夜叉は珍しく困惑していた。ありえないものを見た......というよりあり得るとは思っていたが、有ってほしくないものを見たからだ。
全身の傷が痛む。かの魔神の脅威は再も蘇るのか。それとも深淵より出る瘴気のせいか。
塵王魔神の死後廃墟であったため、一応の警戒はしていたつもりではあったが、まさか数時間であそこまで暗雲が広がるとは思いもしなかった。帰離原。過去に栄えた古の都。かつての民は今の璃月港に移住したが、怨念までは消しきれなかったというのか。
しかし、あの帰終という塵の魔神はあのような怨念を残すような者ではなかったはず。
とすると帰離原の異常は罠か。それも完全に我を欺くための物。一刻も早く岩王帝君に伝えたいが、望舒旅館を離れるわけにはいかない。璃月まで使いを出そう。
今はまだ大っぴらに活動しないほうがいい。意志あるものが元凶なのは明らかだ。それがなんであれ、見つけ次第速攻で潰す。死者であれ生者であれ、人と人とのいさかいに手を出すつもりは毛頭ない。
しかし、人ならざる者の所業なら容赦はしない。岩帝の恩に報いるため、降魔大聖は彼を夜叉たらしめる仙力を行使する。まずは望舒旅館に忍び寄る魔を排除しよう。
「靖妖儺舞」
仮面を被り、体を燃やし、槍を振るう。
そうして夜叉は望舒旅館の頂上から地へ降りる。降下の傷はない。そんなもの、とうの昔に消し去っている。
速く、早く、疾く。我の代わりにこの場所を守るものが現れるまでは、槍を振るう手を止めることはない。
その地に着いた途端。不可視の呪いが体を覆う。
「なんだ……これは魔神の!乗っ取られる前にせめて……」
時既に遅し。夜叉はその使命への忠実さを敵に利用されることになる。
ここまで夜叉の行動は事実が夜叉本人の想定通りであれば間違っていなかった。最適解といえる行動をしたと評価できた。
唯一にして一番大きな間違いは最初の当てが間違っていたこと。
魔人の残滓、アビスの瘴気。そこに意志が生じることは通常ありえない。気付くべきだったのだ。なぜわざわざ黒幕が望舒旅館から帰離原へ、瘴気の幕を張り、璃月港と帰離原の間の七天神像の付近を覆ったのか。
しかし、まぁ、今では魔獣や宝盗団はびこる帰離原。古の民が移住した道。その腰を休めた山岳地帯。
このいかにも何かがありそうな場所に注意をひかれるのは、無理もないことではある。
火のない所に煙は立たぬ。実際見当違いというわけでもない。
だが、事を大きく見すぎた。人を超えた存在は、時折ことを大げさにとらえてしまうことがある。人間は、憎むべき者達を害するためだけに、時に神すら欺くことができるということを、人間と交流の少ない彼には理解できなかったようだ。
そして黒幕も黒幕だ。彼、または彼女は、人を超える者を欺くということが、人の身では対処しきれない事態を引き起こすということを知らなかった。
悲劇とは、勘違いから幕を開けるということを、各人は知っておくべきなのだ。