「おい、そいつは――ってんだぞ!」
「ぎゃははっ! おっかしい名前!」
河川敷に、子供たちの声が響く。指さされた先には、きたならしい少女がいた。
「うわ、睨んでやがるぜ」
「大丈夫だって。あいつはウマ娘なのに走れないんだからさ!」
その声の通り、少女の膝には不恰好に包帯が巻かれていた。走れない足、奇妙な名前、きたならしい格好。そして
彼女がいじめの対象になるのは、もはや自明のことだった。
その上、子供たちはいじめとなれば途端に小賢しくなる。いくら足を怪我しているとはいえ、ウマ娘の力が強いことには変わりない。もし殴られでもすれば、たんこぶで済まないことは知っていた。
「やーい、キモ女!」
だから、遠巻きに石を投げる。人類が初めて開発した処刑方法とも言われる投石は、まだ
少女はひたすらにうずくまっていた。
そんな光景は、今でも鮮明に思い浮かぶ。
足元には、ちょうど浮かんだ情景にあったような石が転がっている。いや、これを見たから、あんなものを思い出してしまったのだろうか。
だが、そんなことで
『
『スタート』
ガシャン、とゲートが開くわけもなく。私たちはその場から走り出した。
芝と言うにはあまりにもお粗末な地面に、コーンが置かれただけのコース。そう、草野球ならぬ草競バだ。
「出遅れてんじゃねぇよ! 俺の給料返せ!」
罵声が飛ぶ。どうやら、私の二つとなりはスタートダッシュがつかなかったらしい。
さっきの禿げ頭が「給料返せ」なんて言っていたように、草競バの目的は賭博だ。それだから、こんな早朝から人が集まっている。口にタバコを咥え、片手にカップ酒を、もう片方の手に出バ表を持ったジジイたちが、ゴール前にうじゃうじゃと。判を押したように似た格好をしているのは、何かのろくでもない伝統なのだろうか。ああいや、カップ酒でなく缶ビールのジジイも居るのだが。
伝統と言ったのは、昔は
こんな朝早くに来てまで金を溶かそうとは、ご苦労なことだ。
「行けー! アーチー!」
私の名前が叫ばれる。もちろん、本名ではない。草競バであっても賭博は違法なのだから。
自分の名前が大嫌いな私には、本名を使わない風習は救いだった。
膝を庇いながら走るのは一苦労だが、勝てば金がもらえる。物乞いのような生活よりはずっとマシだ。
ぐいっと踏み込む。膝が僅かに痛む。でも、もう先頭だ。
「差せ差せ差せ!」
後ろからは、1人がなんとか着いてこようとしていた。
けれども、ゴールが先。
「またアーチーかよ!」
「6戦6勝……もしかしてマジで元中央じゃねぇのか!?」
ジジイどものざわめきには目もくれず、私は胴元役のもとに行く。
「なぁ、お前……」
彼が何か言いかける。どうでもいい。私はその手から数枚の千円札をひったくって回れ右。
特に呼び止められないのだから、たいした用件でもなかったのだろう。この前は、
「おじさん」
来た来た、と、店主は内心ひとりごちた。
パン屋にしてもかなり朝早くに開いているこの店の、最近の土曜日一番客はずっとこのウマ娘だった。
身なりが悪く、しかも靴に土や泥をつけたままで入ってくるものだから、妻は「追い返せ」とうるさいのだが。
それでも、彼はこの少女を拒む気にはなれなかった。いかにも困窮した、乞食と大差ないような子供が、日雇いのドカタか何かでやっと稼いだ金で、彼のパンを買おうとしているのだ。副業――彼はそっちこそ本業だと思っているのだが――のせいもあるが、貧しいウマ娘を見捨てるような真似はできないし、したくなかった。
「はいよ、いつものでいいかい?」
こくり、と少女が頷く。
少しばかり、いや妻に言わせれば「バカみたいに」量を増やしてやって、渡す。
その「バカ」か指しているのは、量だけでなく彼の方もなのだろう。
だいたい、朝はパン屋、夜はタクシー運転と仕事を掛け持ちまでして、夢を諦められずに居るのがこの男だった。
これが20代、いや30代くらいまでならまだ「気骨ある」とか言えないこともないのだが、彼はそんじょそこらのバカとは違う。聞いて驚け、もう60である。そう、彼はパーフェクトなバカなのだ。
少女はくしゃくしゃの紙幣を置き、早足で出て行く。
「気をつけてー」
彼は、彼女の背中と、泥の足跡を眺める。その背中には、今さっき起きてきた彼の妻がいた。
彼の頬が立てた高い音が、街中に吸い込まれて行った。
若干胸糞かもしれません。
次回は明日投稿します。