6月も末。梅雨がどこからともなく雨雲を召喚する時期となった宝塚記念。阪神競バ場本日は快晴。バ場も良との発表だった。特に今回は、出走するエアグルーヴがこれを最後に生徒会業に専念するという情報(どこから漏れたのかはわからない)のせいで、これまでにないほどの観客が券売機に押し寄せていた。
そういう意味では注目を集めるエアグルーヴだったが、やはりレースの世界は人気と実力がモノを言う。現在のところ圧倒的一番人気は今回もサイレンススズカ。秋のエリザベス杯を見据えた中距離出走ということで、本人にとってはこれが本命というわけではないのだが、その強さと人気は折り紙付きだ。
その喧騒から少し離れた出走者控室。エアグルーヴは、最後の最後で壊れることの無いよういと自らの脚を入念に伸ばしているところだった。
こん、こん、と扉が叩かれる。トレーナーとは先ほど話して別れたばかりだ。チーム…というほど人数が居るわけでもないし、ナリタブライアンは自身に代わって夏季合宿の資料作成に追われている。それらの可能性もおそらく無い。わざわざ終わり往く女帝を訪れる好き者などたかがしれている。と彼女は思っていた。
もう一度、こん、こん、こん、とノック。今度は3回鳴らされた。
「―開いているぞ」
“なんだ、居るじゃん”と誰にというわけでもなく呟きながら入ってきたのは、エアグルーヴにとって意外ではあったが理には適った人物―もといウマ娘だった。
「や」
色彩の調和がとれているのかおよそ怪しいボーダー柄に似たチューブトップにホットパンツ。トーンはともかく、活動的な当人によく似合っているシルエットだった。
「―そういえばお前も来ていたんだったな」
トウカイテイオーは遠慮なしに控室へ入り、さっきまでエアグルーヴが使っていたドレッサーに座った。
「3番人気。上々じゃん」
素直に褒めているのか皮肉なのか、順位が中途半端すぎてなんとも判断しかねる。おそらくトウカイテイオーには後者を採るほどの知能は無いと考えるので、エアグルーヴは言葉通り素直に受け取った。
「ああ。1番人気はもちろんあいつ―スズカだったが、まさか2番人気を名前も知らないウマ娘に取られるとはな。女帝も落ちたものだ」
「何らしくないこと言ってんのさ。エアグルーヴだって最初の最初は名前も知られてなかったんでしょ?みんな同じさ」
ドレッサーに置いてある化粧道具(すべてエアグルーヴの私物)を漁るトウカイテイオー。別にそれを止めさせやしなかった。なんとなく目の前のウマ娘に少しずつ気を許している自分が居ることを、数週間前から認めつつあった。
「―今回はどうするの?やっぱり後ろから差す?」
「貴様スズカと同じチームだろう。私が漏らすとでも思ったか」
「まだそんなこと言ってんの?確かにスズカはチームメイトだけど、それと同じくらいにはエアグルーヴだって仲間だとボクは思ってるよ」
さも当然かのようにトウカイテイオーは言った。確かにそれはそうなのだが―。エアグルーヴは一瞬あっけにとられあんぐりと口を開けそうになったが、やがてそれはわずかな微笑みを湛えた。
「成長したんだな、お前は」
「伊達に生徒会やってないしね」
「フン。―だが私の作戦は漏らさない。これはお前が信じられるかどうかは二の次で、私の矜持だ」
「そっか」
反応だけしめしてトウカイテイオーはドレッサーを立ち、扉に手をかけた。
「あんまり長居しても迷惑だからね。ボクはこれで失礼するよ」
「ああ、わざわざすまないな」
きい、と扉が開く。
「―スズカの次くらいには応援してるから。頑張ってね」
閉じた扉に、エアグルーヴは柔らかい笑顔を向けていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
レースから一番乗りで帰ってきたのはサイレンススズカ。実況がドン引きするくらいに後続をぶっちぎってきた彼女はそれはもうにっこにこの上機嫌でトレーナーに一着の報告をしていた。スペシャルウィークをはじめとしてチームのみんなに囲まれてやんややんやの祝福を一身に受けている。おめでとうの一言さえ伝えたものの、テイオーはそれを少し複雑な思いで見つめていた。
“大差”
という表現ではとても言い表せないほどの圧倒的スピード。彼女の走りを本来のウマ娘のそれとするならばその他はカメか何かに等しい。
スタート直後、エアグルーヴがいきなり先頭に躍り出てレースを引っ張る展開。思うように先頭を獲れなかったサイレンススズカを掛からせ、そこからたとえ先頭を譲ったとしても中盤から終盤に差し返すつもりだったらしい。
しかしサイレンススズカはすぐにはエアグルーヴを捉えなかった。実に残り1200メートルにさしかかるあたりまで先頭はエアグルーヴだった。“もしかしたらこのままいけるかもしれない”とわずかながら期待と高揚感を胸にして緩い下りに入ったエアグルーヴを見るがいなや、サイレンススズカは下り坂の重力と自身の重心を利用して一瞬で加速。エアぐヴーヴを交わして先頭に立った。
そこからはもうサイレンススズカの独壇場。やりたい放題、走りたい放題してゴールゲートを駆け抜けていった。
結果、エアグルーヴは序盤から中盤にあたって掛かったかのような走りになってしまい、最後の急坂で力尽き全体7着。得意距離において掲示板を逃すのは初めてのことだった。
ウイニングライブのために控室へ下がるサイレンススズカをみんなして見送る。めいめいに散っていく中で、テイオーだけは地下通路に残ることにした。
「あれ、テイオーさん、どうしたんですか?」
それに気づいたスペシャルウィーク。一緒に戻りませんかとかわいらしい笑顔で誘った。
「んー、ボクはもう少しここにいるよ。もうひとり、来るはずだから。」
そうですか、といってスペシャルウィークもみんなの輪に加わりに行った。
数分の間そうしていると、遠くからカツンカツンとコンクリートを叩く音がする。ようやくテイオーの待ち人が現れた。
「遅いよ。待ちくたびれちゃった」
その待ち人は、意外にもさっぱりした表情をしていた。
「まさかトレーナーやチームの皆よりも先に、お前の顔を見ることになるとはな」
「一番最後に見送ったのはボクだからね。一番最初に出迎えてもいいんじゃないかな」
ははは、と軽く笑い、エアグルーヴは天井を仰いだ。
「―やられたよ。完敗だった。私は終わり往く存在ですらなかった。既に終わっていたんだ」
「スズカみたいなのと比べたらみんな終わってるようなもんだよ。まあ―、最後くらいはっていう気持ちはわからなくもないけど」
「ああ。私は自分の限界を感じていながらも―、スズカに勝ちたかった。勝つつもりでraceを運んだ。そして一瞬、勝てると”思ってしまった“だけに、ああまで簡単に躱されると悔しさよりも賞賛の方が口を吐く」
「今のスズカの全速力はマルゼンスキーですら追えるかどうからしいからね。あれは本物のバケモノだよ。」
マイルなら全盛期のシンボリルドルフが差しに行っても逃げきられる、との評論を見たことがある。慮外も慮外。高校生の大会に世界レベルのプロが放り込まれたようなものだ。誰ぁれもその速さについていくことができない。彼女の、彼女しかいない、彼女のための、速さの世界がそこにはあり、毎回まざまざと見せつけられ、見入ってしまう。
「結局私には最後まで、あの人のような強く、他人に夢や希望を与えるような走りなどできなかった。追いかけ続けてきたつもりだったが、その背中は存外に遠かったよ。さっきのスズカと同じさ」
「そうかな。ボクはそうは思わないけどね。何回か言ったけどさ、エアグルーヴは比べるヒトたちのレベルが高いよ。カイチョーやスズカみたいになれるウマ娘なんてそうたくさんいるわけがないでしょ?レースで勝てるウマ娘も、ひとりしかいないんだから」
「それもそうだな―。そこに手が届きそうだったんだ。届くと思っていたんだ。しかし私はそれに届く程の力は無かった。そんな時わかったんだ。“届く”んじゃなくて“掴む”しかないと」
だからテイオー、と、両肩に手を置き視線をテイオーと合わせてくるエアグルーヴ。
「私にはできなかった。そしれこれからもできない。私はここで終わったんだ。だがテイオー、お前にならできる。お前になら、走りで、やさしさで、厳しさで、後進のウマ娘たちに夢や道を示せる」
「え、ええ...?」
さすがに戸惑いの色を隠せない。
「私も生徒会長。拝命したからにはその職に恥じないよう力は尽くす。しかしその中心はきっとお前だ。会長が高等部に上がってすぐ生徒会に入り、当時の会長の立場を脅かすほどにその支持を伸ばした話は知っているな。お前も同じく今や渦中のウマ娘だ。アンケートの回答のようにお前を支持するウマ娘も多い。たぶんそういったモノたちこそ上に立つ器があるということなんだろうな」
「話が重いよエアグルーヴ…」
テイオーは辟易とした感じで話を聞く。たかが、という言い方は語弊があるがレース一本でこれは思想が飛躍しすぎである。それにエアグルーヴはこれで終わったわけではない。年末までは生徒会長なのだから、テイオーはもちろん、学園を引っ張ってもらわないと困るのだ。
「だからまあ、なんだ―。お前は知らなくていいことだが、私も余計なことを考えるのはやめた。目の前のやるべきことをやっていくことにしたよ」
ありがとうな、とテイオーの肩に置いていた手を下ろし、今一度テイオーの肩を叩いて、エアグルーヴは奥へ消えていった。
テイオーには彼女が一体何を言いたかったのか中盤からあまりわからなかったが、なんとなく“やるぞ”という気持ちにはなった。