鋼の錬金術師×ONE PIECEとめずらしい組み合わせですので人を選ぶ作品ではあると思いますが、楽しんで頂ければ幸いです。
それでは、本編1話目をどうぞ。
シン国に住むタン族の長であるロイス・タンは、一族の安泰のため、次代の皇帝の地位に自分の孫を据えたいと常々考えていた。
そのためには、いくつかの問題があった。タン族は他の一族の中でも弱小な一族であったため、権力も無いに等しく、継承位が低かった。
さらに最近では現皇帝の体調が優れず、皇帝の世代交代も近いのではとの噂が流れている。
その話を聞きつけた一部の一族の過激派には、他の一族の皇帝候補である皇子皇女を秘密裏に抹殺することで、自分たちの一族から確実に皇帝を輩出しようと目論む者も現れた。
ロイスの孫も度々暗殺者を差し向けられており、今のところは刺客を返り討ちにしているものの、いつ孫の命が奪われるかわからない状況に、ロイスは焦り、どうにかしなければと模索した。
そうしてふと外国の技術に興味を持ち、黒魔術と錬金術とを融合させることで悪魔を召喚し、自分たちに害なす者を排することを思いついた。
すぐに研究者を集め、実行に移すべく準備を始めた。
弱小といえど一族の長。必要な文献、道具、材料に至るまで、それらを集めることにそれほど苦労はかからなかった。
そして日夜研究を重ね、漸く実行に移す段階にまでこぎつけることに成功した。
ロイスは己の研究の成果である錬成陣の前に立つ男に合図を送り、それを受けた男は身を屈め、両手を地面へと乗せる。
すると錬成陣はまばゆい光を発し、仄暗い室内を明るく照らした。
同時に、錬成時特有の閃光のようなものが発現し、バチバチと音を鳴らした。
……そして轟音が響いた。
*
時は少し遡り、グランドラインとある海域の上空。
雲一つない快晴で、真っ青な空に一筋の星が流れる。
いや、それは星ではない。
骨だ。
骨が空を飛んでいるのだ!
骨は高速で空を飛行し、遥か前方を飛ぶニュース・クーを一瞬で追い越していく。
物理学者、ウィリー・ガロンは言った。人が空想できる全ての出来事は、起こりうる現実である、と。
物理法則を完全に無視したこの事象にも、無論理由がある。
悪魔の実。
海の秘宝とも呼ばれるそれは、食べた者に多種多様な能力を与える代わりに、海に嫌われ、一生泳ぐことの出来ない身体になるという。
その内の一つ、ニキュニキュの実の能力を持つ王下七武海の一人、バーソロミュー・くまにより、シャボンディ諸島から飛ばされてきたのである。
重力を無視して高速で移動し続けていた骨は、少しずつ勢いを衰えさせ、段々と降下していった。
そして、ついに地面に落ちたのは、シャボンディ諸島を飛ばされてからおよそ三日後のことであった。
*
(いったい何が起きた⁉︎)
突如発生した衝撃と轟音が周囲に響き渡り、それによって激しく舞い上がった土煙を、ロイスは呆然と見守る。
目を凝らすと、地面には不思議な形のクレーターが出来ており、その中心に佇む“なにか”の影が薄っすらと視認できる。
現在この場にいる全員に極度の緊張感が襲いかかり、誰一人として声を発することさえ出来ない。
ただ時間だけが進んでいく。
やがて土煙が晴れ、ロイスはついに、煙に隠れていた影の正体を視界に捉えた。
それは三メートルに届くのではというほどの身長。
ボロボロに汚れ、不気味な印象をこちらに与えてくる服装。
肉や内臓など、人が生存するために必要不可欠なそれすらも自分には関係無いと言わんばかりに、骨のみとなっている身体。
そして他とは対照的に、不自然に思えるほど完璧に生え残っている真っ黒なアフロ!
明らかにこの世ならざる存在を目の前にし、どうしようもなく震える身体を無理矢理押さえつけて、ロイスは口を開いた。
「悪魔王サタン様、先ずはいきなり呼び出した無礼、謝罪致します。そして我らの望みを聞いて頂きたい‼︎ 生け贄も用意しております。どうか、どうか……‼︎」
「私はいったいどこまで……帰らなくては……」
しかしながら骸骨から返ってきたのは、決して彼らが望むようなものではなかった。
ロイスが完全に無視されるだけに留まらず、“帰る”という言葉まで聞こえてきたことにより、周囲がざわめきだす。
当然ながら、ロイスもこれには黙ってはいられない。
このまま帰られてしまっては、せっかく呼び出した苦労も全て水の泡と化してしまう。
ロイスは慌てて、ふらふらと外に向かって歩きだした骸骨を止めにはいる。
「お、お待ちください! 貢ぎ物が足りないのであれば追加も用意致します! どうかご慈悲を!!」
と、そこでロイスは、骸骨の歩みがいつの間にか止まり、顔があらぬ方向へ向いていることに気づいた。
いや、骸骨に目玉などは無いのだから、視線などそもそも分かるはずもない。
それでも、顔の向きからおよそ察することができた。
骸骨の見ている先には、今回のために集めたタン族の老若男女、約20人の生贄たちがいる。
初めは興味など無い素振りを見せていたが、やはり悪魔。
光明を得たとばかりにロイスは笑顔を浮かべ、気が変わらないうちにと骸骨へ促す。
「ああ、やはり頂かれますか。さまざまな年齢のものを用意しましたので、お好きなものをどうぞ‼︎」
そう言うと骸骨は暫く吟味した後、生贄たちの中でも最も若く器量のいい娘の前へと立った。
娘は顔を青くして、諦めたような表情を浮かべている。
骸骨は上体を曲げ、娘と同じ高さに視線を合わせると言った。
「お嬢さん。パンツ、見せて貰ってもよろしいですか?」
「…………」
室内から、完全に音が消えた。
娘は目を見開いたまま固まり、周囲の生贄たちも唖然として骸骨を見つめている。
そして何より――
ロイスの顔から、先ほどまで浮かんでいた満面の笑みが消えた。
「……は?」
骸骨は何の疑問も抱いていないようだった。
「いえ、ですからパンツを。私、こう見えて紳士でしてね。女性のパンツを見るのが趣味――」
「お待ちください‼︎」
ロイスの絶叫が室内に響き渡った。
「な、何を仰っているのですか!?」
「何を、と言われましても……パンツですが」
「そうではありません!」
ロイスは頭を抱えた。
違う。
何かがおかしい。
悪魔とはもっとこう、恐ろしい存在ではなかったのか。
血を求め、魂を喰らい、人間の願いと引き換えに何かを要求するような、そういう存在ではなかったのか。
目の前の骸骨はどうだ。
口調は妙に丁寧。
姿は確かに不気味。
身長は異常に高い。
だが、先ほどから口にしていることが、どうにも締まらない。
そして何より――
「……あなた、本当に悪魔なのですか?」
ロイスが恐る恐る尋ねる。
骸骨はしばし黙り込んだ。
そして自らの姿を見下ろす。
「……まあ、そう思われても仕方ありませんね」
「やはり!」
ロイスの表情が明るくなる。
「ですが、私は悪魔ではありません」
「……え?」
今度こそロイスの思考が止まった。
「私は海賊です」
「…………」
「音楽家でもあります」
「…………」
「そして骨です」
「それは見れば分かる!!」
思わずロイスが叫んだ。
骸骨は肩をすくめる。
「ヨホホホホ。いやはや、これは失礼しました」
そう言って笑う。
だが――
その笑い声を聞いた瞬間、ロイスの背筋に別の恐怖が走った。
悪魔ではない。
それならば、何なのだ。
悪魔ですらない存在が、何故ここにいる?
我々はいったい何を呼び出した?
そもそも。
「……海賊、だと?」
ロイスが呟いた。
その言葉に、骸骨は僅かに顔を上げる。
「はい。私の名前はブルック。麦わらの一味の音楽家でございます」
「麦わら……?」
聞いたことのない名だった。
シン国。
この国から見れば遥か西方の海。
その海の向こうには、ロイスの知らない国々が存在する。
この場にいる者たちの誰一人として、目の前の骸骨の言っていることを理解できる者はいなかった。
ブルックはそんな彼らを見回して、改めて気づいた。
自分を囲むようにして立つ人々。
怯えた顔。
拘束された者。
そして先ほど自分が声を掛けた娘。
ブルックはゆっくりと彼女を見る。
「……ところで」
「は、はい……」
「どうして皆さん、そんなに怯えているのでしょう?」
娘は答えられなかった。
代わりにロイスが口を開く。
「それは……」
「それは?」
「……あなたに捧げるためです」
「…………」
ブルックが黙った。
「……私に?」
「はい」
「何のために?」
「あなたに我らの敵を排除していただくためです」
「…………」
数秒。
ブルックは何も言わなかった。
そして――
「ヨホホホホホ!!」
突然、大声で笑い始めた。
「何がおかしい!!」
「いえ、失礼。あまりにも話が突拍子もなかったもので」
ブルックは腹を抱えようとした。
しかし骨なので腹がない。
「ああ、そうでした。私、腹筋がありませんでした。ヨホホホホ!」
「笑っている場合か!!」
ロイスの額に青筋が浮かぶ。
「我々はあなたを召喚するために、時間をかけて研究を――」
「待ってください」
ブルックの声色が変わった。
先ほどまでのふざけた調子が消えている。
「……召喚?」
「そうです」
「この丸い模様のようなもので?」
「はい」
ブルックは足元を見る。
巨大な円。
複雑な文様。
そして周囲には、見慣れない道具や器具。
ブルックはしばらくそれを眺めていた。
「なるほど……」
「何か分かるのですか?」
「いいえ。さっぱり」
「…………」
「ただ、私がここへ飛ばされた原因については心当たりがあります」
ブルックは遠い目をした。
「実は私、仲間とはぐれてしまいましてね」
「仲間と?」
「ええ」
その言葉に、ブルックの表情――いや、表情と呼べるものはほとんどないが――声に寂しさが混じった。
「とても大切な仲間たちです」
その瞬間だけ、ブルックは本当に寂しそうだった。
だが、すぐにいつもの調子に戻る。
「それで、どういうわけか空を飛びまして」
「空を?」
「三日ほど」
「…………三日?」
「はい。ずっと空を」
「……」
ロイスは頭痛を覚えた。
何を言っているのか全く分からない。
だが、一つだけ分かった。
目の前の男は、少なくとも自分たちが想定していた「悪魔」ではない。
そしてブルックはもう一度、生贄たちを見た。
「ところで、先ほどの話ですが」
「……何でしょう」
「この方々は、あなた方の敵を排除するために私へ捧げられるのですか?」
「そうです」
「では」
ブルックは娘の前へ歩み寄る。
そして優しく手を差し出した。
「お嬢さん」
「……はい」
「お怪我はありませんか?」
娘は戸惑いながら首を横に振った。
「ならば大丈夫ですね」
ブルックはそのまま振り返る。
「では、この方々を解放してください」
「な――」
ロイスが絶句する。
「何を仰っているのです!」
「生贄など必要ありません」
「ですが!」
「私は悪魔ではありませんから」
ブルックの声が静かに響いた。
「それに――」
彼は少しだけ首を傾ける。
「女性を生贄にするような海賊を、私の船長が許すと思いますか?」
「…………」
「我らが船長は、そういうことを何より嫌います」
ロイスは拳を握った。
「……我々には、他に方法がないのです」
「方法?」
「孫を……次代の皇帝にしなければならない」
ブルックは黙って聞いていた。
ロイスはこれまで誰にも話さなかった事情を吐き出していく。
弱小一族であること。
低い継承位。
現皇帝の体調不良。
迫る世代交代。
暗殺者。
そして――
自分の孫を守るためには、力が必要なのだということ。
話を聞き終えたブルックは、しばらく黙っていた。
「……なるほど」
「分かっていただけましたか?」
「ええ」
ブルックは頷く。
「あなたが、お孫さんを大切に思っていることは」
ロイスが顔を上げる。
「ですが」
ブルックは続けた。
「だからといって、関係のない人々を犠牲にしてよい理由にはならないと思います」
「…………」
ロイスは何も言い返せなかった。
正論だった。
あまりにも真っ直ぐな正論だった。
しかし、だからこそ腹立たしい。
この骸骨は何も知らない。
シン国のことも。
一族同士の争いも。
皇位継承を巡る暗闘も。
何より――自分がこれまでどれほどの時間をかけて孫を守ろうとしてきたのかも。
「……綺麗事ですな」
やがてロイスは低い声で呟いた。
「一族を背負う者の苦しみなど……海を渡ってきただけのあなたに分かるはずがない」
「そうかもしれませんね」
意外にもブルックは反論しなかった。
「私はあなたの事情を全て知っているわけではありません」
「ならば――」
「ですが」
ブルックはロイスの言葉を遮った。
「大切な人を失いたくないという気持ちなら、少しは分かります」
その声から、先ほどまでの軽薄さが消えていた。
「私も……もう大切な仲間を失いたくありませんから」
ロイスは口を閉ざした。
骸骨の眼窩には当然、眼球など存在しない。
それでも何故か。
今のブルックが、自分の過去を見ているような気がした。
「…………」
その時だった。
――こつ。
小さな音がした。
ブルックの頭部が、入口の方へ向く。
「……?」
ロイスもそちらを見る。
何もない。
扉は閉ざされている。
だが、ブルックは腰に差した仕込み杖へ手を添えた。
「皆さん」
「……?」
「少し静かにしていただけますか?」
その声に、ロイスは初めて奇妙な違和感を覚えた。
先ほどまでのふざけた調子ではない。
「何か……いるのか?」
「ええ」
ブルックが答える。
「複数いますね」
「なに?」
ロイスが振り返る。
「外に人が?」
「はい」
その時。
――カッ。
今度は、はっきり聞こえた。
金属が触れ合う音。
ロイスの部下たちが一斉に入口を見る。
「ロイス様!」
「どうした!」
「……人影が!」
扉の向こう。
ほんの一瞬。
松明の明かりに照らされて、人の足元らしき影が横切った。
一つ。
二つ。
三つ。
もっといる。
「全員、構えろ!」
ロイスが叫んだ。
部下たちが剣を抜く。
生贄として集められた者たちは、何が起きているのかも理解できず、互いに身を寄せ合った。
ブルックは扉から目を離さない。
「来ます」
「何?」
――バンッ!!
扉が激しく開かれる音。
開かれた分厚い木製の扉の向こうにいくつもの黒い影が見えた。
「きゃあああああっ!!」
生贄たちから悲鳴が上がる。
舞い上がった土煙が、ロイスの視界を奪った。
「ロイス様をお守りしろ!」
「生贄を下げろ!」
部下たちの叫び声が飛び交う。
ロイスは反射的に後退した。
土煙の向こうから、黒い影が走り込んでくる。
一人。
二人。
三人。
「刺客だ!」
誰かが叫んだ。
その言葉を聞いた瞬間、ロイスの心臓が大きく跳ねた。
まただ。
また孫を狙う者たちが現れた。
「ロイス様!」
部下が前へ出る。
だが。
「――速い!」
黒装束の男が一人、他の者たちを置き去りにして突っ込んできた。
狙いは明らかだった。
ロイス自身。
「ぐっ……!」
ロイスは腰の剣へ手を伸ばす。
間に合わない。
刺客の短剣が迫る。
その時。
ロイスの視界の端で、ブルックの身体が動いた。
一歩。
いや、一歩に見えたのは、あまりにも速かったからだ。
次にロイスがはっきり見た時には、ブルックが自分と刺客の間に立っていた。
――キィンッ!!
火花が散る。
ブルックの細身の剣が、刺客の短剣を横から受け止めていた。
「な……」
ロイスは息を呑む。
どう動いたのか。
完全には見えなかった。
ただ、ブルックがそこへ移動する直前まで、彼はロイスの少し前方に立っていた。
そして今は。
ロイスの目の前で、刺客の攻撃を止めている。
刺客が舌打ちする。
弾かれた短剣を引き戻す。
ブルックは剣を構えたまま、それを正面から見ている。
「ブルック殿!」
ロイスが叫ぶ。
「後ろだ!」
別の刺客が迫っていた。
ロイスには見えていた。
ブルックの背後。
黒装束の男が剣を振り上げる。
「危ない!」
ロイスが叫んだ瞬間。
ブルックが身体を右へ捻った。
刺客の刃が、ブルックの肩の横を通り過ぎる。
――キィンッ!!
ブルックの剣が振り上がった。
背後から迫っていた刃を横へ弾く。
「二人同時に……!」
ロイスは目を見開いた。
ブルックはそのまま身体を回転させる。
長い脚が床を踏みしめた。
そして。
――ガッ!!
剣の柄が刺客の手首を打った。
「ぐっ!」
短剣が床へ落ちる。
だが、別の二人が左右から迫っていた。
「まだいるのか!」
一人が右。
もう一人が左。
二本の刃が、ほぼ同時にブルックへ迫る。
ロイスは思わず息を止めた。
ブルックが膝を曲げる。
身体を低くする。
二本の刃が、頭上を交差して通り過ぎた。
その瞬間。
ブルックの右脚が伸びる。
――ドンッ!!
右側の刺客の腹部へ蹴りが入った。
男の身体が浮く。
「ぐあっ!」
そのまま壁へ叩きつけられた。
「蹴った……!」
ロイスが呟く。
ブルックはすぐに左側の刺客へ向き直る。
刺客が短剣を横薙ぎに振る。
ブルックは身体を後ろへ反らした。
刃が鼻先を通過する。
その直後。
ブルックの仕込み杖が振り上がった。
――ガッ!!
柄が刺客の顎を打ち抜く。
「がっ!」
男がよろめく。
ブルックは追撃せず、一歩下がった。
そこへ別の刺客が斬り込んでくる。
ロイスには、今度の動きが見えた。
ブルックは右足を引く。
上半身を左へ傾ける。
刃が目の前を通り過ぎる。
そして。
――キィン!!
剣が短剣を弾き飛ばした。
「ぐっ!」
刺客が後退する。
ブルックはさらに踏み込む。
剣の柄が肩へ入る。
――ドンッ!!
刺客が膝をついた。
「…………」
ロイスは息を呑んだ。
速い。
だが、それだけではない。
ロイスが目で追える範囲では、ブルックの動きには無駄がなかった。
避ける。
受ける。
弾く。
打つ。
一つ一つの動作が、次の動作へ繋がっている。
だが、その時。
「ロイス様!」
叫び声が上がった。
ロイスが振り向く。
一人の刺客が、ブルックのいる場所を避けて生贄たちへ走っていた。
「しまった!」
少女たちが悲鳴を上げる。
「いやぁぁぁっ!」
刺客の短剣が振り上げられる。
ロイスは走り出そうとした。
だが。
ブルックが視界に入った。
彼は刺客の方を向いている。
一歩。
二歩。
床を蹴る。
ロイスはその動きを目で追った。
しかし――速い。
視界から外れたわけではない。
それでも、ロイスの目では脚の動きを完全には捉えきれない。
次の瞬間。
ブルックは少女の前に立っていた。
「――っ!」
刺客の短剣が振り下ろされる。
ブルックが身体を横へ向けた。
完全には避けきれない。
刃が胸元へ突き刺さった。
「ブルック殿!」
ロイスの顔から血の気が引く。
刺客が笑う。
「取った!」
だが。
ブルックは倒れなかった。
刺客の短剣は、胸骨の間に突き刺さっている。
「……な?」
男が固まる。
ブルックはゆっくりと自分の胸へ視線を落とした。
そして、片手で短剣を掴む。
「え……?」
短剣が引き抜かれる。
――ズッ。
それでも血は流れない。
傷口から何かが溢れることもない。
「そ、そんな……」
刺客が後退する。
ブルックは自分の胸元を軽く確認した。
「私、骨ですので」
「…………」
「内臓がないのですよ」
ロイスは言葉を失った。
分かっていたはずだった。
この男は人間ではない。
しかし、実際に目の前でその事実を見せつけられると、背筋が凍る。
「化け物……」
刺客が呟く。
ブルックが男へ顔を向ける。
「失礼な!」
怒ったような声。
「私は人間です!」
ブルックが剣を構える。
「くっ……!」
刺客が刃物へ手を伸ばす。
その動きを見て、ブルックが踏み込んだ。
剣が横薙ぎに振られる。
「ぐっ!」
その隙を逃さず、ロイスの部下たちが飛びかかった。
「今だ!」
「押さえろ!」
「離せ!」
一人。
二人。
次々と刺客が取り押さえられていく。
「ぐっ!」
男が地面へ押さえつけられた。
「これで……全員か?」
ロイスは周囲を見回した。
倒れている者。
拘束された者。
武器を失った者。
そして。
その中央に立つブルック。
「…………」
ロイスは自分の手を見る。
震えていた。
恐怖だ。
刺客に対してではない。
目の前にいる存在に対してだ。
もし。
もしこの男が、自分たちへ牙を剥いていたら。
自分たちに止める術などあっただろうか。
ブルックは、床に倒れた暗殺者たちをゆっくりと見回した。
先ほどまでの戦闘で、全員が戦闘不能になっている。
それでもまだ、意識を保っていた。
その中の一人が、苦しげに顔を上げる。
「……化け物……」
その言葉を聞いたブルックは、しばらく黙っていた。
やがて。
「……化け物、ですか」
小さく呟く。
そして、自分の白骨化した手を眺めた。
「確かに……そう見えるでしょうね」
いつもの軽い調子ではなかった。
笑ってもいない。
ただ、静かだった。
あまりにも静かだった。
「私は一度、死んでおりますから」
「……!」
暗殺者の顔が強張る。
ブルックはその反応を見て、ゆっくりと顔を上げた。
「死ぬというのは……なかなか興味深いものですよ」
「…………」
「身体から血が流れなくなる」
一歩。
「心臓が動かなくなる」
また一歩。
「呼吸も必要なくなる」
さらに一歩。
暗殺者の目の前まで近づく。
「それでも――魂だけは残る」
「……何を……」
「ご存じですか?」
ブルックは首を傾げた。
「魂というものは、身体よりずっと脆いのですよ」
「…………」
「肉体なら、傷つけても治せる場合があります」
ブルックの指先が、暗殺者の胸元へ伸びる。
触れはしない。
ただ、心臓のある場所を指す。
「ですが魂は違う」
ブルックの眼窩の奥。
本来なら何も存在しないはずの場所に、暗殺者は何かが揺らめいたような錯覚を覚えた。
「一度こちら側から引き剥がされてしまえば――」
ブルックの声が低くなる。
「戻れなくなることもある」
「…………!」
暗殺者が後ずさろうとする。
しかし身体が動かない。
「ま……待て……」
「何を待つのです?」
ブルックは笑わない。
ただ、静かに男に顔を近づける。
「次はありませんよ」
「…………」
「あなた方が今ここで引き返すのであれば、私は何もしません」
暗殺者の目が僅かに動く。
「ですが――」
ブルックはそこで言葉を切った。
長い沈黙。
室内にいる全員が息を呑んでいる。
そして。
「もし、またこの我々を狙うのであれば」
ブルックは静かに告げた。
「次にあなた方が目を覚ました時……」
僅かに顔を傾ける。
「自分の身体があるとは限りませんよ」
「…………!」
「魂だけになっているかもしれません」
暗殺者の顔が引きつった。
「な……」
「その場合、どこへ行くのでしょうねぇ?」
ブルックは天井を見る。
「地獄でしょうか」
視線を戻す。
「それとも黄泉の国でしょうか」
一拍。
「あるいは――」
ブルックの声がさらに小さくなる。
「私の胃袋の中かもしれません」
「…………!」
誰も声を出せなかった。
ブルックはそんな彼らを眺めながら、淡々と言葉を続けた。
「まあ、ご安心ください」
暗殺者の表情が僅かに緩む。
「今すぐ魂を食べたりはしませんよ」
「…………」
「私は紳士ですから」
一瞬、場の雰囲気が弛緩する。
だが――
「ただし」
その笑顔が消える。
「次は」
杖の先で、床を軽く叩く。
――カツン。
「あなた方の魂が、どんな味なのか」
――カツン。
「確かめさせていただきます」
――カツン。
「ヨホホホホ……」
その笑い声は、いつもの陽気なものとはまるで違っていた。
暗殺者たちは凍りついた。
そしてロイスもまた、言葉を失っていた。
先ほどまで目の前にいたのは、奇妙で陽気な骸骨だった。
だが今、そこに立っているのは――
本当に「死」を知っている何かだった。
ロイスは無意識に息を呑む。
ブルックはゆっくりと暗殺者たちから離れると、ロイスへ振り返った。
「……さて」
声はいつもの調子に戻っていた。
「これで、もう来ないでしょう」
ロイスは答えられなかった。
何故なら――
暗殺者たちが、誰一人としてブルックの方を見ようとしなくなっていたからだ。