機械鎧の聖地、ラッシュバレー。
かつてこの国でイシュヴァール内乱が起きた際、戦場で手足を失った負傷兵たちのために義肢技術が発達した。その技術は戦争が終わった後も進歩を続け、やがて一つの産業として大きな発展を遂げることとなった。
国内でも有数の機械鎧の生産地として知られ、優秀な技師を求めて国内外から多くの人々が集まる。新たな技術を求める者、腕を磨こうとする者、そして自らの可能性を機械鎧に託す者。さまざまな目的を持った人々がこの街を訪れる。
別名、にわか景気の谷。
周囲を山々に囲まれた地形は、天然の城壁とも呼べるものだった。かつては、その険しい地形を利用して外敵の侵入を防いだと伝えられている。まさに自然が生み出した、堅牢な要塞だ。
通りには人々の活気ある声が飛び交い、店先には機械鎧の部品や工具が並ぶ。工房からは金属を打ち鳴らす音が響き、機械油の独特な匂いが街のあちこちに漂っていた。
そんな街の一角にある食堂で、一人の少年が盛大に眉間にしわを寄せていた。
エドワード・エルリック。
最年少の国家錬金術師にして、鋼の錬金術師の二つ名を持つ少年である。
彼が不機嫌になっている原因は、目の前にいる男にあった。
正確に言えば、その男を裏路地で拾ってきた弟に対して怒っているわけではない。
弟が拾ってきた時点で、無理矢理にでも元の場所へ捨てて来させなかった過去の自分を悔やんでいるのだ。
「いやー、生き返った! あんた方、命の恩人だ!」
テーブルの向こう側で、リン・ヤオが満面の笑みを浮かべた。
彼の前には、空になった皿が山のように積み上がっている。皿の隙間には骨付き肉の残骸や、きれいに空になったスープ皿まで並んでいる。
これら全ての料理の支払い金額は想像したくもない。
「おごるなんて一言も言ってねぇし」
「細かいこと気にしない!」
リンは悪びれる様子もなく、テーブルをバンバンと叩いて笑った。
「いやあ、助かったよ! 腹が減っては戦はできぬって言うだろ?」
「誰の金で戦うつもりだ、てめぇ!」
「はははっ! いや、ほんと感謝してるって!」
「笑ってごまかすな!」
エドワードが声を荒らげる。
その隣では、巨大な鎧の身体を持つ弟、アルフォンス・エルリックが困ったように苦笑していた。
「まあまあ、兄さん。この人も、ずっとお腹が空いていたみたいだし」
「アル! お前は甘すぎるんだよ!」
「でも、倒れてる人を放っておけなかったんだから、仕方ないじゃないか」
「だからって、なんで俺がこいつの飯代まで払わなきゃならねぇんだ!」
エドワードは額を押さえた。
このままでは、食事代どころか精神まで削られそうだった。
そもそもの始まりは、リンがラッシュバレーの裏路地で倒れていたことだった。
異国風の衣服をまとった青年が、腹を空かせて道端に倒れている。そんな光景を見れば、アルフォンスが放っておけなかったのも無理はない。
問題は、助け起こした相手が想像以上に図太かったことだ。
空腹を満たした途端、リンはあっという間に元気を取り戻し、今では初対面の相手を相手に遠慮の欠片もない振る舞いを見せている。
エドワードは、そんなリンをじろりと睨んだ。
「……で、お前、いったい何者なんだよ」
「俺か?」
リンは食後の満足感に浸りながら、椅子の背もたれへ身体を預けた。
「俺はリン・ヤオ。シン国から、ちょっとこっちに来てね」
「シン?」
エドワードは聞き慣れない国名に眉を上げた。
「東のシンから、こんな遠い国まで来たのかよ。ずいぶん大変だったんじゃねぇの?」
「ああ。特に、あの大砂漠にはまいったよ」
リンは思い出したように肩をすくめた。
「鉄道ルートが砂嵐で埋まってしまってね。仕方なく、クセルクセス遺跡を経由して、ようやくここまで来たんだ」
「クセルクセス?」
今度はアルフォンスが反応した。
「じゃあ、砂漠を歩いて越えてきたの?」
「まあ、そういうことだな。いやあ、砂漠ってのは大変だね。暑いし、足場は悪いし、休む場所も少ないし」
「……お前、よく無事だったな」
エドワードが呆れたように言った。
「船を使って海路を渡ってくればよかったんじゃねぇのか? わざわざ砂漠を越えて、クセルクセスに観光でもしに来たのかよ」
「違う違う。観光じゃないって」
リンは手を振り、軽い調子で否定した。
「ちょっと調べ物があってね。錬丹術について調べに来たんだ」
「……錬丹術?」
エドワードとアルフォンスが、そろって首を傾げた。
「なんだそりゃ?」
「ああ、この国では錬金術って呼ぶんだっけ」
「錬丹術なんて初めて聞いたな……」
エドワードは腕を組んで考え込んだ。
錬金術についてなら、それなりに知識があるつもりだった。国家錬金術師として研究を重ねてきた彼にとって、未知の技術というものは興味を引かれる存在でもある。
しかし、東の国で使われているという錬丹術については、詳しい話を聞いたことがなかった。
「ねえ、リンさん。その錬丹術って、どんな技術なの?」
アルフォンスが興味深そうに尋ねた。
「さあ?」
「さあ、って……」
「俺、錬丹術師じゃないからな」
リンはあっさりと言った。
アルフォンスは思わず言葉に詰まり、エドワードは眉間のしわをさらに深くした。
「……お前、術師でもねぇのに、何を調べに来たんだよ」
「んー、それはだな……」
リンは少しだけ声を落とした。
先ほどまでの軽薄な笑みはそのままだったが、その目には、相手の反応を確かめるような慎重さが宿っていた。
「君たちなら、知っているかな?」
「何をだ?」
「賢者の石」
その言葉が出た瞬間、食堂の空気がわずかに変わった。
エドワードの表情から、先ほどまでの苛立ちが薄れる。
代わりに、その目が鋭く細められた。
「……賢者の石、だと?」
「ああ。すっごく欲しいんだけど、何か知らないかな?」
リンは二人の反応を見逃さなかった。
ほんの一瞬だったが、確かにエドワードの表情が変わったのだ。
それまで食事代のことで怒鳴っていた少年が、今は警戒するような目でこちらを見ている。
賢者の石という言葉に、何か心当たりがあるのかもしれない。
だが、エドワードはすぐに表情を取り繕った。
「……さあな。聞いたこともねぇよ」
あまりにも素っ気ない返答だった。
そして、彼は椅子から立ち上がる。
「悪いが、俺たちはもう行くぜ。お互い、これ以上話すこともねぇだろ」
「えっ、ちょっと待ってくれよ」
リンも慌てて立ち上がった。
「そんな冷たいこと言うなって。せっかく会えたんだから、もう少し話を――」
「用がねぇなら、これで終わりだ」
エドワードは取り合わず、アルフォンスを促して食堂の出口へ向かう。
その背中を見送りながら、リンは小さく息を吐いた。
「……やっぱり、何か知ってるな」
その呟きは、近くにいた者たちの耳にしか届かないほど小さかった。
次の瞬間。
リンは、ぱちん、と指を鳴らした。
まるで合図を送るような、軽い音だった。
すると、食堂の出入口へ向かっていたエドワードとアルフォンスの背後に、二つの黒い影が音もなく現れた。
「なっ……!?」
エドワードが振り返るよりも早く、二人の影が動く。
黒い衣服をまとったランファンと、長い年月を生き抜いてきた老兵フーだった。
ランファンはクナイを構え、フーもまた鋭い眼差しで兄弟を見据えている。
「若が質問をしているのだ。立場をわきまえんか」
フーが低い声で告げた。
「おいおい、いきなり何のつもりだよ!」
エドワードの声に、先ほどまでの食堂の穏やかな空気が一変する。
周囲の客たちが驚いて顔を上げ、店主も慌てて手を止めた。
しかし、リンはそんな騒ぎを気にも留めず、椅子に座ったまま頬杖をついていた。
「いやあ、ちょっと話を聞きたいだけなんだけどな」
「だから、もう話すことはねぇって言ってんだろ!」
「そうかい? でも、こっちはまだ聞きたいことがあるんだよ」
「てめぇ……!」
エドワードの額に青筋が浮かんだ。
相手が食い下がってくるなら、こちらにも考えがある。
そう言わんばかりに、彼は腰を落として構えを取った。
「逆らうつもりか、貴様ら」
フーがクナイを構え直す。
ランファンもまた、身体をわずかに沈めた。
次の瞬間、エドワードが動いた。
「逆らうも何も、いきなり襲ってきたのはそっちだろうが!」
背後から迫るランファンに向かって、エドワードは振り向きざまに裏拳を放った。
しかし、ランファンはそれをまともに受けることなく、身を翻して宙へ跳ぶ。
エドワードの拳が空を切った。
「はぁっ⁉︎」
ランファンはそのまま身体をひねり、勢いを利用して蹴りを放つ。
エドワードは腕を上げて受け止めたが、衝撃に足元がわずかに揺らいだ。
彼女の動きは速い。
そして何より、無駄がなかった。
ただ力任せに攻めるのではなく、相手の動きに合わせて的確に攻撃を繰り出してくる。エドワードはすぐに、彼女が相当な訓練を積んだ戦士であることを悟った。
一方、フーもアルフォンスを相手にしていた。
「うわっ、ちょ、ちょっと待って!」
アルフォンスが慌てて両腕を上げる。
鎧の巨体を持つ彼にとって、多少の打撃は大した問題ではない。しかし、フーはその頑丈さを真正面から崩そうとはしなかった。
伸びてきた腕を素早くかわし、その腕を足場にするようにして身体を跳ね上げる。
「フッ!」
フーの脚が、アルフォンスの兜を捉えた。
ガンッ、と鈍い音が響く。
「うわあっ!」
アルフォンスの身体が大きくよろめいた。
「アル!」
エドワードが声を上げる。
しかし、ランファンはその隙を見逃さなかった。
彼女は再び距離を詰め、エドワードの攻撃を紙一重でかわしながら、次々と体勢を崩しにかかる。
「くそっ、ちょこまかと!」
エドワードは歯噛みした。
相手は二人とも、ただ者ではない。
しかも、二人が錬金術を使う隙を与えないよう、間合いを巧みに詰めている。
食堂の客たちはすでに騒然となり、店主は頭を抱えていた。
そんな中。
「……あーあ、行っちゃった」
リンが、どこか残念そうに呟いた。
視線の先では、戦場を店の外に移したエドワードとアルフォンスがフーたちと激しくやり合っている。
テーブルの上には大量の空き皿。
そして、まだ支払いの済んでいない食事代。
リンはそれらを見比べると、何事もなかったかのように店主へ顔を向けた。
「おっちゃん、デザート追加で!」
「えっ、あ、ああ……!」
「お勘定はあの鎧の兄弟につけといてね」
店主が何かを言いかけた、そのときだった。
「店主、私にも牛乳を一杯いただけますか?」
穏やかな声が、食堂に響いた。
リンが振り向く。
そこには、黒い衣服に身を包み、顔を仮面で隠した長身の男が立っていた。
その異様に背の高い体躯と、どこか芝居がかった立ち姿には、見慣れない者なら思わず目を向けてしまうような存在感があった。
「おー、来たか、ブルック」
突然現れた長身の男と仲良さそうに会話するリンを見て、店主がきょとんとしている。
ブルックは仮面の奥で笑ったような声を漏らした。
「ヨホホホ。皆さんのお話が盛り上がっていたので、邪魔をするのも悪いかと思いまして」
「いや、盛り上がってたっていうか、ほとんどケンカだっただろ」
「おや? そうでしたか」
ブルックは何食わぬ顔で椅子に腰を下ろした。
店主が持ってきたデザートと牛乳を受け取ると、二人はそれをゆっくりと味わい始める。
食堂の外からは、金属のぶつかる音や、何かが壊れるような派手な音が聞こえてきた。
どうやら、戦いは街の外へと移ったらしい。
リンはその音に耳を傾けながら、楽しそうに笑った。
「いやあ、面白い奴らだな、あいつら」
「ええ。なかなかの腕前のようですね」
ブルックもまた、牛乳の入ったグラスを傾けた。
「それにしても賢者の石という物は、この国ではずいぶんと重要なもののようですね」
「だろ? あの反応、絶対何か知ってるって」
「ヨホホホ。でしたら、もう少しお話を伺う必要がありそうですね」
二人は顔を見合わせ、そろって笑った。
* * *
「いたぞ。ブルック、あそこだ!」
リンの声に導かれ、ブルックは賑やかな大通りを抜けた。
先ほどまで激しい戦闘音が響き渡っていた市街地は、すでにひとまずの静けさを取り戻している。
ただし、何事もなかったわけではない。
通りの一角では木箱が散乱し、壁には新しいひびが走っていた。店先に積まれていた荷物は崩れ、何人かの住民が困り果てた顔で壊れた品物を確認している。
そして、その騒ぎの中心から少し離れた場所に、エドワードとアルフォンスの姿があった。
その二人と先ほどまで戦っていたフーとランファンは、ロープ状のもので拘束されていた。
フーは不本意そうに眉を寄せ、ランファンは悔しげに目を伏せている。
一方のエドワードは、まだ怒りが収まらない様子だった。
「まったく……いきなり襲いかかってきやがって!」
「兄さん、もうその辺で……」
「アル! お前だって頭蹴られただろうが!」
「それはそうだけど……」
アルフォンスが困ったように肩をすくめた。
そのとき、リンが二人の前へと歩み出た。
「はい、おつかれさーん」
「おつかれさま、じゃねぇ!」
エドワードが即座に怒鳴り返した。
「誰のせいでこんなことになったと思ってやがる!」
「まあまあ。そんなに怒るなって」
「怒るに決まってんだろうが!」
リンは気にする様子もなく、軽く両手を上げた。
「いや、悪かったって。ちょっと話を聞きたかっただけなんだよ」
「だったら普通に聞け!」
「普通に聞いたら逃げようとしただろ?」
「そりゃ逃げるわ!」
「ほらな!」
「何が『ほらな』だ!」
エドワードは頭を抱えた。
この男とまともに会話をすること自体、すでに間違いなのかもしれない。
その間に、ブルックは拘束された二人へと歩み寄った。
「フーさん、ランファンさん。お怪我はありませんか?」
そう尋ねながら、彼は腰の仕込み杖に手をかける。
刃をわずかに覗かせ、ロープに当てると、手際よくそれを切断した。
ぷつり、と音を立ててロープが地面に落ちる。
「助かりました、ブルック殿」
フーは手首を軽く動かし、拘束されていた箇所を確かめた。
「いえいえ。お二人とも、ご無事で何よりです」
ブルックはランファンにも視線を向けた。
「ランファンさんも、どこか痛むところはありませんか?」
ランファンは小さく首を横に振った。
ただ、彼女の顔にはわずかな戸惑いがあった。
戦闘の最中に仮面が壊れたらしく、その素顔が露わになっていたのだ。彼女は恥ずかしげに顔に手を添え、目を背ける。
「……問題ありません」
「そうですか。それならよかった」
ブルックはそれ以上、余計なことを尋ねなかった。
ランファンにとって素顔を見られることを気にしていると分かれば、無理には触れない。それもまた、ブルックなりの気遣いだった。
そんな三人の様子を見て、リンは満足そうに頷いた。
「よし、全員無事だな!」
「若。無事ではありますが……」
フーは周囲を見回した。
壊れた荷車。散乱した木箱。破損した店先。
そして、こちらを睨んでいるエドワード。
「この状況については、いかがなさるおつもりですかな?」
「……あ」
リンの笑顔が、一瞬だけ固まった。
エドワードは、その隙を逃さなかった。
「そうだよ! てめぇ、逃げるつもりじゃねぇだろうな!」
「いやいや、そんなわけないだろ!」
リンは大げさに手を振った。
「俺はただ、ちょっと用事を思い出しただけで――」
「逃がすか!」
エドワードが一歩踏み出す。
リンは反射的に踵を返した。
「じゃ、あとはよろしく!」
「はぁ!?」
驚くエドワードを背に、しかしリンはすでに走り出していた。
「待ちやがれ、この食い逃げ野郎!」
「ワタシ、ガイコクゴ、ワカラナイヨー」
片言の言葉を発しながら、リンの背中はあっという間に人混みの向こうへと消えていった。
その場に残されたフーは、深々とため息をついた。
「……まったく。若は相変わらずですな」
フーはもう一度ため息をつくと、ランファンへ目を向けた。
「行くぞ、二人とも。若を追わねば」
「はい」
ランファンは頷き、ブルックも二人の後に続いた。
こうして四人は、町の修繕と食事代の支払いという厄介な仕事をエドワードに残したまま、主君の後を追うことになった。
もちろん、エドワードがそれを快く思うはずもなかった。
* * *
ラッシュバレーの街並みを見下ろせる、少し離れた建物の屋根の上。
リンは、遠くの通りで何やら言い争っているエドワードとアルフォンスの姿を眺めていた。
どうやら、彼らは壊れた町の修繕費や、食堂の支払いについて話をしているらしい。
少なくとも、エドワードの身振りを見る限り、機嫌がよくなったとは到底思えなかった。
「……若」
背後から近づいてきたフーが、静かに頭を下げた。
「先ほどは、失態をお見せして申し訳ありませんでした」
「ん? 別にいいって」
リンは手をひらひらと振った。
「俺が無理に話を聞こうとしたのも悪かったしな。それに、あいつらもなかなか強かった。いい経験になっただろ?」
「しかし……」
「気にすんなって」
リンは屋根の縁に腰を下ろし、再び街を見渡した。
しばらくの間、風の音だけが二人の間を通り抜けた。
やがて、リンは口元に笑みを浮かべる。
「それにしても、面白い奴らに会えたな」
「……左様ですな」
フーもまた、先ほどの戦闘を思い返しているようだった。
「気づいたか、フー?」
「はい」
フーの表情が引き締まる。
「あの鎧の男……アルフォンスと言いましたか。あの身体からは、生きた人間ならば持っているはずの気の流れが感じられませんでした」
「だよな」
普通の人間なら、身体の中を流れる気配がある。少なくとも、これまでリンたちが出会ってきた人間はそうだった。
だが、アルフォンスの鎧からは、それが感じられなかった。
巨大な鎧の身体を動かし、言葉を話し、意志を持って行動している。それなのに、人間としての気配がない。
まるで、身体だけがそこに存在しているかのようだった。
「……あれは、いったい何者なのでしょうな」
「さあな。でも、普通じゃないのは確かだ」
リンは興味深そうに目を細めた。
そして、もう一人の少年へと視線を向ける。
エドワード・エルリック。
小柄な身体に、年齢に似合わない鋭い目つき。そして、賢者の石という言葉を聞いたときに見せた、あの一瞬の変化。
「それに、あのちっこい方……エドワードだったか」
「はい」
「あいつ、賢者の石について何か知っていそうだ」
リンは顎に手を当てた。
あの反応は、単に言葉を知らなかった者のものではない。むしろ、何かを知っているからこそ、話を切り上げようとしたように見えた。
もちろん、確証があるわけではない。
だが、手掛かりがほとんどない今、わずかな可能性でも追いかける価値はあった。
「どうやら、あいつらについていくのが一番よさそうだな」
「若が、あの者たちについていくのですか?」
フーがわずかに眉を動かした。
「若があのような者たちに頭を下げるなど……」
「別に、いいだろ?」
リンはあっさりと言った。
「必要なら頭くらい下げるさ」
「ですが、若はシンの皇子であらせられます。相手は、素性も定かではない者たちですぞ」
「だから何だよ」
リンは振り返り、フーを見た。
その表情には、普段の軽薄さとは異なる、揺るぎない意志があった。
「俺が欲しいのは、皇帝の座だ。シンを変えるために必要なものを手に入れる。そのためなら、相手が誰だろうと関係ない」
フーは黙って主君を見つめた。
リンが皇帝を目指す理由。
それは、単に権力を欲しているからではない。
彼の背後には、彼を支える者たちがいる。彼を信じ、彼のために命を懸ける者たちがいる。そして、その者たちが生きる国を、よりよいものにしたいという願いがある。
だからこそ、リンは立場や面子にこだわらない。
自分の頭を下げるだけで道が開けるのなら、それは決して高い代償ではないのだ。
「安いもんだろ。俺の頭ひとつで済むのなら」
リンは、再び街へと視線を戻した。
「なりふり構っていられないからな。俺が背負っているもののためには」
その言葉には、冗談めいた響きはなかった。
フーはしばらく黙っていたが、やがて深く頭を下げた。
「……承知いたしました。若のお考えに従います」
「おう、これからも頼むぞ。フー」
リンは満足そうに笑い、勢いよく立ち上がった。
だが、次の瞬間には、いつもの調子を取り戻していた。
「まあ、頭を下げても駄目だってんなら、そのときはぶん取ることになるけどね!」
そこへ、ランファンとブルックも追いついてきた。
「若。お待たせいたしました」
「おう、二人とも!」
リンは二人を見渡し、にっと笑った。
「それじゃあ、行くか!」
「どちらへ向かわれるのですか?」
ブルックが首を傾げる。
「決まってるだろ。あの兄弟のところさ!」
「ヨホホホ。なるほど。今度は、もう少し穏便にお話しできるとよいですね」
「大丈夫、大丈夫! 今度はちゃんと話すって!」
リンはそう言って歩き出した。
その背中を見つめながら、フーは小さく息を吐き、ランファンは静かに後に続く。
賢者の石。この国の錬金術。今はまだ、わからないことだらけだ。
けれど、少なくともリンは、立ち止まるつもりなど毛頭なかった。
自分が背負うもののために。
そして、目指す未来へたどり着くために。
リン・ヤオは再び歩き始めた。