いつだったか。
扱いづらいと思ったことはありませんか、と訊ねられたことがある。何度も言われたことのある言葉だ。
ゴールドシップはウマ娘の中でも格別に美人ですけれど、とんでもない変わり者ですよね。いくら脚や能力が素晴らしくてもあれだけ自由奔放でコンディションの高低が激しく、つかみどころのないウマ娘だから、新人で担当になったのは大変だったでしょう。やはり後悔したことがあるんじゃないですか。
「いいえ、」と答えた。
そもそも“大変じゃない”ウマ娘なんて一人だっていません。
扱いづらいというのは確かにそうでしょう。悩んだことがないとは言いません。
あの気まぐれっぷりには手を焼いていますから。
なにせ出会いからして事故のようなものですし。
ですが、一度たりとも後悔したことはありません。これからもしないでしょう。それこそ百年後でも。
息を着く間もなくて駆けずり回って驚かされる。
予測のつかない毎日です。
あの娘のおかげで毎日が本当に楽しい。
あれほど自由なウマ娘はそういない。何処までも駆けていったらいいんです。それを自分はずっと追いかけるだけですから。
「ったくよー、あれだけ言ったのにドーナツとラップ忘れてくるなんて、宇宙舐めてんじゃねーの?」
形の良い眉を吊り上げてゴールドシップがぼやく。
再会と記憶が戻ったのを喜んだのもつかの間、「んじゃ、手荷物検査でーっす!はい、そちらの方から検査官ゴルシ様が身ぐるみ剥いで調べちゃうぞ☆」と手荷物検査もといカツアゲに遭ってしまった。
着ている服以外の持ち物が何故か使い古したホイッスルしかなくて、それを見たゴールドシップが頭を抱えて叫んだ。
「オマエ、ドーナツとラップは!?」
………そんなことも言っていたね、あの時。
「くそー……ドキッ☆ウマ娘ピーー年宇宙の旅~ゴルゴル星へご招待~が早くも座礁じゃんかよー………行きは良い良いどころか行きから暗雲だぜチクショー」
へにょ、と彼女が萎れている。
大袈裟なぐらい萎れている様からして、ふざけと勢い六割本気でガッカリしているのが四割といったところか。耳ごとへたれた銀色を見下ろす。ラップの重要性がいまいち把握できていない(昔ラップ越しに遠くの空を見ると故郷が見えるとか言っていたから、それか?)が、申し訳なくなる。
ごめんね。さすがに持って来れなかったみたい。
ちくわしかねえと蹲る銀色に声をかけるとガバッとバネが弾けるように勢いよく立ち上がった。
「仕方ねえ!予定変更、まずは月の探検しよーぜッ!ジャワ原人の集落発見とかな!あとはー、海だしよくわかんねー魚とかいんだろ、月鮪とか」
月にジャワはないが。
相変わらずテンションの移り変わりが激しいこのこの上ない。
それにしても、月の地名に海がついた場所がいくつかあるっていうのは知っていたけれど、水の一滴もあるようには見えないのに、なんで海なんだろう。
「ん?水ならあんぞ。月の表面に留まってられねーだけで」
知らなかった。相変わらず雑学に強いねゴルシは。
「月面の黒いところが月の海で、黒いのは濃い色の玄武岩で覆われてるからだぜ。ちなみに今アタシらがいるところは静かの海ってところな」
聞いたことのある名前だ。正確な位置が何処かは覚えていないけれど。よく見る月面写真のどの辺りなんだろうか。
隣に佇つ銀色の娘を横目で見る。ザクロの花のように鮮やかな存在は荒涼とした月に驚くほど浮いているようにも、馴染んでいるようにも見えた。
その肩越しの暗闇に半分程の惑星が青い炎のように浮かんでいるのが見える。上弦の月ならぬ、上弦の地球、でいいのだろうかこの場合。
……写真や映像じゃなくて肉眼で拝むことになろうとは。
とうとう日本どころか地球から飛び出して、月にまで来てしまった。気がついたら月にいて、そのうえどうも若返っているようで、この暴れ馬と出会った時分くらいの年齢だろうか。百年後に宇宙に、とは確かに言ったけれど、まさか本当に叶うだなんて思いもよらなかった。
そりゃしみじみと感慨深くもなろうもので。
ゴールドシップなんか、宇宙服もなしにごく当たり前の顔で月面に立っているけど、まあ、これはもうゴールドシップだからとしか言いようがない。なんでもありだ。先に逝ったはずの自分がこうしてるぐらいなのだから、何が起きてもおかしくはないか。
ゴールドシップ、と呼びかけると、海とは名ばかりのどこまでも白い砂地を踊るように三四歩、進んだ彼女がこちらを振り返る。……その片手に持ったヤカンは何処から出したんだ。ちょっと。
「なんだよ梅雨時期に出しっぱなしにした海苔みてーにシケたツラして。海苔に生まれたからにはやっぱパリッとしろよな」
シケ……そんな顔をしているだろうか。
………いや、しているのだろうな。
ゴールドシップを前に、どんな顔をしていいのかわからない。嬉しくてたまらないのに、何かを言おうとすると胸が詰まってひどく苦しい。言葉が思いつかない。だってあの時にもう終わってしまったはずで、その続きがあるだなんて、それも百年かけて、当たり前のように。ゴールドシップがあまりにいつも通りだから余計に、でも、ただ随分、随分と待たせてしまったのだというのだけは、よくわかったから。
なんでもないよ。
──また会えて嬉しい。
「ふーん、へへっ、いやーすごかったぜスペースデブリ競走!あの中を掻い潜って月に進むの、いいトレーニングになるんじゃね?今度提案してみっかな」
宙にクロールをかいてみせるゴールドシップに笑おうとして、失敗しそうになる。いけない。しっかりしなくては。
若返って体が軽くなってしまったせいか、それとも六分の一の重力のせいなのか、妙にふわふわと胸の中が心許ない。浮つくくせに、どうしてこんなにも、胸が張り裂けそうなんだ。
本当に百年後に続きがあったことへの驚きなのか、約束を彼女が守ってくれたことに対してなのか、こんなところまでやって来てくれたゴールドシップへの罪悪感なのか、喜びなのか、分からない。幸せにも不安にも似ているもので、ぐしゃぐしゃになりそうだった。
「おいオマエ、何に不安があるっていうんだ」
私の胸中を知ってか知らでか美しい薄紅色が私を睨む。
「はーーしゃーねえトレーナーだなーまったく!アタシがいんだろ」とやれやれと言いたげに頭を振り、自分が「それ」の証明だと言わんばかりに立てた親指を胸に差す。
そして腕を組んでいつものように笑う。傲岸に、不遜に、高らかに。
百合のように自信に満ち溢れて。ザクロのようになんとも鮮やかに。
「いいか、」
「百年経とうがアタシについてこられるヒマ人でやべーヤツなんてオマエぐらいなんだからな。立てば爆薬座れば漫談歩く姿はほぼロデオのこのゴールドシップ様にこれからもついてくりゃいーんだよ」
無邪気に、笑うのだ。
なんて、まぶしい。
「……………うん」
どうにか返せたのはそれだけ。
血が通ったように眦がひどく熱くて、でも今度こそ私も微笑んだ。
「それよりもさー、向こうの方にゴルシちゃんレーダー反応あんだよ、きっと生命爆誕の手掛かりが刻まれたモノリスか宇宙フジツボの群生地があるに違いねえ……行こうぜ、あの山の高みにな!」
「なんて?」
まったく、息を継ぐ暇も何もない。
でもそれが私とゴールドシップらしくて、可笑しくて笑うしかなかった。
「いよォし!そんじゃ、出港だ!」
きらきらと笑ってゴールドシップが拳を突き上げる。
真黒くも透明な空気に銀色の髪を振るい、私の夢が薄紅色の眸を緩く細めて笑う。
「ほーらーちゃんとついてこいよ!ゴルシちゃんから目を離したら一秒後にはどうなるか、アタシにも分からないんだからっ☆」
黄金船のそれが本当に洒落にならないのは長年の付き合いでよく知っている。百年経ったって変わりはしないのだ、こればっかりは。それがとても、泣きたくなるほど嬉しい。
今行くよ、と言えばあのとびきりの笑顔を置いて月の海を駆け出した。
その足元から無数の砂が波のように舞い上がる。
それを眺めながら、地球はこの娘には狭すぎたのかな、なんて。
あっという間に小さくなった金色の船を見ていつかのように途方に暮れたように、しかし途方もない喜びを胸に笑い、その背中を追って私も歩き出す。
頭上には無限に拡がる星の海。
航跡波は何処までも続いている。
たった二人きりの出帆。目的地は未だ不明で、だけどこれからもきっと退屈なんかしない。
色んなものを置いてきた青い惑星だけがそれを知っている。
月の沙を踏んで私は、私の
百年後の足取りは懐かしく軽やかなものだった。
こうして約束は果たされたのだった。
My Dear, Gold Ship(了)