周囲の被害に比べて望舒旅館一帯は何もなかったかのように正常だった。
おそらくこの仙人が狂気にのまれながらも守っていたのだろう。
いいや、望舒旅館を守るという感情に介入されたのだから当然か。
「これなら中の人々に大事はなさそうだね。」
堂主はそう言って胸をなでおろした。
緊張がほどける。これまで異常続きだったから、心身ともに疲労していたのだ。
「とりあえず状況を聞こう、対策はそのあと。鍾離先生に伝わってるといいね」
昇降盤は稼働してないので、歩いてオーナーのヴェル・ゴレットのもとへ向かった。
望舒旅館に避難した人で満ち溢れていたが、盗賊面料理人、言笑のおかげで混乱状態にはなっていなかったようだ。
とはいえ、彼らからは急に魔物が普段近づかない人里まで来たので、すぐに避難体制に入ったという情報しか得られなかった。
仙人が活動できないのに、望舒旅館は大丈夫なのか堂主に聞くと、結界がはってあるので心配はないとのこと。おそらく仙人が自分に異常があることを察し、最後に残された理性で仙術を行使したのだろう。
「一晩ここで休んだ後、無妄の丘に向かおう。君はここで休んでいていいよ。」
と言われたが、自分は荷物持ちで来たとはいえ、自分より年下の女の子だけ危険な場所に向かわせて休んでいるほうが心に悪いのでついていくと言い張った。
「うーん。まぁ私一人で戦うとなると、消耗戦にしかならないから、ありがたいといえばありがたいんだけど......」
望舒旅館の人と話し合った結果、本当に危険な状況になったときは、転移装置なるものを使って逃げることを確約し、ついていくことになった。それは登録してある望舒旅館になら、即座に転移できるもので、ある旅人が残していったものらしい。
話はまとまった。今日は早く寝よう。明日は何が起こるかわからない。本当は璃月七星に伝えるべきだが、伝書鳩も軒並み使えないらしい。ここは幸運にも守護する者がいたがほかの人里はどうなっているのか、考えるのも恐ろしい。
そうやって目をつぶって考えてるうちに、どっと眠気が襲ってきた。
夜は魔物の領域だ。ただの人間は瞼を閉じ、ただ朝日を待つとしよう......
とはいえ、夜を生業とする人もこの世には存在する。
例えば......特殊な力を持った葬儀屋などだ。
「往生堂」七十七代目堂主の座はただ人がいられるモノではない。
仙術はしかけた本人に意識がない状況では力が弱まってしまう。誰かが弱まった結界を抜けて侵入してきた魔物を退治しなければならない。
心配するヴェル・ゴレットを無視し、部下に持たせていた聖遺物を探す。
しかし見つかったのは想定していた燃え盛るような聖遺物ではなく、そこいらで売っているような、ちんけなものだった。
「あれー伝え忘れちゃったっけ?うーんこれはかなり困るなぁ。神の目を使わなきゃ、上等の魔物と対峙できないかも......まぁしょうがない。何もないよりはましだしね。」
そう言って、望舒旅館の外へ出る。胡桃の神の目の特性上、なんの補給もない場所での戦闘には不向きだが、ここにはかなりのたくわえがある。朝日が昇るまでなら存分に戦えるだろう。気が持てばの話だが。
「連戦は得意じゃはないんだけどなー。 散ッ!」
冥蝶を身にまとい、葬儀屋は侵入者を狩る。
自分の命を削る、回復、削るを繰り返し、心をすり減らしながら......
そしてそれを物陰から眺める影。
「どうにもやっかいだ。こちらに向かってくるようだし、対策が必要だな」
胡桃は霊に対して人一倍敏感だ。通常の彼女であれば、すぐに気付いたであろう。
しかし、今の胡桃には余裕がない。ここで見逃していなければ、事態はこれ以上悪化することがなかったのだ。
ということを、その影以外は気付くことはない。