二日目に砂漠狼の襲撃を退けてからというもの、一行はこれといった大きな問題に遭遇することもなく、順調に西へと進んでいた。
無論、それはあくまで命に関わるような危険に遭遇していないというだけの話であり、砂漠の過酷な環境が彼らに容赦してくれたわけではない。
頭上では太陽が容赦なく照りつけ、視界の先では陽炎が揺らめいている。熱を帯びた風が吹き抜け、地面から立ち上る熱気が、まるで大地そのものが息を吐いているかのようだ。
そして、三日後の午後。
太陽が少しずつ傾き始めても、砂漠の暑さは相変わらずだった。
先頭を歩くフーは、時折足を止めて方角を確認しながら、迷いのない足取りで進んでいく。その後ろではランファンが周囲への警戒を怠らず、リンは額に浮かんだ汗を拭いながら、何度も手元の水筒へと目を落としている。
初日に比べれば、歩き方にも多少の余裕が戻っている。休憩の取り方や水の使い方にも慣れ、無駄に体力を消耗しないよう意識できるようになっていた。
とはいえ、数日間にわたる砂漠の行軍で蓄積した疲労が、すっかり抜けたわけではない。足を踏み出すたび、靴の中に入り込んだ細かな砂が不快に擦れ、熱気にさらされた体は重く感じられた。
そんなリンの少し後ろを歩くブルックは、相変わらず涼しげな足取りを保っている。
汗をかくこともなく、息を切らすこともない。強烈な日差しを浴びながらも、いつもと変わらない様子で砂漠の景色を興味深そうに眺めている。
「ヨホホホ。いやはや、砂漠を渡るというのは、これほど大変なものだったのですね」
「お前が言うと、嫌味にしか聞こえないんだけど……」
「おや? 私は皆さんを気遣って申し上げたつもりなのですが」
「その涼しい顔で言われてもな!」
リンが恨めしそうに振り返ると、ブルックは悪びれる様子もなく、いつもの調子で笑った。
そのやり取りを聞いていたランファンは、小さく息を吐いた。
主君の体調が心配なのはもちろんだが、こうして軽口を叩ける程度には余裕が戻ってきた。そのことに、彼女は内心ほっとしていた。
先頭を歩くフーも、背中越しに三人の様子を確かめながら、手元の方位磁針と周囲の地形を見比べていた。
砂漠では、目に映る景色の大半が似通っている。わずかな地形の変化や太陽の位置を頼りに進路を判断しなければ、気づかないうちに目的地から遠ざかってしまうことさえある。
ここまで大きく道を外れることなく進めているのは、フーが長年培ってきた経験と判断力のおかげだった。
やがて、先頭を歩いていたフーが不意に足を止めた。
「若、もう少しですぞ」
その言葉に、俯きかけていたリンが顔を上げる。
「……本当か?」
フーは前方を指し示した。
「ええ。遠くに見えるあれが、クセルクセス遺跡です」
リンは目を細め、地平線の向こうへと視線を向けた。
陽炎に揺らめく景色の中に、いくつもの影が浮かび上がっている。最初は砂丘の一部にも見えたが、目を凝らすうちに、それらが人工的な建造物の残骸であることが分かってきた。
崩れかけた壁。砂の中から突き出した石柱。かつて屋根を支えていたのだろう、巨大な石材の一部。
長い年月を経て風化した建物の残骸が、広い範囲に点在していた。
砂漠の向こうに横たわるその光景は、かつてこの地に広大な都市が存在していたことを、今なお雄弁に物語っていた。
「……あれが、クセルクセスか」
リンは足を止めたまま、遠くの遺跡を眺めた。
「ええ。かつて、この地にはクセルクセスという王国がございました」
フーは再び歩き出しながら、静かな口調で説明を続けた。
「東西の交易路が交わる重要な場所として栄え、広大な市街地と豊かな文化を有していたと伝えられております。しかし、王国は滅び、長い年月が流れた今では、こうして遺跡だけが残されているのです」
「へえ……。ずいぶん大きな国だったんだな」
リンは感心したように声を漏らした。
遠目に見ただけでも、その規模は相当なものだった。砂に埋もれた建物の数々からは、かつての都市の広がりが感じられる。
ここに人々が暮らし、市場には商人たちが集まり、街路には大勢の足音が響いていたのだろう。
それほどの繁栄を誇った国が、今では砂漠の中に忘れられたかのように残されている。
「じゃあ、今は誰も住んでないのか?」
「現在では、東西を行き来するキャラバンが立ち寄る中継地点として利用されております」
リンは納得したように頷き、口元を緩めた。
「なら、今日はあそこで休めそうだな」
「その通りです。人の出入りもありますから、水や食料を補充することもできるでしょう」
その言葉を聞いた途端、リンの表情がぱっと明るくなった。
「これで砂漠を歩くのも終わりか!」
「若。まだアメストリスには到着しておりませんぞ」
「分かってるって!」
「お気持ちは分かりますが、あまり大声を出すと余計に喉が渇きますぞ」
「うっ……。それは困るな」
リンは慌てて口を閉じ、水筒へと手を伸ばしかけた。
そんなやり取りを交わしながら、一行はようやく砂漠の向こうに広がる遺跡へと足を踏み入れた。
そこには、これまで歩いてきた砂漠とはまるで違う光景が広がっていた。
遺跡の一角には、大小さまざまなキャラバンが停泊していた。荷を積んだラクダが列をなし、商人たちが積み荷を下ろしては、次の旅に備えて荷物を整理している。簡素な天幕の下では旅人たちが水を飲みながら休息を取り、露店では保存食や道具類が売られていた。
砂漠の中にあるとは思えないほど、人の気配に満ちた場所だった。
砂漠を歩いている間は、周囲に人影を見つけることすら難しかった。だからこそ、こうして大勢の人々が行き交う光景には、普段以上の安心感がある。
少なくとも、ここなら水や食料を手に入れられるだろう。運がよければ、旅に必要な情報も得られるはずだ。
「人が多いな」
リンは周囲を見回し、感心したように呟いた。
「東西を行き来する者たちが集まりますからな。ここなら、アメストリス側に詳しい者も見つかるでしょう」
「だったら、ちょうどいいじゃないか。アメストリスに入る方法を聞いてみようぜ」
目的地に近づいたことで気分が軽くなったのか、リンは先ほどまでの疲れを忘れたように歩き出した。
しかし、その勢いも長くは続かなかった。
人が多いということは、それだけ同じ場所を求める旅人も多いということだ。宿泊に使えそうな施設や天幕は、どこもすでに人で埋まっていた。空きがないか尋ねてみても、返ってくるのは申し訳なさそうな断りの言葉ばかりだった。
空いている場所を探して歩き回るうちに、リンの足取りから再び元気が失われていく。
「……休む場所がない」
やがてリンは、力なく呟いた。
「こんだけ広いんだから、一つくらい空いててもよさそうなもんだろ」
「人が多いのは、それだけ需要があるということでしょうな」
フーも周囲を見渡しながら、困ったように顎を撫でた。
「これは少々困りましたな。野営をするにしても、今から場所を探すとなると……」
「せっかくここまで来て、まだ外で寝るのかよ……」
リンが肩を落とした、そのときだった。
「兄ちゃんたち、泊まる場所を探してるのかい?」
不意に横から声をかけられ、四人はそろって振り返った。
そこには、日に焼けた顔をした年配の男が立っていた。着古した服には旅の埃が染みついており、手足も日々の仕事で鍛えられているように見える。
そばには荷物を積んだ荷車があり、近くの天幕では何人かの男たちが食事の支度をしていた。
商人か、あるいはキャラバンの関係者なのだろう。
男は四人の顔を順番に見回すと、気さくな笑みを浮かべた。
「こっちの端の方でよければ場所が空いてるぞ。それと、うちの一団で飯を作りすぎちまってな。捨てるのももったいないし、余らせておくのも何だから、よかったら安く売るが?」
「飯!?」
リンが勢いよく反応した。
先ほどまでの疲れ切った表情はどこへやら、目を輝かせて男へと身を乗り出している。
そのあまりの変わりように、男は一瞬きょとんとしたものの、すぐに愉快そうに笑った。
「ははっ、いい反応だな! まあ、飯ならそこにある。大したもんじゃないが、腹を空かせた旅人には十分だろ」
男に案内された先には大きな鍋が据えられ、その周囲に簡素な食事の用意が整えられていた。
料理は豪華なものではなかったが、温かい汁物に、腹持ちのよさそうな食事が揃っている。砂漠を歩き続けてきた一行にとっては、それだけでも十分にありがたいものだった。
男が席を勧めると、リンは待ちきれないとばかりに腰を下ろした。
「いただきます!」
料理が目の前に置かれるや否や、勢いよく食べ始める。
空腹だったことに加え、ここ数日は落ち着いて食事を取る機会もほとんどなかった。リンの手は止まることなく、料理はあっという間に減っていった。
「若……もう少しゆっくり召し上がってください」
ランファンは呆れたように注意した。
その口調には呆れだけでなく、安堵も混じっていた。
砂漠を歩いている間、リンは体力を消耗し続けていた。こうして食欲が戻ってきたのなら、ひとまずは安心できる。
フーも食事を口に運びながら、周囲の様子をさりげなく観察していた。
見知らぬ土地で、見知らぬ人間から食事を勧められたのだ。相手に悪意があるようには見えなかったが、旅をする以上、警戒を怠るわけにはいかない。
もっとも、リンはすでに二杯目を要求していた。
「ところで、一つお聞きしたいことがあるのですが」
食事が一段落したところで、フーが男に声をかけた。
「ん? なんだい?」
「我々はこれからアメストリスへ向かう予定なのです。国境を越えるにあたり、事情に詳しい案内人を探しておりまして。どなたか、適任をご存じではありませんか?」
方角だけであれば、クセルクセス遺跡から西へ向かえばアメストリスへはたどり着ける。しかし、砂漠を越えた先の事情まで考えれば、ただ道を知っているだけの人間では心もとない。
国境付近の地理に詳しく、向こう側の情勢も把握している人物がいれば、それに越したことはなかった。
「ああ、アメストリスか」
男はその国名を聞くと、腕を組んで少し考え込んだ。
「それなら、ハンって男を当たってみるといい」
「ハン?」
「クセルクセス遺跡とアメストリスの国境付近を行き来している男だ。砂漠の地形にも詳しいし、アメストリス側の事情にも通じている。案内人を探しているなら、あいつ以上の適任はいないだろうな」
男はそう言いながら、遺跡の西側を指差した。
「向こうの辺りに、しばらく滞在していたはずだから、探してみるといい」
「それは助かります。貴重な情報をありがとうございます」
食事を終えた一行は、改めて男に礼を述べ、指定された場所に簡易天幕を張った。
案内人の手掛かりは得られた。あとはハンという男を見つけ、アメストリスへ向かう道を確保するだけだ。
砂漠を越える旅も、ようやく終わりが見え始めている。
そのことが嬉しいのか、リンの足取りは再び軽くなっていた。
「せっかくここまで来たんだし、少し見物していかないか?」
遺跡の奥へと続く道を眺めながら、リンが言った。
「若。先ほどまで、早く休みたいとおっしゃっていませんでしたか?」
「飯食ったら元気出てきた!」
「……そうですか」
ランファンは小さく息をついた。ブルックは二人のやり取りに肩を揺らして笑っている。
過酷な旅を続けてきた四人だったが、こうした何気ないやり取りを交わせるだけの余裕が戻ってきたことは、悪いことではなかった。
「クセルクセス遺跡だぞ? 昔の王国の跡なんて、そうそう見られるもんじゃないだろ。せっかく来たんだから、少しくらい見ておきたいじゃないか」
リンはそう言って、満面の笑みを浮かべながらブルックへと振り返った。
「行こうぜ、ブルック!」
「ヨホホホ。私でよろしければ、お供いたしますよ」
「おう!」
「では、その間に私はハンという人物を探して参ります。見物が済んだら戻ってきてくだされ」
フーと別れた三人は、人通りの多い一角を離れ、遺跡の奥へと歩いていった。
キャラバンの人々が行き交う場所から遠ざかるにつれて、賑やかな話し声は徐々に聞こえなくなり、代わりに砂漠を吹き抜ける風の音が耳に届くようになる。
人の手が入っている場所では、崩れた石材が道の脇にまとめられていた。しかし、さらに奥へ進むと、建物の残骸はほとんど手つかずのまま放置されていた。
崩れた壁の隙間には砂が積もり、かつて人々が歩いていたであろう道も、今ではその輪郭をかろうじて残すばかりだ。
砂に埋もれた石段。頭部を失った石像。風化によって表面の模様が削り取られた柱。
どれもが長い時間の経過を感じさせるものばかりだった。
そこには、繁栄していた時代の名残があちこちに取り残されている。
先ほどまでの喧騒が嘘のように、辺りは静まり返っていた。
「……なんか不思議な感じだな」
リンは足を止め、周囲を見渡した。
「ここには昔、たくさんの人がいたんだよな」
「ええ。ここが栄えていた時代には、この一帯も多くの人々で賑わっていたのでしょうね」
ブルックが静かに答えた。
「商人が品物を売り、職人が物を作り、家々には人が暮らしていたはずです。今、我々が歩いているこの場所にも、当時は多くの人々の営みがあったのでしょう」
「それが今じゃ、こんな姿か……」
リンは崩れた建物の向こうに広がる景色を見つめた。
風が吹くたびに砂が舞い上がり、石壁の隙間へと入り込んでいく。長い年月をかけて、少しずつ、確実に、かつての街は砂漠の一部へと変わりつつあった。
ここに住んでいた人々は、どこへ行ったのだろうか。
王国が滅びるとき、彼らは何を思ったのだろう。逃げ延びた者もいたのかもしれない。別の土地へ移り住み、新たな暮らしを築いた者もいたのかもしれない。
けれど、彼らが暮らしていた街そのものは、こうして失われてしまった。
「国が滅びる、か……」
リンは、ぽつりと呟いた。
彼はシンの皇帝を目指している。
皇帝になれば、国を動かすことができる。多くの人々を従え、国の富を手にすることもできるだろう。権力を手に入れれば、今よりも大きなことを成し遂げられるはずだ。
それは、リンが抱き続けてきた野望だった。
しかし、目の前に広がる遺跡は、そんな彼に一つの事実を突きつけているようだった。
どれほど大きな国であっても、永遠に続くとは限らない。
どれほど栄華を極めたとしても、時代が移り変われば、すべてが失われてしまうことだってある。
権力を手に入れることと、国を守ることは、決して同じではないのだ。
リンはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐き、顔を上げた。
「……まあ、だからって俺が皇帝になるのを諦める理由にはならないけどな」
その声には、先ほどまでの沈んだ響きとは違う、はっきりとした意志が宿っていた。
「むしろ、せっかく皇帝になるなら、こんなふうに国を滅ぼしたくはないね」
リンは崩れた建物を見渡しながら、まっすぐにそう言った。
大げさな決意表明をするでもなく、誰かに聞かせるために格好をつけるでもない。ただ目の前の光景を見て、自分が何を望んでいるのかを改めて確かめたような口調だった。
リンの目指すものは、単に皇帝の座を得ることだけではない。
自分が皇帝になったその先に、何を残すのか。
目の前の遺跡は、彼にそんな問いを投げかけているのかもしれなかった。
「若……」
ランファンが、わずかに目を見開いた。
彼女にとってリンは主君であると同時に、幼い頃から見守ってきた存在でもある。普段は食べ物に目を輝かせ、思いつきで行動し、周囲を振り回すことも多い。
だからこそ、ふとした瞬間に見せる、こうした真剣な言葉が胸に響くのだ。
リンは彼女の視線に気づくと、照れ隠しのように頭を掻いた。
「なんだよ。俺だって、それくらい考えてるさ」
「いえ。立派なお考えかと」
「お、おう……」
思いがけず真面目に返されたせいか、今度はリンの方が戸惑ってしまった。
いつもなら、もう少し軽口を返してくるところだ。ランファンが真っ直ぐに褒めてくるのは、リンにとっても少しばかり落ち着かないものらしい。
その様子を見ていたブルックは、二人のやり取りに小さく笑みを浮かべた。
そして、ゆっくりと視線を遺跡へと戻す。
「……国がなくなっても、残るものはあるのですね」
「ブルック?」
リンが振り返る。
ブルックは、崩れかけた石壁の前に立っていた。
壁の表面は長い年月を経て大きく削られ、ところどころに亀裂が走っている。下部には砂が積もっていたが、それでも石壁は今なお形を保ち、かつてそこにあった建物の一部として静かに佇んでいた。
ブルックは、そっと石壁に手を添えた。
ざらついた石の表面には細かな砂が付着している。指先で触れたところから、わずかに砂が落ちた。
「私もかつて、栄えていた場所が時の流れに取り残されていく光景を見たことがあります」
その声には、いつもの陽気さとは異なる、落ち着いた響きがあった。
「人々が去り、建物だけが残る。そして、やがてその建物さえも少しずつ姿を変えていく。かつては誰かの暮らしがあった場所も、長い時間が過ぎれば、そこに何があったのかさえ分からなくなってしまうのかもしれませんね」
ブルックは、しばらく石壁を見つめていた。
「人々が集い、笑い声が響き、誰もが当たり前のように日々を過ごしていた場所。それが、時とともに少しずつ変わっていく……。時間というものは、建物さえも姿を変えてしまうのです」
長い孤独を経験してきたブルックにとって、過ぎ去った時間は決して遠い昔の出来事ではなかった。
もう二度と戻らない日々。再び会えるかどうかさえ分からなかった、大切な仲間たち。記憶の中では鮮明なままの光景も、現実の世界では遠い過去のものになっているのかもしれない。
それでも。
「たとえ、今は誰も覚えていなくても。そこに人がいて、笑い、泣き、何かを願いながら生きていた。その時間まで、すべて消えてしまうわけではないのでしょう」
ブルックは石壁から手を離した。
そして、いつものように穏やかな笑みを浮かべる。
風が吹き抜け、ブルックの衣服の裾を揺らした。
その姿は、古い遺跡の中に立つには、あまりにも奇妙なものだった。肉も皮膚もない、骨だけの体。生きている人間とは明らかに異なるその姿は、この世界の常識からすれば、異質で理解し難い存在に違いない。
それでも、彼の口にした言葉には、長い年月を経てなお残り続けるものへの思いが込められていた。
リンはしばらくブルックを見つめていた。
普段の彼なら、冗談を言って周囲を笑わせたり、どこか調子の外れた言葉で場の空気を変えたりすることが多い。
だが、今のブルックは、まるで遠い過去の景色を見つめているかのようだった。
リンには、その視線の先に何があるのか分からない。
ただ、彼がこれまでに過ごしてきた時間が、自分の想像するよりもずっと長く、そして重いものであることだけは、少しずつ分かり始めていた。
「……ブルックにも、そういう思い出があるんだな」
リンは静かに言った。
ブルックは一瞬だけリンへ視線を向けると、小さく頷いた。
「ええ。忘れられない、大切な思い出です」
それ以上、リンは詳しく尋ねなかった。
無理に聞き出すことが、必ずしも相手を理解することにつながるわけではない。話したくなれば、ブルックの方から話してくれるだろう。
そう考えたのか、リンは再び遺跡へと目を向けた。
かつて栄え、そして滅びた国。
自分が目指している皇帝という地位。
そして、長い年月を生きてきたらしい、奇妙な骸骨の音楽家。
一見、何の関係もないもののように思える。
けれど、今この場所で、それぞれが何かを考えているという事実だけは確かだった。
そんな静かな時間を破ったのは、少し先を歩いていたリンの声だった。
「……なんだ、これは?」
その声に、ブルックとランファンの視線が集まる。
「どうしました? リンさん」
リンはすぐには答えず、砂に半ば埋もれた石造りの建物をじっと見つめていた。
周囲の建物と比べても、特に目立つ場所ではない。壁の一部が崩れ、入口らしき場所も砂に塞がれている。長い年月の風化によって、外壁の表面はひどく傷んでいた。
しかし、その壁の一角に、何か気になるものを見つけたらしい。
「いや……少し気になるものがあってな」
リンはそう答え、建物へと近づいた。
ブルックたちも後に続く。
近くで見ると、壁の表面には奇妙な模様が刻まれていることが分かった。
円を思わせる大きな線。その内側には、いくつもの記号らしき形が並んでいる。細い線が交差する箇所もあれば、何かの文字を思わせる刻印もあった。
だが、長い年月の風化によって表面は削られ、模様の一部は砂に覆われている。全体がどのような形をしていたのか、今となっては容易に判別できそうになかった。
「なんだ、これ?」
リンが興味深そうに身を乗り出した。
しかし、壁に手を伸ばそうとしたところで、ランファンがすかさず腕を上げて制した。
「不用意に触れない方がよろしいかと。古い遺跡です。壁が崩れるかもしれません」
「分かってるって。見るだけだよ」
リンは素直に手を引っ込めたものの、模様への興味までは失っていないようだった。少し距離を取って壁を眺め、首を傾げる。
「昔の文字か何かか?」
リンは目を細め、刻まれた模様を注意深く観察した。
これまでにも、フーやランファンとさまざまな土地を訪れ、不老不死に関わりのありそうな古い資料を数多く目にしてきた。古い建造物や遺跡に関する知識も、それなりに持ち合わせているつもりだった。
だが、この模様には見覚えがなかった。
リンの後ろからランファンが顔を覗かせ、眉を顰める。
「……私にも、見覚えのない形です。文字なのか、それとも何らかの図形なのか……。お祖父様がいらっしゃれば、何かご存じだったかもしれませんが……」
「まあ、いないものは仕方ないさ」
リンは改めて壁へ目を向けた。
円を思わせる線と、その内側に並んだ奇妙な記号。見れば見るほど、単なる装飾とは違うようにも思える。
だが、何を意味しているのかは見当もつかなかった。
ブルックもまた、壁に刻まれた模様を見つめていた。
彼にも、それが何を意味するのかは分からない。そもそも、この世界に来てからというもの、目にするものの多くが彼にとって未知のものだった。錬丹術という不思議な技術も、シンという国の文化も、かつて航海していた海とは異なる常識に満ちている。
それでも、古びた石壁に刻まれた模様を見ていると、妙に心を引かれるものがあった。
まるで、遠い過去に生きた誰かが、長い年月を越えて何かを伝えようとしているかのようだった。
しばらくの間、三人は壁に刻まれた模様を眺めていた。
しかし、これ以上調べても手掛かりは得られそうにない。リンは名残惜しそうに何度か振り返りながらも、キャラバンの停泊場所へと戻ることにした。
天幕に着くと、フーはすでに戻ってきており、その隣には見知らぬ男が一人立っていた。
年齢は四十代ほどだろうか。日に焼けた肌に、砂漠での生活に慣れた者特有の引き締まった体つき。腰には使い込まれた短剣を携え、背負った荷物からは長旅に必要な道具がいくつも覗いていた。
「若、お戻りになりましたか。こちらが先ほどお話ししたハン殿です」
「おお、あなたがハンか!」
リンは気さくに歩み寄り、手を差し出した。
「俺はリン。こっちはランファンとブルックだ。よろしくな!」
「ハンだ。よろしく頼む」
ハンは差し出された手を握り返し、三人を順番に見渡した。
その視線がブルックの仮面に一瞬だけ留まったものの、特に何かを尋ねることはなかった。
「この人から事情は聞いている。アメストリスへ向かいたいんだってな」
「ああ。できれば、なるべく早く国境を越えたいんだ」
「なるほどな。だが、今の時期は少々厄介だぞ」
ハンは腕を組み、砂漠の向こうへと目を向けた。
「この遺跡から西へ進めば、アメストリスとの国境地帯に出られる。ただし、砂漠を抜けた先にも荒れた土地が続いている。道を知らずに進めば、国境にたどり着く前に迷うことになるだろう」
そう言ってから、ハンは少しだけ表情を引き締めた。
「それに、国境を越えた後のことは別だ。アメストリス側の町まで行けば人の往来もあるが、身分や目的を尋ねられることもある。入国そのものが不可能なわけじゃないが、何の準備もなしに向かうのは勧めないな」
「ふむ……。まずは国境まで案内していただき、その後の状況を見て判断するということですな」
フーが確認すると、ハンは頷いた。
「それがいいだろう。出発は明後日の朝だ。今日と明日はしっかり休んで、必要な物資を揃えておけ。砂漠を越えてきたばかりなんだろう?」
「そうさせてもらうよ。いやあ、アメストリスももうすぐだな!」
そう言いながら満足そうに笑うリンの背後で、砂漠の風が静かに吹き抜けていく。
その風は、長い年月を経てなお残る遺跡の石壁を撫で、砂の上に新たな足跡を刻んでいく。やがて、その足跡さえも砂に覆われるのだろう。
彼らの旅はまだ終わらない。
次に彼らが足を踏み入れるのは、錬金術が栄える国――アメストリス。
明後日、一行は再び西へと歩き出す。
まだ誰も知らない物語が、新たに動き始めようとしていた。
それは、苦難に歓喜を
争いに勝利を
暗黒に光を
死者に生を約束する
血の如き紅き石
人はそれを敬意をもって呼ぶ
「賢者の石」と
次回、屍と錬金術師 CORPSE ALCHEMIST
第6話『エルリック兄弟』
上のやつはなんだって?( ˘ω˘ )知らぬ、一度やってみたかったんだ
これにてシン国、砂漠編、終了です。
砂漠編をなんとか2話で収めようと思ったら詰め込み過ぎてしまいました。
そのせいで国境超えのあたりは丸々カットに、まあ原作でもその辺は詳しく描かれていないので逆に良かったかもしれません。
そして次回から漸くハガレン主要キャラ登場します。
今までは実質タイトルが屍と王子でしたが、これで『屍と錬金術師』名乗れます。アメストリス編も皆様宜しくお願いします。