少女は走っていた。ただただ走っていた。恐怖に駆られて、必死になって逃げていた。
「やだ、いやだ、あんなの」
思い返すだけで嘔吐きそうになるその光景。
少女が屠殺され、首を落とされ、臓腑を腹から掻き出され、縦に肉を裂かれる、あの光景。
少女は自らの境遇について、何も知らなかった。物心が付いた頃には、あの真っ白な施設の中で、友達と一緒に暮らしていた。何不自由の無い生活だったけれども、施設の中で立ち入れない区画があったのは、少女にとって少し不満だった。
ここは私たちの家なのに、何故入ってはいけないの?
そんな思いが日々積もり、とうとう少女は行動に出る。
部屋の天井に、人一人が入れるくらいのダクトがあることを、少女は知っていた。だから少女は、人気の無い早朝に、人目を盗んでダクト内部に侵入したのである。
普通の少女ならば、脚立も何も無いこの部屋でそこに到達するのは不可能だったろうが、この少女には生まれながら特異な能力が備わっていた。それは口から粘着力のある糸を噴射できるというものだった。少女はこの能力を用いて、ダクトへの侵入に成功したのである。
「絶対、あの部屋に何があるのか暴いてやるんだから」
そんな自信ありげな少女の口が胃酸で染まったのは、たった十数分後のことだった。
辿り着いたダクトの隙間から聞こえてきたのは、この世のものとは思えない絶叫。グチャグチャと何かが切り裂かれる音と、忙しなく動く機械の音。
見えたのは、加工される少女達の姿。
いつも少女に優しくしてくれていた、クルタ姿の老人達が、少女の喉笛を掻き切る様。そうやって死んだ少女達は、肉体をバラバラにされて、パックに詰められて何処かへ運ばれていく。
「なに、これ」
最初その光景を見たとき、少女の脳は理解を拒んだ。何故ならば、その加工されていく少女の中には、見知った顔があったから。いつか喧嘩したことのある顔が、一緒にご飯を食べた顔が、一緒に遊んだ顔があったから。
それは少女の友達だったものだった。
「うそ、うそ、いや」
吐いた。
声を殺して、吐いた。
少女と同室だった子供達が、次々に殺され、加工されていく。もし少女が起きるのが少し遅れていたら、もし少女が今日ダクトの中に侵入しなければ、あの肉の中に、少女も含まれていただろう。
「いやだ、逃げなきゃ」
目に涙を溜め、未だに吐きそうになるのを堪えて、少女は逃げ出すために動き出す。きっと部屋に戻っても、殺されるのが目に見えていたからだ。
そうしてダクト内部を匍匐前進すること数分。今度はまた違う音が聞こえてきた。
「これより第15次実験を開始する」
男の声だ。
覗けばきっと後悔するだろう事を承知で、少女はその様子を覗き見る。
明かりに照らされた手術台の上に、赤毛の少女が寝かされている。麻酔でも打たれているのか、赤毛の少女に意識は無いようだった。そしてその少女の側には、機械の腕が幾本も伸びている。
それらは有機的な軌道を描いて、少女の足を切断した。
「心拍数に異常は見られない」
男の声が、また何処からか流れ出る。
少女は催す吐き気を堪え、その様子を凝視する。一体この施設で何が行われているのか、少女は知りたかった。
「では結合を行う。警戒レベルを3に引き上げろ」
機械が赤毛の少女の足を何処かへ持って行くと、代わりに何か形容しがたいものを運んできた。それは図鑑で読んだどんな生物のものとも符号しない、悍ましい、足に見える何かだった。
「何アレ……」
少女は思わず呟く。慌てて口元を押さえ、誰かに聞かれてはいなかったかと恐々とする。しかし何かがあるわけでも無く、少女は胸をなで下ろす。
そしてそれと同時に、耳をつんざくような悲鳴が聞こえた。少女が視線を手術台の方に戻すと、赤毛の少女の太ももに、機械が運んできたよくわからない物が接続されていた。
「浸食速度上昇。30秒後に形状崩壊の予想。警戒レベルを5に引き上げ」
赤毛の少女の肉体は、全身から奇妙な音を立てて崩れた。全身がボコボコと盛り上がり、怪物へと変容したのである。
「被検体のガストレア化を確認。バラニウム刃で切断し、処理する」
機械の腕達は変容した赤毛の少女を一瞬で切り刻み、殺した。
「実験を終了する」
部屋の明かりが落ち、何も見えなくなる。
「ここは、一体何なの?」
疑問は尽きなかったが、少女は逃げることを優先した。自分までああなってはたまらないからだ。
少女は配管を伝って地下まで降りると、そこから走り出した。出口があるのかはわからなかったが、今は兎に角走るしか無かった。
「おい、7745番!どこに居る!7745番!」
「参ったな、数が足りないなど、尊師にどう報告すればいいんだ」
「いや、報告しなければいいんじゃないか?問題など無かった、それでヨシ!」
「お、お前頭いぃ~!それ採用」
「何も無かった。問題などなかった。いいね?」
♦♦♦
東京エリアを発ってから28日目。
我々赤眼同盟隊の中から、初めて死人が出た。死因は、栄養失調による感染症だった。
死んだ少女の名前は、千鶴子、瑠華、秋保。
何日も苦しんで死んだ。
痩せこけた彼女らの死体を前にしても、殆ど情動が働かなかったことに、俺は驚いた。自らの行動の結果彼女らが死んでしまったことに後悔はあるし残念と思うが、不思議と悲しみなどを感じることは無かった。
どこか心の中で覚悟していたのだろう。いずれこうなるということを。
俺は彼女たちの為に墓を作ることにした。死を悲しんでやれないことに対する、せめてもの償いというやつである。
「同志、これからますます死人は増えます。丁寧に葬ってやる余裕など、我々にはありませんよ」
ヒューカはそう言うが、何だかんだ俺の墓作りを手伝ってくれる辺り、彼女も責任を感じているのだろう。
「まあ、確かにそうだな。きっと、もっと死ぬだろうな」
それでも俺たちは、前に進まねばならない。無数の屍を乗り越えてでも、明日を掴まねばならない。だからこそ、だからこそ墓を作る。
「俺たちが踏み台にした全ての亡骸に、敬意と鎮魂の意を表することは、必要な儀式なのだよ」
その手段が墓作りだと言うだけだ。
「同志は意外にロマンチストなのですね。死んだ者は、そこで終わりです。魂など、ありはしません」
そう言ってスコップを振り下ろし、地面に穴を掘るヒューカ。
「ヒューカも、一度死んでみればわかるさ」
俺の返答に首をかしげるヒューカ。死んだ記憶の無い人間には、死ぬまでわからんことだろうな。それはしかたない。
「ああ、きっと私は地獄に行くのだろう」
地獄があるのか、俺はまだ知らないけれど。
歌を歌う。
お経なんて唱えられないから、歌を歌った。彼女たちを容れた粗末な箱を囲って、皆で歌を歌った。でも歌なんて殆ど知らなかったから、昔、まだ楽しかったあの頃に、延珠に教えて貰った歌を、うろ覚えで歌った。それで地面に箱を埋めた。
「しーんけーんしょーぶ決めてー、あーいたーい、ミーラーイにエイエオー……」
ごめんよ、君らはきっと知らないよな、こんな歌。こんなのは俺のエゴだ、わかってる。君らはあの世で苦笑いだろ?わかってるさ。でもやっぱり、冥福は祈らせてくれよ。どんな形であってもさ。
その後は皆で夕飯を食べ、踊って、疲れた奴から寝た。
そうして皆が寝静まり、夜も更けて来た頃、俺は死んだ彼女らの墓の前に居た。そこで俺はあぐらを掻いて呆けていた。
空を見上げる。星が見えた。
こいつらもあの星の1つになっただろうか。それともあの世に行ったのか、はたまた俺のように転生でもしたか。俺には知るすべが無いことだ。
「なあ、墓から起きてきて、私の尻でも蹴ってくれないか」
返事はなかった。
♦♦♦
空港から出た蓮太郎と延珠は、札幌エリアの中央区を歩いていた。
「いいか延珠?観光目的で来たわけじゃ無いんだ。今から宿をとり、目的地を下見して、夜までホテルで待つ。わかったか?」
「うむ!わかったのだ蓮太郎!あそこの屋台旨そうだな!」
「ダメだこりゃ」
異国の地にはしゃぐ延珠に、蓮太郎は溜息を吐いて頭を抱える。
(やっぱ連れてこなきゃよかった……)
潜入任務に延珠のような子供は不適格だったのだ。それなのに蓮太郎は押しに負けて連れてきてしまった。今蓮太郎の胸中は後悔でいっぱいである。
仕方ないのでアイスクリームを屋台で買った蓮太郎は、それを延珠に与え、何とか言うことを聞かせることにした。
「ほら延珠、アイスクリームだ。結構な出費なんだから、感謝して食えよ」
「妾はキャラメルチョコレートとホワイトブルーベリーのダブルがよかったのだ」
このガキ……ッ!
感謝すら述べずに文句を垂れる延珠に、蓮太郎は怒りを抑えて優しく言う。
「あのな延珠、それ800円超えてんの。今日の昼飯代より高いんだぜ?それに小豆クリームと宇治金時も捨てたもんじゃないぞ?」
「蓮太郎、ジジクサいのだ」
「は?」
しまいにゃ殴るぞと拳を温め始めた蓮太郎であったが、それはオッサンの大声で中断された。
「待てこらガキッ!!!!」
それは先ほどアイスクリームを買った屋台のオッサンの声だった。オッサンはみすぼらしい格好の幼女を追いかけ回し、怒鳴り散らしているようだった。
「何だなんだぁ?」
突然の出来事に驚いた蓮太郎は、延珠から目を離してしまう。これがいけなかった。
「あぁーーーー!!!!妾のアイスがぁーーーー!!!!」
追われていた幼女が勢い余って延珠にぶつかり、その衝撃で延珠の手に持っていたアイスが落ちてしまったのである。
これに激怒した延珠は幼女を自分の後ろに隠すと、オッサンに向かってズンズンと近づいて、言い放った。
「やいやいやい!!か弱い幼女を追い立てて、さらには妾のアイスを床に食わせるとは何事だ!許しておけん!天誅しちゃうぞ!」
蓮太郎は絶句した。
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