白皇の返書
宿場の灯がひとつずつ落ちて、通りには遠い犬の声だけが残っていた。
二階の奥の一室で、ムネチカは行灯の脇に座って針を運んでいた。端切れを縫い合わせた小さな獣は、まだ片方の耳しかついていない。布団の上ではアンジュが寝返りを打ち、掛けてやったばかりの夜着を足で蹴りのけた。
ムネチカは針を置いて、夜着を肩口まで引き上げた。昼のうちに峠をひとつ越えてきた躰である。行灯の明かりが頬に揺れても、寝息の調子は変わらない。
板壁の向こうでは、ミカヅチの寝息とも唸りともつかない音が低く続いている。宵のうちは隣から聞こえていたキウルの筆の音も、いつの間にか途絶えていた。
階段の軋む音がしたのは、ムネチカが針を持ち直したときだった。
「お客さま、夜分に相すみません。お連れさまを訪ねて、旅の方がお見えでして」
襖越しの声は宿の者のものだった。ムネチカは縫いかけの獣を行李の陰へ押しやり、手燭に火を移した。
「小生が会おう。どちらに」
「下の土間でお待ちです」
階段を下りると、土間の隅で旅の者が膝をついていた。脇に置いた笠も脚絆も、乾いた泥で白くなっている。ムネチカが手燭を寄せると、旅の者は懐から油紙の包みを取り出して両手で高く捧げた。
「鎮守のムネチカ様とお見受けいたします。宮より、聖上への御文をお預かりして参りました」
ムネチカは手燭を下げ、奥の帳場へ目をやった。宿の者は湯を沸かしに裏へ回ったらしく、薪のはぜる音が遠くでしている。
「声を落とされよ。この旅では、その名も聖上の御名も口にせぬことになっている」
「ご無礼を。宮の方々より、まずはムネチカ様にお目通しを願え、と申しつかっております」
「宮に変わりはないか」
「皆様つつがなく。……ただ、一年の節でございますれば、宿場ごとにお尋ねしながら急ぎ参りました」
旅の者はそれ以上を口にせず、額を土間に近づけた。ムネチカは包みを受け取り、手燭の灯の下で封を切った。
文は短かった。即位より一年の節を迎えること、ついては一日も早く帝都へお戻りいただきたいこと。末の一字まで目を通してから、ムネチカは文を元の折り目どおりに畳み直した。
アンジュの傍らに立った即位の日の床の冷たさを、ムネチカはまだ足の裏に覚えている。あれから旅に出ては戻り、戻ってはまた抜け出す日々が重なった。階段の上のほうで、板の軋むかすかな音がした。
「夜が明けましたら、すぐに発たねばなりませぬ。御返事を頂戴できましょうか」
「夜明けまでには必ず渡そう。それまで休まれよ」
旅の者の足元では、潰れた豆の血が藁沓に滲んでいた。ムネチカは裏から戻った宿の者に湯と部屋を頼み、文を懐に収めて階段を上った。
部屋に戻ると、アンジュは蹴りのけた夜着をまた半ば抱えて眠っていた。ムネチカは行灯の前に座り直し、懐から出した文を膝に置く。
かつて白楼閣まで迎えに出向き、帰らぬと言い張るアンジュを宮へ連れ戻そうとしたのもムネチカである。あの夜も、連れ戻す役を負っていたのは己だった。行灯の火を一段細めて、ムネチカは寝顔を見守ったまま座っていた。
行灯の油が細るまで、ムネチカは文を膝に置いたまま座っていた。途中で一度だけ階下へ下り、旅の者の部屋の前で寝息を確かめもした。障子の向こうはまだ暗いが、どこかの家で鶏が一声鳴いた。布団の中でアンジュが身じろぎし、ゆっくりと半身を起こす。
「……ムネチカ? まだ起きておったのか」
寝癖のついた髪を片手で押さえながら、アンジュは行灯とムネチカの顔を見比べた。大きな欠伸をひとつ終えたところで、その目が膝の上の文に降りる。
「なんじゃ、その顔は。また余が何かしでかしたか」
「いいえ。宮より御文が届きました」
ムネチカは布団の脇へ膝を進め、両手で文を差し出した。
「聖上の御即位より一年の節にあたり、帝都へお戻りいただきたい、との由にございます」
アンジュは文を受け取り、灯に寄せて開いた。文字を追う瞳が端まで行き、もう一度はじめに戻る。読み終えたあとも、指先は紙の端を摘まんだままだった。
「……一年、か」
「はい」
「もう、そんなになるのじゃな」
アンジュは文を膝に落とし、障子のほうへ顔を向けた。暗い紙の向こうを透かし見るような目だった。
「使いの者は夜明けに発ちます。それまでに御返事を、と」
「夜明け……」
アンジュの指が文の端を握り込み、紙がかさりと鳴った。
「まだ見つけておらぬ」
ムネチカは膝の上で拳を揃え、続きを待った。
「
「小生は、お戻りになるべきと存じます」
声に出してから、ムネチカは己の声がいつもより硬いことに気づいた。アンジュの顔が跳ね上がる。
「
白楼閣の夜にも、同じ目を向けられた覚えがある。
「小生は聖上の側におります。それは変わりませぬ」
「宮に戻れば、また朝から晩まで書き付けの山じゃ。民の顔など、玉座からは見えぬ」
「この旅で聖上がご覧になった顔は、宮にお戻りになっても消えはしませぬ。それを政の中で生かしていただくのが、聖上の歩まれるべき道かと」
アンジュは唇を噛み、掛け布団の端を両手で握り締めた。
「其方は……ハクに会いとうないのか」
胸の奥に冷たいものが一つ落ちた。しばしの別れだと言ったのは、消えていく男の前に立った己である。いずれまた逢おうとも、あの時に告げた。
ムネチカはアンジュの目をまっすぐに受けた。
「会いとうございます。……ですが、それと聖上をお連れ帰りすることとは、別にございます」
「別、か」
アンジュの口元だけが、笑みの形にわずかに動いた。その目が行李の陰へ逸れ、はみ出した布の耳に留まる。
「……なんじゃ、あれは」
ムネチカの耳が熱くなった。
「手習い程度に作っている、小物にございます」
アンジュは手を伸ばして縫いかけの獣を引き出し、一つきりの耳を指でつまんだ。
「片耳ではないか」
「仕上げる前に、使いの者が参りましたので」
「では、いつ仕上がる」
「帝都へ戻るまでには」
答えてから、ムネチカは行灯の灯芯を少しかき立てた。アンジュはしばらく獣とムネチカを交互に見ていたが、やがて頬を膨らませる。
「……ずるいぞ、ムネチカ」
「何のことでございましょう」
とぼけてみせてから、ムネチカは布団の上に落ちた文へ目をやった。
「使いの者は、足の豆を潰してこの宿まで参りました。宿場ごとに尋ね歩いたそうにございます」
「宿場ごとに……」
アンジュの視線が畳へ落ちた。その下の階のどこかで、旅の者が湯を使って横になっているはずである。アンジュは獣を膝に乗せ、片耳の頭を掌で包んだ。障子の向こうで、また鶏が鳴いた。
「お父上から託された民の行く末を、余は守らねばならん。……そう言うたのは、余であったな」
問いの形をしていたが、ムネチカに向けた声ではなかった。ムネチカは口を結んだまま、小さな背が息に合わせて上下するのを見ていた。
「わかっておる。わかっておるのじゃ」
アンジュは顔を上げ、獣を脇へそっと置いた。
「ムネチカ、硯を」
ムネチカは行李から硯と墨を出し、水差しの水を硯の海に落とした。墨を磨る音が、寝静まった宿に細く続く。そのあいだアンジュは膝の上で両の手を握り、一度だけ深く息を吸った。
「帰る」
短い一言だった。ムネチカの胸の奥で、張っていたものがわずかに緩む。アンジュは磨り上がった墨に目を落とし、それから顔を上げてムネチカを見据えた。
「じゃが、これで終わりではないぞ。彼奴はこの大地のどこかで、必ず生きておる。宮の用が片付けば、余はまた出る」
まっすぐな瞳に、ムネチカは即位の日に見た横顔を重ねた。
「その折は、公務をすべて片付けてからにしていただきますぞ。……小生も、お供いたします」
「ぐぬ……言われずとも、そうするわ」
アンジュは筆を取り、穂先をたっぷりと墨に沈めた。紙の上に「近く帰る」と大きな字が並ぶ。その脇に、留守を預かる者たちをねぎらう一文が少し小さく書き添えられた。筆を置いたアンジュは紙に息を吹きかけ、墨が乾くのを待ってから丁寧に畳んだ。
「これを、使いの者に」
「ハッ」
ムネチカは差し出された文を両手で受け取った。障子の紙は、いつの間にかうっすらと白みはじめていた。