生まれて初めてこんな黒を見たと思った。際限なく底のない真黒に無数の光が瞬いているのを、半ば呆然と見上げる。
宙はあんなにも黒々としているのに自分の立っている地上はやけに白く眩しい。くすんだ灰色の砂礫と岩と、それらが落とす深い陰と。そのコントラストがあまりにクリアで目がちかちかする。
ここの酸素は水素よりも透明なのだろうか。
銀河鉄道じゃあるまいし、そもそもあれは酸素ではなくて水だったけれども。ふとそんな益体もないことを考えてから、──ここは何処なのだろうかと首を傾げる。
いや、そもそもいつから自分はここにいるのだろうか。随分と長くこうしていたような感じがするし、たった今ここに着いたばかりのような気もする。直前の記憶がすっ飛んでてさっぱりわからない。
軽く辺りを見回しても私以外誰もいないし、そもそも建物すらない。地平線の向こう、うんと遠くの方に山だか丘だかがうっすらとあるように見えるぐらいで、あとは砂ばかり。こんな光景は初めてのはずだけれど、何か既視感があった。昔、教科書で見たことがあるような覚えがあるのだけど、なんだったか。
うんうんと唸っているうちに、何か、大事なことを忘れているのではないかという気がした。妙に身体が軽くなったかわりに、大事に仕舞いこんだはずのものを落としてきてしまったような空白が胸のうちにある。
………なんだかとても、心細くなってきた。
とりあえずここにぼんやり突っ立っていてもどうしようもなさそうだし、ひとまず何処か向こうの方に歩いてみようかと振り返ろうとした次の瞬間、
「とぅりゃっ」
少し気の抜けたような声が真後ろから聞こえたと同時に背中に強い衝撃を食らった。ついで一瞬の浮遊。可愛らしい掛け声とは裏腹に全く可愛くない一撃だった。
それが蹴り──いわゆるドロップキックと呼ばれるものであることは後で思い出したが、その時は急な衝撃と吃驚と何故か込み上げた懐かしさでいっぱいで、まあともかく混乱しながら私は勢いよく吹っ飛ばされ、砂の上に倒れ込んだ。
視界の端で砂ぼこりがやけにきらきらと舞い、細かいそれにゲホゲホと噎せる。
背中と打ち付けた箇所に痛みを覚えながら、何が起きたのかとどうにか身を捩って仰向けになろうとするその前に「ここで会ったが百年目!先に行くつってたのに全然いやがらねーと思ったら、こんなところにいるんだもんなー」などと、いっそ情け容赦ないぐらいリズム良く楽しげに喋りながら、襲撃者が私を覗き込んだ。
新手の通り魔か仇討ちのセリフか?と突っ込もうとして、自分を覗き込むその角度がなんだか無性に懐かしくて言葉に詰まってしまった。
「おっせーぞ、遅刻だ遅刻!」
──モノクロームの沙漠には酷く鮮やかな少女だと思った。
癖のない銀色の長髪に赤と白を基調とした衣装を纏ったバランスの良い長身。頭上の耳と腰から覗く尻尾のようなものが機嫌よさげに揺れる。切り揃えられた前髪の下から薄紅色の眸が真っ直ぐに私を見ていた。涼し気な目元の、深窓の令嬢のような美貌はしかし、それを崩すような朗らかで緩い無邪気な笑みを浮かべている。
…………誰だろう?
「もー、あちこち探し回ったんだぜー?アタシのレーダーにも反応ねえし、文字通り棒にも箸にもかからねーとかヌルヌルすっぺえモズクかよ。あんまり遅いもんだから、こりゃうっかり火星の方に来ちまったんじゃねーかって焦っちまったぜ」
あっやべえ変な人だ。
言動と外見とのギャップがすごい。
……しかし見知らぬ人物(それも極めて変)であるはずなのに、どうしてだか、ずっと前に何処かで会ったことがあるような気がして困惑する。遭遇して数十秒で軽快にすっ飛ばすこんな色んな意味で濃い娘なんて、忘れられる気がしないのに。
ひどく、懐かしい。
私の様子を見た少女が、形の良い眉を顰めた。
「……おいおいなんだよ、アタシのこと忘れちまったのか?三日目の佃煮と炊きたてご飯っていう名コンビの片割れ、この×××様を忘れちまうなんて研ぎまくった米の研ぎ汁みてーに薄情なやつだな……」
「オマエがここで待ち合わせするって言ったのによ」と、呆然としたままの私をよそに少女が肩を竦める。何か名前のようなものを口にしたのにノイズのようなものでそこだけ聞き取れなかった。それよりどんな言葉のチョイスなんだと言う方に気を取られたけれど。
やれやれ、と呆れたように洋画の人物のようなオーバーなリアクションを取るどこの誰かも分からない少女はまさに傍若無人という言葉そのものといった感じで、だけどそれが妙に憎めないものだから反応に困る。蹴りまで食らったというのに怒る気にもなれない。
そういえば私地面に転がされたままだよ。起き上がるぐらいさせてほしい。
こちらの様子など気にも留めていない様子で少女は何かぶつぶつ(というには声が大きいが)呟いている。
「……ハッ、まさかムーンイエティにとっ捕まって脳をドーナツからくり抜いた虚無仕様に改造されたのか?……やだ、ゴルシちゃんだってまだそんなことしたことないのに」
いい加減起きねばと起こそうとした体が、ゴルシという音に引っかかって固まる。
さっきはノイズで聞き取れなかったのに、今度ははっきりと聞こえた。
ご、る、し
自然と、それがごく当たり前のように自分の舌が、三度音を叩く。
何もかも無くなってしまったかのような頭蓋に強く、懐かしく響く名前。脳裏にふっと一瞬浮かんだのは目を奪われるほど眩しい金色の航跡。
きっと、それがヒントだった。
白い月、潮騒、鮮やかな赤、笑い顔。
──それを、思い出した。たぶん特別に忘れていたわけではなかったけれど、花が開くように、水底から浮上するように思い出した。
まるでたまたま訪れた古書店で偶然手に取って開いた本が、昔何度も繰り返し読んだ一冊であったように。 記憶は百年の昔からずっと途切れることのなかったように、馴染んで鮮やかなものだった。
よくもまあ、どうしてすぐに思い出せなかったのか、呆れてしまうほど不思議なくらいに色濃く強く胸に迫り上がる。
「ま、いっか。相変わらずすげーヒマそーじゃんオマエ」
こちらの様子を知ってか知らでか、またひょいっと覗き込んで、少女の白い貌がにっと笑う。
記憶の中の声と少女の声が、二重に重なる。
「百年後空いてたら宇宙行こーぜって言ったろ?来たぜ」
な、トレーナー。
百年前に、また、宇宙で
ああ、そうだ。
随分と昔に、そんな話をしていたね。
──ゴールドシップ。