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周りが寝静まった頃、しじまな事務所内にて2人の男女が向き合っていた。方や血まみれで直立している男、名をパラベラム・クリープ。そんな彼の視線の先には美しい貴婦人の様な女性が一人。ジャケットを掛けるためのスタンドには彼女の特徴的な帽子が掛けられていた。彼女が何時も着ているコート(?)は夜空の様な紺色で、揺らめくように動いている。この事務所に無い筈のチェスを独りで楽しみながら、普段クリープが座っている椅子に我が物顔で座っていた。
カタ......カタ。音の鳴る方に自然と視線が向く。普段は手袋のような物で隠された指。細長く、余りにも白すぎる肌、見る人によっては少々不気味だろう。あの大きな槍を振るっているのがこの手だとは到底思えない。髪は長く、白というよりも薄くした藤色と言うべきか。そんな藤色の髪に隠れてはいるが、尖がった耳はエルフを連想させる。目は鋭く、薔薇の様に赤い二つの瞳で此方を見据えている。そんな姿は、美しい人形と言われても納得してしまうだろう。
後ろの窓が開けてあるため、カーテンが波を打つ。そんな背景も相まって、窓から入ってくる月明かりに照らさている人形はどこか神秘的に感じる。この光景を目にすれば、画家は筆を手に取り、写真家はフィルムに焼き付けようと躍起になるに違いない。
しかし、クリープは違った。美しい貴婦人を前にして、顔を顰めるばかり。彼女と彼は長い付き合いだが、彼にはどうしても拭えない苦手意識があった。その発端は彼女の出会って間もない頃、いわばクリープ・パラベラムの名が広がり始めた頃に遡る。
「海」の存在と関わっている国、そんなイベリアの辺境に有る都市『カルコサ』にて、一人の黒い男が歩いていた。本来、この国は鎖国しているような状態で、諸外国との繫がりは基本的に無い。そんな国の中に有る都市ならば、例外なく鎖国状態である。
鎖国状態の都市で種族不明の見知らぬ男が歩いていれば、当然怪しまれるだろう。ならば、見つからぬように行動するのが安全なのだが。この男、どういうわけか、道のど真ん中を自分の庭のように堂々と歩いていた。そんな堂々たる振る舞いが効果的だったのか、怪しまれずに済んでいる。本人にその自覚は無いようだが。しかし、そんな様子とは打って変わって男の顔は顰蹙であった。
これ、どうしようか。そう思いながら手に持った本に視線を向ける。それは、この町に訪れる切っ掛けとなったクライアントから渡された報酬の一部。古びていて、タイトルは見たことのない字だ。ページを捲ってみても特に読めるような字はない。
「しかし、教会ねぇ」
今回の依頼は、汚れ仕事で
後ろを振り返り、遠目から教会を見る。白い壁は塗装が剝がれうす汚い。十字架は歪んでいて何処か不気味、木製の扉は所々に穴が開いていた。見ているだけで、段々と気分が悪くなってくるような気がする。仕事が成功したはずだが、気分は最悪だ。仕事の内容のせいなのか、それともあの教会が原因なのか。ねっとりと絡み付く様な空気を振り切る為、足取りが自然と速くなる。
しかし、滅多に来られない場所だ。この都市自体は鎖国してるとは思えないほど科学技術が発達している。そのためか、初めて見るものが多く、飽きることが無かった。特に湖があるのには驚いた。シエスタ以来だろうか。ホテルではそんな事聞かなかったが、この世界では違う名称で呼ばれているのかもしれない。そんな珍しい都市を軽く観光するのも悪くは無いだろう。仕事終わりの一杯もいいかもしれない。そんな事を考えれば不思議と気分が上がってくる。
入り組んだ道を歩いていると、古い木造建築が目に入る。看板を見れば、飲み屋のようなものである事が分かる。雰囲気が良くて、味がありそうだ。よし、ここにするか。
店に入れば、いきなりカウンター席が出迎えてくれた。奥の方にテーブル席があり、客がチラホラと見える。満席とまではいかないが、中々賑わっている。
「いらっしゃい、何か頼んでくかい?」
声が聴こえる方に顔を向ければ、20代後半程の中性的な顔立ち。黄色いエプロンをつけた店員が目に映った。種族は分からないが顔が整っており、中性的な声と相まって儚げな雰囲気を感じる。男性と言われても、女性と言われても違和感を感じない.....どうしてこの世界は、美男美女がこんなにも多いのだろうか。自分の顔が逆に目立つほどで、色々苦労するのだが。いかんいかん、注文を先にすませねば。奥の棚にある酒を見繕う。
「あそこにあるバルカンを頼めるか。ストレートで」
「いいよ、自由に座って」
折角なのでカウンター席に座る。というか、本当に美形だなこの人。棚にある酒を取ろうとしているだけ。それだけの動作なのだが、引き寄せられるような魅力を放っている。店員は此方に振り返り、グラスを軽く拭いてから目の前に置いてくれた。透明な液体を見せ付けるように、ゆっくりと注ぎきる。
「はい、どうぞ」
「ありがとう。ところで、この店は他に店員が見当たらないが一人で切り盛りしてるのか?」
「ああ、そうだよ。従業員は居るけど、この店は私一人だね。しかしお客さん、この辺じゃ見たこと無い顔だね。迷い込んだのかい?それとも移住かい?」
迷い込む?............ああ、この土地に詳しいのか、この店員は。確かに此処に来るまでは、入り組んだ道を通って来た。あんなに入り組んでれば迷う人が居ても可笑しくない。自分は幸にも、クライアントの神父から地図を貰っていたので、そんなことにはならなかったが。
しかし、客の顔や住人の顔を覚えてるなんて、中々の良い店に当たったのではないだろうか。客の顔を憶えているとなれば、リピーターが多いのだろう。リピーターが多いとなれば、はずれることはまず無いだろう。店主の顔が良いから来ている線も否めないが。
「......いいや、仕事帰りだ。そんな大した事じゃない。この都市を観光しようと思って探索していたら良さげな店を見つけてな。それが此処の飲み屋だったんだよ」
「......ふーン。嬉しいこと言ってくれるじゃん。この辺じゃ見ない顔だからてっきり新しい住人か、迷い人かと思ってしまったよ。お詫びとしてこれを」
目の前に出されたのは、カットされた熟成チーズだった。はえー、チーズなんて最近は食べてなかったな。この世界にもあるのだが、食べる機会が殆ど無い。というのも、この世界の乳製品は少々高い。この世界に来る前の値段と比べてしまうのもあるが、稼ぎが良くなったのもつい最近のこと。そんな状態で真っ先に購入したのは、特殊なスーツだ。少々お高いが職業上、命に関わる危険な仕事もある。そう考えれば遥かに安いだろう.....貯金の三分の二が持ってかれたが。
「ありがとう」
「面白いね、お兄さん。礼なんていいよ。そのチーズは自家製でさ、うちの羊のミルクで作った自慢の品だよ。食べ終わったら感想聞かせてよ」
「へぇー。それはすごいな。どれどれ、いただきます」
スプーンで掬えば、溶けるような感触がつたわってくる。口に含むと濃厚な旨みが広がっていく。少々ミルクの匂いが強いが中々癖になる味。そんな風味が残っている内に、バルカンを酌む。ワインよりも蒸留酒の方が合うな。うん、やはり旨い。いったい幾らするんだろうか。
「これは、驚いたな。これだけで毎日来たくなる。とっても美味しいよ」
「それは、良かった!ところでお客さん、良かったらうちで働かない?やっぱり君は面白いよ。最近一人だと寂しくてさぁ、どうだい?給料は弾むよ?最近は新事業始めたし、従業員が足りてないなくてさ」
「魅力的だが、やめておこう。今の仕事が性に合ってるんだよ」
いや、本当に魅力的だ。もし自分にちゃんとした経歴があるなら、こういった落ち着いた店で働くのも憧れる。しかし、経歴不明となると少々難しくなるのがテラ社会の仕組み。わざわざ、良く分からん奴を雇ってくれるほどこの世界は甘くない。勿論、雇ってくれるところもあるだろうが、そこを見つけるまでどれほどの時間掛かる事か。
それに、一応トランスポーターだが殆どの仕事がグレーなものばかり。厄介な存在はどこにいっても厄介なものだ。そんな男を雇ったとしても、今後店に迷惑が掛かるだけだ。はぁー、この世界のトランスポーターってちょっと刺激が強すぎじゃないか? ここまで大変だとは思ってなかった。
「そっか、そりゃ残念。君となら、うまくやってけると思ったんだけどなぁ~」
「悪い、また今度誘ってみてくれ。受けるかは分からんが」
「良いよ良いよ、気にしないで。それよりもジャンジャン呑んで、お金を落としてってよ」
「意外とがめついな」
「そりゃそうだよ、商売なんだからさ。あ、でも早く帰った方が良いかも知れないかな」
「ん? 閉店時間が早いのか?」
「違うよ、最近この辺で良く分かんない殺人事件が起きててさ。物騒でピリピリしてるんだよね。お兄さんは知らないのかい? 夜に出る化け物の噂」
え? 初耳なんだが。ホテルではそんなこと一切聞かなかったぞ。というか、この世界そんな要素あったのか?オリジムシ以外、知らないのだが。
「化け物? そんなものがこの都市に出るのか?」
「うん、本当良い迷惑でさ。客足も減るから、やめて欲しいよ。安息出来なくて、困っちゃうよ」
「具体的な情報は」
「さぁ? 襲われた人は殆ど死体で見つかってね。なんでも、死体がすごく惨たらしい状態で発見されて、可笑しいって話になってさ。その近くで、呻き声が聞こえたらしいよ。それで化け物が居るんじゃないか、なんて噂が独り歩きしてるのさ。もちろん、噂だけど死体が出てるのは事実。用心した方がいいよ」
さりげなくヤバイな、その噂。しかし、呻き声を出す化け物か。もし本当居るなら、早くこの都市を出た方がいいかもしれない。対人戦は慣れてきたが、この世界の化け物と戦うのは無理があるだろう。そもそも、この世界の住人たちの基礎能力は高い。そんな住人たちに「化け物」と呼ばれる存在。違う世界の脆弱な人間に相手は務まらないだろ。そんな存在に勝てる自信は無い。ならば、対処は会わない様に立ち回る他無い。しかし、少なくともあと一日はこの都市に滞在しなければならないが...まぁ、何とかなるか。
「成程、なら今日はそろそろお暇させていただきますか。店主も気をつけてな」
「うん、気をつけてね」
「はいはい、美味しかったよ。何時かまた」
金をカウンターに置き、店を後にする。外に踏み出せば日が暮れて、月が昇っていた。今日は満月。青く光を放つ月は風流に感じる。 風流韻事、雪月風花、花鳥風月。詩人や画家ではないが、こういった景色は何かしらの形にして記憶しておきたくなるが、ホテルに戻るとしよう。
入り組んだ道を抜ければ、少々薄暗い場所に出る......おかしいな。ちゃんと地図を確認しながら戻ってきたつもりののだが。周りには草や木が覆い茂っており、都市とはかけ離れている場所だった。仕方ない、とりあえず来た道を戻るか。そんな事を考え、振り返ってみる。
視界に写ったのは、貴婦人の様な格好の女性が一人立っていた。身長は百八十程で俺よりデカイ。特徴的な帽子を被っており、赤い瞳が此方を射抜いている。耳がとんがっており、エルフの様なものかと思ったが肌が余りにも白すぎて不気味に感じる。そんな肌を隠すように着込まれている衣類。右手には身の丈以上ある槍のような武器が鈍く輝いていた。
声がでない。目の前に居る存在が噂の化け物だろうか?そんな事を考えれば体が硬直して脚が竦む。背中から冷や汗なんて掻いてる暇も無い。まさかこんな見知らぬ場所で出会ってしまうとは。
さて、この出会いが後に誤解を生む切っ掛けとなる。このクリープという人物。長い人生経験とこの世界の生活で得た教訓がある。それは『敵を前にした時、動揺を決して表に出さない』ということだ。動揺してるだけじゃ、目の前の出来事は解決しない。ましてや、相手にそれが伝われば相手の思う壺。焦ってしまえば人間、良い事何一つ無い。しっかりと胸を張り、背筋を伸ばし、相手を見据えて余裕に見せる。弱者のせめての抵抗手段とも言える行為。しかし、これが案外馬鹿にできない。人とは不思議な生き物で、感情がある相手であれば案外通じるものだ。
さて、そんな経験をしているクリープはどうだろうか。彼にとっては最悪の状況、噂の化け物かも知れない存在と相まみえている。しかし、長年の経験で鍛えられた彼の表情筋は、ピクリとも動かない。代わりに目がドス黒い深淵のように濁ってゆく。彼の癖というべきか、あっ終ったと諦観した時や真剣になると自然となってしまう。この場合は、前者だろうが貴婦人からしてみればヤバイ奴に変わりは無い。しかし、貴婦人もまた変わっていた。彼の瞳を見ても何一つ反応しない。
技術執政官である彼女だが、探し物のために地上に上がったばかりで地上の価値観など分からない。そんな彼女にとって、彼の目など些事であった。そんな彼女が息を潜めて彼を見つめていたのには訳がある。彼が落とした本だ。黄色い印が特徴的なエーギル語の本。今は数少ない同族たちが使う言語。そんな本をもって、この「海」を知っているイベリアに居る彼に興味を持つのは必然だった。ましてや、エーギル人の匂いがしない人であれば尚更だ。悲しいかな。その本は貰い物。しかも、この世界とはまだ関係ないもの。そんな事を知らずに深読みしていく彼女。そんな彼女はどう声をを掛けようか思案していた時、彼が後ろに振り向いたのだ。
「......ごきげんよう。あなた、この本の所有者でして?先程、そこの道で落とした所を目にしましたの」
「......ああ、ありがとう」
なんとか、声を絞り出して感謝できたが、自分は殺されるのだろうか。しかし、目の前に居る貴婦人が噂の犯人じゃない可能性がでてきた。わざわざ、落し物を拾ってちゃんと返してくれる人殺しなんて、居ない筈。そんなことを考えれば、体の張り詰めた筋肉はゆるりと解けてゆく。
となると、目の前にいる貴婦人は恐らく無関係。大きな槍みたいな、とんでもない物を手にしてるが、たぶん無関係。さて、状況を整理すると目の前に居るのは怪しい貴婦人。そして迷子な俺。段々と暗くなっていく状況は最悪に近い。中々詰んでいる。
「ところであなた、こんな夜道に一人では危ないでしょう。こんな本を持ってどこに行くのかしら?」
もしかしてだが、逆に怪しまれてるのか、俺。いや、どう考えてもお前の格好の方が怪しいと思うのだが。しかし、どう答えるべきか。この人物、ましてやこの世界で会ったばかりの他人に話すべきなのか。そんなこと考えているうちに、周りがどんどんと暗くなっていく。こんな状態で噂の化け物と遭遇したら笑えない。仕方ないか。
この男、自分の目を鏡で見ても目の前にいる貴婦人の方が怪しい、と言い切れるのだろうか?
「実は、道に迷って......良かったら近くの都市まで案内してくれないか?」
「.....そう......その程度でしたら、何の問題も有りませんわ」
これは意外だ。このお願いがすんなりと通る様な相手には見えなかったが。しかし、何だろうかこの違和感。なんとも言いがたい感じだ。感覚で言うならば、人生で初めて死を経験した様な感覚。本能的な恐怖はあるが、どこか納得のいくようで、いかないような曖昧さ。そんな事を考えていると、目の前にいた彼女の姿は見当たらなかった。奥の方に目を凝らせば、彼女の背中がうすっらと見える。しかし、そんな後姿はどんどんと離れていく。着いて来い、と言うことだろうか。奇妙な感覚を胸の内にひっそりと押しとどめ、彼女に追いつくために思考を切り替えた。
そんな目で迷子です、と言われても怪しいばかりであるがクリープは気がつかない。馬鹿である。しかも女性の方はそんなことを些事と捉え、全く別のことに興味が逸れていた。もはや何も言うまい。
無言で歩き始めて十五分、ただひたすら彼女の後ろを付いて行くだけの時間。彼女が本当に都市まで案内してくれてるのかは不明である。不安になり、自分の地図を確認しようと懐から取り出す。うーむ。方角が滅茶苦茶で分からん。しばらく役に立ちそうに無いな、これ。段々と暇になってきたのでふと、空を見上げれば葉っぱの間から星が見える。星?
「少し、いいかしら」
「ん? なにか問題でもあったか?」
「いいえ、ちょっとした興味があるんですの。あなた、(テラの)海を知っているのかしら」
「海? ああ、知ってるぞ(テラの海はまだ知らないが)。それがどうかしたか」
「そう……いえ、ちょっとした確認ですから気になさらなくて結構です(やはり、知っているのね)....地上で海と関わっている存在を初めて知ったものですから。ましてや、貴方の様な方(怯懦な陸地の人)が意外ですわ(エーギル語の本を読んでいるなんて)」
「そうか? そんなに珍しいのか(この世界の海)」
「ええ……とっても(エーギル語の本を読んでいることは)」
相手が分かっていると思って話を進めるアビサルハンター。取り敢えず、相手に合わせる主義の日本生まれトランスポーター。見事に会話が噛み合っていなかった。しかし、それでも成り立ってしまう(?)のが会話なのだ。不思議である。
更に五分ほど歩いたところで、明かりが見えてくる。良かった、都市に戻ってこれたようだ。彼女は立ち止まり、再び赤い瞳を此方に向けてくる。
「さぁ、此処からは貴方一人でも問題ないでしょう?」
「ああ、助かったよ。ありがとう」
「...今夜は...いえ、お気おつけになった方がよろしくてよ。それでは、ごめんあそばせ」
「え?ちょ」
風を切るような音と共に彼女の姿は、消えてしまう。結局のところ、彼女が何者であるかなんて分からなかったし、噂の化け物にも遭遇しなかった。だが、あの大きな槍と素早くこの場から姿を消したことから、彼女が只者ではないのは分かった。種族は不明、貴婦人のような格好の癖して大きな槍を持っている。只者ではないミステリアスな存在。悪い言い方をすれば不審者でしかない。
あれ? もしかしてだけど重要人物だったりするのだろうか。『アークナイツ』の記憶なんてほぼほぼ覚えてないが、ミステリアスキャラはゲームでなかなかの定番だった気がする.....そういえば、名前聞かなかったな。そんな事を考えながら歩けば、ホテルについた。
エレベーターに乗り込み、自分の部屋の前まで移動する。ドアを開ければ、いきなりベットが見える小さな部屋。タバコを吸うので、大きめな窓がある部屋取っておいた。軽くシャワーを浴びて、ベットに飛び込む。そして、先程の情報を整理しながら再思考してみる。
「まぁ、大丈夫だろ。また会うことなんて無いだろうし」
この世界は広いし、争いごとが絶えない。一度会った人物にまた会うなんて、余程の仲じゃない限りしないだろう。あの様子からして、彼女も何かしらの用事があるのだろう。一旦起き上がり、自分の服から彼女が拾った本を取り出す。....はて、こんな黄色い印ついていただろうか?貰ったときには無かったような気がするが、気のせいだろう。再びベットに寝転び、そっと目を閉じる。
「ダメだ、寝付けない」
夜中の二時。こんな時間なのに、目が冴えている。窓から外を見れば、建物の照明などは殆ど消えている。当たり前か。しかし、ここまで寝付けないとなると、いっその事起きていた方がよさそうだ。自分のジャケットを取り、ナイフを腰に携える。こういう時は散歩に限る。夜風に当たって、程よく身体を冷やせば熟睡できるだろ。
外に出ればさっきよりも空気が冷たい。ジーンとした風が肌に当たればこの世界で生きているのだ、と実感が湧いてくる。誰も居ない道をぶらり、ぶらり歩けば何やら音が聴こえてくる。それと同時に冷たい空気がそっと肌をなで、思わずぶるりと身震いをした。そんな時だ、呻き声のようなものが聴こえたのは.....いや、気のせいか。きっと幻聴だろ。回れ右して、ホテルに戻ろうと決意する。そうと決まれば、全力で走るだけ。と、思っていた時期が私にもありました。どうして外に出てしまったのだろうか。あの時の自分を殴ってやりたい。
目の前に現れたのは化け物。無数の触手に、形容しがたいおぞましい姿。大きくて黒くて丸い塊。なんだ、ただのまっくろくろすけか(SANチェック ファンブル)。絶望して、思わず空を見上げる。すると流星の様に落ちてくる人が一人。見覚えのある人物だ。先程よりも服が少々ボロボロになっている女性。親方、空から貴婦人が!そうか、この世界ジブリ作品だったのか(アイデアは失敗)。そんなくだらい考えをしていると貴婦人の赤い瞳と目が合う。おお、彼女の表情筋が動いた。少し驚いてるようだ。
「ッ......貴方!」
「あっ、どうも」
彼女は体勢を立て直し、くるりと回転しながら着地した。すごいな、しかし相手は触手を使うまっくろくろすけ。ん?触手?確認するために、後ろに振り返ってスタイルの良い貴婦人を見つめてみる。衣服は少々穴が開いていて、出血は見当らない。うん。再び前にいるまっくろくろすけのぶっとい触手を見る......ほーん。最近のジブリ作品は大人向けになったのか(一時的狂気)。
ところで、全く関係ないのだが尿を催したくなってきた。冷たい風といきなり現れた化け物のダブルパンチで膀胱が刺激されてしまったようだ。近場にトイレなんてない。ホテルに戻るにも、まっくろくろすけが道を塞いでいる。脇を素通りできそうな空間はあるが......良し、考えは纏まった。
まっくろくろすけの狙いは、彼女だ。彼女には悪いが、助けられそうな余裕は俺にはない(膀胱&精神面)。ここは大人しく、トイレに行くとしよう。素人の俺が関わっていいことではない。あのまっくろくろすけも、男の俺より彼女の方が断然良い筈。俺は見逃してくれるだろう。なんて考えていたが、いきなりぶっとい触手が此方を襲ってくる。え?男モノ?うそーん。
前方から突っ込んでくる触手を右に転がることで回避する。ふぅー危なかった(漏れそう)。そんな安堵も束の間。顔を上げればまた触手が伸びてくる。なぎ払いのように左から振られてきた触手。おいおい、これ当たったら死ぬぞ、俺。そんな時後ろから何かが飛んでくる。ヒュッ、と頬を掠めて、左から来る触手に高速で巻きつき始めた。触手を拘束しているのは、水で出来た長いロープ状のもの。振り返れば、貴婦人が手にしている槍のようなものから放たれているのが分かる。アーツ、だろうか? 拘束したまま触手の軌道を逸らせばブチンと豪快な音がした。彼女があの状態から千切ったのだろうが、幾らなんでも怪力過ぎないか?
「■■■■■■■■■■■■■■■■――!!」
まっくろくろすけから黒い血が飛び散り、聞き取れない雄叫びを上げる。しかし三本の触手が俺を貫こうと(意味深)襲ってくる。なんでや、触手千切ったの彼女やん。無関係だろ、俺。そんなことは関係ない、といわんばかりにグングンと加速してくる触手。このままでは、さすがに死ぬ。そんなことが脳裏によぎれば、反射的にカランビットナイフを抜いていた。
複数の触手を避けながら、まとめて数度切りつける。しかし、刃が全く通らない。いや、浅くは通るのだが刃の小ささと装甲の硬さが相まって、まともな攻撃になっていない。縦横無尽に襲ってくる触手。今のところ、ひたすら回避してるがマズイ。奴に貫かれて死ぬか、尻をつらぬかれて死ぬか、(美女とまっくろくろすけの前で)漏らして社会的に死ぬか。ダメだ、今のままではどれにしろ死ぬ。仕方ない。腰からガーバーMarkⅡを左手で引き抜く。
ガーバーMarkⅡ。刺突に特化したタイプのダガーナイフ。勿論、他のナイフ同様切ることもできる。しかし、これを抜く機会は滅多にない。理由は簡単。カランビットナイフとの相性が悪い。刃の長さ、形状、使用用途が全く違う。手からすっぽ抜けることの無いカランビットナイフに慣れてしまえば、自然と使わなくなった。しかし、カランビットナイフだけでは、対応が間に合わなくなることが多かったのだ。そうなった時に仕方なく使っていた筈が段々と利点に気がつき、案外悪くないのでは、と思い始めた。そして、使っていくうちに閃いたのだ。
カランビットナイフは短いため、近ずかなければ切れない。そして突きを放つガーバーMarkⅡはカランビットナイフが届かないところから攻撃できる。では、この二つのの特性を生かすためには何が必要か。結論は立ち回り。それ以来、ひたすら立ち回りを練習していた。『千日の稽古をもって鍛とし、万日の稽古をもって練とす』誰の言葉かは、彼自身覚えてないが常にそれを心情として練習してきた。そんな努力が実ったのか、対強敵用に仕上げることが出来た。この世界で、自分が生き残るために編み出した
まっくろくろすけの触手に横から離れるようにして、ガーバーMarkⅡを突き刺す。すると、右から薙ぎ払いが来るので、近づきながらカランビットナイフでなぞる様にいなして避ける。触手の勢いを利用すれば、傷口は自然と深くなる。しかし、真正面からもレーシングカーの様な速度で触手が突きを放ってきた、が。触手は見当違いな方向に行ったところで、後ろに居た貴婦人にスパッと切られる。
「■■■■??」
なんだ、化けもんにも通用するのか、
しかし、あんなに早く動けて力強いとなると、一体どこの種族なのだろうか。少なくとも、今までの出会ってきた人型で一番強いのでは? 専門職であろう彼女にどうにかならないか、という意味合いで彼女の方に視線を投げる。丁度赤い瞳と目が合う。
「.....」コクリ
はい?? 頷かれるだけじゃ、何も分からないのだが。あ、自分も何も言わなかったわ。
「おもちゃで遊ぶのもここまで」
いや、俺は本気で戦ってるからね。見た目まっくろくろすけだけど。というか、それだけじゃ伝わないのだが。結局何が言いたいんだよ。彼女の方向を見れば周りが渦潮のように渦巻いていた。水しぶきが上がり、段々と彼女の姿が視認出来なくなり、海のように波が広がる。実際に海が広がっている訳ではないが空気がざわつき、大地が唸る.......え?
「気をつけなさい、この海流は脆弱な命を飲み込みますわ」
あれ間違いなく必殺技って奴だよな。それをわざわざ警告してくれるんだ。優しいね。ところで、その脆弱な命で懸命に前線を張っているのだが、俺を巻き込んだりしないよな? 悲しいかな、現実は残酷。目の前に広がるのは巨大な竜巻。一度捕まれば獲物を決して逃がさない渦潮。
「■■■■■■■■■■■■■■■■――!!」
「.........」
目の前でまっくろくろすけが高速で回転しながら、叫んでいた。ブチブチと不穏な音を立てて。当然引っ張られる力も強い。引っ張られる体験は新鮮なもので、踏ん張ってみたが耐えられる気がしない(尿意も)。やがて、最前線で戦っていた俺も竜巻に飲み込まれた。何が起こっているのか、訳もわからずに鈍い痛みにただただ耐える。こみ上げる吐き気と、猛烈な眩暈で目の前が見えなくなる。そんな状態で意識を手放した。
「んっ?」
目が覚めれば満点の星空。チラホラと木の枝が見え、パチパチと焚き火をしている音が微かに聞こえる。
「お目覚めになられて? 余り動かない方がいいですわ」
どうやら、彼女が看病してくれたらしい。枕には彼女のコート(?)が使われていた。冷たいなこれ。
「......まずは、感謝を。貴方の本が有ったお陰で、助かりました。本が無ければ、あの怪物は倒せなかったでしょう。その傷で済んでるのも、主に本のお陰でしょうけど。」
......いや、看病してくれたり、感謝してくれるのは良いんだが、にお前の攻撃のせいで怪我してるんだぞ。あー、アバラ何本か逝ってるな。どうしようか。漏らしてないよな、俺? しかし、此処は彼女と遭遇した森だろうか。
「そうかい」
「それと、謝罪を。勝手ながら貴方の傷口を処置させてもらいました......貴方にも同じものが流れているとは、思いもしなかったけど」
え? なにその間は。俺漏らしてたの? 違うよね?
「今日は、もう休むといいわ。安心してくださって、私が周りを見ているから心配は無用ですの」
いや、ホテル戻りたいんだけど。仮にも君のせいで俺死にそうになったんだから。一番の心配は、お前に殺されるかもしれないことなんだけど。そんな原因が隣に居るのに寝れる奴なんていないと思うのだが。あんな吸引力、ダイソンもびっくりだわ。強がってみたものの死に近い体験をしたせいか身体は疲弊しきっていた。目を閉じてみれば、強烈な眠気が襲ってくる。段々と意識が薄れ、視野が狭くなっていく。
「.........」
女性は手元の本だった物を手に取る。黄色い印は消えて、何も書かれていない。燃え尽きた後に出る灰の様に少しずつ空へと消えていく。そんな様子を眺め終え、彼の顔を見つめる。
「フッ……蛮人も棄てたものでは、有りませんわね。貴方はこの世界にとって少し異質な様ですけれど」
「海」の種族に似ている存在。そして、瞬間的な速度は充分に私と並ぶ。何よりも、足りないものを卓越した技術で補うことで怪物と渡り合った、この男の
「.......」
無言で空を見上げれば、色とりどりの星が祝福していた。
彼女が勘違いしているのか、それとも彼が勘違いしているのか.........はたまた我々が勘違いしているかは、まだ分からない。
優しい木漏れ日で目を覚ます。重い身体を起こし周囲を確認する。焚き火の炎はすっかりと消えており、彼女の姿は見当らなかった。初めてこの森に迷い込んだときとは、比べ物にならないほど明るく、別の場所かと思ってしまうほどだ。やがて、自分の服が綺麗に畳まれていたのを発見した。
よかった、対アーツ仕様や防弾性能などを秘めているスーツ一式を着ていて。服が破れて人前に出れないなんて面倒極まりない。いや、よくよく考えればスーツが無事で本人が重症ってどうなの。まぁ、俺が弱すぎるからだろうけど。近づいてみれば、スーツの上には書置きが置いてあった.........いや、読めないのだが。字が綺麗なのは分かる。そのお陰で形の判別はしやすい。綺麗な字であるが、読めないなんていう可笑しなことになってるぞ。しかし、一番下の方に唯一読める字があった。
彼女の名前は―――
「ごきげんよう、クリープ。久しぶりに顔を会わせましたけど、相変わらずのようで何よりですわ。初めて手紙を送らせて貰ったけど、いかがでして?」
さて、このアビサルハンター。クリープに対して中々の好印象を抱いてると見える。あれ以来、一ヶ月に一度はクリープに会いに来ていることが、なによりの証拠になるだろう。わざわざアビサルハンターがプライベートで会いに来る脆弱な生物なんて、彼くらいだ。月一度に会いに来るのを何度繰り返して、どういう心境で好印象を抱いたのかは、彼女自身にしか分からない話だ。
そんな訳で二人は仲が良いのである。というのは、あくまで彼女視点の話。その思いは一方通行だ。ちなみに此処三ヶ月ほど彼女は顔出せていなかったが、クリープはそれを喜んでいた。そりゃそうだ、看病してくれたとはいえ殺そうとしてきたのは彼女だ。むしろそんな相手前にして、良くもっている方だろう。なんなら、彼の中で彼女の渾名はサイコパスで定着してきてる。それは、彼の表情を会うたびに楽しんでる節があるからだ。彼女からしてみれば、純粋に楽しんでいるのだろうが、彼からして見れば違う。相手の恐怖を楽しんでいるようにしか見えないのだ。
不味い。非常に不味い。目の前のアビサルハンター、俺のトマトみたいな姿を見て「相変わらず」なんて言ってきたよ。やっぱりどっかぶっ飛んでるよ、この不法侵入者。というか、そのチェスどっから持って来たんだ。等と考えていたが彼女の問いかけで重要な問題を二つ思い出す。
一つ、彼女の手紙を棄ててしまったこと。二つ、彼女の名前が中途半端に思い出せないこと.......グレイ、グレイティア? いや、なんか違う。というか、彼女の名前を読んだのは一度きりで呼んだことすらない。いや、今日の手紙に差出人とか書いてなかったけ? あ、棄てたから分かんないわ。グレイまでは分かるのだが......いっそゴリ押してみるか。逆に言えばグレイまでなら憶えているのだ。彼女とは一応長い付き合いだ。渾名として通用するのでは。というか、呼ばないように会話すればいいだけだか。焦って損した。
「......久しぶりだな」
「ええ、久しぶりね」
「「......」」
気のせいか、無言の圧を感じるのだが。と、取り敢えず、会話をつなげなければ。
「.....最近は、忙しかったのか?」
「.....そうね、大体の仕事は片付け終わったの。貴方の情報道理で助かった。スペクターの件もありがとう。解決した訳ではないけれど、お礼を」
「そうか.....良かったな」
付き合いが長くなってくると段々言葉使いがフランクになってきたよな、この人。しかし懐かしい、あのチェンソーシスター。あれはナイフの天敵だよ。
「良かったら、一緒にどう? こういった遊びも面白いわよ」
そんな事をいいながら、目の前の椅子を勧めてくる。いや、君が座ってる椅子が俺のなんだけどね。しかし、チェスなんてまともに指したこと無いのだが。というか、血だらけの状態で彼女と一緒にやらなければならないって、どんな罰ゲームだよ。
「.....過去の犠牲を蔑ろにするような振る舞いは明確な裏切り、じゃなかったのか」
我ながら性格の悪い質問だと思う。彼女の手はぴたり、と止まる。さすがに不味かったか。
「......ええ、でも今は別です。それに、私の寿命も長いですから。ちょっとした息抜きよ。でもね、貴方にも責任はあってよ? だから、ちゃんと責任を取ってもらわなきゃ困るのよ」
何してくれてんだ、過去の俺。発言が物騒で怖いのだが。
「はいはい、取り敢えず相手になればいいのか。あんま期待しないでくれよ」
血まみれの状態でチェスを指すなんて、考えてもなかった。腰を降ろせば、白い駒が俺の駒になった。彼女が独りで進めていた盤面のままゲームを進める。
カタ、カタ、カタ......。
両者、次々と無言で打つ。そのスピードは異常だが、クリープに関しては駒の動きしか憶えてないので、てきとうに打っているだけである。
「貴方、存外に出来るのね......昔にやっていたのかしら?」
「まさか(殆どてきとうだよ)」
「......ところで、前に来た時よりも物が増えているようだけど」
「ああ、雇ったんだよ。一人新社員として。実力に関しては良い方だぞ」
またもや彼女の動きはぴたり、と止まる。ゆっくりと顔を上げて、赤い瞳で此方を射抜く。
「.....そう......意外ね......ちなみにどんな人かしら?」
「種族はループス。本名は知らないが、最近はクラウンスレイヤーと名乗ってるぞ。まぁ、長いからクラウンって呼ばせてもらってるがね。住み込みで雑務や護衛を頼んでるが、社員というよりも弟子といった方が近いな」
「......女性かしら......その新入りとやらは」
「ああ」
「...........」
あれ? 可笑しいぞ。空気が滅茶苦茶重いし、ものすごく寒いのだが。今の会話に地雷あったか? ほんとに冷や冷やするからやめて欲しいのだが。俯いていて、表情は分かりにくいが機嫌が悪い様だ。
「飲み物......用意しようか?」
「いいえ、お気遣いなく」
さて、この空気どうしようか。伝家の宝刀の一つ「飲み物いりますか?」はこれで使えない。彼女の表情筋は動いてないが機嫌が悪いようだ。長い間付き合いであればそれ位は嫌でも分かる。出来れば今すぐにでも帰って欲しいがさすがに無理があるか。
「......失礼、少々取り乱してしまいました」
いや、あれが少々なの?指震えてるけど、この人やっぱヤバイわ。物腰が柔らかくなった、とか思ってたけど勘違いだわ、これ。なるべく刺激しないように接しなくては。よし、話を逸らそう。
「いいや、気にしなくていいぞ...それよりもだ、探し物は見つかったのか?」
「......いいえ、まだ見つかってないわ」
「まぁ、そう簡単に見つかれば苦労はしないか。そんなに重要なのか、それは」
「ええ、貴方は知っているでしょうけど、呼び起こす前に壊滅させなければ...貴方はどう? 準備は整えてるの? 陸地の人々があれと対峙する絵が全く見えませんけど。はっきりいって、小競り合いに夢中な彼らでは話にならない」
目の前にビショップが置かれた。よく分からんが、とんでもない話を聞いてしまった気がする。こんな状況で「何のことだ?」なんて言えたら、どれだけ楽だった事か。しかし、それでも一つだけ言える事がある。こんなこと、普段は絶対に言いたくないが。
「いいや、やることが山積みでな。自分のことで精一杯さ」
「そう」
「でもな、陸地の人々ってのをあまり舐めない方がいい」
「.........」
駒のポーンを手に取り一手進める。カタ、とした音だけがやけに響いた。赤い瞳はただただ此方を見つめているだけ。
「矛盾していて、壊滅的で、愚かで、失敗を繰り返すバグの多い生き物だ。俺も含めてな。けれども、人々は生き続けてる。この天災や絶望が繰り返される世界でな。必死に叫び声を上げながらも、醜くても、足掻いてきた。一歩進んだと思ったら、二歩下っている。それでも歴史を紡いで生きてきたんだ...例えそれが間違いだったとしてもな。そんな要領の悪い生き物だが」
チェス盤にあった丁度良い位置にあった駒のルークを、彼女のキングにぶつける。カタ、と安っぽい二つの音がしたが、それ以外の音は聞こえなかった。訂正、本当は自分の心臓がバクバクしてる音しか聞こえない。彼女の無言の圧が怖すぎる。
「無意味な歴史なんて無かった。これからも間違いを繰り返すだろうな。でも、それでも彼らは懸命に足掻き続けるさ。怯懦な生き物だからこその特権だ。勇気を持って一歩踏み出すことの出来る、しぶとい生き物だからな」
「フッフフ、フッハハハ......貴方、私よりも貶してないかしら」
いや、初めて見たよそんな怖い笑い方。黒幕の笑い方だよそれ。お陰で全部吹き飛んだよ。笑顔の方が似合っているが、笑い方は不味いって。どうしたら、あんな丁寧な言葉使いからこうなるんだよ。もっとお嬢様っぽい笑いの方を想像してたよ。
「そうね、少しは信じてもいいのかもね。でもね、私は貴方が信じてるから信じるのよ......貴方のことを信じてるから。でも、脆弱なことに変わりはありません。だから、程々にね」
そういって、彼女は少しだけ微笑む。部屋の冷たい空気(主に彼女が原因だが)はすっかり暖かくなっていた。
「微笑んでる方が、似合ってるな。やっぱり」
「.........え?」
あ、やっべ。さっきの笑い方が余りにも怖くて、こっちの方がマシだ、なんて考えてたらつい言葉に出てしまった。あんなこと言ってみたものの、心臓がバクバクだったし。空気が軽くなって、気が緩んだらこれだよ。すっごい恥かしくなってきたぞ。
「いや、ほら、普段は思いつめた顔してただろ(俺にとっては怖いだけだったけど)。そっちの方が、似合ってるぞ(さっきの怖い笑い方や普段の顔よりは)」
「......そう、かしら......よりにもよって、こんな怪物に言うなんてね....相当変わってるわ、貴方」
そんな事を言っていれば、月が雲から顔を出した。窓から入ってきた光は丁度彼女を照らしだす。普段は隠れて見えない、彼女の首辺りの一部が僅かに反射する。彼女が人では無いことを証明している魚の様な鱗。しかし、俺にとってそんなことはどうでも良い。実害は無いのだから。むしろ、殺そうとしてきたお前自体が怖いよ..........微笑んでる姿は様になっているな、ほんと。どうであれ、明るい雰囲気の方が気が楽だ。決して彼女のためではないが。
「そうか? 趣味嗜好なんて、個人で変わってるからな。お前のことを人魚みたいに美しい、なんて例える奴が居るかもしれないぞ?」
東夜の魔王とか、東夜の魔王とか、東夜の魔王とか。あれ、可笑しいな。ホストしかいないぞ?
ちなみに、クリープはそんな台詞を彼女に一度だけ言っている。なんだこのキザ。お前も言ってるからな。まぁ、本人は自分が死なない為に必死だったのだろうがそんな台詞を彼女が忘れている筈も無かった。
「本当、馬鹿みたいね......貴方......フフ」
「なんだ、知らなかったのか? 人っていう生き物は、大抵が馬鹿なんだよ」
「ええ、そうね。人ってそういう生き物よね。しかし、私のこと苦手なのかと思っていたから意外ね。貴方がそんな台詞を吐くだなんて」
おい、お前自覚有ったのかよ。それを分かっていて会いに来てたのか。いい性格してるな、こいつ。こんなこと言ったら、殺されそうだから言わないが。まぁ、苦手であるのは事実だから伝えるが。
「ああ、苦手だぞ。でも、嫌いだなんて言ってないだろ?」
「……そうね、帰る前に飲み物を下さる?」
「ああ、コーヒーでもいいか?」
「ええ、貴方が入れてくれるのならどれでも良くってよ」
棚にあるコーヒー豆を引っ張り出す。お湯の温度を九十五度になるようにセットする。彼女は紅茶の方が好きらしいが、此処に来るうちにコーヒーにも興味が湧いたらしい。サーバーにドリッパーをセットして、ペーパーフィルターをセット。そこに中挽きのコーヒー豆を二十グラムをセット。お湯を少し注いで一分程蒸らす。そしたら「の」の字を書くように入れるのだが、ウチに細口のポットなんて無い。そこはご愛嬌だ。
「どうぞ」
「ありがとう」
「「.......」」
無言でコーヒーを味わう時間は、心地が良かった。彼女は帽子を深く被っており、表情は影になって見えない。今は、この苦めのコーヒーの方が合うな。なんて事を考えながら、この短い時間を楽しむ。やがて、カップの底が見え始めた頃、彼女は身支度を整えていた。
「ご馳走様.......また今度、飲みに来るわね」
「そうかい......気を付けてな」
「ええ......それと一つ忠告を」
何だろうか?わざわざ、彼女が「忠告」だなんて珍しい。
「私、狙った獲物は決して逃がさないの。例え何があっても、絶対に」
赤い薔薇の様な二つの瞳が此方を捉え、彼女の襟についた薔薇のブローチが怪しく光る。微笑む姿は御伽噺の人魚のように美しく、何処か穏やかな雰囲気を纏っていた。
「それでは、また会いましょう。良い夢を」
「あっ、ちょ」
彼女は風を切る音共に、暗闇の世界に消えていく。しかし、毎度毎度どうしてもやめて欲しいことがある。
「まったく頼むから、玄関から出て行ってくれよ......重症かなこりゃ」
エーギルのドアってこんなに小さいのか?彼女が居ない空間で一人愚痴を吐く。窓枠には、傷が出来ていた。彼女がこの世界に存在している証。此処で会うたびに刻んでいくもの。そっとなでれば、破片が手に刺さって血が滲み出す。毎回直すの大変なんだよな、修理費掛かるし。そのせいで、窓枠だけはいつも新品だ。
彼女が部屋から居なくなれば、また静かな世界に戻る。彼女が残していったチェスは、散らばったままで少々虚しさを感じる......あ。風呂に入るの忘れてた。慌てて服を洗面台に放り込み、風呂場に駆け込む。
チェス盤の隣には、二つのコーヒーカップが仲良く並んでいた。月明かりに照らされ、僅かに光り輝く。何も知らない物にとっては、なんの変哲も無い光景。しかし、二人にとっては大切な一時の断片。そんな事務所には、シャワーの音だけが木霊していた。