シン王国、首都《シセン》。
黄褐色の建物が、どこまでも連なる町である。
街並みに派手な装飾は少ない。壁も屋根も似たような色合いで統一されており、一見するとどこか無機質な印象すら受ける。
もっとも、それは町全体が質素だという意味ではない。
皇帝陛下が暮らす宮廷や、各一族の長が居を構える区域などには、一般の建物とは明らかに異なる豪奢な建築物が並んでいる。
しかし、シセンの大部分を占めているのは、庶民が暮らす住宅街や商業区域だ。
その九割以上は、よく似た造りの家々が続いている。
代わりに、街路の整備は比較的進んでいた。
東西南北に区分けされた都市構造になっているため、初めて訪れた者でも現在地を把握しやすい。道幅も広く、人や荷車が行き交っていても、ある程度の余裕がある。
そして町の中央。
シセンの象徴とも言える宮廷からは、南北へ向かって一本の大通りが伸びている。
通りの両脇には所狭しと商店や露店が並び、食料品から衣服、日用品、異国から運ばれてきた珍しい品まで、さまざまな商品が売られていた。
人々の呼び声。
荷車の車輪が石畳を擦る音。
商人同士が交わす会話。
焼いた肉や香辛料の匂い。
それらが混ざり合い、通り全体を独特の活気で満たしている。
そんな大通りを、一人の奇妙な男が歩いていた。
ブルックである。
長身の身体をやや縮めるようにしながら、人の流れに合わせて歩いている。
現在の彼は、顔の上半分を覆うようにスカーフを巻いていた。
骸骨の顔を隠すためだ。
この国へ来てからまだ日が浅い。
いくら異国とはいえ、白骨化した身体で堂々と街を歩けば、騒ぎになるのは目に見えている。
今のところ、この変装のおかげで目立った騒動にはなっていなかった。
――もっとも。
身長三メートル近い巨体を完全に隠せるわけではない。
道行く人々の中には、珍しそうに振り返る者も少なくなかった。
しかし、少なくとも悲鳴を上げられるような事態には至っていない。
「さて……」
ブルックは歩きながら、周囲の様子を観察する。
彼の目的は、この国から脱出するための手段を探すことだった。
もちろん、目指す場所は海。
そしてその先にいるのは――麦わらの一味の仲間たちだ。
シャボンディ諸島で仲間たちと離ればなれになって以来、ブルックはずっと彼らとの再会を望んでいる。
そのためには、まずこの国から出なければならない。
国外へ通じる貿易船。
あるいは、この国と他国を行き来する商船。
できれば、そのどれかに乗せてもらうのが一番手っ取り早い。
そこでブルックは、商店や露店を巡りながら、さりげなく情報を集めていた。
「……なるほど。あちらの港から西へ向かう船がある、と」
聞き込みの結果を頭の中で整理する。
しかし、問題は一つではない。
そもそも自分は、この国の人間ではない。
身分証もなければ、この国の貨幣についての知識も乏しい。
そして何より――
金がない。
ブルックが現在持っているものは、シャボンディ諸島から離れた時にも手放さなかった仕込み杖。
そして、ロイスから「せめてもの礼に」と渡された僅かな金銭。
道中のために持たせてもらった食料の入った包み。
それから、現在顔に巻いているスカーフ。
これだけだった。
食料もいつまでも残っているわけではない。
船に乗せてもらうにしても、何らかの対価を求められる可能性が高い。
「これは……少々困りましたねぇ」
ブルックは顎に手を当てる。
骨なので、顎に手を当てても表情は変わらない。
だが、その仕草だけを見ると、随分と深刻そうに悩んでいるように見えた。
そうして一時間ほど歩いただろうか。
ふと、前方に人だかりができているのが目に入った。
何かと思って近づいてみると、そこには一軒の露店があった。
香辛料をたっぷりと使った串焼き肉を売っているらしい。
炭火で焼かれた肉からは、香ばしい匂いが立ち上っている。
鼻を持たないブルックにも、その匂いは分かった。
「おお……」
思わず足を止める。
肉を焼く音。
香辛料の刺激的な香り。
行列を作る客たち。
シセンでも人気の店なのだろう。
その時だった。
列の一番前にいた客が、串焼きを受け取った。
すると、その客の足元へ、一人の男が近づいていく。
フードを深く被っているため、顔はよく見えない。
どうやら物乞いらしい。
男は、残り物でも分けてもらおうとしたのだろう。
しかし邪魔だと言わんばかりに、客は乞食を蹴り飛ばした。
男の身体が地面を転がる。
そのまま勢い余って、ブルックのいる方へと転がってきた。
そして――
どさっ。
ブルックの足元で倒れた。
「…………」
ブルックは無言で見下ろす。
「ぐぎゅるるぅぅ~~~~……」
凄まじい音が響いた。
地響きかと思うほどの音だった。
しかし、その発生源は目の前に倒れている男の腹だった。
「おや……」
ブルックが首を傾げる。
男はしばらく地面に伏せていたが、やがてゆっくりと顔を上げた。
服装だけを見るなら、単なる乞食とは少し違う。
それなりに仕立ての良い服を身に着けている。
ただし、何度も地面に倒れたのだろう。
衣服には埃が付着し、ところどころ汚れていた。
そして何より、顔色が悪い。
男は糸目から涙を流しながら、ブルックを見上げた。
「すみません……」
声にも力がない。
「どうか……少しだけ、食べ物を分けてもらえませんか……」
そう言うと、男はそのままブルックの足をがしりと掴んだ。
「…………」
ブルックはしばらく男を見下ろした。
どうしたものか。
普通なら警戒するところだ。
しかし――
ふと、以前の出来事が脳裏をよぎった。
深い霧の中。
何も知らない自分を、何の躊躇もなく食事へ招いてくれた人々。
あの時、彼らが差し出してくれた食事。
そして、そこに込められていた温かさ。
きっと自分は、あの時感じた感謝を忘れることはないだろう。
「…………」
ブルックは自分の持っている食料へ目を向けた。
ちょうど、ロイスから渡されたものが残っている。
この程度なら、自分が多少我慢すればいい。
周囲からも視線が集まり始めている。
これ以上ここにいれば、この男まで余計な騒ぎに巻き込まれるかもしれない。
ブルックは男を立たせると、人目の少ない近くの路地裏へ連れていった。
そして、持っていた食料の箱を差し出す。
男の目が見開かれた。
男は箱を受け取ると、夢中になって食べ始めた。
その勢いは凄まじかった。
まるで何日もまともな食事をしていなかったかのようだ。
やがて男は、用意されていた食料の大半を平らげた。
「ふぅ……」
腹をさする。
「少し食べ足りないけど、生き返ったよ。ごっそさん」
先ほどまで死にそうな顔をしていたとは思えないほど、男は元気になっていた。
立ち上がり、服についた埃を手で払い落とす。
そして改めてブルックを見る。
「ところで……」
男は首を傾げた。
「珍しい格好だけど、アンタ、外国の人?」
「ええ。そうです」
ブルックは頷く。
「少々訳ありでして」
男は珍しそうにブルックの顔を眺めた。
正確には、スカーフに隠された顔を。
「そうか!」
やがて男は笑った。
「俺の名はリン!」
胸を張る。
「シンの人間は、受けた恩は必ず返す。何か困ってることがあったら、なんでも言ってくれ」
「…………」
ブルックは一瞬、考え込んだ。
何か困っていること。
もちろんある。
むしろ、困っていることだらけだ。
国外へ出るための船。
その船を探すための情報。
そして、船に乗るための資金。
だが――
目の前の男を見る。
つい数分前まで、腹を空かせて地面に倒れていた人物だ。
そんな相手に金銭的な助けを求めるわけにはいかない。
それに、食事を恵んだだけでそこまでの恩を返してもらうつもりもない。
「お気持ちだけ頂いておきましょう」
そう断ろうとした。
――その時だった。
「…………!」
ブルックの身体が反応した。
何かいる。
殺気。
ほんの一瞬だった。
ブルックは咄嗟にその場から身体を引いた。
直後。
――ズガッ!
一本のクナイが、先ほどまでブルックが立っていた場所へ突き刺さった。
「おや?」
ブルックはクナイを見る。
そのまま、飛んできた方向へ顔を向けた。
屋根の上。
そこに、一人の黒装束が立っていた。
顔には面。
手には武器。
明らかにただ者ではない。
クナイが外れたことを確認すると、黒装束は迷うことなく屋根から飛び降りた。
そのままブルックへ向かってくる。
「なっ――!?」
ブルックは仕込み杖へ手をかけた。
鞘から刀身を引き抜く。
キィン――。
鋼と鋼がぶつかる音が響いた。
黒装束の刃を受け止める。
だが、相手の攻撃は止まらない。
ブルックは身体を捻り、紙一重で刃を躱した。
風圧がスカーフを揺らす。
そのまま刃が背後の露店へ突き刺さり、張られていた布を大きく切り裂いた。
「きゃあああっ!」
周囲から悲鳴が上がる。
突然の戦闘に、人々が一斉に逃げ始める。
果物や野菜が露店から転がり落ち、路面を埋めていく。
商人たちも荷物を抱えてその場から離れていった。
瞬く間に、先ほどまで活気に満ちていた商店街が、即席の戦場へと変わっていく。
黒装束が刀を返した。
今度は突き。
一直線にブルックの胸部を狙ってくる。
ブルックは半歩横へずれた。
刃が胸元を掠める。
「おっと!」
ブルックが体勢を立て直す。
だが、黒装束はすぐに次の攻撃へ移った。
その時だった。
「ランファン、止まれ!」
リンの声が響く。
「この人は食べ物を分けてくれた恩人だ!」
「若!?」
黒装束――ランファンの動きが止まった。
殺気がわずかに緩む。
「リン様に近づいて食い物を恵む? 何が目的ね! 毒でも盛ったか?」
「そんなことする人に見えるか?」
「怪しい格好をしている時点で十分怪しいです」
面で顔を隠していても分かるほどの仏頂面。
飽くまでも自分に非はないと主張している。
「まあ、それは……そうかもしれないけど」
リンが苦笑する。
ブルックも剣を下ろした。
「リンさん。こちらの方は?」
「俺の護衛だよ。ランファン」
「失礼いたしました」
ランファンはそう言いながらも、警戒を完全には解いていない。
その視線はブルックを捉え続けている。
「いや、すまない」
リンがブルックへ向き直る。
「こいつは――」
そこで。
リンの言葉が止まった。
「……?」
ブルックは首を傾げる。
ランファンも同じだった。
二人の視線が、ブルックの顔へ集中している。
ブルックは不思議そうに自分の顔へ手を当てた。
そして――
そこで気づいた。
スカーフが破れている。
先ほどの攻撃だ。
クナイを避けた際に、完全には回避しきれなかったらしい。
布の裂け目から、白いものが覗いている。
――骨。
隠していた骸骨の顔が、完全に露出していた。
「…………」
リンとランファンが固まる。
ブルックも何も言わない。
ただ、二人の反応を見て、静かに目を伏せた。
――ここまでですね。
これでは、まともに話をするのも難しいだろう。
ブルックは小さく息を吐く。
もちろん肺はない。
だが、長年の習慣というものは恐ろしい。
そして、無言でその場を離れようとした。
「待ってくれ!」
背中から声が飛んできた。
ブルックが足を止める。
振り返る。
リンがこちらを見ていた。
「俺の仲間になってくれないか?」
「若!?」
ランファンが驚きの声を上げる。
ブルックもさすがに驚いた。
「……私が?」
「ああ」
リンは右手を上げ、ランファンを制する。
「まあ、正確には仲間というより……」
リンは少し考えるように顎へ手を当てた。
「護衛をお願いしたいんだ」
「護衛?」
「ここから西にある大国へ用があってね。そこまでの護衛を頼みたい」
リンは悪びれもせず続ける。
「もちろん報酬は出すよ。希望があるなら、可能な限り聞こう」
その言葉を聞いた瞬間。
ブルックの思考が止まった。
報酬。
護衛。
西。
船。
国外。
――願ってもない話だった。
ブルックはしばらくリンを見つめる。
「どうかな?」
リンがニヤリと笑う。
「悪くない話だと思うけれど」
「……貴方はいったい何者なんですか?」
ブルックは尋ねた。
ただの行き倒れではない。
先ほどのランファンとのやり取り。
そして、今の発言。
何かある。
そんな予感がした。
「俺か?」
リンは胸を張った。
「俺はシン国第十二王子、リン・ヤオ!」
「…………」
ブルックは黙った。
目の前の人物と、先ほどまで地面に倒れていた男がどうしても結びつかない。
だが、リンはそんなブルックの困惑など気にも留めず、さらに言葉を続けた。
「近い将来、必ずこの国の皇帝になる男だ!」
「…………」
自信満々。
微塵の迷いもない。
まるで、それがすでに決まっている未来であるかのように、リンは言い切った。
その顔を見て、ブルックはほんの一瞬だけ目を細めた。
――なんでしょうねぇ。
この感じ。
つい最近まで一緒にいた、ある男の姿が脳裏をよぎる。
『俺は海賊王になる!』
何度聞いても無茶苦茶な宣言だった。
世界中の海賊が目指す頂点。
誰もが簡単には届かないと知っている場所。
それでも、彼は笑いながら言い切っていた。
根拠なんて、あったのかどうか。
ただ、自分がそうすると決めた。
だから、そう言った。
目の前のリンも、どこか似ている。
王子という立場も。
皇帝という、とてつもなく大きな目標も。
普通なら尻込みしてしまいそうなことを、まるで当たり前のように口にするところも。
そして何より――。
その言葉に、不思議なほど嘘が感じられない。
ブルックの胸の奥に、懐かしい感覚が広がった。
――ヨホホ。
もしかすると、この人も……。
そう思った瞬間、ブルックの口元がわずかに緩んだ。
「……随分と大きく出ましたねぇ」
「だろ?」
リンはニヤリと笑った。
その笑顔を見て、ブルックは確信する。
やはり、少し似ています。
もちろん、ルフィとは全然違う。
食べることばかり考えているところも、仲間を巻き込んで突っ走るところも、何も考えていないように見えて妙に核心を突くところも、似てはいるがまだ分からない。
それでも――。
自分の夢を疑っていない目だけは、よく似ていた。
「ヨホホホホ!」
ブルックは笑った。
久しぶりに、少しだけ懐かしい気持ちになりながら。
つられてリンも笑う。
その隣では、ランファンだけが笑っていなかった。
この奇妙な国で出会った第十二皇子。
彼が求めているという“不老不死”。
錬金術。
悪魔召喚。
そして、自分自身の存在。
全てが偶然なのか。
それとも――
何か一つの大きな流れに繋がっているのか。
ブルックには、まだ分からない。
ただ一つだけ確かなことがある。
今は、この少年と共に行く。
その先に何が待っているのか。
それを確かめるために。
そして何より――
自分はまだ、仲間たちと再会していない。
こうして。
シン王国の第十二皇子と、異世界から流れ着いた骸骨の音楽家。
本来なら決して交わるはずのなかった二人の旅が、始まった。