――砂漠。
それは、想像していた以上に過酷だった。出発してからまだ数時間しか経っていないというのに、リンはもう何度目か分からないほど額の汗を拭っている。
「……暑い」
呟いた声には、いつもの勢いがなかった。
頭上には雲一つない青空が広がり、太陽は容赦なく大地を照らしている。周囲には日陰になるものなど何もない。木もなければ建物もなく、岩陰すらほとんど見当たらない。ただ、どこまでも続く砂だけが視界を埋め尽くしている。
一歩踏み出すたびに靴が砂へ沈み、乾いた砂が靴の隙間へ入り込んで足の裏をざらつかせる。進んでも進んでも景色はほとんど変わらず、遠くに見える砂丘を越えれば何かあるのではないかと思っても、その先にはまた別の砂丘が現れる。まるで同じ場所を延々と歩かされているような感覚だった。
先頭を歩くフーは、そんな状況でも時折立ち止まってはコンパスを確認し、進むべき方向を慎重に確かめている。
「若」
後ろからランファンの声がした。
「水を」
「……ああ」
リンは腰に下げていた水筒を受け取ると、蓋を開けてほんの少しだけ口に含んだ。冷たくはない。むしろ、ぬるい。それでも乾ききった喉には十分だった。
一口飲んだところで蓋を閉める。
「もっと飲んでもいいですよ」
ブルックが言うと、フーが静かに首を横へ振った。
「いえ。この先、どれだけ歩くことになるか分かりません。水が尽きれば、それこそ命に関わります」
「分かってる」
リンは水筒を腰へ戻した。
出発前、フーは四人分の水と食料を細かく分けていた。一日に飲める水の量、食事の回数、予備の水、万が一道に迷った場合の備蓄まで、すべて計算している。砂漠では、水は食料以上に重要になる。そのことはリンも理解していたからこそ、好きなだけ飲むことはできなかった。
喉は渇いている。汗も流れている。口の中は乾き、唇までひび割れそうだった。それでも、水筒の中身を無駄にすることはできない。
ここでは、水がそのまま命だった。
「……水って大事なんだな」
リンが空を見上げる。
「街にいた時とは全然違うじゃないか」
街なら、水はいくらでも手に入る。井戸があり、店があり、宿があり、誰かに頼ることだってできる。だが、ここには何もない。あるのは手元に残された水と、どこまでも続く砂だけだった。
太陽が高くなるにつれて気温はさらに上がっていく。風が吹いても涼しくない。それどころか、乾いた熱風が肌を撫でるたび、体の中から水分を奪われていくようだった。砂も熱を持ち始め、歩くたびに靴底を通して熱が伝わってくる。
そして、さらに厄介なのが足元だった。
固い地面なら一歩で済むところを、砂漠では足が沈む。特に砂丘を登るとなおさらで、一歩進むたびに足元の砂が崩れ、せっかく稼いだ距離が失われていく。一歩進んで、半歩戻る。それを何度も繰り返すうちに、リンの息は次第に荒くなっていった。
「はぁ……はぁ……」
「若」
ランファンが水筒を差し出す。
「少し飲んでください」
「いや、まだ……」
リンは水筒を見る。残量は決して多くない。
「先を考えると――」
「飲んでください」
ランファンの声には、有無を言わせぬ響きがあった。
「脱水になれば歩けなくなります」
「……分かった」
リンは渋々水筒を受け取り、蓋を開けると、ほんの少しだけ水を口に含んだ。
「……うまい」
たったそれだけの水が、異様なほど美味しく感じられた。喉を通った水分が身体の奥へ染み込んでいくようで、もっと飲みたいと身体そのものが訴えてくる。それでもリンは水筒を閉じた。
「これでいい」
「本当に?」
「まだ先があるからな」
そう言って、リンは再び歩き出した。
しかし、それからしばらく進んだところで、フーが手を上げた。
「若」
「ん?」
「休憩にしましょう」
四人は足を止め、周囲を見回した。休める場所などどこにもない。仕方なく、比較的大きな砂丘の陰へ移動する。わずかな日陰。それだけでも、直射日光を浴び続けるよりは遥かに楽だった。
リンは砂の上へ腰を下ろし、帽子を脱ぐ。汗で髪はすっかり濡れていた。
「はぁ……暑すぎる……」
ランファンも砂丘へ背を預ける。
「これでも、まだ昼過ぎです」
「……」
リンの顔が引きつった。
「……夜になったら涼しくなるんだよな?」
「ええ」
フーが頷く。
「じゃあ、夜まで歩くか?」
「逆です」
即答だった。
「夜の砂漠は別の意味で危険です」
リンはわかっていない顔をした。
「砂漠は昼と夜の温度差が大きいのです」
フーは水筒の残量を確認しながら続ける。
「昼間にあれほど熱せられた砂も、日が沈めば急速に熱を失います。昼の暑さだけを考えて準備すると、夜に痛い目を見ることになります」
「なるほど……」
リンが頷く。
ブルックは空を見上げながら、感心したように言った。
「昼は灼熱。夜は極寒……」
「極寒とまではいきませんが、十分に冷えますな」
そんな会話をしているうちに、時間はゆっくりと流れていった。
やがて夕方になる。
太陽が西の地平線へ近づき始めると、昼間の灼熱が少しずつ弱まっていった。砂の色も変わっていく。黄金色から橙色へ、そして夕日に照らされた部分は赤く染まり、長く伸びた四人の影が砂丘の斜面へと映し出されていた。
「……綺麗」
ランファンが呟く。
リンも足を止め、沈みゆく太陽を眺めた。
「そうだな」
つい先ほどまでの暑さが嘘のようだった。
風が吹く。
昼間は肌を焼くような熱風だったそれが、今は少し冷たい。しかし、その冷たさは決して心地よいものではなかった。太陽が沈み始めると、砂漠の空気は驚くほど急速に温度を失っていく。昼間に蓄えられた熱など、まるで最初から存在しなかったかのようだった。
「そろそろ野営の準備を」
フーが言った。
「ここから先は、夜間の移動を避けましょう」
「分かった」
四人は砂丘の陰へ移動すると、簡素な天幕を張り、水と食料、荷物の残量を確認した。
昼間とは違い、夜の砂漠では視界が極端に悪くなる。目印になる建物も道もなく、見渡す限り砂ばかりの場所で方向を失えば、そのまま現在地すら分からなくなる可能性がある。
だからこそ、夜は無理に移動せず、安全に朝を迎えるための準備が必要だった。
そして、完全に太陽が沈んだ。
「……寒っ」
リンが思わず身を震わせた。
昼間はあれほど暑かったというのに、ほんの短い時間で空気は冷え切っている。ランファンも腕を抱くようにして、自分の身体を守るような仕草を見せた。
「急に冷えましたね」
「だから言ったでしょう」
フーはそう言いながら荷物を開き、防寒用の布を取り出す。
「砂漠の夜を甘く見てはいけません」
リンは受け取った布を肩へ掛けながら、昼間の景色を思い返した。
「昼はあんなに暑かったのに……」
「砂は熱を長く蓄えておけませんからな」
「便利なんだか、不便なんだか」
そんな会話を交わしながら、四人は簡単な食事を済ませる。
やがて小さな焚き火が起こされ、その周囲を四人で囲んだ。
昼間とは、まるで別の場所だった。空を見上げれば、そこには無数の星が浮かんでいる。街の明かりも、建物もない。
視界を遮るものが何もないからこそ、星々は異様なほど近く見えた。手を伸ばせば届きそうだと錯覚してしまうほど、夜空いっぱいに星が広がっている。
「……すげぇ」
リンが思わず呟いた。
「こんなに星が見えるのか」
ランファンも黙ったまま空を見上げている。
「私も、久しぶりに見ましたな」
その少し離れた場所には、ブルックが立っていた。
焚き火の明かりが届かない場所で、彼は一人、静かに夜空を見上げている。
昼間とは違い、砂漠にはほとんど音がなかった。風が砂を撫でる音と、焚き火が小さく爆ぜる音が時折聞こえるだけで、それ以外はどこまでも静かだった。
そんな静寂の中で星を見上げていると、不思議と遠い日のことが思い出される。
海の上で過ごした日々。
仲間たちと笑い合った時間。
騒がしくて、無茶ばかりで、それでも決して退屈することのなかった旅。
目を閉じれば、今にも聞こえてきそうな声がある。
いつものように騒ぐ声もあれば、呆れたような声もある。くだらないことで笑い合ったり、危険が迫れば誰よりも早く互いを助けようとしたり――そんな当たり前だった時間が、今になってひどく遠いものに感じられた。
「……」
ブルックは何も言わなかった。
ただ、夜空を見上げたまま、しばらく動かなかった。
自分が今どこにいるのかも分からない。
仲間たちが無事なのかも分からない。
もしかしたら、自分がいるこの世界とはまったく別の場所に、仲間たちは取り残されているのかもしれない。
それでも――いつか必ず再会できる。
その気持ちだけは、何があっても変わらなかった。
少し離れたところから、リンはそんなブルックの姿を見ていた。
焚き火の前に座ったまま、何となく視線を向けただけだった。
けれど、声をかけようとはしなかった。
昼間までなら、何か思いつけばすぐに話しかけていただろう。
しかし今のブルックには、今は一人でいたいのだろうと感じさせる何かがあった。
だからリンは、何も言わずに視線を戻した。
焚き火の向こうでは、ランファンが静かに身体を休め、フーも目を閉じている。
リンは再び空を見上げた。
満天の星が広がっている。
「……帰りたい、か」
小さく呟く。
自分にも、どうしても手に入れたいものがある。
そのために、この砂漠を越え、その先にある国へ向かっている。
だからこそ、ブルックが何を思っているのか、少しだけ分かる気がした。
夢を追うことも、誰かを守ることも、決して簡単ではない。
帰りたい場所があるのに、その場所がどこにあるのかすら分からないというのは、きっと想像以上に辛いことだろう。
それでもブルックは歩いている。仲間たちと再会するために。
リンはそれ以上考えることをやめ、焚き火へ薪を一本放り込んだ。
ぱちっ、と小さな音を立てて火の粉が舞う。
その音に気づいたのか、ブルックがほんの少しだけ振り返った。
二人の視線が合う。
リンは何も言わなかった。
ブルックも何も言わない。
ただ、互いに小さく頷いた。
それだけで十分だった。
ブルックは再び夜空へ視線を戻す。
無数の星が、どこまでも続く暗闇の中で静かに輝いている。
もしかしたら、この星空のどこかの下で、仲間たちも同じように夜を過ごしているのかもしれない。
そう思うと、ほんの少しだけ心が軽くなった。
今はまだ、遠い。
けれど、きっと帰れる。
そう信じて、ブルックはもう一度だけ夜空を見上げた。遠くから、遠吠えが聞こえた気がした。
二日目の朝。
まだ太陽が完全に昇りきる前に、四人は野営地を出発した。
昼の暑さが本格的になる前に、少しでも距離を稼ぐためだった。
最初のうちはまだ歩きやすい。空気も比較的涼しく砂も夜の冷気を残している。しかしそれも長くは続かなかった。
太陽が地平線から顔を出し、時間が経つにつれて、砂漠は再び牙を剥き始める。
四人は黙々と西へ進んでいく。
先頭を歩くフーが、時折コンパスを確認する。その後ろをランファン、さらにリン、そして最後尾をブルックが歩いている。昨日と同じ並び。
ただし、二日目の足取りは昨日とは明らかに違っていた。
「……はぁ……」
リンの呼吸が荒い。砂に足を取られながら、必死に前へ進んでいく。
昨日はまだ文句を言う余裕があった。
暑い。疲れた。水が飲みたい。
そんな言葉を口にするだけの元気があった。
しかし昨日一日かけて消耗した体力は、十分な睡眠を取っただけでは完全には回復していなかった。砂漠での長時間の歩行は、リンが想像していた以上に身体へ負担を掛けている。
足が重い。喉が渇く。肩に背負った荷物が、昨日よりも遥かに重く感じる。
リンは何度も水筒へ手を伸ばしそうになった。
だが、そのたびに思いとどまる。
残りの水。あとどれだけ歩くのか分からない。
ここで飲みすぎれば、後で必ず困る。
そう分かっているからこそ、リンは乾いた喉を我慢して歩き続けた。
「……若」
ランファンが振り返った。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫……」
リンは答えた。
だが、その声には明らかに力がない。
「……」
ランファンは何も言わなかった。
ただ、その表情には明らかな心配が浮かんでいる。
フーもまたリンの状態に気づいていた。
それでも今は歩くしかない。砂漠の中では、立ち止まることもまた危険なのだ。
「もう少し進みましょう」
フーが言った。
「日が高くなる前に、少しでも距離を稼ぎます」
「ああ……」
リンは頷いた。そして再び歩き始める。
その時、少し離れた砂丘の向こうで、何かが動いた。
砂の上を滑るように移動する影。
その影は四人の姿を確認すると、すぐに砂丘の向こうへ姿を消した。
その後も四人は歩き続けた。
時間が経つにつれて太陽は高くなり、砂漠の温度も容赦なく上昇していく。
「……暑い」
リンが呟いた。
昨日も同じ言葉を口にした。
だが、今日の声は昨日とは比べ物にならないほど弱々しかった。
額から汗が流れ落ち、首筋を伝って衣服へ染み込んでいく。唇は乾き、頬も少し赤くなっている。
「若」
ランファンが近づく。
「休みましょう」
「……まだだ」
リンは首を振った。
「まだ歩ける」
「しかし――」
「大丈夫だ」
そう言って、リンは前へ進もうとした。
だが――。
一歩踏み出した瞬間。
「……っ」
身体が大きく揺れた。
「若!」
ランファンが咄嗟に腕を掴む。
「大丈夫ですか!?」
「……ああ」
リンは額を押さえる。
視界が揺れている。
頭が重い。
耳の奥で、妙な音がしている。
それでも――。
「まだ……行ける」
「無理です」
ランファンが強い口調で言った。
「若」
フーも足を止める。
「休みましょう」
「……」
リンは何か言おうとした。
しかし、言葉が出てこない。喉がかすれる。
水が欲しい。
水、水、水……。
そう身体が訴えている。
リンは震える手で水筒を取り出した。
蓋を開ける。
中にまだ水は残っている。
しかし、その量はあまりにも少なく見えた。
「……飲んでください」
ランファンが言った。
「でも……」
「若」
今度は有無を言わせない。
「飲まなければ倒れます」
「……」
リンは水筒を口へ運んだ。
ほんの少しだけ水を飲む。
当然、それだけでは足りない。
もっと。
もっと飲みたい。
身体がそう叫んでいる。
それでもリンは、水筒を閉じた。
「これで……いい」
「若」
「大丈夫だ」
リンはそう言った。
だが――。
次の瞬間。
膝から力が抜けた。
「っ……!」
砂の上へ倒れそうになった身体を、ランファンとフーが支える。
「若!」
「……悪い」
リンの声が震えている。
「ちょっと……休めば……」
そのまま砂の上へ座り込んだ。
もう立ち上がる気力すら残っていない。
「……」
ブルックは黙ってその様子を見ていた。
そして、自分の腰に下げていた水筒へ手を伸ばす。
「リンさん」
「……?」
「これを」
ブルックが水筒を差し出した。
差し出された水筒を見る。
「ブルック、お前の分だろ?」
「ええ」
「じゃあ――」
「どうぞ」
ブルックは笑った。
「私には必要ありませんので」
「何言ってんだよ」
リンは首を振る。
「お前だって歩いてるだろ」
「はい」
「だったら飲まないと――」
「私は平気です」
ブルックは水筒をリンの手へ押しつけた。
「それより、今は貴方の方が必要でしょう」
「……」
リンはしばらくブルックを見つめた。
そして――。
リンは水筒を受け取った。
蓋を開ける。
そして、一気にではなく、少しずつ水を口へ流し込んだ。
「……うまい」
さっきまで飲んでいた水と同じはずなのに、今までとは比べ物にならないほど美味しく感じる。
乾ききった身体に、水が染み込んでいく。
段々と、それでも確実に。確かな力が戻ってくる。
リンは水筒を閉じた。
「助かった」
「いえいえ」
ブルックは笑った。
「私には必要ありませんでしたので」
その言葉に、ランファンは改めてブルックを見た。
昨日からずっと歩いている。
汗一つかかない。
息も乱れない。
水も飲まない。
食料も口にしない。
それなのに、疲れた様子すらない。
人間なら、あり得ない。
「……本当に」
ランファンが呟く。
「骨なのですね」
「はい」
ブルックは頷いた。
「紛れもなく」
「……」
ランファンもフーも、何も言わなかった。
改めて聞かされると、あまりにも異質だった。
普通なら、水がなければ死ぬ。
食事を取らなければ体力を失う。
疲労すれば休まなければ動けなくなる。
それが生き物というものだ。
だが、この男にはそれがない。
死んでいる。
それなのに、生きている。
そして、今も自分たちと同じように歩いている。
「……便利だな」
リンが呟いた。
「ヨホホホ。よく言われます」
ブルックが笑う。
リンは苦笑しながら、再び水筒へ口をつけた。
冷たくはない。
それでも、今の身体には何よりありがたい水だった。
リンは水筒を腰へ戻した。
「……少し休めば、まだ歩ける」
「そうですな」
フーが頷く。
「では、もう少しだけ休んでから――」
その時だった。
「……」
ブルックが顔を上げた。
「どうした?」
リンが尋ねる。
ブルックは答えない。
ただ、砂丘の向こうを見つめている。
「何か……」
リンが言いかけた。
――ザッ。
遠くで砂が崩れた。
全員が一斉にそちらを見る。
何もない。
ただ、風に吹かれた砂が斜面を流れているだけだった。
「気のせいか」
リンが言う。
「……いえ」
フーが静かに答えた。
「何かいます」
ランファンが立ち上がる。
その瞬間。
――ザッ!
「来ます!」
ランファンが叫んだ。
砂丘の向こうから、一つの影が飛び出した。
「っ!」
ランファンが身構える。
4人とぶつかる直前、影は四人の手前で急に方向を変えた。
走り去る。
「……何だったんだ?」
リンが呟く。
その直後。
反対側から、別の影が現れた。今度はリンに向かって一直線に向かってくる。
「若!」
ランファンがリンの前へ出る。
牙。
灰色の毛。
四本の脚。
狼だった。
しかも、一匹ではない。
その砂丘の向こうでは、さらに別の影が動いている。
「囲まれています!」
フーが叫ぶ。
狼の群れが一斉に走り出した。
「ブルック!」
「はい!」
リンの前へ飛び込んだ一匹を、ブルックが迎え撃つ。
――キィン!
抜刀。
すれ違いざまに一閃。
狼が砂の上へ転がった。
「若、下がって!」
ランファンが構える。
別の狼が横から飛びかかった。
ブルックが振り向く。
「おっと!」
刃が閃く。
狼の爪を躱し、その身体を斬り抜ける。
狼は着地すると、そのまま数歩走った。
そして――倒れた。
「……」
残った狼たちが止まった。
低く唸っている。
だが、こちらへ近づこうとはしない。
数秒。
睨み合いが続いた。
やがて一匹が砂丘の向こうへ走り出す。
それを合図に、他の狼たちも次々と姿を消していった。
「……逃げた?」
リンが呟く。
ブルックは刀を鞘へ収めた。
「そのようです」
静寂が戻る。
砂漠には、先ほどまでの戦闘が嘘のように何も残っていなかった。
フーが倒れた二匹の狼へ近づく。
そしてその姿を確認する。
「……砂漠狼ですな」
「砂漠狼?」
リンが聞き返す。
「ええ」
フーは頷いた。
「砂漠に生息する狼です。群れで行動しますが、性質はそれほど好戦的ではありません」
「じゃあ、なんで襲ってきたんだ?」
「我々が弱っていたからでしょう」
リンの顔が引きつる。
「……俺が?」
「正確には、若だけではありません」
フーは四人を見回した。
「長距離を歩き続けた我々は、かなり体力を消耗しています。砂漠狼は遠くから獲物を追跡し、疲労して動けなくなるのを待つ習性があるのです」
「動けないところを……」
ランファンが呟く。
「捕食する、ということですな」
「なるほど」
ブルックが頷く。
「だから、初め遠くからこちらを見ていたのですね」
「おそらく」
フーは砂丘の向こうを見る。
「砂漠狼は臆病な生き物でもあります。こちらが十分に動ける状態なら、無理に襲ってくることは少ない」
「じゃあ、二匹やられたから逃げたのか」
「ええ」
フーは頷いた。
「自分たちより強いと判断したのでしょう」
ランファンは倒れた砂漠狼とブルックを交互に見る。
ほんの数秒。
二匹の狼を、ほとんど一瞬で倒した。
しかも、ブルックは息一つ乱していない。
「……」
ランファンは小さく息を吐いた。
そして、砂漠狼が消えていった方向を見る。
「……昨日から追跡されていたんでしょうか」
フーが答える。
「我々が疲弊するのを待ち、最も弱った者から狙うつもりだったのでしょうな」
「……」
リンがブルックを見る。
……もし、ブルックがいなかったら。
戦闘が2匹程度では済まなかった確信があった。
自分が限界を迎えた瞬間。
あの群れは躊躇なく襲ってきていただろう。
フーもランファンも疲労で万全とは程遠い。自分も動けない。
砂漠での戦闘にも慣れていない。
そう考えると、背筋が冷たくなる。
「また襲ってこないとも限りません。少し休憩したら出発しましょう」
四人は、再び西へ向かって歩き始めた。
灼熱の砂漠の向こう。
その先に待つ、アメストリスを目指して。