秋色の髪を靡かせ、白い風のように。緑の眸に星を湛えて。
どこまでもどこまでも、遠くへ逃げていく。
その娘はどこか浮世離れしたような静かな空気をまとっていた。赤朽葉色というのか、赤みがかった茶色の髪に、碧く水を湛えたような緑柱色の眸。まとう空気と相俟って静けさに沈む秋を思わせる娘の美しい緑柱色の眸はいつも遠くを見ていて、時折綻ぶように微笑みにとける。
──あの子は何処を見ているのだろうか。
気になってなんとはなしに眺める先。何度も繰り返し走り続ける娘はとても綺麗な走りをしていた。視線はまっすぐにずっと前方を見据えている。
それが、最初。
ただただひたむきに、何者にも追いつけず邪魔されない速度の向こう、誰もいない静けさの中にある景色を求めているのだと知ったのは、その後しばらく経ってからだった。
娘は走ることをとても愛していた。
もしかするとそれ以外何も持っていないのではないかと、そう思えるほどに走ることを求めていた。
加速し、疾走し、誰も彼も、歓声すら置き去りにして辿り着く景色にいたいという渇望が常に彼女を突き動かす。「何ものにも先頭を譲りたくない」といういっそ無垢なほど透徹した願いと練り上げられた走りは追随を許さず、ひどく美しいものだった。
自分以外誰もいない圧倒的な速度は孤独なものだが、その孤独はひどく美しい。そしてそれを娘は孤独だと思っていなかった。
どこまでもひたむきに、夢のように、自由を追い求める。
そのありさまがあまりに透明で綺麗だったものだから、彼女の思うままに走らせてやりたいと、心からそう思ったのをよく覚えている。
さて物静かで憂いのある、どこか周囲から隔絶したような雰囲気のある娘だったが、話してみればそう口数が多くないだけで、素直でマイペースな気質であるらしい。当初はお互いに戸惑いこそしたが、慣れればまるで元からそうであったかのように馴染んでいったし、過ごしているうち色々と発見もあった。一人でいることは苦痛ではないがどうやら寂しがりなのではないという面もあり、鷹揚でどこか人懐こい。気心知れた相手には悪戯な顔も見せるし、人付き合いも悪くない。実際彼女を慕う者も多かった。
娘は気が付けばひっそりと自分の隣にいる。気を引くための余計な言葉も仕草も必要なく、互いの間には穏やかな沈黙と温度が常にあった。普段遠くを見ている目はこちらと合うと人懐っこい笑みを見せる。
静けさが響きあうような、その距離感がとても心地良かった。
娘は思う存分走り、私はその姿を見守る。
いつかは抜けるような青空の下で、雨上がりの空気の清々しさに笑い、ある時は夕焼けの眩しさに感嘆し、そして天の星空を眺めながら。
娘と二人、穏やかな時間を何度も送った。
……娘に危うさが付きまとっていることに気付いたのは、いつからだっただろうか。
娘の脚は最高のものへと成長しつつあった。生来の柔らかさに誰にも影を踏ませない速度、気力、それらが研磨されより美しいものへ育った走りは宝石のように目を釘づけにする。先のレースでも多くの観客を魅了し歓喜させた。
だからこそ、不安になる──影を踏ませず圧倒的な速度で駆けるこの娘は、いつかそのまま静けさに消えるのではないかと。
もしかしたらいつか、静謐の向こうへ一人、夢のような残影だけを置いて行ってしまうのではないか。一人だけ、もう誰も追って来れないところへいってしまうのではないかと。取り返しのつかない何かに足を掴まれているような、得体のしれない不穏がひたひたと首筋を撫でる。
この頃、脚が磨き上げられるにつれ娘の走りへの執念と言えばよいのか──渇望と熱が常軌を逸しつつあった。傍目からはそうと分からないかもしれないが、傍に長いこといた者は皆、薄っすらとそれを肌で感じているようだった。秋という季節が気が付けばその静寂と冷たさを深く増しているように、娘の狂気にも似た執念は日に日に増し、まるで何かに追い立てられているように──生き急いでいるようにすら見えた。いつものように、いや、常のそれよりもずっと遠くの景色を見つめる目に、胸がひどく騒ぐ。
美しく秀でているものは、それだけ「向こう側」へ連れて行かれやすい。愛されているからこそ際立つからこそ、連れていかれてしまう。それが狂気に近いからなのか、ひとつのためにあらゆるものを費やし燃やしつくそうとするからなのかは、凡庸な自分には分からない。
何処にもいかないでほしい。この娘を連れていかないでほしい。
できるならばいつまでも繋ぎとめておきたい。何処にも、遠くへ行ってしまわないように。
だが、そうしてしまえばこの美しい娘から何よりも大切な切望を奪うことになってしまうだろう。それだけはできなかった。
出会った当初の娘を思い出す。当時のトレーナーにレースに出せないと告げられた時のあの、途方に暮れたような、幼く悲痛な表情を。
何よりも走ることを望んでいる彼女に、走るなと言えるだろうか。
走らせてやりたくて、手を取ったのに。
何処までも走らせてやりたい。思うまま、自由に、速度の向こうへと行かせてやりたい。
自分はあの幼いほど純粋に走ることを愛している娘を愛しているのだ。
遠くに行かないでくれ、などと、言えるはずがない。
堂々巡りで覚悟は決まらないまま。
私の焦燥も娘の狂熱も知らぬ顔で、ゆっくりと季節は顔を変えていく。
いつだったか、師事していた先輩トレーナーと酒を飲みに行った時のことを思い出す。
「長年付き合ってくりゃ、そりゃ忘れられないほど残った記憶やコも出てくるよ。いっぱいしてやりたいことも叶えてやりてえこともあった、楽しかったことも腹が立ったことも、たくさんだ」
嗄れた声がアルコールでさらに掠れて、ざらざらと部屋の隅に溜まった沈黙に溶けていくようだった。
「そん中でもよ、忘れられねえコがいたんだよ。すげえコでな、天才っていうのとはまた違うんだろうが……誰より走ることってのに対しての執着が強いというのか、それしか持たねえような。走りも脚も良いんだが、何よりその執念こそがすごかった。天から降ろされたってのはああいうのを言うんじゃねえかって、柄にもなく思ったことがあったよ」
「でもな、脚をやっちまった。レースのもうホント直前でな。それも今が最盛期って時で……今は何とかなっても今日走っちまったらどうなるか分からねえ、もしかしたら普通に歩くのすら危なくなるかもしれねえ……すぐにでも医者にかからきゃならねえような具合だった。だからな、今回は諦めて治療に専念しようってあのコに言ったんだ。そしたらよ、“どうか走らせてください”って」
──ここで走れなかったら、今走れない方が、死ぬよりつらい。
──だから、わたし、レースに出ます。
「時々いるんだ、何もかも全部置いてでも走りてえってやつが。どんな言葉かけようがテコでも動かねえってなぐらい真っ直ぐな目でよ、走りたいって言うんだ。それでもよ、そんなの聞けねえだろ。この先ずっと長く走って生きたいなら、諦めた方がよかった。俺たちはトレーナーだ。一番傍でずっと来る日も来る日も見守って応援して、そうして育ててきたウマ娘の大事な将来を守るってのも俺らの役割だ。体壊しちまって走れなくなったやつらもたくさん見てきたんだ。だから、どれだけ懇願されても首を振っちゃならねえ。でもよ、」
「そのコの走りを一番見てえって、叶えてやりてえって思うのも、俺らトレーナーなんだよな。走らせてやりたいって思っちまった」
グラスに残った酒を一気に飲み干し、しばし言葉が途切れる。その猶予に過った感情はなんだっただろう。
「覚えておきな。俺たちトレーナーはいつか、選択を迫られる時が来る。現実を取るか夢の方を取るかはわからねえし、後から思い出しゃ些細な事かもしれねえが──ひとでなしになる覚悟をしなきゃならねえ一瞬が来る」
その一瞬のためにどちらを選ぶかっていう覚悟をだ。
そしてそのために、大事なウマ娘の全部を台無しにするかもしれねえっていう、クソみてえな決断を。
──先輩は。
どう返したものか迷った私の言葉に、一言だけぽつりと落ちた。
「ひとでなしだよ」
脳のずっと深いところに刺さっていたその言葉が思い起こされる。
その出来事があった数日後、先輩はトレーナーを辞めて学園を去って行った。
私はトレーナーだ。もし万が一があった時は、何がなんでも止めなくてはならない。それがどれだけ娘を傷つけるものであっても、「この先」を望むなら娘にとって非情な判断もしなくてはならない。……だが、その時が来たとき、果たして自分は正しく選べるのだろうか。
ウマ娘の最盛期は意外と短いと言われている。もしかしたらヒトのそれよりも短いのではないだろうか。短くも鮮烈で苛烈に、強く美しいからこそ、私たちは惹きつけられてやまない。
その今最高へと達した自分の脚で勝負したい。魅せつけたい。叩きつけたい。その衝動は私たちの思っている以上に激しい渇望なのではないか。そうだとしたら、止められるものだろうか。それほどまでに望んでいる娘から。
そして何より──娘の輝きに魅せられているからこそ、その輝きに目が眩んで惨い未来の待つ選択をする、愚かで醜い自分が決断の一瞬にいないと、断言できるだろうか。
夢のために、娘のために、ともっともらしいことをほざいて過ちを犯し、そして何もかも台無しにするような、自己保身と欲にまみれたおぞましい私がそこにいるのではないかと思うと、羞恥に首を掻き毟りたくなる。
どうか、何事も起こらないでほしい。
ただの思い過ごし、生き急ぐようなあの様も一過性で、このまま無事に彼女が走り続けられたなら、それでいい。
──だが、もしそうでなかったら。
娘の身を案じる自分と娘に魅せられた自分が常に鬩ぎ合っては答えが出せないまま、季節は夏から秋へと変わった。
もう一話続きます。