シンボリルドルフがテイオーから受け取った封書の中身は見なくても判る。―正確には趣旨が判るという範囲に留められるが、彼女はそれを受け取ってから実に24時間が経過してなお、その封印を切らずにいた。既にURA競技部の部屋には彼女とマルゼンスキーのふたりだけだ。もう何杯目かわからない、気持ちを切り替えるときに飲用するとんでもなく苦くキレのあるコーヒーを啜る。
「―もぅ、いつまでそうしてるつもり?あなた今日ずっとそうだったじゃない。」
空になったシンボリルドルフのカップをマルゼンスキーが取り上げ、自分のそれと一緒に給湯室で洗浄しようとしていた。
「―すまない、もう一杯貰えるだろうか。」
洗い終わったカップの水気をキッチンペーパーで取りながら、その言葉に“ふぅ”とため息を漏らすと、共用のグラスに冷水を注いで彼女に供する。
「だぁめ。カフェインの摂りすぎは逆に毒よ。特にアレを大量に飲むのはホントにやめといたほうがいいわ。」
しゅんと耳を折るシンボリルドルフをよそに、自らも水をあおってみせるマルゼンスキー。こくん、こくんと小気味よい音と共にグラス中の水がマルゼンスキーの厚い唇へと吸い込まれていく。
「―よく冷えてて美味しいわよ。」
それにつられてシンボリルドルフも水をあおる。ひと口に飲み干し、たん、とグラスで机を叩いて見せた。
「―“コレ”に、どんなことが書いてあるのか気になるのはやまやまなんだが、なかなか開く気になれなくてな。」
そんなの見てればわかるわよ。と、彼女のグラスともども再び給湯室へ消えるマルゼンスキー。じゃーーーーー、という流水音と、カチャカチャと食器の触れ合う音の中にマルゼンスキーの声はかき消されそうになる。
「自分の悪口が書かれているのが怖いの?あなたそんなタマじゃなかったでしょ?」
戻ってきたマルゼンスキーは、シンボリルドルフのデスクの前にしゃがみこんで、その天板肘を着く。誰もいないとき、ふたりで話すとなると大体こういうカタチになるのだ。
「そうだな。それくらいでブレる私ではないのだが―。」
「相手がテイオーちゃんだから、怖いの?」
ぴくっと反応するシンボリルドルフ。耳を折り、視線を逸らし、無言を貫く彼女の姿が雄弁にそれを物語っていた。
「あなたホントにテイオーちゃんのこと好きよね。嫉妬しちゃうわ。」
頬を膨らませるマルゼンスキーを見てふ、と笑い、シンボリルドルフの目線が遠くなる。夕陽が照らす彼女の横顔は、まるで懐かしい過去の夢でも見ているかのような表情をしていた。
「―そうだな。テイオーに対して何も思わないと言えば嘘になる。何もしていないと言っても嘘になるし、なにも与えていないと言っても嘘になる。―うらやましかったんだろうな。私を慕ってくれ、私を目指してくれ、私とは違った好機をものにし、私を超えるだけの力を持ったテイオーが。」
かわいくてかわいくてしょうがないのね。マルゼンスキーは思った。やはりシンボリルドルフはトウカイテイオーと対立することを心のどこかで躊躇っている。躊躇っていても、皇帝の気質からか、そこに自らが折れるという選択肢は無い。そして多分あちらにはその気持ちはないだろう。挑戦者の心持ち、向かってくるだけだ。
「どのみちちゃんとこれと向き合わなきゃコトは進まないんでしょう?アタシが代わりに開けちゃいましょうか。」
ひょい、と封筒を引っ掴み、そばにあったカッターを手に取るマルゼンスキー。封蝋を剥がし、刃をいれていく。ほどなくして、その封は完全に解かれた。
“今後のクラシッククラスに於ける一部レース撤廃とURAファイナルズ開催についての意見書”という文で始まるその表紙は最低限の装飾にとどまり、末尾には秋川理事長とエアグルーヴのサインが連名でされてある。雰囲気からこれがお遊びや余興でないことがありありと伝わってきた。
「―ほら、あなたが読まないと意味ないでしょう。」
ざっと見た後、束を綺麗にまとめてシンボリルドルフに寄越した。さすがにここまで来て日和っているわけにもいかなかったのか、いつもの顔に戻ったシンボリルドルフは、その資料を1ページ1ページ注意深く読みだした。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「ペース落ちてるぞテイオー!たかだか2000メートルで垂れてどうするんだ!実際のレースはこんな簡単に走れないんだぞ!」
学園のグラウンドではテイオーが秋へ向けて本格的なトレーニングに取り組んでいた。秋の天皇賞と同じ距離である2000を繰り返し走って体力の増強とレース感を養う練習だそうだ。ひいひい言いながらテイオーが数度目かの2000メートルを走り切って芝の上に倒れこんだ。
「も゛、もう無理だよトレーナー!昼からずっと走りっぱなしじゃないかあ!」
スポーツドリンクを投げてよこしながらトレーナーが檄を飛ばす。
「8本くらいで音を上げるな!見てみろ!スズカなんて涼しい顔で今から2200の12本目だぞ!」
スズカと一緒にしないでよぉ、とテイオーが駄々をこねる。確かに今のは語弊があったのかもしれない。走ること大好きマシーンのサイレンススズカと比べられたら大抵のウマ娘が走れないことになってしまう。
「ほら、あと1本でいいからさっさと休んで来い。ここを頑張れない奴は天皇賞だって勝てない、そうだろ?」
ううーーーー、と唸り声を上げながらテイオーは立ち上がった。わずかながら膝が笑っているように見受けられる。
「膝には気をつけて走れ。少しでも違和感を覚えたら止まるんだぞ。」
そこまで気を遣うんならこれで終わりにしてくれればいいのに、と思いながらテイオーはストレッチしながらスタートに戻っていく。テイオーには少しずつ見えてきたような気がしていた。限界のその先へ。有マ記念で至ったその領域を区切っている扉が、再び遠く霞みの向こうに現れたような気がするのだ。
「―限界まで追い込んだら、わかるかもしれない。」
「だ、大丈夫ですかテイオーさん?」
傍でスプリントのトレーニングをしているスペシャルウィークが、倒れたまま動かないテイオーを心配してやってきた。心配そうな表情が上からのぞき込んでくる。最後の1本、それこそ本当に死ぬ気で走り散らかしたテイオーは芝の上で力尽きていた。
「肺が潰れるっていう感覚を初めて思い知ったよ。」
ぜえぜえ言いながら肩で息をする。息をするのにも体力を使うということを改めてわからされた気分。どんなに息を吸っても肺が酸素を身体に回してくれない。このまま死ぬんじゃないか、とさえテイオーは覚悟するほどだった。
限界まで走りこんで見えたもの。それは極度の疲労と、赤く染まる視界だけだった。
「さすがに堪えたようだな。」
トレーナーが芝を踏みながら歩み寄ってきた。それを視界に捉えたテイオーは、疲労困憊の中力の限り眼に力を込めてトレーナーを睨みつける。
「そう睨むなよ。悪かったって。何かしら身にはなってるはずだ。潰れるまで自分を追い込める奴なんてそうそう居ねえよ。」
少しずつ息が整ってきたテイオー。“しらないよ…”と力なく呟きながらよろよろと立ち上がる。
「ボクは疲れたからもう戻るよ。明日は生徒会の仕事あるからトレーニングは来ないから。じゃあね…。」
ふらふらとしたおぼつかない足取りでテイオーは学舎へ帰っていった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「―ふう。」
トレセン学園から送られてきた意見書に一通り確認し、シンボリルドルフは肩の力を抜いてため息をついた。
「わかってはいたことだがな。」
生徒総会の後にトウカイテイオーがなにかしたのかは判らないが、とにかく、中央トレセン学園に所属する2400の生徒のうち実に八割がシンボリルドルフプランに反対、またはどちらかといえば反対であると、学園が独自に行った調査に対して回答をしていた。残りの二割についても“どちらかといえば”という意見にとどまり、諸手を上げて賛成という意見は本当に数えるほどしかなかったようだ。
「一体どういう手品を使ったのだか。」
自分の演説に何か落ち度があったとは思えない。伝えるべきことは伝えたつもりだ。よほどあのときのテイオーの反乱が効いたのだろうか。それに対してはまず完璧に帰れていたはずだが。
「―終わってしまったことを考えてもあとの祭りよ。…かなり手痛いトコ突き付けられたわね。」
マルゼンスキーは紙束をぱらぱらっと斜め読みしながら皇帝を諭す。直接そうだと口にしたわけではないが、彼女にはわかるらしい。
「ああ。日本全国津々浦々、もっとも学園としての規模と実績が大きいのがこの中央トレーニングセンター学園だ。そこが賛同しないとなると、今後の動き次第では厄介なことになるかもしれないからな。今のうちに何か手を打っておきたいが…。」
腕組をして考え込む。他の学園や施設のことはこの際思考から除外し、あそこだけどどうにかすることを考えねばなるまい。
「あ、そういえば…。」
天啓というのは得てして突然舞い降りてくるもので、今この瞬間シンボリルドルフに直撃したそれも、また突然のことで、マルゼンスキーによってもたらされた。
「ここの重役よ。確か学園の桐生院葵トレーナーの大叔母様だったはずよ。昔の話になるけど、桐生院家は代々ウマ娘のトレーナーを家業としていて、中央は桐生院の影響力をかなり受けていた時期もあったらしいわ。」