「わたしは漢を滅ぼすために洛陽へ帰ります」
蔡琰の言い放った言葉は、匈奴人の一人としては実に胸のすくような面白いものだった。もし、ここがどこぞの酒呑場で、酔っ払いが酔いに任せて吐いた妄言であるなら、皆で笑い飛ばしてこの話は終わりだ。
だが、そうではない。そんな愉快痛快な妄言を吐いたのは漢の名士として名高い蔡邕の一人娘 蔡琰である。そして、その言葉を聞いたのは市井の飲み仲間なんかではなく、匈奴単于の嫡子にして左賢王の於夫羅と単于の弟であり右賢王である去卑という匈奴きっての有力者たちだったのだ。しかもここは匈奴の本拠地である単于庭だ。もはや、笑い話では済まない。
「漢に復讐するとは、また途方もない話だ。しかもそんな言葉が、あの蔡邕の娘の口から飛び出すとはな」
この空間を支配していた重苦しい空気を払ったのは、去卑の言葉だった。
「あらためて聞くが、蔡琰、気は確かか」
蔡琰は叔父の言葉に初めて笑顔を見せた。
「正気、そんなものは家族と共に死んでしまいました。漢を滅ぼすなんて気が狂ってないと言えないですものね」
蔡琰は微笑みを浮かべたまま、私に顔を向けた。
この時が、私と蔡琰が互いの顔を見つめ合った最初の瞬間だった。
さっきまではこの顔に純粋な美しさしか感じられなかったが、今となってはそれすら魔性なものに思えた。我ながら現金なことではある。
「於夫羅さま。今度はこちらから聞かせてください」
「な、なにか」
「貴方は今の話を聞いた上で、わたしの身を引き受けてくれるのですか」
私は即答は避け、薬湯の入った椀を一息に煽った。口内に薬湯特有の苦味が広がったが、今はそれがありがたかった。
苦味によって冷静になった頭が、この女は危険だ、と告げてきた。だが、そんな事は彼女自身が一番わかっているはずだ。
そもそも、今ここで復讐について私たちに話す必要はないではないか。一先ず私の保護下に入り、洛陽に随行してから陰謀なりなんなりを巡らせればいい。彼女自身が狂ったと言ってはいるが、理性まで失ったようには見えない。だとすれば何か意図があるんじゃないのか?
……わからない。蔡琰の状況を自分なりに考えてみたが、家族が死に、自分一人が生き残ったという極限の状態から、下手人ではなく漢という国家を滅ぼすという思考が、まずわからない。
──まさか、本当に狂ってしまったのか?
そうとしか考えられぬほど、蔡琰の発想は飛躍しているし、常識という枠を超えている。
宦官や濁流派を滅ぼすだけでも困難だというのに、漢そのものを滅ぼすなど、家族を失った10代の少女に出来るはずもない。それこそ、この世のあらゆる神々の加護を得た英雄が全生涯をかけて、やっとのことで成し遂げるような話ではないか。
──神々の加護
自分が心中に発したその言葉は、なぜか強く脳裏に刻まれた。
それと同時に、「まさか」という思いと、「そういうことか」という相反する二つの思いが脳裏に浮かび上がった。そして、その思いの天秤は、ゆっくりと確実に片方へと傾いていった。
──なるほど、そういうことなのだ。これは、この告白は、蔡琰が自身の運命を占うための儀式なのだ。天涯孤独の彼女が漢を滅ぼすことなど、どう考えても不可能だ。それを成し遂げるただ一つの方法は神々の力を借りることしかない。漢人風に言えば、天命を受けることによるしかないのだ。
そう考えると蔡琰の不可解な行動の意味が理解できたし、他にもスッと腑に落ちるものがあった。
──あるいはこれは吉兆やもしれぬな。西域の神がお主の息子於夫羅に加護を与え、西域は再び匈奴の支配下に入るという。
羽冠のジイ様が予言したこの言葉は、もしかすると彼女の運命に通じているのではないか。
あの時のジイ様は私が匈奴を漢より解放すると考えていたが、実際には蔡琰が漢を滅ぼすか、その支配体制に打撃を与える。そして、そのどさくさに紛れて私が匈奴の独立と西域の再征服を行うというのが、神々の描いた筋書きなのではなかろうか。
これならば、漢という大国の楔を脱し、西域を支配するという夢物語も、なんとか実現できそうな気がしてきた。
実際、蔡琰は家族が皆殺しに遭っていながらただ一人生き残り、漢に対抗し得る力を持つ匈奴の王の弟に救出されるというような、偶然とは言い難い出来事を立て続けに起こしている。これらは蔡琰が神々の加護を受けている何よりの証拠なのではないのか? 彼女を私の元に送り込んだのは去卑ではなく、神々なのではないか?
そうであるならば、神々の意志を尊重して、彼女を受け入れ、協力すべきだ。
もちろん、その道は我ら匈奴に多大な苦難を与えるであろうし、もし神々に見放されれば、その時こそ匈奴は滅びてしまうかもしれない。そもそも、私のこの考えがまるっきり見当はずれであるかもしれないのだ。
だからといって、私に流れる冒頓単于をはじめとする偉大な先祖たちの血は、このまま漢の奴隷として滅びていくことを潔しとしない。むしろ、民族の誇りをかけて戦った末に滅びることをこそ、よしとする。
いささか過激ではあるし、私こそ発想が飛躍しすぎているきらいがあるが、もはや私の中では答えは決まった。
私は再び蔡琰を見つめた。
やはり、美しかった。先ほど感じた魔性のものなど露ほども見られなかった。それどころか、どこか犯し難い神聖さを感じた。
神々から天命を下された者の面差しとはこういうものなのであろう、という感慨深ささえ感じてしまう。
「昭姫、君を受け入れよう」
言い終わると、私は蔡琰に手を伸ばした。
蔡琰は気の抜けたような顔を一瞬したが、ゆっくりと私の手を取った。
「於夫羅さま、あらためて聞きます。……気は確かですか?」
私の手を握る蔡琰は、急にしかめ面をし、わざとらしい低い声でそう言った。
予想だにしなかったこの意趣返しに、今度は私の方が面食らってしまった。この発言の主である去卑も流石に驚いたのか、ポカンと呆けているのが視界の端に映った。
この冗談とも皮肉ともつかぬ言葉に、蔡琰という少女を覆っていた神秘性が急速に剥がれ落ち、少し皮肉っぽい年相応の少女の姿が見えた気がした。
蔡琰の美貌を神格化し、民族の誇りだの天命だのを投影して四角く考えていた自分が滑稽であった。あるいは、今の彼女の姿さえ私の幻想だろうか。
──どうも私は場の空気に呑まれやすい、単純な人間らしい。
自嘲しつつも、私は蔡琰に答えた。
「漢を滅ぼすなんて無謀に付き合うのは狂人しかいないよ」
例の昏倒事件以来、神々の掌の上で踊らされているかのような不気味なモノがあった。ここに至って、やはりあの事件によって、私の運命は狂わされたのだという確信を得た。
ならば、抵抗するだけ無駄である。せいぜい天上の神々に飽きられないように踊り狂うほかないのだ。
「氏は攣鞮、名は於夫羅。真名は玄烏だ」
気がつけば、そう言っていた。
「蔡琰、字は昭姫。真名は琵琶。わたしの話を聞いてしまった於夫羅さまはもはや逃れられません。この狂人の気が済むまで付き合ってもらいます」
その美貌の底から吐き出されてくるのは、やはり10代の少女に似つかわしくない、復讐者としての言葉だった。
「ふふっ、わたしたちの関係は、さながら比翼連理の仲といったところでしょうか? 於夫羅さま、どうぞ末長くよろしくお願いいたします」
蔡琰は悪戯っぽく、皮肉っぽく、意地の悪い笑みを浮かべた。
その笑顔は、彼女の怜悧な美貌に実によく似合っていた。
復讐者としての決意を湛えた憂いの表情よりも、よほど。
短めですが、今後モチベ維持と文章慣れ、投稿ペースのためにも2千字前後で投稿していくかもしれません。
あと、第1話、第2話とかだと寂しいので、サブタイつけてみました。