に虚ろを衝かれたクリープは言葉を詰まらせる。一体何処に着いたというのか。その答えは直ぐに分かった。
事務所の扉が音を立てずに開く。一際目に付くのは龍のような大きな尻尾の先に着いた尾鰭。それを器用に動かしながら黒いブーツで事務所に踏み込んできた。
「いやぁー、相変わらずだだっ広い事務所ですねぇ~。あら、なんだか噂に聞いてたよりも娘さん、増えてません?」
左肩に銀の龍が刺繍された黒のコートをはためかせ、慣れた様子で歩み寄ってくる。
「おおっと、まずは自己紹介。いつもガキが世話になってます。リー探偵事務所所長のリーです。アーに変わって今回、特別に、パラベラムさんのためにお力添えしましょう。貸し、一つですよ?」
帽子の縁を人差し指で押し上げ、この都市きっての探偵は気だるそうに嗤った。