「久しぶりじゃのう。わしのことは覚えておるかな」
父が招いた老人は、極彩色の羽の冠や奇石のビーズ装飾を身につけた、その奇妙ないでたちからは予想外の人好きのする笑みを浮かべてそう問うてきた。
「あー、えっと……悪いが思い出せない」
昏睡からの覚醒以後、私の記憶には多少の混乱があった。多分それは、母に真名で呼ばれるまでの、あの別人としか思えない「私」の記憶が混ざってしまったからだろう。その影響なのか、それとも本当に記憶にないのか、私はこの老人のことを覚えてなかった。
老人は特に気にした様子もなく、「それは残念」と言った。
「まあ最後に会ったのは、まだ六、七才のこんなに小さかった頃ゆえ。あれからもう八年も経ってしまえば、忘れるのもむりはないじゃろうて」
老人は大袈裟な身振り手振りを加えて話しているが、無理にそう演じているという感じは全くない。側から見れば滑稽な姿と仕草であるが、こうして間近に話してみると、それらが見事に調和し、なんともいえぬ威厳のようなものまで醸し出している。
「わしは占いなり祈祷なりで日銭稼ぎをやっとるしがないジジイじゃ。たまに人に頼まれて、病気の者や憑かれた者を
老人の言葉に私は「えっ」と声をあげて、父を振り返った。
「お前は成人の儀を終えた途端に倒れた。悪霊の中には子供と大人の狭間の人間に好んで取り憑くモノもあるという。念のため
多少説明不足な感はあるが、どうやら父は私が倒れたのは悪霊の仕業であると考えているようだった。自分自身で振り返ってみると、あのどこかちがう世界を知っていたもう一人の私は、たしかに悪霊に思えなくもない。
「そういうことじゃ。まあ見たところ悪いモノに憑かれたという事ではなさそうじゃがな」
「見ただけでわかるのか? あー、ウカンさま?」
「ジイでよいぞ。まあそうじゃな、長いこと世を生きていると大抵のことはわかるようになるんじゃ。そのわしが見たところ、お前さんには悪いものが憑いているようにはみえん」
ジイ様の言葉に私のみならず、父や母までホッと胸をなでおろした。幼い弟は良く分かっていないようで、ジイ様の派手な着物を物珍しそうにながめている。
「待て待て、悪いものが憑いてないのは確かじゃが。ナニかに憑かれていないと言ったわけではないぞ」
ようやく安心できるという笑みを浮かべていた父たちの顔がにわかに強張った。私も似たような表情をしているのかもしれないが、傍から見る分にはよく表情の動く人たちでおもしろい。
「羽冠様! やはり息子には悪霊が憑りついているのですか!?」
詰め寄る母をジイ様はおもしろそうに眺めていた。もしかしたら私と似たようなことを思っているのかもしれない。
それにしても今の母上からは、私を看病していた時の気丈さを全く感じられない。とはいえ、あの気丈な母上がそれほどまでに心配してくれているということに、気恥ずかしさと共に嬉しさを感じた。
「落ち着け落ち着け。それを調べるためにわしを呼んだのじゃろうが。まだなーんにも話してないじゃろう」
そう言うとジイ様は私の方に向き直った。
「さてさて、於夫羅よ。これからお前にいくつか質問をさせてもらう。お前も年ごろの若者ではある。もし聞かれたくないというのなら親父さんたちには部屋を出てもらうが、どうする?」
母はその言葉に抗議しようとしたが、父がそれを制した。どうやら私の意見を尊重してくれるらしい。
「いや、父上たちにはここに居てもらいたい。どうせ寝ていた時には下の世話までしてもらっていたんだから、今更恥ずかしいもなにもないよ」
こんな強がったことを言って見せたが、昏睡状態のときの私はおむつ着用である。父や母どころか、私の世話をした侍女や召使にはバッチリといろんなモノを見られている。それを思うと身を悶えるほどに恥ずかしい。
だからこそ、そんな世話までかけた人たちには、私の状態を知る権利がある。昏睡前の私なら恥ずかしがって聞かせなかったかもしれないが、今の私はどういうわけかそういうことまで考えられるようになっていた。これもジイ様のいう「ナニか」に憑かれた影響だろうか。
ジイ様は私の答えに少し目を細めた。
「その
そうつぶやくとジイ様は私の顔をしばらくじっと見つめてきた。
この時初めて気づいたが、この老人の瞳は白く濁っており、おそらくほとんど見えていないのではないか。その白濁した瞳で見つめられると、心の底まで見透かされるような感覚に陥った。しかし、そこに不快感はない。無理に押し入ってくるというものではなく、するりと自然に入り込まれたというような不思議な感覚である。
「ふむう。なんとも不思議じゃ」
しばらく見つめ合っていると、ジイ様はそうこぼした。
「まあまあ、とりあえずいくつか質問させてもらうとするかの」
ジイ様の言葉に私が疑問を口にしようとすると、ジイ様はそう言って私の言葉をさえぎった。
質問は二十分ほど──「分」や「秒」という時間をあらわす概念をいつの間にか私は知っていた。どう考えても件の人格の影響だろう──で終わった。昏睡から覚めた後のことについても当然聞かれたが、私はこれに正直に答えた。
あの時の私には、明らかに「於夫羅」ではない別の記憶を持った人格が存在し、その意識が体を支配していた。しかも、私はその異なる人格──すでに希薄なものであったが──を受け入れ、その一部を取り込んだとしか思えない状態にある。
語りながら思い返してみると、我がことながら気味の悪い話だ。
ジイ様は私の話す言葉一つ一つをゆっくりと反芻するように飲み込んでいたが、対して父と母は流石にこの異常な話に顔を強張らせていた。ついでながら、弟は話し始めてすぐに眠りの世界に招かれてしまったことも付け加えておく。
「なんともなんとも。実に奇異な話じゃ」
話を聞き終えたジイ様は顎髭をしごきながらそう漏らした。
だがその話し振りからは深刻さというものが感じられず、未だ緊張を保ったままの父は困惑したようにジイ様を仰ぎ見た。
「羽冠様、そう一人で納得されても困ります。……息子は、大丈夫なのですか?」
「そうです! 玄烏の話し振りではまるで悪霊に乗っ取られたかのようではないですか! 玄烏は悪霊に憑かれているのではないのですか⁉︎」
父の言葉にはじかれたように顔を上げた母は、蒼白となった顔に険しい表情を浮かべジイ様に問い詰めた。その必死な様子に眠っていた呼廚泉がビクッと身体を震わし、気圧されるのが視界の隅に映った。
「息子が心配なのはわかるがそう殺気立つな。それこそ悪霊どもを喜ばすだけじゃ」
ジイ様は語りかけるように話したはずであるのに、まるで一喝されたかのようにその言葉が心根にしみこんできた。それは母も同じであったようで、我に返った母は怯える呼廚泉を抱きしめた。
「……それでジイ様。結局のところ私には悪霊が憑いたままなのですか?」
母が弟を抱きとめているのを尻目に、私はジイ様に問いかけた。
「最初に言ったがお前さんに憑いていたのは悪霊の類ではない。それは確かじゃ。人に憑りつくようなのは大抵動物の精霊や下等な悪霊なんじゃが、お前さんの話を聞く限り、どうもそういった連中とはもっと異質なモノの影響を受けたとみえる」
ジイ様はそこまで言い切ると、「かれこれ七十年も前のことじゃが、わが師から似たような話を聞いたことがある」と前置きして言葉を続けた。
「偉大なる冒頓単于より興った大匈奴は、かつて西域から朝鮮までを支配下に置き、漢人さえも我らが単于の顔色を伺わずには物事を決することができんかった。しかし大匈奴は分裂に分裂を重ね、あるものは西に走り、あるものは鮮卑や烏丸などという小族にとって代わられ、あるものは仇敵 漢の番犬に成り下がってしまいおった」
何を語るのかと緊張していた私と母は、ジイ様の語る昔話に少しばかり拍子抜けし、父は顔を強張らせた。
当然である。ジイ様の語った「漢の番犬に成り下がった」匈奴を、単于として率いているのは父なのだから。そしてジイ様の語るとおり、今の匈奴は、漢の地で反乱が起きれば猟犬のように駆り出され、鮮卑どもが侵攻してくれば番犬として矢面に立ってきた。もっと言うなら、漢の一将軍によって単于の廃立が行われたことすらあり、父も漢人の手によって単于の地位に即いた。だが、それと私の状況とどう関係するというのか。
「その話については恐懼するほかありませんが、一体そのことと息子のこととがどのように関わっているとおっしゃるのか。まさか祖霊が現世のありさまを嘆き、私の代わりに於夫羅に罰を降されたというのか」
席を立つことこそなかったものの、ジイ様のあんまりな言いように流石に怒りを感じたのか、父はジイ様の話をさえぎり詰問するかのような語気の強さをみせた。
「そうは言っておらん。とはいえおぬしの気分を害したのは謝ろう。えてしてジジイの話というのは冗長なものじゃ、もうしばし辛抱してわしの話を聞け」
ジイ様は父に気圧されるでもなく、素直に謝罪しその言葉を飄々と受け流した。敢えなくいなされた父は、ジイ様の言葉にとりあえず冷静さを取り戻し、再び話を聞く姿勢をみせた。
「まあ辛抱しろとは言ったが、長々と話すこともあるまい。前置きはさておき、要点だけをまとめて話すとするかの」
父の反応に一応は反省したのか、ジイ様は髭を扱きながらそう付け加えると、咳払いをして再び語り出した。
「わしの師は匈奴が南北に分裂する以前、西域の諸国を巡って浮屠という神を信仰する者たちに出会ったという。師の聞いたところによると、その神は西域のさらに西の安息から来たとも南の天竺から来たとも判然とはしなかったそうじゃが、その教えの一つには聖人となれなんだ人間は、死後に天上界や地下界に行くでもなく、罪苦を背負いながら人間やら動物やらとなって蘇るというものがあったそうじゃ」
ジイ様の話に、件の人格のかすかに残った記憶から仏教と輪廻転生という単語が浮かんできたが、その詳細についてはそれ以上に思い出せそうになかった。だがジイ様の言わんとするところは何となく理解できた気がした。
「つまり悪霊だと思っていたモノは浮屠教のいうところの生前の私自身である、とジイ様はおっしゃるわけですか」
「うむ、理解が早くてたすかるのう。浮屠の教えを信じるのなら、聖人となれなかった者は生まれ変わりを繰り返すというのじゃからな。今のお前さんと先の世のお前さんの魂は同一のものであるから、その記憶を思い出すということも可能性としてはあるじゃろう。それに十五歳という肉体と魂が大人と子供の狭間にある不安定な時期であればこそ、その隙をついて眠っていた先の世の意識が現れることができたとも考えられるのう」
ジイ様は語り終わると用意されていた水を一口に飲み干した。それを合図にする様に、父と母が小さく息を吐く音が聞こえた。だがまだ私には疑問が残っていた。
「ジイ様の話は一応は筋が通っていると思いますが、なんでまた浮屠とかいう西域の神の影響を受けたのでしょうか? どうもそこが理解できません」
「たしかに、我が先祖は西域に支配を及ぼしたとはいえ、ここ百年はほとんど関係を持っていない。それがどうして突然於夫羅に……」
「あるいはこれは吉兆やもしれぬな。西域の神がお主の息子於夫羅に加護を与え、西域は再び匈奴の支配下に入るという」
髭を扱きながらジイ様はそうとんでもないことを言い放った。
その言葉に一瞬部屋の空気が凍るのを感じた。
「な、なんとも、なんとも滅多なことを言われる。いくら羽冠様が俗世を離れられているとはいえ、軽々しく左様なことを言われては困ります! 今の言葉、もし漢人に聞かれては如何に羽冠様とはいえ無事では済みませんぞ!」
最初に口を開いたのは父であった。私の混濁した記憶の中からこれほど慌てふためく父の姿を見た覚えはない。それとは対照的に、ジイ様は実に愉快そうに顔を歪めている。
「何を驚くことがあろうか。西域の神がわざわざ単于であるおぬしの息子に力を働きかけたという事は、今後その神が支配下に入ることを暗示していると考えるのはおかしくあるまい。むしろ喜ぶべきじゃ。於夫羅の代には百年にわたる漢の楔を打ち破って匈奴の再興がなるやもしれぬというのじゃからな。実にめでたいことではないか」
そこまで言い放つと、ジイ様はついに大口を開けて笑い始めた。その破顔した様など、見ているだけで愉快な気分になれるほどであった
そんなジイ様を母は呆れとも困惑ともつかぬ顔で見つめ、母に抱かれる呼廚泉はジイ様につられて無邪気に笑っていた。
父はというと、頭を抱えるようにして押し黙っていたが、ちらりと私に向けた瞳には、何かを渇望するかのような妖しい光を宿していた。
──どうも大変な事が起こりそうだ
私は、自身の運命がより大きな存在に翻弄されるような、言い知れぬ不気味さを感じた。