「今、なんて?」
薄汚れた、というには汚れすぎている少女が、うめいた。
目の前には男。周りでは、まだまだ「薄汚れた」程度の形容で済む女たちが、彼女を指差して笑っていた。
「だからぁ、もう出るなってこと。競バになんねぇんだよ。先週言ったでしょ?」
聞いてない、と返そうとして、思い当たる記憶が一つ。
「あ……」
あの時、こいつが言おうとしていたのは、それか。
しかし、今ばかりは、せめて何も忘れて「聞いていない」と叫ぶべきだった。
「ほら、じゃあ帰った帰った。そんだけ走れんだから
男が気味の悪い笑みを浮かべた。
この胴元役は、知っている。少女が
実力の問題ではない。健康の問題でもない。年齢の問題でもない。まして入学金や学費のような問題ではない。
いや、それら全てがこのウマ娘には不足していたわけだが、それをかき消すほどの大問題を、少女は男に告げてしまっていた。
「すげぇな、アーチー」
「……これくらいは、まぁ」
破竹の3連勝を遂げた少女は、少しだけ嬉しそうに答えた。
「いやいや、ほんとにすげえって。地方くらいなら行けるんじゃねぇか?」
男がさらに褒める。少女は答えに詰まった。
「てか、なんでこんなとこで走ってんの? トレセン行きゃいいじゃん」
それは、男の直感だった。「まだ何か隠している」と。
地方に入るにしても、先立つものは当然必要だ。だから、ホームレスの女が、こんな場末でしか走れないこと自体に不思議はない。
それでも、長年小汚い少女たちを見てきた彼には、このとびきり汚いウマ娘に、何か秘密があるような気がした。
そして、それは的中する。
「私は……名前が、12文字あるので」
少女は警戒心が薄れすぎていた。無理もないことだった。これまで、炊き出しを巡るためにしか使ってこなかった脚を、本来の目的――レースのために使わせてくれたのは、この男だったのだから。
男の口角が、わずかに釣り上がった。
それ以来だった。この男が、本性を
私は男を睨みつける。
見慣れたくもなかった
ああ、このクソ野郎を今すぐにでも殴り殺してやりたい。
思わず右の手に力が篭る。
きっと殺せる。
私がぐいと踏み込んで、その顔面に思い切り拳を打ちつけてやりさえすれば。そうすれば、この男はホラー映画の宣伝ポスターよりグロテスクな有様になって、死ぬ。
私の、ウマ娘の
だけれども。
私は目を奥に逸らした。
こんな違法賭博だ。当然、後ろに
だからだろう。あいつらは、ここでは隠しもせずに銃を持ち歩いている。
石を投げられれば痛いように。銃で撃たれれば、死ぬ。それは人でもウマ娘でも変わらない。ヒトより力が強くても、ヒトより頑丈にはできていない。
もし、私がこの男を殺せば。
私もあいつらに殺される。
「こんな男と心中なんて、冗談じゃない」
それは捨て台詞に過ぎなかった。
ウマ娘という生物は、クソだ。
別の世界の魂だかなんだか知らないが、こんなものに縛られ続ける。生まれたときから、死ぬときまで、ずっと。こんな名前ですら、捨てられない。
私はこの名前を何よりも嫌っているはずなのに。他でもないその私が、この名前を手放せない。捨てられない。変えられない。
ウマ娘はクソだ。
こんな
宗教の炊き出しに付いてくるありがたいお言葉が、ケツを拭く紙以上になったことなどあるものか。
きっとカミサマというのは、サディスティックで、デカダンで、人格破綻者な、サタニストに違いない。
その別の世界とやらのカミサマも、さぞかしクソったれな
もし、カミサマにもう少し慈悲があれば。もし、私が。私が普通の人間に生まれていたら、もっとまともな人生を送れたはずだ。いや、名前があと3文字短いだけでもいい。そうすれば、私は、私は。
「いらっしゃい」
声がした。それは先週来に聞いた声。ここ数週間、毎週聞いていた声。
しまった、と思った。
私はここに来るつもりなどなかった。いまや私のポケットに金は入っていない。私は客ではない。そうなったら、次は叩き出されるかもしれない。
だから、来るはずじゃなかった。来るべきじゃなかった。それなのに、カミサマへの怨嗟を唱えているうちに、足はいつも通りに動いて、ここにたどり着いてしまった。
ああ、これはカミサマなりの仕返しに違いない。
奴は願いを聞かないかわりに、仕返しはきっちりやってくるのだ。
サディストめ。
私の意識は、そこで途切れた。
次回最終回、明日投稿します。