チャンミの出走登録は見送りました。オワオワリです。
エアグルーヴが燃え尽きた宝塚記念から数日。少しずつ夏の色に変わりつつある空の下、ひとりの女性が、大荷物もそこそこに大量の汗を流しながら、トレセン学園へ続く道を歩いていた。勉学に勉学を重ねようやくたどり着いたURAという自らの居場所。先日そこからウマ娘のトレーニング施設への出向を命ぜられたのだ。着任初日ということでカッキリしたスーツに身を包み、ヒールを履いていたものの、この暑さと汗と荷物、そして何よりも疲労である。そんなものを着ていられる状態ではない。歩き出してからものの十数分で、女性は公衆トイレに入り、Tシャツと短パンという格好になった。
「ふう―」
もう何度目になるかわからない休憩。自販機で購入したスポーツドリンクを煽り、半ば折れそうになっている心を今いちど引き締める。
「仮にも幹部待遇なんだから、せめて車で迎えに来てくれたっていいじゃない―」
勉強しかしてこなかったので、彼女は運動があまり得意ではない。トレセン学園行のバスもあるにはあるが2時間半に1本という頻度。歩いて向かったほうがはるかに速い。ような気がする。ひいひい言いながら緩やかな下り坂を歩いていく。ここから見る限り、道はどこまでも続いているようで、景色は一定。どれだけ進んでも同じようなものしか見えず、それが余計に彼女の心に重く圧し掛かっていた。
ある程度道を進んでいくと、眼前に今度はそれなりに急な上り坂が現れた。こんなもの、荷物を抱えた状態で登れるわけがない。
茫然自失として立ち尽くしていると、後方から何者かが走ってくる足音が聞こえてきた。その足音はおよそ人間とは思えない速さで近づいてくるので、これがウマ娘のそれであると彼女にはわかった。
そのウマ娘は恐ろしい速さで彼女の横を抜けて走り去っていった。ウマ娘には、人間とくらべて非常に強い筋力や高い運動性能を有している。彼女の心を折りに来た上り坂も、ウマ娘はポニーテールをたなびかせて簡単に登ってゆく。私にもあんな脚があればなあ、とため息をひとつ。されどもこの道を上りきらなければトレセン学園には到着しないので、もう一息入れて進むことにした。
30分くらい経っただろうか。再びひいひい言いながら荷物を引きずるようにして坂を上る彼女は、あのウマ娘に再び後ろから追い越された。ヒトガタの生き物が通過したとは思えない風を受けよろめいてしまう。日よけのキャップも飛ばされて道の真ん中へ。それを拾おうとしたとき、何者かがそれをひょいと拾い上げた。
「おねえさん、大丈夫?」
「あ―」
「―おねえさん、大丈夫?」
さっき彼女を追い越していったウマ娘だった。わざわざ戻ってきてくれたのか。
「え、ええ―、助かるわ。ありがとう。」
女性はキャップをかぶりなおす。そのウマ娘の目線は大体同じくらいで、前髪には彼のシンボリルドルフを思わせる三日月が誇らしげに揺れている。
「ト、トレセン学園はあとどれくらい歩けばつくのかしら?」
んー、と考えるそぶりをするウマ娘。ころころと表情を変える、非常に好感の持てそうな感じだった。
「んー、ボクの足なら大体10分くらいのところなんだけど。距離は―、むずかしいことはわかんないや」
にへ、と笑ってごまかすウマ娘。女性は考える。ウマ娘がレースで走るとき、スパートをしていない間は大体時速35キロから40キロくらい。とすると、最も短く見積もってあと6キロとすこし、ということになる。道のりの遠さに女性は愕然とした。
「お姉さん、学園に用事があるの?」
「え、ええ、まあ―、そんなところね」
女性が運んできた荷物と、女性と、交互に見るウマ娘。
「そんな荷物じゃ歩けないでしょ?ボクが持ったげるから、一緒に行こう」
キャリーケースふたつ、トートバックみっつをひょいひょいと担ぎ上げ、そのウマ娘は先を促す。半ば乗りかかった船であるし、どのみちこのままでは学園に辿り着くことなど不可能であるので、女性はそれに甘えることにした。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「そういえば、あなた名前は?」
歩き始めて数分。それまでの十倍は楽になった女性は、聞きそびれていた名前を問うた。
「あ、ボク?ボクはテイオー。トウカイテイオーさ」
その名前を聞いて女性はぎょっとする。トウカイテイオー。まさに彼女が、これから大きく関わることになるであろうウマ娘そのものだったのだ。桐生院の婆様のいう「クラシック廃止プラン」に唯一異を唱えた中央トレセン学園、その中心となっているウマ娘。それが今まさに、自分の荷物をすべて一身に抱えて易々と坂道を上っている。その奇妙な現実に、思わず笑いだしそうになった。
「―なんだか楽しそうだね、おねえさん。おねえさんこそ、名前はなんていうのさ?」
少しの間、女性は身分を明かすかどうか迷ったが、不審がられてもいけないので、立場だけは隠すことにした。
「樫本、樫本理子。今日からトレセン学園でお世話になることになっているの」
特に怪しまれることもなく、会話は進んだ。
「へえ、そうなんだ。トレーナー…には見えないね。もしかして座学の先生かな?」
「い、いえ、まだそのあたりの事は何も聞いていないの。秋川さんから突然呼び出されて―」
ふうん、とトウカイテイオーはあまり興味なさげに返事をした。
「理事長の知り合い?―でもなさそうだね。あのヒト今日は学園にいるのかなあ。いつも思い付きで動くから」
口ぶりからして理事長とはそれなりに親交があるように感じられる。―社会人としては思い付きでいろいろと部下を振り回す上司なんてごめんだが。まあそんな話はどうでもいい。樫本は本当はすべてわかっているのだ。自らが“顧問”というカタチでURAから中央トレセンに派遣されたこと。理事長に次ぐ立場と権限を持つこと。さらに言えばトウカイテイオーたちが何をしていて、それに対してどうすればいいのか、樫本はすべて桐生院の婆様にすべて聞かされているのだ。故にトウカイテイオーとのこの会話は“自らの印象を悪くしない”ためだけに限られる。
「それはあんまりよろしくないわね。秘書の方も苦労してらっしゃるのかしら」
そうだねえー、と歯を見せてはにかみ、トウカイテイオーは改めて前を見た。あれから20分。1キロと少し進んだところだろうか。
「どうかなって思ったんだけどさ。やっぱりニンゲンの足に合わせるとだいぶ遅くなっちゃうね」
んー、と少し考えたのち、トウカイテイオーはおもむろにポケットから携帯電話を取り出した。慣れた手つきで数回ボタンを押し、誰かに電話をかけている。察するに通話履歴の一番上に居た人物が呼び出されている。
《―なんだ。どうした?》
スピーカーからは(耳に当てると声が入らないためあえてそうしているらしい)野太い男性の声が聞こえてきた。
「あ、トレーナー?今なにしてるの?」
《今か?今はあれだな、マックイーンの脚の具合を改めて確認しているところだ。まだまともなトレーニングは出来てないからな。その時期も見極めないとだし》
「そうなんだ。じゃあさ、マックイーンも一緒でいいから、ちょっとだけ車まわしてくんない?」
《車ぁ?―ははあ、さてはお前ロードワーク中に疲れて走る気が無くなったな?だからほどほどで帰って来いっつったんだよ》
「もー!そうじゃないよ!トレセンに用事があるっていう人と会ったんだけどさ、すんごい荷物でもう大変なんだよ。だから誰か助けてくんないかなーって思ったんだよ!」
《なんだ。お前が人助けなんて珍しいじゃないか。わかった。すぐに準備して出るから場所送ってくれ》
「さっすがトレーナー!んじゃ、これ切ったらすぐ送るから。そんじゃね」
ぷつ、と通話が切れた。トウカイテイオーはすぐに携帯電話を操作し、いくつかの手順を踏んで、またそれをポケットにしまった。
「うちのトレーナーを迎えによこすから、もう少し待ってて。えっと―、樫本さん」
「理子でいいわ。本当に助かったわ。ありがとうね、トウカイテイオー」
近くの木陰でふたりして休んでいると、十数分ののちに灰色のバンがやってきた。一人の芦毛のウマ娘も横に乗っている。それを認めたトウカイテイオーはパッと立ち上がり、そのバンに向けて駆けていった。車をうまいこと誘導して、樫本のそばにつける。
「よお、テイオー。それで、大荷物ってのはこれのことか?」
バンの中からさっきの電話と同じ声の男が降りてきた。小麦色の肌、黄色いYシャツの袖をまくっているので、逞しい二の腕が陽の光を浴びてより筋肉を強調している。
「そうだよ。この人は樫本理子さん。今日付けでここで働く?のかな?みたいだよ」
「そうか。樫本さんね。私はトウカイテイオーとそこにいるメジロマックイーン、あと数名のウマ娘のトレーナーです。お見知りおきを」
これはご丁寧に…、と樫本も頭を下げる。男が指した社内にいるウマ娘は遠目にこちらの様子を覗うだけで降りてこようとはしない。トウカイテイオーとそのトレーナーの手によって樫本の荷物はすべてバンに収められ、樫本自身も車に乗り込む。同時に、よく冷えた冷房の空気が彼女のあらゆる細胞に生気を与え、
「っはあーーーーーー!生き返ります!これぞ人類の英知って感じですよね!」
と思わず感慨してしまった。
いくらウマ娘といえど、人気のない道をかっ飛ばす車にスピードで敵うかといわれれば疑問が残る。時速60キロで快調に飛ばしながら学園へと向かうバンを邪魔するものはいない。樫本はそれまでの疲労と車内の快適さに負けて、乗車してそうそう居眠りをしていた。
「あの、テイオー。」
後ろの席でテイオーと並んで座っているメジロマックイーンが耳打ちをしてくる。
「前の話を覚えていますか?―彼女、“それ”なのではありませんこと?」
「うん、正直ボクもそう思うかな。―でも、だからといって困ってる人を放っておくわけにもいかないからさ。悪い人って感じでもなかったよ。話もしやすかったし」
なんだかこそばゆかった。耳打ちを仕返す。それに対するメジロマックイーンの耳の動きから察するに、テイオーと同じようなことを思っただろう。
「そ、そうですの?まあ、テイオーがそれでいいって云うのでしたら、私からは何も言いませんわ―。それと私、テイオーに言っておかなければならないことがありますの」
耳打ちを止め、半身ながらもきちんとテイオーに向き合うメジロマックイーン。その瞳には力があり、いつになく真剣な顔をしていた。
「私、秋の盾を回避しようと思いますの」