最終話です。
「ここは……」
和室の真ん中、昭和を思わせるカバーのかかった電球の下で、少女は呟いた。
いくらか雑に敷かれた布団の隣には、ペットボトルが置いてある。
少女もそれに気づく。
だが、そこに添えられた紙の「好きに飲んでください」という文字は、彼女には読めない。
それでも、汚れた腕はそれを掴んで、一気に飲み干した。
この家の主を信頼した、というわけではない。
ただ、それまでの彼女の生活が、それが誰のものか、あるいは何が入っているのかなど、気にしていられるようなものではなかったというだけである。
少女は改めてあたりを見回した。
窓から、傾いた日が差し込んでいる。
気を失う前は朝だったはずだから、夕日だろう、とあたりをつけた。
では、ここはどこか。誰が、いったい何のために、私を半日も布団に寝かせていたのだろうか。
そんな疑問は、
「おう、起きたか」
声がした。それは彼女が今朝以来に聞いた声。ここ数週間、毎週聞いていた声。
「……おじさん」
パン屋の店主の声だった。
おじさんのズボンの裾は、泥だらけだった。畳の上に
それに構わず、布団の横まで歩いてくると、目線を合わせるようにしゃがんだ。
「急に倒れたもんだから、びっくりしたよ」
「どうして……」
どうして、叩き出さなかったの。
どうして、布団に寝かせたの。
どうして、私を助けたの。
その意は、伝わったのか、伝わらなかったのか。おじさんはたぶん、どちらにせよそう答えたのだろう。
「俺は、トレーナーだからな」
疑う余地もなく老人と呼んでよい歳の男の目が、少年のようにきらめいた。
ただ、この
それだけで十分だった。
この前裏切られたばかりなのに、我ながらずいぶんと単純だ、などと思いつつ気を緩めると
『ぐうううううううううう……』
そのまま腹も緩んだ。
「
「食べるか話すかどっちかにしろ」
「
言うと、少女は一心不乱にパンを頬張りはじめた。それもそのはず、彼女が倒れたのは空腹ゆえに他ならないのだから。
「もぐもぐ」というよりも「ぐしゃぐしゃ」と食べる姿を前に、パン屋は考える。この少女を、どうするべきか。
『元気になったなら出ていけ』などと言ってよい相手ではない。置いておく理由を作るなら、何が良いか。
兼業トレーナーの男は、一つ、思いついた。
「なぁ、お前、
「……っ」
少女の、パンを口に運ぶ手が止まった。
「入学金なら心配しなくていい。それとも地方の方でも構わないが」
それでもこの少女は首肯しない。
「地方なら、レベルは草競馬とたいして変わらないだろう。安心して……」
「……ちがう」
そのウマ娘は、また、あの事実を告げてしまった。
「私は、名前が12文字あるから」
パン屋は目を見開いた。そして、その口角があがる。だが、それはあの
「そんなことか」
男曰く、海外なら問題ない。日本で走りたければ、形式上海外でデビューさせて、
このトレーナーは伊達に歳ばかり取っていたわけではない。海外のトレセンにも伝手があった。
今度は少女が目を見開く。いままでの観念をすべて崩すような事実は、その涙腺にも手を伸ばす。
「……私の、名前、で?」
少女は、かすれ声で問う。
「ああ。だから、名前を教えてくれ」
ウマ娘は、魂に、名前に縛られ続ける。それはこの少女も同じ。
いままで隠さなければならなかった名前。嫌っていた名前。そしてなお捨てられなかった名前。
彼女は、声を振り絞って叫んだ。
「私の、私の名前は――」
2006年 10月1日。スプリンターズステークス。
「海外バが前々、豪州と香港、香港の英雄サイレントウィットネスの隣にステキシンスケクン。16頭が、中山の第4コーナーをカーブしていきます」
「さぁ外からオレハマッテルゼにシーイズトウショウ、春の王者と夏の覇者がバ体を合わせてやってきた!」
「サイレントウィットネスが2番手、さらに内からメイショウボーラー! しかし先頭まではまだ1バ身、いや2バ身突き放した! これは強い!」
「香港を待つ必要もなし! 堂々グローバルスプリントチャレンジ優勝を決めました! 短距離世界王者の誕生です!」
「
ありがとうございました。