現在、甲斐の武田屋敷にて。
俺こと五大院宗繁は、僧形の男・鍾馗らとともに一枚の紙とにらめっこしていた。
そこには最近若様の郎党になった狐面を被った少年、
なんでもこちらに向かっていた若様が道中偶然出会って、意気投合して郎党に加えたらしい。
若様の心許せる郎党も着々と数を増しているようで、俺も家来として実に誇らしい。
吹雪も上手く馴染めているようで何よりであった。
これは紹介した俺の顔も立つというもの。……まぁ
しかし妙に疲れた表情をしていたのは何故であろうか。山道が
……まぁ、勤めたては色々と気苦労も多いことであろう。あまり詮索するのも無粋だな。
少々悪戯好きだが風間玄蕃も中々に気が好く、付き合いやすい性格をしている。
一度殿に変装してきた時は槍を手に泣くまで追い回したが、それ以降は素直になってくれた。
うむ、やはり性根は悪い子供ではないのだろう。*1
「くっそー… どうして俺の変装術が見破れるんだよ…」
「ははは、あれくらい殿への忠義を以ってすれば当然分かるさ。なぁ、鍾馗?」
「……
今だって頼めばこうして、ここら一帯の地図を即座に用立ててくれている。
得難い才だ。
やはり若様のもとには人が集まるということか。羨ましい限りだ。
……だが、殿も決して見劣りはしないはず。俺はともかく忠義党の面々がいるからな!
「畜生… いつかぜってぇ出し抜いてやるからな…!」
「おう! お互いに負けぬよう精進しような!」
「……はぁ、もういい。んで、オッサンらはこの辺の地図なんぞなんのために必要なんだ?」
これはしたり。
鍾馗や武田様には話を通してあるが、風間玄蕃への説明を失念していた。
協力者を無下にするなど許されざる失策だ。切に反省しなければ。
俺は心の隅で今回の失態を戒めると、咳払いを一つして風間玄蕃に向けて口を開く。
「説明が遅れてすまない。この地図だが、甲斐の地を組み替えるために必要としていてな」
「……組み替える?」
「うむ。奇病の温床となっている湖沼を埋め立て、この地に安全な形で水路を通したいのだ」
「埋め立てぇ? 水路ぉ? ンで、そんな面倒なことを。今あんのじゃダメなんかよ?」
素っ頓狂な声をあげて風間玄蕃が
……仮面を被っているというのに中々に表情豊かなやつだな。
「当然ダメだ。奇病は… 確か、ここらでは『腹っぱり』と呼ばれていたか」
「……あぁ」
「アレの原因はな。これくらいの小さな貝なのだ。殻が七巻きほどしている、な」
親指と人差し指でつまめる程度の小ささを作り、身振り手振りで風間玄蕃に説明する。
……知らない人に一からミヤイリガイの説明するの難しいな?
そんな俺の拙い説明に、風間玄蕃は露骨に眉をひそめ(た雰囲気で)なおも反論を重ねる。
「そんなちっさな貝がぁ? ……いや、ンなことより、なんでそれが分かるんだよ?」
「それは、その、アレだな… そう、諏訪明神の御神託じゃ!」
「………」
途端にその場が沈黙に彩られる。鍾馗は黙ったままでフォローしてくれない。
そんな俺の苦し紛れの弁明は…──
「……そっか。なら胡散クセーけど、まぁ、しゃーねぇかぁ」
通ってしまう。
ていうか、むしろ武田に説明する時にも苦し紛れで言い放ってしまい通っていた。
………
……
…
なんでだよ!
直義とかだったら「いや、そういうのいいから」って絶対追及してくるぞ!
風間玄蕃はともかく、武田は胡散臭いから信用ならんって喧嘩売ってきただろ!
なんで胡散臭いから喧嘩売るのに、胡散臭いけど神託なら信じるんだよ!
態度を一貫させろよ! この場合は助かったけどさ!
ここら一帯の諏訪明神信仰はバフなのかデバフなのかハッキリさせてくれよ!
心の内に僅かに残る、現代日本人的感覚がもたらす頭を
……俺はなんとか話を再開するのであった。
「で、だ。その貝を撲滅させるためには今までのような木と土の水路ではダメなのだ」
「ほーん… んじゃ石で作るってのか? 流石に金も時間も無理があるだろ」
「ははは。確かに時間が有り余るならそれも悪くはなかったが、今は武田殿
「……だな。金はなんとかなるにせよ、えっちらおっちらやってたら全員お陀仏だろうよ」
「うむ、口は悪いがそのとおり。だからこそ、ここで若様に運んでいただいた荷を使う」
それこそが今回の日本住血吸虫症対策の奥の手…──
「え? 俺が盗んだあの砂や石ころが」
「今なんと?」
「んっん! いや、なにも。道中見せてもらったあの砂や石ころが何の役に立つか不思議で」
今なにか聞き捨てならないことを口走っていたような気がするが。
……まぁ、若様の方に大事にする気がないというのであれば俺がとやかく云うべきでないか。
「まぁ、良い。アレはな、セメントと言うものだ」
「……せめんと?」
「うむ、水に
「へぇ、
「近いな。しかし漆喰が空気に反応して固まるのと異なり、セメントは水によって固まる」
「なるほどな。だから水路を引く時に石代わりに使えるってわけか」
「うむ、そのとおりだ。賢いぞ」
もともとは若様たちとの隠れ鬼の最中に、天然温泉を発見したのがきっかけだ。
これ幸いとばかりに殿や若様、弧次郎ばかりか雫や亜也子まで天然温泉に飛び込んだ*2。
幾ら少々若い(若すぎる)とはいえ、見目麗しい女性の湯浴み姿は目の毒だ。
数十年物の童貞は伊達ではない。
俺は平伏し見張り役を申し出てその場を辞することと相成った。
そうして煩悩を追い出すためにただひたすら真面目なことを考えた。考え抜いた。
(この天然温泉… 何かに使えぬだろうか。隠し湯は一つの策として… そういえば!)
天然温泉があるということは石灰石(正確には石灰華になるのか?)が多量にあるはず。
果たして、その読みは見事に当たった。
見れば、そこかしこに石灰質の岩がゴロゴロと転がっている。
これらの石灰より生石灰、果ては消石灰を作ることができればコンクリートも夢ではない。
今ある砦や
持ち運び可能な、前線における簡易陣地構築用の資材として取り扱っても良いのだ。
無論、様々な失敗や困難はつきものだろう。
だがそこはトライ・アンド・エラーの精神で都度改良していけば良い。
完成の暁には、決定打とはならずとも足利家を苦しめる一助となってくれるに相違ない。
そう意気込んで多量の失敗作を乗り越え、
頼重様に「日々何を遊んでるんですか」と、めっちゃ怒られた。
……うん、仕方ないね。……これは俺が悪いです、はい。
平伏して平謝りして、適当にそこらの御神酒に灰をぶっ掛けて出来たのが清酒というわけだ。
明らかな間に合せの苦し紛れであったが、これが頼重様にえらく気に入られた。
その手柄を以って俺の『
どころか、なんか所領まで与えられることになってしまった。
これに関しては邦時様
……後々鍾馗に半分譲ったけど。
そういう意味では清酒の果たした役割は極めて大きい。
なんか小笠原殿も清酒滅茶苦茶気に入ってたし。武田の人たちですら知ってたくらいだし。
ねぇ、セメントは?
地味に諏訪大社の
……いや、いいんだ。
セメントの知名度がさっぱりでも。そもそもセメントは秘密兵器だからね。
伏せられるなら伏せておくに越したことはない。そうなんだ。間違いないことなんだ。
涙をこらえるように俺は咳払いを一つ、続けて風間玄蕃に向けて言葉を重ねた。
「だからこの地図は、水路をどのように引くかの策定に使っているというわけだ」
「然様。これまでの水利を捨て一から構築となると… さて、何処から手を付けたものやら」
ここで漸く鍾馗が口を挟んでくる。
本人曰く、城の縄張りに多少の心得はあるが流石に治水に手を付けるのは初めてのようだ。
「ただでさえ、甲斐国は度々水害に難儀しているようだからなぁ… 頭の痛い問題だよ」
「あぁ、ここらの暴れ水は厄介だぜぇ?」
治水事業の一環として奇病撲滅を任せて貰った訳だが失敗しては元も子もない。
とはいえ、流石に知恵者の鍾馗にとってもこれは難しい問題のようだ。
そうだよなぁ。あの信玄公でも治水には苦労してたもんなぁ、城造り出来ても難しいか。
いや、冷静に考えたらなんで城造りもこなす異才の持ち主がその辺の悪党に収まってたんだよ。
謎多すぎる鍾馗の経歴にほんの少し思いを馳せていると、
我が物顔で武田屋敷を
「おうおう! 昼間っからむさ苦しい顔が3つ並んで辛気臭いでおじゃ! ぷはぁ!」
「……これは国司様。お見苦しいところを」
「良い良い! この、あー… 清酒と言ったか? 実に
「ははっ! 有り難き幸せに御座る」
「うんうん! まぁ、
すっかり清酒にやられた様子で、盃に清酒を注いでは飲みを繰り返している。
そして赤ら顔のまま俺の肩に腕を回し、そう馴れ馴れしく言葉を続けた。
結構な恐怖を味わわせていたと思うのだが、水に流してしまっていいのだろうか。
……向こうが良いって云うならいいかな。うん。
怖いなぁ、清酒。別に変な成分は混ぜてないと思うんだが。
「で、
「……いえ、此度はこの甲斐の地の水利についてで御座る」
「ほほう! 水利とな! 昨今の侍は貴人の真似事までするのか! 面白い!」
確かに治水というのは古くは中国の身分の高い者が徳を示すために行われた公共事業。
なるほど、それは野蛮な武士の仕事に非ず。
貴人の仕事なのだと言われれば納得できなくもない。
とはいえ、何も出来ていない現状ではそのように言われてもただただ後ろめたいだけだ。
俺は国司に向かって頭を掻きながら愛想笑いを含めた苦笑いを一つ。
「しかし、八方塞がりで難渋していたところです。……いや、全く以ってお恥ずかしい」
「ほほほ! なんの! 猿が猿真似に失敗したとて一体誰がそれを咎めようや!」
風間玄蕃がウンザリとした雰囲気になり、鍾馗の剃り上がった頭にピシリと血管が浮かぶ。
俺は二人に「抑えて欲しい」というジェスチャーを示しつつ国司様を持ち上げる。
このくらい、鎌倉の時の御老輩の御方々よりの小言に比べれば全く以って可愛いものである。
「いや、ははは。まこと仰るとおりにて。……己の浅学さを悔やむばかりでありますれば」
「ん! 悔やむ心あらば今後の雄飛に期待を持てよう! どれ、見せてみよ!」
「……は?」
「図面じゃ、図面。水路を引きたいのでおじゃ? ならばちくっと麻呂に見せるでおじゃ!」
「あ、ちょっと!」
云うが早いか、麻呂様… もとい国司様は図面を引ったくり二度三度上から下へ眺め始める。
や、破いたりしないだろうな? この時代、紙は貴重なんだぞ。
……俺は破いたけど、まぁ、アレは鍾馗に所領譲るためだし。……ごめんなさい、頼重様。
「……ほう。良い仕事をしておる。この図面を引いたのは、誰それでおじゃ?」
「……はぁ、俺ッスけど」
「お主か! まだまだ
すごく気が進まなそうな様子で名乗り出た風間玄蕃を国司様が手放しで褒め称える。
……いや、すまんな。なし崩しとはいえ酔っ払いの相手をさせることになってしまって。
しかし煮詰まってたのも事実。ここは気分転換と割り切るしかないか。
「であるが、まだ甘い! そも実地を見ず水路を引くつもりであったか! この痴れ者が!」
「……うっ! も、申し開きの仕儀も御座いませぬ」
「ふん、分かればよいのでおじゃ! 分かれば! 猛省し、今後に活かすように!」
かと思えば俺にお叱りの言葉が飛んできた。しかし言っていることは至極正論。
……甘んじて受け止めるしかない。
俺が平伏し沙汰を受け止めているその隙に、国司様は筆を取ってサラサラ図面に書き始める。
「あ、ちょっと!」
鳥獣戯画みたいな変な絵とか描かれてるんじゃないだろうな。
アレはアレで価値があるのかもだけど、ここに描かれるとなったら正直ちょっと困るぞ。
「ほれ、こんなもんで良いじゃろ。ま、清酒の褒美として有り難く受け取るが良い」
「……へ?」
返された図面には、俺なんかでは理解できないほどに高度で整った水路の線が通っていた。
恐る恐る鍾馗に視線を寄越す。
「……鍾馗、これは」
「むぅ…」
あの鍾馗が顎に手を当てながら、図面を凝視している。
少なくとも、この男が切って捨てない程度に国司様の加えた線には価値があるということだ。
「失礼、国司様。この部分の水路を迂回させた理由についてお伺いしても…」
「そこは堅い岩があっての。一朝一夕には取り除けん。であるならば…」
「なるほど。いっそ、水路を以って村と村の境界線としようと… それでこの配置を…」
「うむ! あぁ、ここは図面では見えぬが崖となっておっての。水路には不向きでおじゃ」
「ほう、ほう…」
俺と風間玄蕃は蚊帳の外となる。
なんか知らないが二人がすごく高度な話をしていることは分かる、気がする。
俺は思わず呆然と呟く。
「すっごいなぁ、貴族って。古典礼法だけ学んでふんぞり返ってるものとばかり…」
「これ! お主、悪口はもそっと聞こえぬようにするものでおじゃる!」
「こ、これは大変な無礼を… しかし、国司様がここまで水利に明るいとは思いもよらず…」
「ふん! 国司たるは最低限の
唐国。中国のことか。
確かに遣唐使の時代までは交換留学生とかなんやらやっていたもんな。
今現在に至っては深い交流は途絶えてしまっているとはいえ、交易は細々と続いている。
そして、この時代の学問の最先端の一角に中国が挙げられることは疑いようがない。
そこの学問をみっちり詰め込んで赴任してきたとあれば…──
「国司様、めちゃくちゃ優秀だったんですね」
「ほほほ! 何を今更!」
「鍾馗よ。この図面、おまえが見た限りは問題ないんだよな?」
「はい、正直私めの見識の浅さを思い知りました次第。実地に基づいた確かな結論かと」
「よし、ではこれに基づいて行おう! 問題点なんかは都度改善に取り組む形で!」
鍾馗と風間玄蕃の雰囲気が喜色に彩られる。
良かった。国司様のおかげで難題が一つ片付いた。
しかし…──
「しかし、国司様ほどの方がこんな地方に飛ばされてきて良いのですかな?」
「はて? 良いのか、とは?」
「いや、だって、ここまで優秀なら中央でもっと大きな要職にだって…」
「ほほほ! 麻呂におべっかは通用せぬぞ! であるが心地よい! もっと言ってたも!」
「は、はぁ…」
気分が良くなっている。まぁヨイショをするのは
今回は後醍醐天皇、力入れるところ間違ってない? と、純粋に心配しただけなんだが。
「そも、このくらいの学問を修めた者など都には沢山おるでの! 心配無用でおじゃ!」
「えぇ!? それはまことに御座るか!?」
「ほほほ! 仮に麻呂程度の者であっても、荷車などで雑に数えねば日が暮れるであろうよ」
「なんとまぁ… 貴族すごいなぁ…」
「ほほほ! 貴人の偉大さを感じる理解の速さは見事でおじゃ! 武士らしくはないが!」
はい、良く言われます。
……しかし、すごいな貴族。話半分未満に聞いたとしても実務能力半端ない。
鎌倉武士なんてほぼ滅亡のこの期に及んで残念極まる識字率だってのに。
決して口だけでないことは、酔いつつ引いた図面が正確無比なことからも証明されている。
「しかしまたなんで、ここまで
「なんでおじゃ? 清酒の褒美と申したに、信じられんか?」
「……は、正直なところ」
「ふん、正解でおじゃ」
「……では?」
その真意を探ろうと国司様を注意深く観察する。
そんな俺の思惑を知ってか知らずか、彼は視線を虚空に向けゆっくりと息を吐く。
「麻呂とて、最初はこの野蛮の地を教化してやろうと息巻いておったでおじゃ」
「………」
「しかしの、先の戦で思い知らされたわ。結局のところ、武士には戦では勝てんと」
「それは…」
「頼みとしていた家中随一の剛の者、
米丸殿。顔も知らぬが恐らく国司様に尽くした立派な最期だったのだろう*3。
? ……何故か鍾馗の顔色が悪いが大丈夫だろうか。
「罪滅ぼし、などというつもりはない」
「では一体何故?」
「知れたこと。陛下の御威光を知らしめるという志は今も麻呂の心に残っておじゃ」
「………」
「といっても散々恥をかいた後の小さな見栄でおじゃ。笑うかや?」
「いいえ、ご立派です。貴族の貴族たる範を示された御姿に感じ入るばかりです」
「で、あるか。ほほほ、ならば麻呂も多少は浮かばれるというものよ!」
正直驚いた。国司様がここまでの覚悟を決めていたという事実に。
そしてそれを決意させるだけの後醍醐天皇のカリスマ性に。
流石は時代を牽引した英雄の一角、ということなのだろうか。
よし、こうなったら俺も腹を決めた。これだけ優秀な政治要員を逃がす手はない。
例え靴を舐めようとも使い倒… もとい、この地に繋ぎ止めるのだ。
鍾馗に目配せをすれば、彼も小さく頷いてくれた。
国司様を繋ぎ止めるという俺の考えに彼も否やはない、ということだろう。
「……あの、実は他にも相談事があるのですが」
「なんじゃなんじゃ! 麻呂がおらんとてんで駄目とな? 情けないのう! ほほほ!」
「ははは。いや、実は奇病撲滅のためにこの近辺の湖沼を埋め立てる計画で…」
「なんと! それでは稲の生産量は激減するか… まぁ元より実り大き地ではないが」
「仰るとおりにて。して、なにか良い策はないものかと…」
「うむ、ない!」
「そんなぁ…」
「と、尋常ならば答えるところでおじゃるが。其処許は運が良い! あるぞ!」
「おお!」
すごいな、この国司様。
もしやおだて続ければずっと名案を出し続ける神なのでは?
俺、頼重様じゃなくてこっちを信仰したいかも。
「主上は山葡萄や山桃を殊の外好まれる。無論、野卑なる者からの献上は受け取れぬが…」
「なるほど! 国司様の御名のもとに献上されるのであれば!」
「うむ! それもこれも麻呂がこの地にあってこそ! いやぁ、其処許らは運が良いなぁ!」
そういえば、現代日本においても山梨県は葡萄と桃の産地として有名だった。
事情を説明して掻き集めれば多少の種や苗木は揃えられるだろう。
よっぽど不向きな地方以外は、基本どの地方だってこの時代に中心となるのは稲作だ。
ならば、今後の甲斐国以上に桃や葡萄の種を欲する地もそんなにはないはずだろう。
最悪、もし足りなかったとしても国司様の伝手で都から融通して貰うのも良いかもしれない。
国司様の話をより詳しく確認したところ、こうなる。
一種の朝貢貿易のような形に持ち込むことで、天皇に特別な献上品を贈るのだ。
そして、それを以って米などの生活必需品を下賜して貰うことになると。
無論許可は必要だし、何の伝手もなければまず下りることはない。
しかしこちらには国司様がいる。それが諏訪や信濃、甲斐の守護を従え頭を下げてくる。
否が応にも朝廷の権威を示すことが出来る。
これに乗らぬ政治音痴は宮中には流石におらんであろ、とは国司様の弁。
ましてこれまでの窮乏していた朝廷と異なり今や飛ぶ鳥を落とす勢いの後醍醐天皇である。
誰の手柄になるかは別として、さしたる出費でもないと判断されるに相違ない。
……無論、これは足利尊氏との蜜月が続いている期間限定ではあるが。
それにもし今後朝廷が凋落するようなことがあっても、近隣との交易品目にもなる。
水田も全て無くすのではなく、ミヤイリガイを根絶させた場所にだけ新たに作れば良い。
よし、なんとか先の展望が見えてきたぞ。
……問題はコレがただの御内人が考えることかなって点だが。分不相応なのは今更か。
「で、あるからして… その、な。清酒をもそっと融通を… 主上にも献じたいし、の?」
「……ははは。そういうことであれば是非にも及びませんな」
気不味そうに告げてくる麻呂様、もとい国司様に対して静かに苦笑を浮かべてしまう。
結局そこに行き着くのか。どんだけ清酒好きなんだよ。
いや、外交上重要なカードになってくれるなら俺も作り出した甲斐があるってものだが。
せいぜい後醍醐天皇が清酒を気に入ってくれることを願うばかりだ。
……あ、葡萄を生産するならいっそワインを作ってみても良いかもしれないな。
貴腐ワインとかは無理だけど、原始的なワインの作り方くらいならある程度は知ってるし。
「承知仕りました! この諏訪宗重、国司様のご要望に最大限お応えしましょう!」
「おお! 麻呂のためにやってくれるかや! 野人… いや、諏訪宗重よ!」
今、野人って言わなかった? ……まぁ、うん。お互いのために聞き流しておこう。
「この宗重、二言はありませぬ。また、新たなる
「おお、おお! 感心でおじゃ! そうであるな! 主上の前に麻呂が味見をせんとの!」
こうして国司様の全面協力の言質を取ってから三ヶ月の時が経過した。
「……漸く形になった、か」
「そうだね。伯父上… いや、宗繁。よくがんばってくれた。僕はおまえを誇りに思う」
「殿… 有り難き御言葉にて」
まだ甲斐一国。されど甲斐一国。
武田の手が届く範囲に限ってではあるが、ついにセメント水路網が完成したのだ。
これには、諏訪の職人より送られてくる金属製の最新の工具。
そして我が郎党である忠義党一同のがんばり。
なにより武田家並びにその領民たちの影に日向にの協力なくして成し遂げられなかった。
まだ桃の実の収穫には時がかかるだろうが、葡萄は秋にでも収穫できることだろう。
これも風間玄蕃が近隣の山を案内し幾つかは苗木の山葡萄を入手できたことが大きい。
そんな里の風景を眺めていると実に感無量。
静かに、されど熱く胸に込み上げてくるものがある。
苦楽をともにし、俺達は見事成し遂げたのだと。
「……まぁ、時行たちは最初の一週間でさっさと諏訪に戻っていったんだけどね」
殿、悲しい現実に引き戻すのはやめていただきたい。
「……まぁ、僕ら武士としてちょっとどうなんだと思わないでもないけどね」
殿、悲しい現実に引き戻すのはやめていただきたい。
「ほら、鍾馗なんてすっかり顔の険が取れて里の子供相手に遊んでやる好々爺に…」
「殿、それ以上はいけない!」
「……うん、まぁ、ごめん。でも、僕にとっても中々に得難い経験だったよ。勉強になった」
殿は肉体労働をしている我々と違って、武田殿や国司様に何やら教えを請うていた。
家来の分際で深く立ち入るつもりはないが、少々気になるのも事実。
とはいえ、あの御二方ならばそう悪いようにもするまいと思い直し疑問を胸の底に沈める。
しかし、そうだな。
殿のお言葉通り、武士たるは殿の槍となりて突き進むが本分。
ことが日本全土に関わる問題ゆえこれにかかり切りであったが、もう頃合いは充分であろう。
後は有能な武田殿やその家臣団が万事良いように取り計らってくれるはずだ。
そろそろ武士に戻る時間がやってきたぞ、五大院宗繁。
そんな俺の決意にまるで呼応するかのように蹄の音が近付いてくる。
「ここにいたか。邦時様、それにオッサン。馬上から失礼するぜ」
「やぁ、久しぶりだね弧次郎。時行は一緒ではないのかい?」
「あぁ、伝令役として一等馬術が達者な俺が遣わされた。……まだ抜けられなさそうか?」
「さて、どうかな? 宗繁」
「ちょうど一区切りついたところです。後は武田殿が如何様にでもこなされるかと」
「だってさ」
「そりゃあ良い。ちょいと緊急事態が発生してな。……何も言わず戻ってくれねぇか」
軽い言葉と裏腹の真剣な瞳に、「相分かった」と殿が答える。
その言葉で俺の動きは決まった。
心得たもので、冷徹な表情に戻った鍾馗は忠義党に招集をかけている。
この俺が、五大院宗繁が再び武士に戻らんとする日。
それは俺が漸く慣れ親しんだ信州の地を離れる日が近いことも同時に示していた。
当初の計画通り、京に潜伏し、足利を撹乱する火種となる。
その『きっかけ』が諏訪の地を訪れた、ということであろう。
逸話
『甲斐国奇病始末記』
さて、諏訪明神への神前奉納たる犬追物にて大いに声望を高めた諏訪宗重であるが元来謙虚の人でこれに決して驕ったりする様子を見せなかったという。
また、国司の悪逆に苦しむ民が決起するとこれに加担し、これに感じ入った小笠原貞宗は旧怨を忘れ、以降、莫逆の友として諏訪宗重と交流を深めることになったのは先の顛末の通り。
そのほぼ同時期に、甲斐国にて奇病が猛威を振るっていた。
諏訪宗重は諏訪大明神より神託と印綬を授かり、鍾馗(疫病神を祓い魔を除く鬼)を従えて甲斐の地へと降り立った。
武田もみすみす所領を明け渡してなるものかと腕自慢の家来を向かわせるが、勇猛を以って知られた武田の家臣団も、神威を受けた諏訪宗重には流石に敵わず揃って降参することと相成る。
諏訪宗重はこれを罰することなく受け入れ、やがて病魔の原因を突き止めて、鍾馗を始めとする鬼どもを使役してこの根絶に尽力したとされている。
そして再び病魔が増えることがないよう、堀や壕を諏訪大明神の加護で作った特別な砂で塗り堅め病魔を封じ込めたとされている。
《解説》
20XX年、今なお以って山梨県の水路として親しまれている宗重水道は14世紀の折に完成したとされている、日本に現存する最古の『人工コンクリート構造物』であるとされている。
その完成度は極めて高く、当時の最先端の治水技術がふんだんに使用されている様子が随所にうかがえることから、飽くまで実在するならばと云う注釈付きではあるが、諏訪宗重が極めて高い学術見識を持つであろうという根拠の一端となっている。
また、当地では諏訪宗重に対する信仰は厚く『宗重ワイン』(公認された日本最古の国産ワインとなる)などの特産品は有名である。
水路には、真偽の程は定かではないものの「水路を砂で塗り固める際に誤って諏訪宗重が残してしまったとされる足型」(通称『諏訪宗重之足型』)が今なお残っており、同地域の子供は一定の年齢になると以後の無病息災と諏訪宗重の武勇に肖るためにその足型に足を合わせることが昭和までの恒例行事として行われていた(現在では学術保存の名目から禁止されているが、同史跡を視認することは可能である)。この足型に合わせて考えるなら、諏訪宗重は身長おおよそ2m弱という当時の日本人として極めて大柄な人間だったことがうかがえる。
なお、諏訪宗重が甲斐国にて根絶したとされる奇病については長年謎とされてきたが発掘調査の結果、どうやら九州や一部の離島などに存在する特定の貝(あるいはその近似種、亜種)を中間宿主とする住血吸虫病のようなものであったことが判明しており、僅かに残された資料からもその裏付けが認められる。
もし仮に諏訪宗重がこれを根絶しなければ、甲斐国の奇病は、顕微鏡等による細菌の観測が行われる19世紀以降までその解決を待たねばならなかった恐れがあり、その犠牲者は数万人~数十万人に及んでいた可能性は否定できない。
そのため、これらの諏訪宗重の功績を称えてこの貝を『ムネシゲガイ』(※絶滅危惧種)と名付けることが19XX年、学会で正式発表された。