人修羅が去った後の永遠亭を重苦しい雰囲気が支配していた。
永琳以外は誰もその場で起きたことを知らず、当事者の永琳は固く口を噤んだままだからだ。
その場にいる誰もが一言も喋ることなく、無為に時間だけが流れていく。
「あー……まぁ、何? なんも話さないなら私どっか行ってるね」
そんな沈黙をてゐがその場に似つかわしくない興味なさげな表情で破った。
「ちょっとてゐ!?」
「何よ。私はお師匠様が話したくないことを話すまで粘るだけの興味はないの。後は三人でやってればいいじゃん」
「ま、待ちなさい!」
鈴仙の制止も聞かず、さっさと立ち去ってしまうてゐ。鈴仙も気が重いせいか、てゐを追うことせず、代わりに今もうなだれるように下を向き黙っている永琳に向き直った。
「お師匠様……」
「……鈴仙、私は」
呼びかけられ、永琳は顔を上げる。そこには悲し気の表情を浮かべ、不安そうに腕を組むようにしている鈴仙の姿があった。
「お師匠様。私はお師匠様が間違ったことをしていたとは思っていません……人修羅さんと何を話して、何をしていたのかは分からなくても、お師匠様が私たちを大切にしてくれていることは分かっていますから」
「鈴仙……」
「でも……今のお師匠様は、お師匠様らしくないです」
「……」
鈴仙がそう言うと永琳の方が耐えかねるようにまた下を向き、口を噤んだ。それを見て、鈴仙も少ししてから部屋の入口の方に歩いていく。
「私……少し休んできますね。ちょっと疲れちゃって」
そう言って部屋を出ていく鈴仙を、永琳も輝夜も止めなかった。残り二人になった部屋で不意に溜息の音が漏れる。
「なんだか大変なことになったわね」
「……輝夜」
輝夜は先ほどまでの張り詰めた空気が嘘のように気の抜けた表情をして、部屋の座布団にぺたんと正座する。
「今の貴女は彼に恐怖しているのね」
「ッ……」
その言葉に永琳が図星を突かれたかのような顔で輝夜を見れば、逆に泰然とした態度の輝夜が目に入った。その自分とはまるで真逆の様子に永琳は言葉が詰まる。
「確かに私たちは彼のことを何も知らないわね。きっと貴女にしか分からない理由で人修羅に対して接していたんだろうし」
「えぇ……」
「でも、貴女は結論を焦ったのね。人修羅がさっさと出ていったことからも簡単に察せられるわ。もちろん詳しい内容までは知らないけど……大方私たちに気付かれないようにするぐらいだし、そもそも私たちに反対されそうなことを言ったわけね」
「……」
何から何までその通りの指摘に永琳は眼を逸らすことしかできない。
「貴女のそんな姿は初めて見るわね」
「輝夜……ごめんなさい。でも今回のことだけは、皆にも話せない」
「いいのよ、言わなくて」
ふと優しく微笑んで輝夜は立ち上がり、永琳の前に立ち、ぎゅっと抱きしめる。驚きで眼を
「私も鈴仙も……てゐだって貴女を信じているんだから。だからここで全て投げ出さなくていいのよ」
「輝夜……」
「ここからゆっくり進めていきましょう? もし喋れる時が来たら、ちゃんと私たちにも伝えること。あと人修羅にもちゃんとフォロー入れて。あとは……あぁ、それぐらいかしら。いいわね?」
「……えぇ、そうね……そうさせてもらうわ」
ようやく少し肩の荷を下ろしたかのように口元を緩ませる永琳に輝夜も安堵したのか、永琳を離して部屋の外へ駆けて行く。
「今回ぐらいは私がお茶入れてあげるわね!」
「え? 輝夜、それは私が……」
そう制止する間もなく、輝夜はパタパタと廊下を走っていってしまった。
一人取り残された永琳はその様子を見送りながら、一人考える。
さっきの人修羅は話の流れを有耶無耶にするかのように一人、永遠亭を出て行ってしまった。
人修羅程の力があれば、あの場を無理やり収めることなど造作もなかったはずだ。それは輝夜たちが永琳の提示した契約内容に反対し、人修羅に敵意を向けたとしても。今の人修羅の状況なら契約は少なからずメリットのある話であったことは間違いない。
だというのに、契約を結ぶことを拒否し、その上で契約内容が輝夜たちにバレないようにするために逃げることを選んだ。その理由が永琳には分からなかった。
人修羅の立場からした深謀遠慮なのか、それとも良心とでも言うのか。今の永琳にはそう推測することはできても、断定することはできなかった。
(これからどうすればいいのかしら……)
このまま放置するわけにはいかないが、それはそれとして、もう足取りが掴めない。それに契約に相手が乗ってこないことが分かった以上、同じ方法は取れない。事態の全貌が把握出来ていない以上、永琳側からも今以上の対価を払うことも出来ない。
そう、永琳が終わりのない禅問答のように長考に入ろうとしていた時。
「お待たせ。ほら、お茶飲んでリラックスして」
「あ……そう、ね」
暗闇の思考を断ち切るかのような輝夜の明るい声が届き、永琳を現実に引き戻した。机に置かれる緑茶に永琳も観念したかのように腰を下ろした。
いずれ、再び人修羅と会う必要がある。彼が世界を滅ぼしかねない存在であるのには変わりなく、対処は出来ずとも真意を聴く必要があるだろう。
「輝夜」
「どうしたの、永琳」
「とても美味しいわ」
「ふふん、そうでしょう?」
それでも今は、まだ自分を信じてくれる彼女らを守るためにも。
未だに速く脈打つ心臓を落ち着けなくてはいけない、と、永琳は輝夜の笑顔を見ながら、そう思っていた。
***
その頃、雨が降りしきる竹林に蛍光色に光る人影が一つ彷徨っていた。
濡れ鼠になった人修羅はいつまでも続く同じ景色と耳に入る同じ騒音に流石に辟易していた。
「やっぱり考えなしで、この竹林を抜けるのは無理があったか……」
そもそも雨なんか降っていなくても霧で僅か先も見えない有様であったから、どうにかこの雨が止むまで待っても状況は一向に好転しないことは目に見えていた。しかも無暗に進み過ぎたせいで自分が今どこにいるのかさえ見当がつかない始末だった。
こんな様子は地道に地形を把握していくことすら不可能で、端的に言って八方塞がりもいいとこだった。かと言って強引な方法を今取ったりしたら、今度こそ永遠亭の住民から敵意を向けられかねない。
「……? なんだ?」
その時、人修羅の並外れた聴覚が近くから雨音に搔き消されかけた足音を聞き取る。走っているようなリズムで、それがこの鬱蒼とした竹林の中を迷いなく進んでいく足音を。
「お、おい!? そこに誰かいるのか!? ちょっと道を知りたいんだが!」
よもやよもやの好機に人修羅は慌てて足音の方向に走りながら、大声で呼びかける。
すると、その声が聞こえたのか不意に足音が止まり、次第に悪い視界の奥から人影が見え始めた。
「なんだよ、急に……こんな時間にこんな所いる奴はどこのどいつだ? ……って!?」
「お前……妹紅じゃないか」
そこにいたのは先ほど永遠亭に向かう時に別れたモンペ姿の少女、藤原妹紅だった。人修羅と同じように傘もつけずに濡れ鼠になった妹紅が、まだ会ったのが二回目だというのに嫌な奴に会ったと言わんばかりの表情をしてこちらを見ていた。
「飛んでったと思ったけど、まだこの辺りうろついてたんだな……なんかあったか?」
「うっせ、なんもないよ」
「別に言及する気もないけど……それより丁度いい。竹林の外まで案内してくれないか?」
どうにも素っ気ない態度をとってくるのが気になるが、この際どうでもいいことだった。渡りに船とばかりに妹紅に道案内を頼むことにする。
「あ? お前、永遠亭に用事があったんだろ? 用事が終わったにしても、また鈴仙に案内頼めばよかったじゃねぇか」
「おっしゃる通りで……」
「え? ……ぷっ、ははっ」
一語一句間違いない指摘をされ、開き直るしかない人修羅。その様子を見た妹紅は耐えきれずに少し吹き出す。
「おい」
「いや、すまんすまん。なんだかもう少ししっかりした奴だと思ってたから、今の少し面白くてさ」
「別に案内してもらうのをド忘れしたとかじゃないんだけどな」
「なんかやらかした?」
「やらかしたというよりかは……やらかすかもしれないって感じで追い出された」
「あー、もしかしなくても、あの医者先生かな? 人修羅ってなんか訳アリ?」
「……実を言うとな」
「そうなんだ」
隠すにも良い言い訳も思いつかないし、妹紅が永遠亭に確認を取ったりしたら逆に嘘をついたことが簡単にバレると思い、静かに腹を決めて答えたのだが、当の妹紅はかなりあっさりした返答で、拍子抜けしてしまう。
「この幻想郷で訳アリじゃない奴の方が珍しいぐらいだからな」
「でも、少しは気になるものじゃないのか?」
「気になっても、何も起きないうちから根掘り葉掘り聞いたりしねぇよ、新聞記者じゃあるまいし」
「この世界、新聞記者までいるのか……まぁ、でも有難い話だな」
自分の正体を知っている者が永琳の他にいようがいまいが、結局のところ、自分の素性は出来るだけ知られない方がいいのには変わりがない。積極的に聞かれないのはその点で気が楽だった。
「んで、案内すんのはいいんだけど、行きたい場所とかあんの?」
「…………」
そう聞かれて、人修羅はその点もノープランだったことに気付かされた。当初の目的だった博麗神社は八雲紫の存在により容易には近づけない。というよりもプランが立つまで存在を悟られない方がいい都合上、その近くをうろつくこともリスクが高い。かと言って他に目星がついている場所があるわけでもない。
「ぜんっぜん、考えてなかったって顔してるな」
「……何から何までその通りだよ」
思い返せば、ボルテクス界に居た時でさえ、目的があった時より行き当たりばったりの時の方が多かったぐらいだ。今まで聞いたこともない異世界に飛ばされて、一日二日で要領よく物事を解決できると考える方が虫が良い話だったのかもしれない。
「なら、一度私の家に来るか?」
「お前の家?」
「悪魔って言っても、雨の中ずっといるのも気分悪いだろ? どっか行くにしても雨宿りぐらいしていけよ」
「……お前が良いって言うなら、お言葉に甘えようか」
「よし、まぁ、家って言っても寝床とか期待するなよ」
渡りに船という言葉の意味を身をもって実感しながら、人修羅は雨の中、変わらず迷いなく進む妹紅の後をついていく。しかし、人修羅の心中を写し出すかのように、雨は未だ止む気配はなかった。