波乱の生徒総会、その翌日。テイオーは早朝からランニングに出ていた。これまでなら、彼女が早朝からグラウンドに居ることなど年に数度も無い。昨日の総会の後、正座でエアグルーヴから嫌という程に説教を受けたことによる脚へのストレスを解消したかったのもあるし、自分の行動で、手前の立ち位置がどうなったのか、これからどうすればいいのか、アタマの中を整理する時間を作る言い訳でもあった。
あれから脚の調子は測りかねている。全速力に近くなれば近くなるほど、突然訪れるかもしれない急な脱力に恐怖しその壁を越えられない。忙しいながらにウェイトトレーニングを挟み挟み、膝周りの筋肉は相当に強化された。故障した周りは筋肉で固めろ、というやつだ。故障に対する危機はひとまず去ったと共に、ストライド走法は維持できているにしても、テイオー特有ともいえる“跳ねるような”軽さは失われていた。
思考を振り払うように速度を上げていく。しかしあの頃の、皐月賞や日本ダービーを獲ったときの感覚には遠く及ばない。歩幅を広げることを意識すれば意識するほど加速力が落ちていく。ならばと思って歩幅を狭めると、今度は身体が起きてしまって速度が維持できない。あちらを立てればこちらが立たない、ジレンマに捕らわれていた。
もやもやを抱えながらテイオーは伸びたり伸びなかったりを繰り返す。アタマのなかは既に走ることに切り替わっていて、昨日のことは整理まではできないにしても、ひとまず忘れることができた。
「早いな、テイオー。」
直線に入り数度目かの加速にかかろうとしたとき、不意に後ろから呼び止められた。風に乗りかけていたポニーテールはその勢いを失い、振り向くアタマに追従して円弧を描いた。
「トレーナー!トレーナーも早いじゃン!こんな時間になにしてるの?」
咥え煙草(学園敷地内での喫煙は禁止である)に寝ぐせのついた頭を掻きながら、テイオーのトレーナーは彼女の頭を撫でる。さっきまでの難しい顔のテイオーはどこへやら、るんるんで頭を撫でられるがままにされている。
「スズカがな。明日の朝は雨明けで空気が素晴らしく良いので如何しても走りたいと言って聞かないから、仕方なくこうしてトレーナーの義務を果たしているところさ。お前はどうしたんだ?」
見ればグラウンドの対面する直線でサイレンススズカが靴紐を締めている。その表情は穏やかだが、走ることに対する悦びに目が多少あれしてしまっているのが彼女の常である。紐の状態を確認し、2、3度軽くジャンプしたのち、ただちにスタート。一瞬で最高速に乗ってグラウンドを周回しはじめた。ものの十数秒でテイオーたちのいる直線まで迫り、速さの割に静かな足音で過ぎ去っていく。風はあとからやってきた。
「ボクぅ?ボクはね、色々と物思い多い時期なのサ。ちょっと走りたい気分になっただけだよ。」
トレーナーと共にサイレンススズカの走りを見つめる。風の抵抗を最低限にまで抑えたフォーム、体つきや筋肉のつき方などから考えられる限り最も適しているであろうその走法には一切の無駄がなく美しい。華々しさなどとはまた違う、洗練された機能美は見る者総ての視線を釘付けにする。そこでテイオーはある疑問に至った。
「スズカってさ。」
足音小さいのになんであんなに速く走れるんだろう。
テイオーも含め、通常加速しようとする、最高速を維持しようとするなら、自然と踏み込む力も大きくなるに比例して、脚が地面に接する力も増し、その音もまた大きくなる。が、目の前のサイレンススズカはまるでバレエでも踊るかのような軽やかな足音。それでいて加速度的に鋭くなる走りのキレ味はほとんど唯一無二に近い。
「そうだな。ちょっと待ってろ。」
トレーナーはテイオーを待たせたまま用具倉庫の中へ消え、そこから一本の箒を持って出てきた。
「これだ。」
「箒ぃ?」
ふふんと得意げな笑みを湛えたまま、トレーナーはそれを右手の中指だけで直立させてみせた。
「テイオーもやったことあるだろ、これ。」
確かに、学園に入りたての頃、よく掃除をさぼってそんなことをして遊んでいた記憶はある。箒を手の上で立てるのはあまり得意ではなかったが、いくらかはやったことがあるのだ。投げて寄越された箒を、自分も指に乗せて立ててみた。
「そのまま、前に歩くときどうする?」
どうするというほど難しいことでもない。ほんの少しだけ箒を前方に傾け、それが完全に倒れないうちに歩いてバランスを保つ。いとも簡単にテイオーはやってみせた。
「こういうことだ。箒が倒れないように自然と身体は前に進む。箒の角度が水平に近くなれば近くなるほど、バランスを保つためのスピードが要求される。テイオー。箒を自分の身体、自分の身体をその脚だと思え。もう倒れてしまいそうなくらいに姿勢を傾けると、バランスを保つために自然と脚が伸びてくる。坂道を転がるようにして加速できるんだ。それがスズカの切り札。体のバランスが保てる限り何処までも伸びていける、最強の伸び脚だ。」
なるほどね、とテイオーは得心した。確かに、理論上は加速が続けられそうだ。そしてその“理論上は”を現実のものとしているウマ娘がそこにいる。これは秋を走るうえでテイオーにとって重要な手札になるかもしれない。サイレンススズカをにらみ続ける。その一挙手一投足を見逃さないように。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
30分ほど走り、サイレンススズカはひとしきり満足したのか、トレーナーのもとに駆け寄ってタオルを貰っていた。
「おはようスズカ。今日も全力だったね。」
そんなサイレンススズカにテイオーは近寄り声をかけた。同じチームだ。まったく不審な点など見当たらない。
「ええ。本当に。全力で走らないと気持よくなれないもの。」
ただ走ることが好き。大してスタミナがあるかと言われればそうではないけれど、他のウマ娘がへろへろになって動けなくなるようなランニングメニューでもにこにこでこなし、あまつさえ走って帰ってくる。そんなイカれたランニングマシーンのような彼女は、やはり最強の一角で、先行のメジロマックイーン、差しのシンボリルドルフ、追い込みのゴールドシップと並び立ち、逃げをうたせれば誰もそれを捉えることはできないという。
「そ、そう。それはよかったネ…。」
若干引き気味でそれを肯定する。
「私は満足したから引き上げるけど、テイオーはどうするの?今日は朝から授業でしょ?」
タオルをトレーナーに返し、階段のヘリに腰かけて靴紐を緩めながらサイレンススズカは会話を進めた。上気した頬は少しずつその赤みが薄らいでいる。
「んー。ボクはもう少し走ってから食堂に行くよ。最近太り気味だからね。」
ありもしない嘘だ。さっきからトレーナーに聞いたことを試したくて試したくてたまらない。はやく誰も居なくなってくれ。そうテイオーは思っていた。
「わかったわ。くれぐれも遅れないようにね。」
サイレンススズカはトレーナーとテイオーに手を振り、学園へと引き上げていった。
「―じゃ、俺はもうすこし寝るかな。」
伸びをするトレーナー。まだ朝の5時40分をすぎたところだ。
「スズカも、あと30分遅くしてくれりゃ俺もきつくねえんだけどな。」
テイオーの方をみてニカッと笑うトレーナー。
「じゃあな。―あ、お前昨日シンボリルドルフに喧嘩売ったらしいな?おいたもほどほどにしとけよ?」
ぽん、ぽん、とテイオーの頭を軽く叩き、トレーナーもまた引き上げていった。
再びグラウンドにひとり、トウカイテイオー。早速、トレーナーから言われたような走り方を実践してみる。
最初はゆっくり。姿勢を低く、重心を前に。箒を、身体を少しずつ前方に倒していく。―するとどうだろうか。後ろから地面を蹴らなければ得られなかった加速力が、今度は逆に前から引っ張られるような感覚で加速を得ることができる。身体を倒せば倒すほど、その力は強くなり、伸びも顕著になってゆく。大して必死こいて腕を振り脚を回しているでもないのに、楽に風を切って走るまでの速度に至ることができた。
―ものの、あまりに重心が前に行き過ぎて前のめりに転倒してしまった。モロに顔面からいったため軽く鼻血を吹いたが、それを袖で拭いつつ、あおむけになって空を仰ぐ。寝室を出た頃には星さえ見えたが、今はそれも太陽光に溶け、淡く青を取り戻しつつあった。
「―朝だ。」
陽は沈みまた昇る。ただそれだけの、当たり前のことながら、それのなんと美しいことか。文明がざわめきだし、社会というものが活動し始める前のほんの数時間にも満たない、静かで清らかな朝の世界。夜明けである。