夕刻。夏に差し掛かろうとする時期なので陽はそれなりに高いままだが、シンボリルドルフは自らの職場であるURA事務局に戻ってきた。今日もやることは同じ。競バ場やトレーニング施設への顔出しと重ねてのお願い。時には自分を客寄せパンダにして、講演や指導などまでしてその信頼を勝ち取った。故に、彼女は今文字通り日本中を飛び回っていた。
「北九州トレセン学園で指導。その後小倉競バ場でメイクデビューの観戦と講演か。今日の晩から移動しておかねばならんな。」
最近メモ帳を見ながら独り言をぶつくさ呟く機会が増えた気がする。メガネの向こうの眉目秀麗を歪めながら、予定を見通す。新幹線の手配は―、ええい、当日にしてしまえ。
「―あら、戻ってたのね、ルドルフ。」
コーヒー片手に給湯室からやってきたマルゼンスキーが、同期の帰社にいちはやく気付いた。
「ああ。府中で子供のウマ娘相手に骨を折ってきたところだ。―あの頃のテイオーみたいなウマ娘たちがたくさんいたよ。」
メモ帳から目を離し、懐かしそうな顔をしてシンボリルドルフは席に着く。テーブルには、先ほどマルゼンスキーが淹れたコーヒーが置かれていた。
「そうね。… …あれから、時間が経ってしまったわね。」
もう一度自分のコーヒーを入れなおし、マルゼンスキーが戻ってきた。シンボリルドルフは“すまない”と手で合図だけ送り、コーヒーをいただく。
「―うん、苦いな。」
「あら、あなたはいつもアホみたいに苦いコーヒー飲んで無理やり気持ちを切り替えていたのよ?」
そうだったな―、と、再び懐古に消える。
あのころは、まだ高等部になったばかりのときだった。ミスターシービーとの死闘の果て、ジャパンカップを制したシンボリルドルフは、その会見中に警備を突破された。ヒトの警備員に抵抗されながらもそれを引きずって現れた年端もないウマ娘は、自らを“トウカイテイオー”と名乗った。
「ボクね、シンボリルドルフさんの大ファンなんだ!ボクも中央トレセン学園に行くよ!そしてシンボリルドルフさんと同じ、無敵のクラシック三冠ウマ娘になるんだ!」
壇上に立っているということもあるが、彼女の腹ほどしか上背の無いトウカイテイオー。このとき、彼女はトウカイテイオーにさしたる何かを感じるには至らず、
「ああ、楽しみにしているよ、トウカイテイオー。」
と頭を撫でるのみに終わったのだった。
「それが今、本当にあなたの後ろを追いかけてきてるから凄いわよね。」
シンボリルドルフの横に腰かけてマルゼンスキーもコーヒーをすする。熱ちち、とすぐに口を離さざるを得なかったが。
「そろそろアイスにしたらどうだ。」
マルゼンスキーは学園にいたころから夏でも暖かい飲み物を好んでいた。その理由として、
「何言ってんのよ。エンジンと同じよ。冷たいモノ飲んだら身体が動かなくなっちゃうわ。」
というポリシーがあるらしい。
「ん゛ん―っ、ふう―― … …。それももう聞き飽きたな。」
椅子を倒し伸びをするシンボリルドルフ。ふうと吐いたため息から、コーヒーの湯気の名残が飛び出していった。
「テイオーは今、私には無いものを得て、それを少しずつ大きくしながら私に並び立とうとしている。―いや、並び立たれたときが、私を超えた瞬間になるのかもしれないな。」
「何よ、らしくないコト言うじゃない。」
誰のものともしれないチョコレートをつまみながら、マルゼンスキーはシンボリルドルフの独白に耳を傾ける。カップのコーヒーの湯気は、きもち収まってきた。
「テイオーは今、挫折を超える強さ、それを支えてくれる仲間に恵まれ、そういったモノたちの痛みを知れ、理解を示すことができるココロの持ち主として大きく成長している。―自慢ではないが、挫折というものを味わったことのない私にこれらは得られなかった。すべてのウマ娘の為に。目指す場所が同じなら、私のプランも受け入れてもらえると思っていたのだ。」
そう。と一言だけ。頃合いを見ていたが、ようやく本題に入れる時が来たようだ。
「そのトレセン学園から例のプランについえて回答したいとのことよ。都合がいい日に直接渡しに来るらしいわ。」
無言。しかしながらシンボリルドルフの“圧”がかかりだしたようにマルゼンスキーは感じた。
「別にね、ルドルフの考えに賛成してくれるんなら、わざわざこうやって直接会いに来なくても、電話で済む話だと私は思うんだけど、ルドルフはどう?」
無言を貫く。
なんとなくシンボリルドルフにはわかっていたのだ。
この宿願の最大の障害となるのが、己が母校である中央トレセン学園であり、トウカイテイオーであるのだと。
自らの願いがそうそう通ることのないものだということは百も承知。むしろ反対派がこれまでゼロだったことのほうがおかしいのだ。それはそれとして、あと一歩のところで“総意”がとれなかった悔しさはある。
またそれらをすべて置き去ってしまってでも、トウカイテイオーという存在に、これから訪れる宿願と理想を懸けた張り合いに、どうしても身体は昂ってしまう。
「だから、ルドルフの都合のいい時間を、テイオーちゃんに連絡してあげて頂戴ね。」
わかった、と一言だけ返事をして、シンボリルドルフは給湯室へ引っ込んでいった。
「―もぅ。同期だっていうのに生徒会に居たころの雰囲気が抜けないわね。私はあなたの秘書やマネージャーじゃないのよ?」
カップを洗う背中に、口をとがらせて語り掛けるマルゼンスキー。
「はは、わかっているよ。」
修羅のような笑みを浮かべていた皇帝はすでに引っ込み、穏やかな微笑みを称えてマルゼンスキーに向きなおる。
「いつもすまないとは思っている。」
「それこそ、“慣れっこ”よ。」
ふふん、とふたり笑みを交わして、マルゼンスキーは残務との闘いに、シンボリルドルフは小倉競バ場まわりのアクセスを調べに。各々向かうべきところへ向かって行った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
トレーニングを終えたテイオーは、すばやく入浴と夕食を済ませ、深夜の見回りに備え、エアグルーヴと生徒会室で待機していた。暇を持て余したエアグルーヴと“将棋”なるゲームに興じている。最初はコマの動かし方すら分からなかったが、少しずつ、所謂詰みというモノに理解が及びつつあった。
「―これでどうだッ!」
パチン、と、テイオーのウマ(角行のウラ)が7二に突き刺さり、エアグルーヴの玉将を追い詰める。
「ぬ―っ!」
盤面も終盤、エアグルーヴの玉将は着実にその逃げ場を失いつつあった。ヘタに動けばそのウマや、右に控えている飛車に捕まりかねない。いつもの頭を抱える仕草でうんうんとうなりだした。
「ちょ―っと、考えさせてくれ。」
ふふん、と勝ち誇ったテイオーに若干イラ付きながらも、最善手を探す。
「いいよーいくら考えても。ボクにはエアグルーヴが何してきても返せちゃうもんねー!」
得意げに尻尾をバタつかせるテイオーのポケットが突然唸り出した。その唸り方からしてメールや通知ではなく電話らしいということがテイオーにはわかった。
「うぇ?なんだろ。トレーナーかな。」
ポッケからスマホを取り出し、画面を点けると―、カイチョーの5文字が画面に踊っていた。
ぎょっとしたテイオーをよそに、エアグルーヴはようやく次の一手を指したようだ。
「さあ私はこれでいいぞテイオー!どこからでも掛かってくるがいい!」
ぎゃくに得意顔でテイオーを煽りにかかるが、すでにテイオーの興味は将棋からスマホに注がれてしまっている。
「ちょっとまって。カイチョーから電話だ。」
掛かってくるがいい!のまま固まったエアグルーヴだが、のそのそとテイオーの横に着いてスマホに耳を澄ました。
「近いよ。スピーカーに切り替えるから待ってて。」
通話の出力先をスピーカーにして、スマホをテーブルに置く。
「―もしもしカイチョー?」
電話の向こうでため息が聞こえた。
《やっと出たか。遅いぞテイオー。いつもなら3コール以内には出ていたじゃないか。》
「ごめんねカイチョー。エアグルーヴと見回りまでの間将棋してたんだ。」
《将棋か。私もエアグルーヴに教えられて何度か付き合わされたものだな。ちなみに3回目くらいからは私が勝ちだしてあいつは形無しになっていたぞ。》
ふ、とエアグルーヴのほうを見ると、ふ、と視線を逸らされた。
《将棋をしていた、ということはエアグルーヴもそこにいるのか?》
「うん、今隣にいるよ。」
《そうか。仲良くやっていそうでなによりだ。ちなみに、エアグルーヴは私からの電話に2コールの間を置いたことは無いぞ。》
“んなっ!”という悲鳴にも似た声がしたのでそちらの方を見るが、エアグルーヴはガンとしてテイオーと視線を合わせようとはしない。
「へえ。忠犬かな?」
ごちん、とエアグルーヴのげんこつがテイオーの脳天に降ってきた。照れ隠しのためのそれだから、そんなに痛いものでもない。
「会長。あることないことテイオーに吹き込むのはお止めください。」
エアグルーヴはたまらずシンボリルドルフに直訴した。
《ははは。あることないことも、私は本当のことしか言っていないぞ。》
それにエアグルーヴの顔は紅潮する。
「―わかりました。そこまで仰られるのであれば仕方ありません。このお電話が終わりましたら、私はテイオーにあの夜のことを話しますがよろしいですね?」
途端に電話口が静かになる。
《―――わかった。本題に入ろう。》
「最初からそうしてればいいんですよ、まったく。」
エアグルーヴのやる気は下がらなかったようだ。
《マルゼンスキーから事のあらましは聞いた。わざわざこちらまで出向いてくれるそうだな。》
「うん。ボク、これはカイチョーとどうしても直接話したいんだ。カイチョー忙しいだろうから、時間はそっちに合わせるよ。」
《それはありがたいな。明日は私が九州でな。明々後日帰るから、その日の夜に会おう。》
「わかった。晩御飯はカイチョー持ちってことでよろしくね。」
《それは明々後日のお前たち次第だな。じゃあ、切るぞ。》
「うん。また明々後日ね。」
がちゃ、つー、つー、つー。
決戦の日時は決まった。準備も整っている。あとは、やるだけだ。そう決意を新たにするテイオーをよそに、エアグルーヴはさっきの続き挑んできた。
「エアグルーヴって、将棋弱いよね。」