STAR SHAPE   作:イチ氏

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歓声が鼓膜に突き刺さる。
静けさには程遠いが、今だけは許してほしい。
今のあなたに、沈黙は似合わない。


しずけさのほし・後

「必ず帰ってきます」

 

 緑柱色の眸に星を湛えて娘が言う。

 ああ、悪い予感はこのこれだったのだと思った。ずっと付きまとい続けた黒い影が現実になろうとしている。

 

 ──想うのであれば、きっと止めるべきだろう。「これから先」を望むのならば。この娘を案じているならば。

 

 口を開こうとして、だがその目を見て、いつか二人で見た夜空の無数の瞬きを思い出した。

 私と彼女しかいない練習場、静まり返った夜。遠くでささやかに虫が鳴いていた。少し冷えた夜気を切るように走る彼女を見守る頭上で硝子片を撒いたように光が煌めいていた。

 あの時の静かな光が眸の中で強く、真っ直ぐにこちらを見ていた。

 それを見たら、掛けられる言葉はもう、決まっていた。

 

 ゴールで待っていると言うと、心底嬉しそうに娘が笑った。

 

 

 ふと、私は今この時のためにこの娘と出会ったのかもしれないと思った。

 なんとも傲慢で、身勝手な錯覚だ。

 いつかの先輩の言葉がつかの間脳裏に過ぎる。

 ひとでなしになる覚悟を、決めよう。

 

 

 

 

 冬をもう間近に感じる、少しツンと鼻の奥が痛むような空気。

 よく澄んだ、冬晴れという言葉が相応しい空の下、ゲートから勢いよく飛び出した十数人の風が色とりどりに疾走する。その先頭には彼女がいる。後続に影を踏ませず、鬩ぎ合いから抜け、自分以外誰一人としていない景色へと逃げていく。

 彼女の名前を叫ぶも声は雑踏に紛れて自分の耳にも届かなかった。

 

(どうか、)

 

 不安の鎌は今でも首に掛かっている。本当にこの選択は正しかったのか。ひとでなしになる覚悟を決めたくせに、もしもを考えると震えそうになるほど恐ろしかった。掌に爪が食い込むほど握り締め、食い入るように、一瞬たりとも見逃さないように、走る娘を見つめる。

 レースは始まってしまった。こうなったらもう信じて待つしかないだろう。あの娘が無事にここへ帰ってくるのを。

 

(どうか、どうか)

(彼女が無事に、ここへ帰ってきますように)

 

 必ず帰ってくると彼女が言ったその言葉を信じたい。自分の手も届かない遠くへ行ったっきり帰ってこないなんてこと、ないのだと。

 どうか無事に、ここへ戻ってきてほしい。

 最後まで思うまま走り抜けてほしい。

 それ以外はもう、何も望まないから。

 

 周囲の観客はいっそ容赦がないほど凄まじい彼女の走りに息を飲み目を奪われているようだった。今のところ快調に──快調過ぎるほどに勢いよく進んでいる。あの走りを見て彼女の左脚に今にも破裂する爆弾が抱えられているなどと、一体誰が思うだろうか。

 

 第三コーナーから第四コーナーへ、なおも食い下がり追い掛ける群れを置き去りにしようと先頭を駆ける細身が大ケヤキに隠れる。その姿が寸前よろめいたように見えて不意に心臓が大きく跳ねた。まさか──体感が引き伸ばされ、音も世界も次第に遠くなり血の気が下がる。自分の呼吸しか聞こえないような錯覚は、或いは彼女がいつも味わっているものだっただろうか。

 遠く、静かで、何もない。それはほんの瞬きにも満たない短さだったろうが、ひどく長いものに思えた。

 

 永遠に続くかに思われたその一瞬を越え、大ケヤキの向こうから姿を現した新緑色が静寂を破って駆け上がってくる。一切合切、誰も彼も置き去りにして逃亡者が鮮烈にこちらへ向かって走ってくる。途端、戻ってきた世界へ歓声が劈くように鼓膜を震わせた。

 は、と知らず止めていた呼気を吐き出す。

 

 ──かえってきた。

 

 一人のウマ娘がその背に追いすがろうとした瞬間、新緑が一気に加速する。大逃げ、彼女の真骨頂。何人足りとも先には行かせないという渇望の形。軽快に、冗談のように、清々しくなるほど圧倒的な速度で地を蹴り、鮮やかに色を残して駆け抜ける。その後を他のウマ娘達が懸命に追うが、もはや追いつけないのは誰の目にも明らかだった。邪魔するものはもう何もない。疾る。疾る。失速することなくますますスピードが上がっていく。一度たりとも先頭を譲ることなく独走する。その姿を見た時の胸に迫り上がるこの熱を、言い表し難いこのこれをなんと呼べばよいのだろう。まるで奇跡か何かを見ているような、この気持ちは。

 

 かえってくる。あの子が。

 一心不乱に、真っ直ぐに、夢の先へと戻ってくる。

 

 誰かが彼女の名前を呼んでいる。いけ、と叫んでいる。そんなものなど聴こえていないように、夢のように駆けるその目はきっと先しか見ていない。最初から最後まで誰一人として先頭を譲ることも影を踏ませることもなく、一心に前方にしかない景色を追い求めている。

 ラストスパート、ゴールまで残りはもう僅か。二百を切り、百、数十──ゼロ。最高潮に達した緊張が一瞬の沈黙を置いて弛緩し、一気に爆発した。空に轟くような大歓声となって湧き上がる。誰もが彼女の名を呼んでいる。興奮を声に乗せ実況が高らかに告げる。

 

「──栄光の日曜日の主役となったのはサイレンススズカ!第四コーナーの向こう側から見事盾の栄誉を勝ち取りました!!」

 

 高らかなそれにいっそう会場が沸き立つ。

 

 かえってきた。ちゃんと、約束通り、君はここへかえってきた。

 無事に、ここにいる。

 

 目許と頬がひどく熱い。喉が詰まって苦しいが不快ではない。水で暈けた視界の向こうでは愛しい緑が鳴り止むことのない大喝采に迎えられている。その姿に耐えきれずに嗚咽が漏れた。安堵やら言葉にしがたい感情やら色んなものが綯い交ぜになってぐしゃぐしゃになりながらどうにか出迎えの言葉を口にする。

 

 おかえりなさい。

 

 もう、不安は何処にもいない。

 きっともう、あの娘に付きまとう何かは起こらないのだという確信のようなものがあった。生き急ぐような陰りも何処にもない。

 

 

 誰もいない静けさの景色のさらにその先へ、時をとめることなく私たちの逃亡者は帰ってきたのだった。

 

 

 

STAR SHAPE(了)




読んでくださりありがとうございました。
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