京の都は
その
古式に則った作法である。
深い誠実さを感じさせるその所作に、居並ぶ朝廷の百官は皆一様に感嘆の吐息を漏らした。
「……大儀であった、
御簾内より
異例の事態である。
あるいは親王以下ならばいざ知らず、帝が仲介を差し挟まず直接声を掛けるのだ。
しかし、それも当然の待遇と言えるであろう。
朝廷親政の時代を夢見て鎌倉幕府に抗い続けた帝の悲願。
それが執権・北条氏やその象徴たる鎌倉を滅ぼすことで漸く成就したのだから。
他でもない、足利高氏の功績によって。
「その功を称え朕の名・
異例は続く。
天皇より直接一字を賜った者など、歴史上極めて稀な存在であると言える。
しかも一介の武士が、である。
その意味を理解した数少ない足利方の人間、
彼にとって幸いなことに、それを見咎められることはないまま謁見の儀は終りを迎えた。
「……少々、危のう御座いまするな」
謁見の儀の帰り道、余人がないことを確認してから直義は独り言のように呟いてみせた。
案の定、実兄の高氏… もとい尊氏がそれを聞き咎める。
「どうした、直義。なにか心配事でも? 知恵者のおまえにはいつも苦労をかけている」
人を
その言葉に直義は兄への敬愛を感じさせる深い黙礼を返しつつ、言葉を続けた。
「まずは
「不穏? また物騒だな。しかしおまえが心配するほどなのだ。聞かせてくれないか?」
「はっ! 此度の一字拝領は、功一等の褒美としてもまことに前例無きこと…」
「うん、確かにアレには私も驚いてしまったな。
兄の冗談に直義も薄く笑みを浮かべるも、しかし、すぐに表情を引き締めて言葉を
「故、これまでは武家内に限られていた嫉妬が朝廷内でも吹き荒れることになりかねないと」
朝廷に数多溢れる力無き文官からのささやかな妬心ならばまだ良いだろう。
しかし父を支えてきた
彼らの内心はどうあれ、周囲の人間は必ず焚き付けるに違いない。
ソレも面白半分に無責任極まりなくだ。人とはそういう生き物であるのだから。
足利直義は、この後吹き荒れるであろう朝廷内の権力争いに兄が巻き込まれることを憂えた。
弟の言葉を聞いて尊氏は頭が痛いとばかりのため息を吐き、自らの顎をゆったり撫でる。
「うぅん… 最近は円心殿や新田殿からの突き上げもあるのに朝廷からもか? 辛いなぁ」
赤松則村こと赤松円心や、新田義貞。彼らは尊氏にも劣らぬ鎌倉幕府滅亡の立役者だ。
しかしながら全員が心を一つにしてこの大業を成し遂げたかと言えば決してそうでもない。
個々人の思惑や信念が交錯し、さながら乱気流の渦が如き複雑な様相を呈していたのだ。
武士の代表格に一気にのし上がった足利尊氏にとってそれらは他人事ではない。
尊氏の隆盛極まる名声を面白く思わない連中が足を引っ張ろうとすることなど日常茶飯事。
揉め事の仲裁に駆り出されることしばしばであり、げんなりするのも無理からぬことであった。
とはいえ尊氏ほどの顔役が仲裁すればこそ、多くの武士は事を忍耐できている節もある。
これが謹厳実直であるもののやや冷徹な一面もある直義であればそうはいかなかっただろう。
現状としては隙を見せぬよう振る舞うしか打つ手がないに等しい。
そしてそれは野性的直感で生きる尊氏にはやや不得手な分野であると言える。
其処に尊氏に影が如く常に付き従う男、足利家
「陛下より賜った一字拝領は紛れもなき慶事。憂慮することとて不敬と取られかねませぬぞ?」
この男、言葉とは裏腹に朝廷への畏敬の念は欠片もない。
それどころか、神仏にすら平気で唾を吐きかけかねないほどの合理主義の化身である。
だからこそ、起こりもしないことに憂慮して手を縮めるという行為が許せないのだ。
「………」
苦虫を噛み潰したかのような表情で黙りこくる直義。
反論する言葉が浮かばないと言うより、口を開くことで
合理主義者として
「ふふふ…」
緊迫する空気と裏腹に、足利尊氏は頬を緩めて笑い声を漏らす。
呆気にとられる一同。
そこで郎党同士のいがみ合う空気は
「どうされましたか? 殿」
そんな彼に如何にも豪傑といった威風堂々とした偉丈夫が声を掛ける。
高師直の実弟・
荒々しい
「おお、師泰か。……いやなに、この状況で『とある御仁』のことを思い出してしまってね」
しばし視線を中空に彷徨わせた師泰であったが、やがて人物に思い当たったのか渋面を作る。
「ハハハハハ! すまない、思い出させてしまって。君にとっては苦い記憶だったかな?」
「……いえ」
主君にからかわれ、師泰は少々困ったような表情で頬を掻く。
やがて言い辛そうに訥々と言葉を連ねた。
「アイツ個人に思うところは山程ありやすが、まぁ、今じゃ良い教訓だったと受け止めてます」
「ほほう、君の成長に一役買っていたとは。……ますます興味深い御仁だなぁ、彼は」
「殿、師泰。その御仁とはまさか…」
師直のその言葉に「うむ」と頷き、秋晴れの空を仰ぎ見ながら足利尊氏は呟いた。
「一体今は
今尊氏たちが話をしているこの時より二年前の西暦1331年。
後醍醐天皇の二度目の倒幕の企ては失敗に終わった。
他でもない、鎌倉幕府の若き俊英にして総大将・足利高氏によってであった。
まだ二十代中頃の若年ながら幕府軍をよく指揮し、名将・楠木正成を破っての勝利である。
当然、幕府内は沸きに沸き上がり高氏の功を称えるための宴席が
「いや、流石は足利家の
「何を言うか! お主は『あんな若僧』と申しておったではないか!」
「……ささ、高氏殿。此度一番の功労者はあなたですぞ。どうかご遠慮召されるな!」
「お主、抜け駆けをするつもりか! なんと姑息なことよ! 武士の名が聞いて呆れる!」
「……いやぁ、ははは」
高氏は彼らに愛想笑いを浮かべつつその内心で辟易としていた。
いつの頃か慣例となっていた、足利家の【鎌倉幕府軍総大将】という立場。
それが後醍醐天皇の乱を迅速に鎮めたことにより、一層決定的なものとなっていた。
当然幕府もコレを高く評価し、恩賞を以て重く報いようとしていた。
しかし一方で、高氏は父・
其処に彼は幕府という存在の矛盾と腐敗を感じ取っていた。
花園上皇への挨拶もそこそこに京を引き払いさっさと帰郷してきてしまったほどだ。
これには宴を催そうと準備していた上皇が呆れてしまった、と後世の文書に残されている。
とはいえ、多少の問題はあるが最大の功労者であることは疑いようがない事実である。
まして力関係では朝廷より幕府の方が圧倒的に上であるからして、文句など言えようもない。
それを承知で適当な後任に現場を預けて直帰したのだから、高氏も中々に
しかし漸く静かに過ごせると思っていたところ、今度は幕府からの宴席のお誘いがあった。
いかに名家であろうとコレに対して一人の幕臣として突っぱねることはできない。
京を引き払った時と違って、迅速な報告のために帰還するという言い訳も使えない。
不承不承ながら出席をしてみれば、こうして幕臣たちのごますり合戦が始まったというわけだ。
不毛な景色の広がる様子に、高氏といえどうんざりしてしまうのは無理からぬことであろう。
そんな時である。
「……おや、あちらの御仁は?」
逃げ場所を求めて宴席の端の方に視線をやれば、一人の男がしかめ面のまま座っていた。
上背があり、鍛え抜かれた体躯。見たところ立派な武士である。
しかし、この宴の席で出された酒に一口も手を付けてないことが異様に映った。
腕を組んだまま口をへの字に結び、高氏やその郎党たちには話し掛ける気配すら見せない。
たまに話し掛けてくる幕臣たちにも二、三ほど事務的に応じるばかりといった様子。
……何から何まで高氏への接待役として失格な振る舞いである。
しかし高氏にとって、それがこの場において何よりも新鮮に映ったのだ。
しかもどうやら幕臣たちからはあまり好かれていない様子である。
先程観察した限りでは、話し掛けられた数少ない例でも揶揄する色が多分に含まれていた。
まして大多数の幕臣は「関わり合いにもなりたくない」とばかり遠巻きにするのがほとんど。
(これは良い隠れ蓑が見付かったかも知れない。暫しあの御仁の傍で息を潜めようか?)
内心で高氏が名も知らぬ武士を盾役に使おうと考えていると…
「あぁ! あれなるは五大院宗繁なる
「然様然様! 殿の覚え目出度きを良いことに好き勝手に振る舞い我らも困っております!」
「妹君が殿の側に上がられたことで、その七光りを己が権勢と錯覚したのでしょうな!」
「少しばかりの武芸しか取り柄がない、おべっかばかりの人間ですとも!」
「殿のご寵愛目出度きを良いことに、
その気配を感じ取ったのか、周囲に群がる幕臣たちが口泡飛ばして牽制を仕掛けてくる。
誰かの足を引っ張る時ばかり手を取り合い、即席の連携さえ組んで見せる幕臣たち。
そんな彼らの強かさに苦笑いを浮かべながら高氏は「御免」と席を立った。
こうなっては彼らも敢えて追ってくることは出来ない。
気に入らない相手の足を引っ張るためだけに、高氏の不興を買うほどのリスクは犯せない。
そうしてゆったりと近付くと、目的の男は鋭い視線を投げかけてくる。
抜き身の刃の如く虚飾なく真っ直ぐに突き刺さってくる視線。
それが彼自身の武の在り方を示しているようですらあった。
それに対し、高氏はこの場の煩わしさを忘れさせてくれるような心持ちとなる。
視線に込められている僅かばかりの敵意すらも快いものであった。
(しかし、この『敵意』。はて? 私はこの御仁に何かをしでかしてしまっただろうか)
足利高氏は本人が望まずとはいえ、若くして足利家棟梁となった立場である。
当然、嫉妬ややっかみの感情を浴びるのには慣れているつもりだ。
しかし、それらの感情とは色が違うように高氏は直感する。
もっと言えば、目の前のこの人物にはそのような感情は似つかわしくないとすら感じた。
多少疑問に思いはしたものの、結局、高氏はにこやかに男に声を掛ける。
「やぁ、はじめまして。ご挨拶が遅れて申し訳ない。私は足利高氏と申します」
「……これはご丁寧に痛み入る、高氏殿。某は五大院宗繁。しがない
人の心を蕩かすような笑み、と口にしたのは誰であったか。
そのような高氏の笑みにも眉根をピクリとも動かさず、しかめ面のまま男は返答を寄越す。
「そうご謙遜されることでもありますまい。宗繁殿は謙虚な御仁なのですな」
「さて、事実を申し上げたまでですが…」
「なんでも武の心得厚く殿のご寵愛目出度き誠の武人とか。沢山の武勇伝を聞きましたぞ」
明らかなおべんちゃらであったが、それに乗ってしまうのが武士という人種である。
武に傾倒しているのならば尚更その傾向は強まる。
しかし宗繁という男はそれを歯牙にも掛けずに一笑に付す。
「
幕臣たちの本音などはとうの昔にお見通しなのであろう。
時間の無駄とばかりに話を打ち切った。
これには高氏も返答に窮し、二人の間に沈黙の帳が降りる。
そこで彼は高氏に向けて「それよりも、高氏殿」と少しばかり言い難そうに声を掛けた。
一体どのような話があるのだろうか? と、高氏は無言のまま視線で言葉を促す。
「……貞氏様のこと、誠にお悔やみ申し上げます」
これには高氏も驚きに目を丸くした。不意打ちを受けた気分である。
五大院宗繁はなおも言葉を続ける。
「気も休まらぬままの出陣、心労は
華々しい戦果を称えるのではなく、まず身内を喪った高氏の気持ちを慮る発言をする男。
コレは周囲の幕臣たちからは如何にも浮いた振る舞いに見えた。
執権である北条得宗家からの命令を受けての出陣で大勝利したのだ。
輝かしい栄誉である。何をおいても祝うべき慶事なのである。
そして武士にとっては個人の栄達以上にお家の繁栄が重要となってくる。
だからこそ多くの幕臣は高氏を褒め称え、主君の威光をより確固たるものとせんとしたのだ。
そうしてこそ『鎌倉幕府』という家に仕える自身の家の立場が保証されるのだから。
この時代において、もっともらしく『忠誠』と語られているものの実態はそんなものであった。
けれども、男はそういったこと全般に一切の興味を示さない様子だ。
(なるほど… 彼は鎌倉武士にしては少々変わっている)
高氏の目から見て、彼は無愛想なしかめ面のまま宴席を
他の誰かに対して愛想が良いとは思えぬからずっとその調子だったのだろう。
そんな振る舞いも、ただ弔問に訪れただけのつもりだったのだと考えれば得心がいく。
一目見た時から目の前の男に対してどことなく抱いていた違和感の答えが、出た気がした。
五大院宗繁とは、足利高氏のみならず当時の武士にとって明らかに異色の存在であった。
彼が幕臣たちから遠巻きにされているのは、分不相応な出世の嫉妬ややっかみではなかった。
少なからずそれらもあるかも知れないが、本質は彼の醸し出す『異分子感』にこそあった。
(北条得宗家の『あの』若君ともまた違った気性を感じるな…)
変わっていると言えば、と高氏は主君・高時の嫡子の顔を思い浮かべる。
しかし貴人の相を持つあの幼子と目の前の
(いや、どちらかと言えば万寿丸様にこそ面影があるような… あぁ、妹君が御母堂なのかな)
思わず笑みを浮かべる高氏の内心など露とも知らぬ宗繁は、訝しげな表情を浮かべた。
「どうされたか、高氏殿?」
「ああいえ、正直亡父のことについて触れられるなど思ってもいなかったもので…」
「……そうですか」
ここで鉄面皮が動き、酷く同情したような顔になる。
この男はそのような表情も出来るのか、と意外に思う高氏を余所に宗繁は言葉を続ける。
「聞くところによれば、喪に服したいとの
「……いや、あれは私の我儘というべきもの。まこと、お恥ずかしい次第です」
「いえ、詫びるべきは命令をした側にこそあり。高氏殿は何も恥じるところなどありませぬ」
キッパリと言い切られ、高氏は返せる言葉もなく押し黙ってしまう。
その隙に宗繁は高氏に向かって深々と頭を下げる。これに慌てたのは高氏の方だ。
「宗繁殿、一体何を…!」
「それを承知の上で申し上げます。……どうか主君・高時様を恨まないでくだされ」
「………」
高氏は再度言葉を喪う羽目となった。
この男がこの宴席に訪れた真の目的は、英雄に媚びを売るためでも弔問のためでもなかった。
ただ己が主君の身を案じ、害意が及ばぬようにと必死だったのだ。
これだけ異心なく、ただひたすら忠義のために邁進する武士など近年極めて稀である。
(……高時様が重用されるわけだ)
高時は傀儡と言って良い立場であり、出兵を強行したのは他の重臣の思惑によるものであろう。
いくら実弟に比べて政治に疎い高氏といえど、それが分からぬほどに子供ではない。
しかしである。
それでも高時の
そういう考え方があるのも、また、事実である。
この時代において、『弱さ』というのはただそれだけで大きな【罪】であるのだから。
弱いからこそ武家の棟梁の地位を維持できずに、傀儡という立場に甘んじてしまう。
弱いからこそ天皇でありながら、『叛逆者』として部下であるべき存在に討伐されてしまう。
にもかかわらず、目の前の男は弱さを悪と考えず尊み尽くそうとしている様子であった。
高氏には理解し難い価値観である。
いや、この時代の武士の大多数にとってそれは理解し難い異物に他ならないであろう。
「………」
高氏は困ったような表情を浮かべながらも、その内心で素早く思考を働かせる。
目の前で深く頭を下げている男を、再度、注意深く見据えながら。
其処には、妹の七光りで出世して寵愛による権勢を誇る小者の姿など何処にもなかった。
むしろ主君のためならばあらゆる泥をかぶることすら辞さない鉄の如き信念を感じた。
そして方針は定まった。
「……宗繁殿、どうか頭をお上げくだされ」
穏やか笑みを浮かべ身を屈めると、そっと宗繁を支えて頭を上げさせる。
言葉と裏腹に、流麗な動きながら有無を言わせぬ力で宗繁は顔を『上げさせられた』。
宗繁の表情が驚きに彩られる。しかし素知らぬ表情のまま高氏は言葉を紡いだ。
「この高氏、誓って幕府に
「………」
「恐れ多くも
その言葉と人の心を虜にするような笑顔に、周囲の感嘆が漏れ聞こえてくる。
足利高氏はたった一手で見事にこの宴席の場を掌握してのけた。
……ただ一人の例外を除いて。
「………」
五大院宗繁である。
その瞳に宿る色は紅蓮の焔か凍て付く吹雪か、真っ直ぐ高氏を見据えたまま視線は動かない。
(この男…)
一方、高氏も笑顔を浮かべたままその視線を涼しく受け止める。
五大院宗繁、確かにただならぬ男ではあるがこの場で何が出来るはずもない。
高氏にそんな思いがあったことは否定できないであろう。
「高氏殿、今の御言葉は誓ってまことのものでありましょうか?」
「無論でございます、宗繁殿。この足利高氏の名に懸けて」
「……結構。ならばたった一つ、この五大院宗繁よりお願いしたき儀が御座いまする」
「なんでしょうか? 私如き若輩で出来ることであればよいのですが」
「誓紙を頂戴
宴席全体が静まり返る。
それほどまでに衝撃的な発言であった。
一介の御内人風情が幕軍の総大将である足利高氏に「忠誠を誓う誓紙を出せ」と吹いたのだ。
一拍遅れて、辺りは騒然となった。
当然無礼を咎める者の声が圧倒的大多数… どころかまさにそれ一色であるという状況。
しかし男はそんな周囲からの罵倒の嵐など何処吹く風といった様子で声を発する。
「勿論無礼の段は百も承知。故、誓紙をいただけましたら某は腹を切りましょう!」
そう言い捨て運ばれていた膳の上にドンと小刀を置いたものだから、辺りは再び静まり返る。
完全に掌握していたと思っていた場の空気が、高氏の手元から転げ落ちた。
今、この宴席は五大院宗繁によって支配されている。
本人にそういったつもりは更々ないのであろうが。
宗繁は一貫して、何処までも真っ直ぐに高氏を見詰めている。
この場において対峙するは汝と我のただ二人のみで充分、とでも言うように。
「さぁ、返答や如何に!」
「宗繁殿、私は…」
ゆるりと弧を描いた高氏の口元から、『音』が漏れようとする。
「おうおう! さっきから聞いてりゃあ、やれ誓紙だ腹を切るだ辛気臭ぇことこの上ねぇ!」
しかし、音は言葉の形にならぬまま
誰あろう足利家郎党の筆頭武官が一人・
異変を察知した兄の師直の指示に従い、この場を御破算にするために割り込んだのである。
酒気を帯びた益荒男がその獣性を隠さぬまま威圧的に怒鳴り声を上げてきたのだ。
普通の人間ならば恐怖で縮み上がってもおかしくない。
当然誰よりも師泰を知る兄の師直はそう予期して弟を送り込んだのだ。
しかし、渦中の人物・五大院宗繁は師直にとって予測もつかないような行動に出る。
「何やら猪が
興味なさげに師泰を一瞥したかと思えば、高氏に談判の再開を求めたのである。
面目を潰されたのは師泰の方である。
酒気を帯びていることもあり、茹で蛸の如く顔を真っ赤に染め上げている。
その顔付きといったら地獄の赤鬼もかくやといった形相だ。
先程の緊迫感も忘れて、高氏は思わず吹き出てしまいそうになるところを咄嗟に堪える。
(野郎… とんだ恥をかかせやがって…!)
主のそんな様子を見た師泰は、恥をかかされたと目の前の気に喰わない男に怒りを燃やす。
そして未だ小刀が乗っている膳の上に、中身が溢れんほどに強く酒器を叩き付けた。
「お客人よ、酒が足りねぇからつまんねぇことを口走り始める。……俺の奢りだ、呑まれい」
対する宗繁は軽く眉根を寄せると、「要らん」と一言で切って捨てた。
ますます真っ赤になる師泰の様子に、高氏はとうとう忍び笑いを漏らしてしまう。
しかし人を殺せるのでないかと思うほど強く師泰に睨まれ、咳払いをしながら口を開いた。
「ご紹介が遅れましたな、宗繁殿。この者の名は高師泰。当家の軍事を差配しております」
胸を張りフンと鼻を鳴らす高師泰。
さてどんな詫びが出てくるのだろうと思っていたところ。
宗繁は、思わずといった調子で「えっ、コレが?」という小さな呟きを発してしまった。
不幸にもその呟きは師泰の耳に、そして高氏の耳にも届いてしまった。
堪らないのは高氏の方である。
あの師泰が精一杯格好つけてみた結果がコレだ。
腹を抑えて身をかがめ、大爆笑したいのを必死に堪える。
この格好ではどちらが切腹を申し出たのか分からない。
兄・師直が眉間を抑えてため息を吐いている様子を視界の隅に捉えながら師泰は声を荒げる。
「さては下戸か、貴様ぁ! 酒も呑めぬとは武士として恥ずべき有り様だなぁ、オイ!」
その言葉が意外だったのか、ここで宗繁は初めて師泰と視線を合わせ言葉を交わした。
「武士として恥ずかしいのはどちらだ。雑魚が酒呑みを自慢しても更に弱くなるだけだぞ」
心底呆れたような表情で告げる宗繁。あまりの発言に対して言葉を喪う師泰。
そしてついには大爆笑を始めてしまった高氏。
宴席の場は混沌に彩られた。
一方、宗繁も師泰に負けず劣らず密かに怒っていた。激怒と言っても良い。
先程のやり取りで、現時点で高氏に武では到底かなわないことを思い知ったのである。
幼い頃から我武者羅に鍛錬に励み、主君・高時に武芸の腕を褒めそやされた。
特別な許しを得て諸国を旅しながら様々な修行を積んできた。
そういったことで知らず識らず慢心していたのかもしれないと自省したほどである。
それを気付かせてくれた高氏に感謝の念が芽生えるほどにその衝撃は大きかった。
やはり自分は大したことないんだ。精々が武士の中堅程度。まだまだ伸びる余地はある。
高氏の返事次第では切腹しないといけないけれど、まぁ、それはそれで仕方ない。
いずれを選んでも己は武士としての役を果たすことが出来るのだと意気軒昂の至りであった。
記憶を取り戻す前から宗繁は少々おかしなところが多分にあった。
しかし、そこを(宗繁視点で)なんだかよく知らない酒気を帯びたオジサンに割り込まれた。
興醒めである。
宴席ならばままあることなれば、と適当にあしらい高氏との話を続けようとした。
なれども、しつこく食い下がってくる。
邪魔だなぁと思っていると高氏から「足利家の軍権を預かる者」と紹介されたのである。
宗繁はありえないと思った。だってこのオジサンは自分より弱いじゃんと思ったのだ。
無礼千万である。
無礼ついでに宗繁は彼なりに考えた。考えてしまったのだ。
一体何故に、高氏はこの(宗繁視点で)イマイチ強くない男を重用しているのだろうか。
高氏ほどの人物ならば、仮に襲撃があったところで難なくこれを返り討ちにするであろう。
仮に万が一高氏が苦戦するほどに相手が手練れであっても、彼が擁するほどの郎党だ。
その意識も別格に違いない。よく主を補佐して戦うことであろうことは想像に難くない。
断じて祝いの宴席とは言え主君より先に酒に呑まれる郎党などいようはずがない。
いてほしくない。……しかし、現実は非情であった。
話の途中で割り込んできた酔っ払いは、下っ端郎党どころか軍権を預かる立場にあるらしい。
しかもやたらと酒を勧めてくる。職業に対するプロ意識の欠片もない男にしか見えない。
宗繁にとって、それは夢を壊されたに等しい気分であった。
自然、対応も厳しいものとなる。
絶句している師泰に対して、宗繁は更に容赦ない言葉を浴びせる。
「酒に呑まれ動きも判断力も鈍らせて何の働きができる。高氏殿に守ってもらうつもりか?」
痛烈な皮肉であった。
酒が呑めぬことよりも何よりも、役目を果たせず主に守られる武士ほど情けないものはない。
確かに足利高氏は強い。鬼神のように強い。
むしろ足を引っ張る郎党たちがいない方が強いまである。
だからといってそれに甘えて主君を守るべき侍が酒を痛飲してよいはずがない。
自身が軍権を預かる立場にあるならば尚更である。
それを誰よりも深く理解したからこそ、師泰は烈火の如き怒りとともに再起動を果たした。
「俺が雑魚かどうか試してみるかテメェ! オメェ一人くらいこの場で絞め殺してやらぁ!」
「いかん! 堪えよ、師泰!」
如何に酔っているとはいえ師泰の常人離れしたその筋力は概ね健在である。
むしろ酒に酔っているからこそタガが外れている側面もあるのだ。
宗繁の襟首を掴み上げて絞め殺そうとした師泰の意図を悟り、高氏が制止の声を上げる。
しかし事態は高氏の想定した最悪のものへと至らなかった。
いや、より最悪な方へと転げ落ちたと言うべきかも知れないが。
宗繁はその手を素早く払い、背を向けつつ自身の肩越しに師泰の腕を掴む。
そして腰で師泰の身体を浮かせると同時に彼の足を払って…
深く頭を下げるような姿勢で勢いよく放り投げた。俗に言う『背負い投げ*7』である。
「……おぉおおおおおおおお!?」
師泰に突如訪れる浮遊感。それはおよそ経験したことのないような驚きであった。
弧を描くように飛んでいった師泰は屋敷の庭にある池へと飛び込み、盛大な水飛沫を上げる。
呆気に取られてその様子を見詰める一同。
それは師泰も同じである。
自身に何が起こったのかすら分からぬ様子で、池の中で尻餅をついて茫然自失の様相だ。
其処にいつの間にやってきていたのか…
「……足利家の軍配、ここに頂戴仕りました」
「ぐぬっ! て、テメェ…」
宗繁が、抜き手も見せぬ鮮やかな太刀捌きで師泰の首にそっと白刃を添えたのである。
これには高氏も苦笑を浮かべるばかりである。
郎党が勝手に仕掛けた喧嘩とはいえ、こうまで見事にのされては負けを認めるより他ない。
「お見事。……しかし、参りましたな。師泰は当家にとって二つとなき大切な宝」
「………」
「此方から仕掛けた身なれどどうか御目溢しを。無論、お望みの儀あらば如何様にも…」
これはいよいよ師泰の助命と引き換えに誓紙を書くしかないか?
そう高氏が考えていたところ、何を言うでもなく唐突に宗繁が太刀を収めた。
「宗繁殿?」
「臣思う心あらばこそ、君は君足り得る。その逆もまた然り」
「………」
「誓紙など不要。己が郎党を我が子の如く守らんとした高氏殿の赤心を信じます」
「宗繁殿…」
宗繁は
「目出度き宴席を水で濡らす無礼、誠に忍びなく、某はこの庭先より失礼仕ります」
誰も声を上げられない。
返事がないことを
少し遅れて馬の
それと同時に呪縛が解けたかのように宴席に喧騒が戻り始める。
「フン! 水で濡らす無礼だと? あの振る舞いや騒ぎを起こした時点で無礼千万よ」
「然り然り! あの慮外者がいなくなって清々するわ」
「高氏殿もご郎党があの無礼者に難癖をつけられて災難でしたなぁ!」
途端に元気になる幕臣に愛想笑いを振り撒きながら、高氏はその対応に追われるのであった。
そして時は再び西暦1333年へと戻る。
「うむうむ。宗繁殿との出会いの儀は驚きと意外性の連続であったなぁ」
「しかし、五大院宗繁めは死んだと新田義貞から報告が上がっておりますが」
「ハハハハハ! なんだ、師直。まさか君はそれを信じているのか?」
師直からすれば事実を告げただけのはずが大笑いをされてしまい、思わず渋面を作る。
「まぁ、宗繁殿の『鎧』は見事な戦死を遂げられたのであろうな」
「では兄上は、五大院宗繁めは生きていると?」
「うむ! 私の勘がそう告げておる」
「……兄上の勘は恐ろしいほどによく当たりますからなぁ。頭の痛い話です」
「嬉しさ半分、と言ったところではないか? 直義にとっては」
直義は苦笑いとともに「お戯れを」とやんわり兄の戯言を制止する。
足利派の人間の全てが全て、宗繁を敵視していたというわけではない。
特に直義は宗繁と考え方が合い、私的な交流を行いしばしば議論するほどの仲であった。
といっても、直義の側が一方的に講義するのが常であったのだが。
そしてもう一人。
「しかし君が酒を断ち一層鍛錬に励むようになったのが、まさか彼の影響だったとはね…」
「お恥ずかしき限りの次第に御座る」
高師泰もまた、敵意敬意が入り交じる感情ながら宗繁を認めていた一人であった。
彼はあの日の出来事を恥じた。
主君・高氏が責めないからこそ誰よりも痛烈に己を責めて猛省した。
そしていつかあのいけ好かない男を叩きのめし、「我こそ真の武士也」と胸を張ってみせる。
その一心で一人の武士として恥じない生活を心掛け、厳しい鍛錬に励んできたのだ。
尊氏は、揺るぎ無い忠心が印象的だったあの男の影響力を改めて思い知る気分となった。
「うぅむ、こんなことになるなら誓紙と引き換えに首を貰っておくべきだったかなぁ」
頼もしい郎党を見渡しながらそんなことを言ってのける尊氏に、師直が同意の言葉を続けた。
「紙切れ一枚で不穏分子が事前に減るならばこれほど効率的なことはありますまい」
しかしそれに待ったをかけるものがいる。直義である。
「君にとってそうだから他人にとっても常にそうだとは限らないぞ、師直」
「……直義様」
「もし心底からそう考えてしまっているとしたら、其処が今の君の限界ということだろう」
直義は、今度は諍いの種となることを恐れずに強く言い切った。
何処か空気の入れ替わったような家臣団を見て、尊氏は思考を巡らせる。
(全く、惜しいことをしたものだ。若君のみならず宗繁殿まで取り零すとは…)
後醍醐天皇の三度目の乱の征伐に赴く際、尊氏は主君・高時にこう告げていたのだ。
『宗繁殿のご母堂がご危篤との由、どうか彼に帰郷の御許可をお与えくださいませぬか?』
幕府とて喪に服したい尊氏に出兵を強要したものの、後ろめたくは思っていた。
その彼に肉親の危篤のことで当て擦られては堪らない。
まして高時と宗繁は絶対とも言える強い関係で結ばれている。
高時を傀儡として操る幕臣にとって、一御内人などどうでも良かったこともある。
だからこそ、高時はその甘言に乗って忠義に厚い腹心を切り離してしまったのであった。
こうすることで宗繁はその力を発揮させないまま幕府は滅びる。尊氏はそう考えた。
実際、その読みどおりに事は運んだ。幕府は滅び京も西国(主に九州)も掌中に収めた。
残党は多少現れたものの、散発的な抵抗を潰すのは蟻を踏むより簡単なことであった。
隆盛を誇った北条家を反乱より僅か四十三日で駆逐した、稀代の脚本家の面目躍如である。
後は一人の武士がのこのこ戻ってこようが出来ることなどなにもない。
他の諸侯と同様、足利に恭順するならばよし。
そうでないならば残念だが斬ってしまえばよし。
……そのはずであった。
しかし、尊氏にとっては想定外なことに現実はそのいずれにも転ばなかったのである。
(新田殿にも困ったものだなぁ… いや、誰にでも仕方のないことはあるか)
まだ赤子とも言える自らの子供を預け、関東における全権を委ねた武将・新田義貞。
彼が若君と宗繁、そのどちらも見事に取り逃がしてしまったのである。
新田義貞は決して無能な武将ではない。であれば、相手が一枚も二枚も
抑えきれない喜悦の笑みをこぼしながら、尊氏は一族郎党を振り返り声を掛ける。
「これは面白くなってきた。私もがんばらねばならないな。皆もどうか力を貸して欲しい」
その澄んだ秋空にも似た爽やかな笑顔は、家臣の心を一つに纏め上げ力とするのであった。
……悪魔の如き知略を持つ者の内心を覆い隠しながら。
逸話
『五大院流柔術』
五大院宗繁が創始したわけではないが、太平記などの記述から五大院宗繁が高師泰と諍いを起こした際に今日で言うところの所謂「背負い投げ」をしてみせたことは通説となっている。それに肖り五大院宗繁こそが日本で最初に柔術を扱ってみせたという触れ込みで明治初期に五大院流を名乗る柔術・柔道が全国で大流行する事態となった。
背負い投げ(らしき技)しか記述がないために如何に独自性を生み出すかが各道場で焦点となり、王道からキワモノまであらゆる五大院流が一時期日本を席巻したようである。
今日においては専門家の中では相撲の決まり手として文字通りの「一本背負い投げ」が存在することから、武芸豊かな五大院宗繁が修行の旅の途上で武内宿禰ゆかりの相撲を学んだのではないかという考察がされている。