屍と錬金術師   作: sky

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4話〜砂漠超え

――砂漠。

 

 それは、想像していた以上に過酷だった。出発してからまだ数時間しか経っていないというのに、リンはもう何度目か分からないほど額の汗を拭っている。

 

「……暑い」

 

 呟いた声には、いつもの勢いがなかった。

 

 頭上には雲一つない青空が広がり、太陽は容赦なく大地を照らしている。周囲には日陰になるものなど何もない。木もなければ建物もなく、岩陰すらほとんど見当たらない。ただ、どこまでも続く砂だけが視界を埋め尽くしている。

 

 一歩踏み出すたびに靴が砂へ沈み、乾いた砂が靴の隙間へ入り込んで足の裏をざらつかせる。進んでも進んでも景色はほとんど変わらず、遠くに見える砂丘を越えれば何かあるのではないかと思っても、その先にはまた別の砂丘が現れる。まるで同じ場所を延々と歩かされているような感覚だった。

 

 先頭を歩くフーは、そんな状況でも時折立ち止まってはコンパスを確認し、進むべき方向を慎重に確かめている。

 

「若」

 

 後ろからランファンの声がした。

 

「水を」

 

「……ああ」

 

 リンは腰に下げていた水筒を受け取ると、蓋を開けてほんの少しだけ口に含んだ。冷たくはない。むしろ、ぬるい。それでも乾ききった喉には十分だった。

 

 一口飲んだところで蓋を閉める。

 

「もっと飲んでもいいですよ」

 

 ブルックが言うと、フーが静かに首を横へ振った。

 

「いえ。この先、どれだけ歩くことになるか分かりません。水が尽きれば、それこそ命に関わります」

 

「分かってる」

 

 リンは水筒を腰へ戻した。

 

 出発前、フーは四人分の水と食料を細かく分けていた。一日に飲める水の量、食事の回数、予備の水、万が一道に迷った場合の備蓄まで、すべて計算している。砂漠では、水は食料以上に重要になる。そのことはリンも理解していたからこそ、好きなだけ飲むことはできなかった。

 

 喉は渇いている。汗も流れている。口の中は乾き、唇までひび割れそうだった。それでも、水筒の中身を無駄にすることはできない。

 

 ここでは、水がそのまま命だった。

 

「……水って大事なんだな」

 

 リンが空を見上げる。

 

「街にいた時とは全然違うじゃないか」

 

 街なら、水はいくらでも手に入る。井戸があり、店があり、宿があり、誰かに頼ることだってできる。だが、ここには何もない。あるのは手元に残された水と、どこまでも続く砂だけだった。

 

 太陽が高くなるにつれて気温はさらに上がっていく。風が吹いても涼しくない。それどころか、乾いた熱風が肌を撫でるたび、体の中から水分を奪われていくようだった。砂も熱を持ち始め、歩くたびに靴底を通して熱が伝わってくる。

 

 そして、さらに厄介なのが足元だった。

 

 固い地面なら一歩で済むところを、砂漠では足が沈む。特に砂丘を登るとなおさらで、一歩進むたびに足元の砂が崩れ、せっかく稼いだ距離が失われていく。一歩進んで、半歩戻る。それを何度も繰り返すうちに、リンの息は次第に荒くなっていった。

 

「はぁ……はぁ……」

 

「若」

 

 ランファンが水筒を差し出す。

 

「少し飲んでください」

 

「いや、まだ……」

 

 リンは水筒を見る。残量は決して多くない。

 

「先を考えると――」

 

「飲んでください」

 

 ランファンの声には、有無を言わせぬ響きがあった。

 

「脱水になれば歩けなくなります」

 

「……分かった」

 

 リンは渋々水筒を受け取り、蓋を開けると、ほんの少しだけ水を口に含んだ。

 

「……うまい」

 

 たったそれだけの水が、異様なほど美味しく感じられた。喉を通った水分が身体の奥へ染み込んでいくようで、もっと飲みたいと身体そのものが訴えてくる。それでもリンは水筒を閉じた。

 

「これでいい」

 

「本当に?」

 

「まだ先があるからな」

 

 そう言って、リンは再び歩き出した。

 

 しかし、それからしばらく進んだところで、フーが手を上げた。

 

「若」

 

「ん?」

 

「休憩にしましょう」

 

 四人は足を止め、周囲を見回した。休める場所などどこにもない。仕方なく、比較的大きな砂丘の陰へ移動する。わずかな日陰。それだけでも、直射日光を浴び続けるよりは遥かに楽だった。

 

 リンは砂の上へ腰を下ろし、帽子を脱ぐ。汗で髪はすっかり濡れていた。

 

「はぁ……暑すぎる……」

 

 ランファンも砂丘へ背を預ける。

 

「これでも、まだ昼過ぎです」

 

「……」

 

 リンの顔が引きつった。

 

「……夜になったら涼しくなるんだよな?」

 

「ええ」

 

 フーが頷く。

 

「じゃあ、夜まで歩くか?」

 

「逆です」

 

 即答だった。

 

「夜の砂漠は別の意味で危険です」

 

 リンはわかっていない顔をした。

 

「砂漠は昼と夜の温度差が大きいのです」

 

 フーは水筒の残量を確認しながら続ける。

 

「昼間にあれほど熱せられた砂も、日が沈めば急速に熱を失います。昼の暑さだけを考えて準備すると、夜に痛い目を見ることになります」

 

「なるほど……」

 

 リンが頷く。

 

 ブルックは空を見上げながら、感心したように言った。

 

「昼は灼熱。夜は極寒……」

 

「極寒とまではいきませんが、十分に冷えますな」

 

 そんな会話をしているうちに、時間はゆっくりと流れていった。

 

 やがて夕方になる。

 

 太陽が西の地平線へ近づき始めると、昼間の灼熱が少しずつ弱まっていった。砂の色も変わっていく。黄金色から橙色へ、そして夕日に照らされた部分は赤く染まり、長く伸びた四人の影が砂丘の斜面へと映し出されていた。

 

「……綺麗」

 

 ランファンが呟く。

 

 リンも足を止め、沈みゆく太陽を眺めた。

 

「そうだな」

 

 つい先ほどまでの暑さが嘘のようだった。

 

 風が吹く。

 

 昼間は肌を焼くような熱風だったそれが、今は少し冷たい。しかし、その冷たさは決して心地よいものではなかった。太陽が沈み始めると、砂漠の空気は驚くほど急速に温度を失っていく。昼間に蓄えられた熱など、まるで最初から存在しなかったかのようだった。

 

「そろそろ野営の準備を」

 

 フーが言った。

 

「ここから先は、夜間の移動を避けましょう」

 

「分かった」

 

 四人は砂丘の陰へ移動すると、簡素な天幕を張り、水と食料、荷物の残量を確認した。

 

 昼間とは違い、夜の砂漠では視界が極端に悪くなる。目印になる建物も道もなく、見渡す限り砂ばかりの場所で方向を失えば、そのまま現在地すら分からなくなる可能性がある。

 

 だからこそ、夜は無理に移動せず、安全に朝を迎えるための準備が必要だった。

 

 そして、完全に太陽が沈んだ。

 

「……寒っ」

 

 リンが思わず身を震わせた。

 

 昼間はあれほど暑かったというのに、ほんの短い時間で空気は冷え切っている。ランファンも腕を抱くようにして、自分の身体を守るような仕草を見せた。

 

「急に冷えましたね」

 

「だから言ったでしょう」

 

 フーはそう言いながら荷物を開き、防寒用の布を取り出す。

 

「砂漠の夜を甘く見てはいけません」

 

 リンは受け取った布を肩へ掛けながら、昼間の景色を思い返した。

 

「昼はあんなに暑かったのに……」

 

「砂は熱を長く蓄えておけませんからな」

 

「便利なんだか、不便なんだか」

 

 そんな会話を交わしながら、四人は簡単な食事を済ませる。

 やがて小さな焚き火が起こされ、その周囲を四人で囲んだ。

 

 昼間とは、まるで別の場所だった。空を見上げれば、そこには無数の星が浮かんでいる。街の明かりも、建物もない。

 

 視界を遮るものが何もないからこそ、星々は異様なほど近く見えた。手を伸ばせば届きそうだと錯覚してしまうほど、夜空いっぱいに星が広がっている。

 

「……すげぇ」

 

 リンが思わず呟いた。

 

「こんなに星が見えるのか」

 

 ランファンも黙ったまま空を見上げている。

 

「私も、久しぶりに見ましたな」

 

 その少し離れた場所には、ブルックが立っていた。

 

 焚き火の明かりが届かない場所で、彼は一人、静かに夜空を見上げている。

 

 昼間とは違い、砂漠にはほとんど音がなかった。風が砂を撫でる音と、焚き火が小さく爆ぜる音が時折聞こえるだけで、それ以外はどこまでも静かだった。

 

 そんな静寂の中で星を見上げていると、不思議と遠い日のことが思い出される。

 

 海の上で過ごした日々。

 

 仲間たちと笑い合った時間。

 

 騒がしくて、無茶ばかりで、それでも決して退屈することのなかった旅。

 

 目を閉じれば、今にも聞こえてきそうな声がある。

 

 いつものように騒ぐ声もあれば、呆れたような声もある。くだらないことで笑い合ったり、危険が迫れば誰よりも早く互いを助けようとしたり――そんな当たり前だった時間が、今になってひどく遠いものに感じられた。

 

「……」

 

 ブルックは何も言わなかった。

 

 ただ、夜空を見上げたまま、しばらく動かなかった。

 

 自分が今どこにいるのかも分からない。

 

 仲間たちが無事なのかも分からない。

 

 もしかしたら、自分がいるこの世界とはまったく別の場所に、仲間たちは取り残されているのかもしれない。

 

 それでも――いつか必ず再会できる。

 

 その気持ちだけは、何があっても変わらなかった。

 

 少し離れたところから、リンはそんなブルックの姿を見ていた。

 

 焚き火の前に座ったまま、何となく視線を向けただけだった。

 

 けれど、声をかけようとはしなかった。

 

 昼間までなら、何か思いつけばすぐに話しかけていただろう。

 

 しかし今のブルックには、今は一人でいたいのだろうと感じさせる何かがあった。

 

 だからリンは、何も言わずに視線を戻した。

 

 焚き火の向こうでは、ランファンが静かに身体を休め、フーも目を閉じている。

 

 リンは再び空を見上げた。

 

 満天の星が広がっている。

 

「……帰りたい、か」

 

 小さく呟く。

 

 自分にも、どうしても手に入れたいものがある。

 そのために、この砂漠を越え、その先にある国へ向かっている。

 だからこそ、ブルックが何を思っているのか、少しだけ分かる気がした。

 

 夢を追うことも、誰かを守ることも、決して簡単ではない。

 

 帰りたい場所があるのに、その場所がどこにあるのかすら分からないというのは、きっと想像以上に辛いことだろう。

 

 それでもブルックは歩いている。仲間たちと再会するために。

 

 リンはそれ以上考えることをやめ、焚き火へ薪を一本放り込んだ。

 ぱちっ、と小さな音を立てて火の粉が舞う。

 

 その音に気づいたのか、ブルックがほんの少しだけ振り返った。

 

 二人の視線が合う。

 

 リンは何も言わなかった。

 

 ブルックも何も言わない。

 

 ただ、互いに小さく頷いた。

 

 それだけで十分だった。

 

 ブルックは再び夜空へ視線を戻す。

 

 無数の星が、どこまでも続く暗闇の中で静かに輝いている。

 

 もしかしたら、この星空のどこかの下で、仲間たちも同じように夜を過ごしているのかもしれない。

 

 そう思うと、ほんの少しだけ心が軽くなった。

 

 今はまだ、遠い。

 

 けれど、きっと帰れる。

 

 そう信じて、ブルックはもう一度だけ夜空を見上げた。遠くから、遠吠えが聞こえた気がした。

 

 二日目の朝。

 

 まだ太陽が完全に昇りきる前に、四人は野営地を出発した。

 

 昼の暑さが本格的になる前に、少しでも距離を稼ぐためだった。

 

 最初のうちはまだ歩きやすい。空気も比較的涼しく砂も夜の冷気を残している。しかしそれも長くは続かなかった。

 

 太陽が地平線から顔を出し、時間が経つにつれて、砂漠は再び牙を剥き始める。

 

 四人は黙々と西へ進んでいく。

 

 先頭を歩くフーが、時折コンパスを確認する。その後ろをランファン、さらにリン、そして最後尾をブルックが歩いている。昨日と同じ並び。

 

 ただし、二日目の足取りは昨日とは明らかに違っていた。

 

「……はぁ……」

 

 リンの呼吸が荒い。砂に足を取られながら、必死に前へ進んでいく。

 

 昨日はまだ文句を言う余裕があった。

 

 暑い。疲れた。水が飲みたい。

 

 そんな言葉を口にするだけの元気があった。

 

 しかし昨日一日かけて消耗した体力は、十分な睡眠を取っただけでは完全には回復していなかった。砂漠での長時間の歩行は、リンが想像していた以上に身体へ負担を掛けている。

 

 足が重い。喉が渇く。肩に背負った荷物が、昨日よりも遥かに重く感じる。

 

 リンは何度も水筒へ手を伸ばしそうになった。

 

 だが、そのたびに思いとどまる。

 残りの水。あとどれだけ歩くのか分からない。

 ここで飲みすぎれば、後で必ず困る。

 

 そう分かっているからこそ、リンは乾いた喉を我慢して歩き続けた。

 

「……若」

 

 ランファンが振り返った。

 

「大丈夫ですか?」

 

「大丈夫……」

 

 リンは答えた。

 

 だが、その声には明らかに力がない。

 

「……」

 

 ランファンは何も言わなかった。

 

 ただ、その表情には明らかな心配が浮かんでいる。

 フーもまたリンの状態に気づいていた。

 

 それでも今は歩くしかない。砂漠の中では、立ち止まることもまた危険なのだ。

 

「もう少し進みましょう」

 

 フーが言った。

 

「日が高くなる前に、少しでも距離を稼ぎます」

 

「ああ……」

 

 リンは頷いた。そして再び歩き始める。

 

 その時、少し離れた砂丘の向こうで、何かが動いた。

 

 砂の上を滑るように移動する影。

 

 その影は四人の姿を確認すると、すぐに砂丘の向こうへ姿を消した。

 

 その後も四人は歩き続けた。

 

 時間が経つにつれて太陽は高くなり、砂漠の温度も容赦なく上昇していく。

 

「……暑い」

 

 リンが呟いた。

 

 昨日も同じ言葉を口にした。

 

 だが、今日の声は昨日とは比べ物にならないほど弱々しかった。

 

 額から汗が流れ落ち、首筋を伝って衣服へ染み込んでいく。唇は乾き、頬も少し赤くなっている。

 

「若」

 

 ランファンが近づく。

 

「休みましょう」

 

「……まだだ」

 

 リンは首を振った。

 

「まだ歩ける」

 

「しかし――」

 

「大丈夫だ」

 

 そう言って、リンは前へ進もうとした。

 

 だが――。

 

 一歩踏み出した瞬間。

 

「……っ」

 

 身体が大きく揺れた。

 

「若!」

 

 ランファンが咄嗟に腕を掴む。

 

「大丈夫ですか!?」

 

「……ああ」

 

 リンは額を押さえる。

 

 視界が揺れている。

 

 頭が重い。

 

 耳の奥で、妙な音がしている。

 

 それでも――。

 

「まだ……行ける」

 

「無理です」

 

 ランファンが強い口調で言った。

 

「若」

 

 フーも足を止める。

 

「休みましょう」

 

「……」

 

 リンは何か言おうとした。

 

 しかし、言葉が出てこない。喉がかすれる。

 

 水が欲しい。

 

 水、水、水……。

 

 そう身体が訴えている。

 

 リンは震える手で水筒を取り出した。

 

 蓋を開ける。

 

 中にまだ水は残っている。

 

 しかし、その量はあまりにも少なく見えた。

 

「……飲んでください」

 

 ランファンが言った。

 

「でも……」

 

「若」

 

 今度は有無を言わせない。

 

「飲まなければ倒れます」

 

「……」

 

 リンは水筒を口へ運んだ。

 

 ほんの少しだけ水を飲む。

 

 当然、それだけでは足りない。

 

 もっと。

 

 もっと飲みたい。

 

 身体がそう叫んでいる。

 

 それでもリンは、水筒を閉じた。

 

「これで……いい」

 

「若」

 

「大丈夫だ」

 

 リンはそう言った。

 

 だが――。

 

 次の瞬間。

 

 膝から力が抜けた。

 

「っ……!」

 

 砂の上へ倒れそうになった身体を、ランファンとフーが支える。

 

「若!」

 

「……悪い」

 

 リンの声が震えている。

 

「ちょっと……休めば……」

 

 そのまま砂の上へ座り込んだ。

 

 もう立ち上がる気力すら残っていない。

 

「……」

 

 ブルックは黙ってその様子を見ていた。

 

 そして、自分の腰に下げていた水筒へ手を伸ばす。

 

「リンさん」

 

「……?」

 

「これを」

 

 ブルックが水筒を差し出した。

 

 差し出された水筒を見る。

 

「ブルック、お前の分だろ?」

 

「ええ」

 

「じゃあ――」

 

「どうぞ」

 

 ブルックは笑った。

 

「私には必要ありませんので」

 

「何言ってんだよ」

 

 リンは首を振る。

 

「お前だって歩いてるだろ」

 

「はい」

 

「だったら飲まないと――」

 

「私は平気です」

 

 ブルックは水筒をリンの手へ押しつけた。

 

「それより、今は貴方の方が必要でしょう」

 

「……」

 

 リンはしばらくブルックを見つめた。

 

 そして――。

 

 リンは水筒を受け取った。

 

 蓋を開ける。

 

 そして、一気にではなく、少しずつ水を口へ流し込んだ。

 

「……うまい」

 

 さっきまで飲んでいた水と同じはずなのに、今までとは比べ物にならないほど美味しく感じる。

 

 乾ききった身体に、水が染み込んでいく。

 

 段々と、それでも確実に。確かな力が戻ってくる。

 

 リンは水筒を閉じた。

 

「助かった」

 

「いえいえ」

 

 ブルックは笑った。

 

「私には必要ありませんでしたので」

 

 その言葉に、ランファンは改めてブルックを見た。

 

 昨日からずっと歩いている。

 

 汗一つかかない。

 

 息も乱れない。

 

 水も飲まない。

 

 食料も口にしない。

 

 それなのに、疲れた様子すらない。

 

 人間なら、あり得ない。

 

「……本当に」

 

 ランファンが呟く。

 

「骨なのですね」

 

「はい」

 

 ブルックは頷いた。

 

「紛れもなく」

 

「……」

 

 ランファンもフーも、何も言わなかった。

 

 改めて聞かされると、あまりにも異質だった。

 

 普通なら、水がなければ死ぬ。

 

 食事を取らなければ体力を失う。

 

 疲労すれば休まなければ動けなくなる。

 

 それが生き物というものだ。

 

 だが、この男にはそれがない。

 

 死んでいる。

 

 それなのに、生きている。

 

 そして、今も自分たちと同じように歩いている。

 

「……便利だな」

 

 リンが呟いた。

 

「ヨホホホ。よく言われます」

 

 ブルックが笑う。

 

 リンは苦笑しながら、再び水筒へ口をつけた。

 

 冷たくはない。

 

 それでも、今の身体には何よりありがたい水だった。

 

 リンは水筒を腰へ戻した。

 

「……少し休めば、まだ歩ける」

 

「そうですな」

 

 フーが頷く。

 

「では、もう少しだけ休んでから――」

 

 その時だった。

 

「……」

 

 ブルックが顔を上げた。

 

「どうした?」

 

 リンが尋ねる。

 

 ブルックは答えない。

 

 ただ、砂丘の向こうを見つめている。

 

「何か……」

 

 リンが言いかけた。

 

 ――ザッ。

 

 遠くで砂が崩れた。

 

 全員が一斉にそちらを見る。

 

 何もない。

 

 ただ、風に吹かれた砂が斜面を流れているだけだった。

 

「気のせいか」

 

 リンが言う。

 

「……いえ」

 

 フーが静かに答えた。

 

「何かいます」

 

 ランファンが立ち上がる。

 

 その瞬間。

 

 ――ザッ!

 

「来ます!」

 

 ランファンが叫んだ。

 

 砂丘の向こうから、一つの影が飛び出した。

 

「っ!」

 

 ランファンが身構える。

 

 4人とぶつかる直前、影は四人の手前で急に方向を変えた。

 

 走り去る。

 

「……何だったんだ?」

 

 リンが呟く。

 

 その直後。

 

 反対側から、別の影が現れた。今度はリンに向かって一直線に向かってくる。

 

「若!」

 

 ランファンがリンの前へ出る。

 

 牙。

 

 灰色の毛。

 

 四本の脚。

 

 狼だった。

 

 しかも、一匹ではない。

 

 その砂丘の向こうでは、さらに別の影が動いている。

 

「囲まれています!」

 

 フーが叫ぶ。

 

 狼の群れが一斉に走り出した。

 

「ブルック!」

 

「はい!」

 

 リンの前へ飛び込んだ一匹を、ブルックが迎え撃つ。

 

 ――キィン!

 

 抜刀。

 

 すれ違いざまに一閃。

 

 狼が砂の上へ転がった。

 

「若、下がって!」

 

 ランファンが構える。

 

 別の狼が横から飛びかかった。

 

 ブルックが振り向く。

 

「おっと!」

 

 刃が閃く。

 

 狼の爪を躱し、その身体を斬り抜ける。

 

 狼は着地すると、そのまま数歩走った。

 

 そして――倒れた。

 

「……」

 

 残った狼たちが止まった。

 

 低く唸っている。

 

 だが、こちらへ近づこうとはしない。

 

 数秒。

 

 睨み合いが続いた。

 

 やがて一匹が砂丘の向こうへ走り出す。

 

 それを合図に、他の狼たちも次々と姿を消していった。

 

「……逃げた?」

 

 リンが呟く。

 

 ブルックは刀を鞘へ収めた。

 

「そのようです」

 

 静寂が戻る。

 

 砂漠には、先ほどまでの戦闘が嘘のように何も残っていなかった。

 

 フーが倒れた二匹の狼へ近づく。

 

 そしてその姿を確認する。

 

「……砂漠狼ですな」

 

「砂漠狼?」

 

 リンが聞き返す。

 

「ええ」

 

 フーは頷いた。

 

「砂漠に生息する狼です。群れで行動しますが、性質はそれほど好戦的ではありません」

 

「じゃあ、なんで襲ってきたんだ?」

 

「我々が弱っていたからでしょう」

 

 リンの顔が引きつる。

 

「……俺が?」

 

「正確には、若だけではありません」

 

 フーは四人を見回した。

 

「長距離を歩き続けた我々は、かなり体力を消耗しています。砂漠狼は遠くから獲物を追跡し、疲労して動けなくなるのを待つ習性があるのです」

 

「動けないところを……」

 

 ランファンが呟く。

 

「捕食する、ということですな」

 

「なるほど」

 

 ブルックが頷く。

 

「だから、初め遠くからこちらを見ていたのですね」

 

「おそらく」

 

 フーは砂丘の向こうを見る。

 

「砂漠狼は臆病な生き物でもあります。こちらが十分に動ける状態なら、無理に襲ってくることは少ない」

 

「じゃあ、二匹やられたから逃げたのか」

 

「ええ」

 

 フーは頷いた。

 

「自分たちより強いと判断したのでしょう」

 

 ランファンは倒れた砂漠狼とブルックを交互に見る。

 

 ほんの数秒。

 

 二匹の狼を、ほとんど一瞬で倒した。

 

 しかも、ブルックは息一つ乱していない。

 

「……」

 

 ランファンは小さく息を吐いた。

 

 そして、砂漠狼が消えていった方向を見る。

 

「……昨日から追跡されていたんでしょうか」

 

 フーが答える。

 

「我々が疲弊するのを待ち、最も弱った者から狙うつもりだったのでしょうな」

 

「……」

 

 リンがブルックを見る。

 

 ……もし、ブルックがいなかったら。

 

 戦闘が2匹程度では済まなかった確信があった。

 

 自分が限界を迎えた瞬間。

 

 あの群れは躊躇なく襲ってきていただろう。

 

 フーもランファンも疲労で万全とは程遠い。自分も動けない。

 

 砂漠での戦闘にも慣れていない。

 

 そう考えると、背筋が冷たくなる。

 

 「また襲ってこないとも限りません。少し休憩したら出発しましょう」

 

 四人は、再び西へ向かって歩き始めた。

 

 灼熱の砂漠の向こう。

 

 その先に待つ、アメストリスを目指して。

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