「秋の盾を回避しようと思いますの」
テイオーには、最初メジロマックイーンが何を言っているのかちょっとわからなかった。
「え―?な、なに言ってんのさマックイーン。脚治して、秋の盾を懸けてボクと戦うって、そう言ってたじゃないか。ボクだってそのために、秋に合わせて脚仕上げてんだから」
話を続けるメジロマックイーンの表情は暗い。
「靭帯の炎症が治まりませんの。去年の京都大賞典の頃ですから、もう8ヶ月くらい過ぎていますわ。それでも、絶対に大丈夫だと言われているのがランニングまでですわ。秋の盾まであと4ヶ月もありません。それまでに、その倍かかってもこれだったのが治るのか、正直疑問でして」
「そんな―」
「あなたとの決着は、最後までつきそうにありませんわね」
哀しく、皮肉めいた笑みを浮かべるメジロマックイーン。
遡るはテイオーが初めて挑んだ春の盾。デビューから7連勝、菊花賞からの休養明けで、春の盾は獲っておきたいテイオーの前に立ちはだかったのは、よき友であり終生のライバルたるメジロマックイーン。彼女もまた春の盾は譲れなかった。残り800メートルまでは流れのわからないレースになっていたものの、そこからは“最強のステイヤー”であるメジロマックイーンの独断場。2着に2バ身差、トウカイテイオーとに限っていえば、ほぼほぼ10バ身という圧倒的な差を見せつけてのゴールとなった。
が、その勝利ではメジロマックイーンとしては“フェアでない”戦いだったらしく、“トウカイテイオーの得意とする中距離帯”での決着を改めて所望。しかしながらメジロマックイーンはその後トレーニング中に脚に炎症が確認され休養、トウカイテイオーにも骨折が発覚するなどして互いにレースを走れない時期が重なるなど運に恵まれず、なかなかそれは叶わなかった。
あれから2年が経った。
テイオーは当時、復帰戦を秋の盾と定めていた。メジロマックイーンもそれに乗ってきた。ようやくあのときの決着がつけられる、と本人たちは喜んでいた。
しかし当人たちを取り巻く事情は大きく変わった。テイオーは生徒会副会長となり、自分の事ばかり考えているわけにもいかなくなった。その仕事に時間をとられ、1日のうちトレーニングに割ける割合は確実に減った。テイオーは自らの信じた道を往くために”復帰“と決めていた秋の盾を”終わり“にすることにした。メジロマックイーンは、去年の京都大賞典で再び脚を壊し、それから半年以上経つも依然として復帰のめどは立たないままだ。
「マ、マックイーンは、どう思っているのさ」
テイオーにとって秋の盾は終わりのレース。極論、そこでどんなに無理をして脚が壊れようと関係ない。それで終わりなのだから。しかし目の前にいるメジロマックイーンにとってそれはまた別の話。彼女はそこにまだ“終わり”を見ていない。
「私は―」
「私はまだ、終わりたくはありません。私はまだ、走り足りない。レースの世界で生き続けていたい。すくなくとも、ここトゥインクルリーグは、この学園を卒業するまでは、私は走り続けていたいのです」
本当は、テイオーは無理やりにでもメジロマックイーンを説得して一緒に秋の盾を懸けて走りたい。2年前に大敗した悔しさを乗り越えども、忘れた日などひとときも無い。またそとは無関係に、自らの終わりを、誰とも知らないウマ娘ではなく、その終生のライバルと共に走れるということがテイオーにとっては嬉しかった。―メジロマックイーンは分別がある。そのときどきで、何を優先すべきかよくわかっている。そして、そういう意味では冷酷にならざるを得ないときだってある。それがテイオーにはよくわかっていた。
「そうか。マックイーンが決めたことだから、応援しなきゃね。ボクも頑張るからさ」
精一杯の強がりだった。
「私のわがままで、本当に申し訳ないとは思っていますわ。―そして、わがままついでにひとつ、聞いていただきたいことがございますの。」
一呼吸おいていちど目を閉じたメジロマックイーンは、意を決して言葉を続けた。
「秋の盾を、獲ってくださいまし」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「―なんて言うんだよマックイーンはさあ!そりゃあボクだって出るからには1着獲りたい気持ちはあるけどさ!気持ちだけでどうにかなるもんじゃないじゃん?ホラ、エアグルーヴの言葉を借りるに“もう終わってる”んだからさァ!」
放課後、生徒会室でテイオーがエアグルーヴとナリタブライアンに愚痴っている。
「残念だったな。マックイーンの回復を祈るほか無かろう。―それに、お前と共に走れなくなった無念はあちらも同じはずだ。その気持ちはお前だけのものではないと思うぞ」
「それは―!まあ、マックイーンもそう思っててくれてるんなら、嬉しいけどサ…」
だから、彼女は秋の盾を獲ってくれなんてこと言ったんだろ。とナリタブライアンがコーヒーをすすりながら補足してくる。わかってはいるがどうしても心の整理がつかず、テイオーは椅子ごとくるくる回りながらうーうー唸っている。
こん、こん、と生徒会室の扉が叩かれた。
「メジロマックイーンですわ。理事長からエアグルーヴさんとナリタブライアンさん、トウカイテイオーに伝言を預かっているのですが」
噂をすれば、だな―とエアグルーヴはわずかながら笑顔になり、メジロマックイーンを迎え入れた。
「…なにをしておりますの」
椅子の上で暴れているテイオーを見て、つい今ほど生徒会室に入ったばかりの彼女は目を白黒させる。
「お友達がつれなくて悲しいんだとさ。好きにさせておいてやってくれ」
何いってんだよナリタブライアン!―と抵抗するテイオー。
「まあそれはどうでもよいのですわ。さっき理事長とすれ違ったときに皆さんに伝言を預かりましたの。“明日の朝、座学がはじまる前に理事長室に来てくれ”とのことでしたわ」
おそらく“URAから派遣される人物の件”だろうということは3人には理解できた。
「用件は確かに伝えましたわ。それでは失礼いたします」
「まあ待て、マックイーン」
エアグルーヴに呼び止められ、メジロマックイーンは開きかけた扉を閉めなおした。
「せっかくだ、コーヒーの1杯でも飲んでいかないか」
しばし逡巡し、長い芦毛をふわっとかきあげて彼女は言った。
「私、紅茶しか飲みませんの」
とはいいつつも、メジロマックイーンは空いている席に座る。非常に美しい所作で、生徒会の役員ですらない彼女が、今ここに居る誰よりも生徒会長らしかった。
「… … …」
「… … …」
が、その偶像はいとも簡単に崩れ去った。テイオーによって供された紅茶。それとは別に、周りが引く程に盛られた砂糖。それらすべてをカップに注ぎ入れ、よく混ぜ、美しくいただく。
「見ているだけで砂糖を吐きそうだな」
「ああ、まったくだ」
顔を見合わせて、エアグルーヴとナリタブライアンはその砂糖漬けの紅茶に驚く。テイオーにとっては比較的当たり前の光景でも、それを始めてみたエアグルーヴとナリタブライアンは相当に堪えたようだ。
「あら、失礼ですわね。元来、紅茶とは砂糖を入れて楽しむものなのですよ?」
「何事にも限度ってもんがあるよ。それは砂糖入りの紅茶じゃなくて紅茶の味がする砂糖だよ」
それにむっとしたマックイーンは“今に見てなさい”と給湯室に引っ込んでいき、しばしの後、3つのティーカップ―地獄の窯を持って出てきた。
「そうまでいうなら飲んでくださいませんこと?きっと貴女たちも、この味がわかれば虜になること間違いなしですわ!」
各人の眼前に供される紅茶…と呼ぶにはあまりにも甘ったるい匂いをしたもの。かろうじて液体の体をなしているが、溶けきれなかった砂糖が下に溜まっている。
「これを―、飲むのか?」
思わず顔を上げてメジロマックイーンに問うナリタブライアン。エアグルーヴも似たような表情だ。彼女らはあまり好んで甘いものを摂らない。それだけに目の前にあるモノの存在が信じられない様子だ。
「ええ。むしろ皆さまは初めてかと思って、これでも相当に薄めているのですよ?」
それを聞いたエアグルーヴが頭を抱える。
「靭帯を太くする前にお前自身が太りそうで心配だよ、私は」
決意を固め、一口。かろうじて紅茶の風味が感じられる砂糖だった。ゆっくりとカップを置き、震える手でそれをナリタブライアンへ滑らせた。
「む、お前の分はお前が飲めよ」
いただいたものを他人に流すという失礼極まりない行為に若干憤りながらナリタブライアンもそれに口を近づける。―そうして、テイオーの眼前には3つのカップが揃えられた。その3つのカップを一瞥したテイオーは、ちらりとメジロマックイーンに視線を向けた。
「な、なんということを―!んぐんぐ、貴女がたは、こうして淹れられた―んぐんぐんぐ、紅茶たちに敬意など―んぐんぐんぐんぐ、ないのですか―!」
いよいよ憤慨したメジロマックイーンは紅茶に対する不敬を罵りながらに流された3つのカップの中身を一気に飲み干し、顔を紅潮させて脚を踏み鳴らす。
「まあまあマックイーン。しょうがないよ。―エアグルーヴ、ここはボクがなんとかしとくから、今日はこのまま帰るよ。じゃね」
生徒会室の扉を開け、マックイーンの背中を押して無理やり部屋から出してやる。なおも怒りの収まらないメジロマックイーンの紅茶にたいする情熱を聞き流しながら、彼女の寮へと送り届け、フジキセキに引き渡した。
「テンションが上がってちょっとおかしくなってるから、適当に流しながら部屋に押し込んでいいよ」
「そ、そんなことできるわけないだろう…」
半ば一方的にフジキセキにメジロマックイーンを預け、自らもさっさと寮に戻り、ベッドに顔をうずめた。すでに戻っていたマヤノトップガンが心配して構ってきたが、適当にあしらう余裕すらなかった。
メジロマックイーンが天皇賞を走らない。
メジロマックイーンと走るために、ここまで脚を仕上げてきたのに。
勝利などみじんも期待できないこの脚でも、最後にメジロマックイーンを勝負できるからこそ、出走するのに。
なぜ、どうにも自分の欲しいものは、この手から零れ落ちていくのか。
辛抱たまらなくなってテイオーは携帯電話を手に取り、電話をかけることにした。トレーナーに話を聞いてもらおうと思ったが、彼はメジロマックイーンのトレーナーでもあるので、どちらかというと当事者に近い。そういったものから遠くて、テイオーが相談しやすい人物―。何度か浮かんでは振り払ったが、どうにも一人しか浮かばなかった。
その相手の電話番号を表示したまま相当に迷ったが、それ以上にテイオーは参っていたので通話ボタンを押してしまった。呼び出し音が機械的に数度響く。ウマ耳はヒトのそれより音を拾う性能が高いが、今日このときはコール音が嫌に大きく感じられた。
《―シンボリルドルフです》
落ち着いた、トーンの低い声にテイオーの心臓が跳ね上がる。ある意味、今一番電話をかけてはいけないモノに、自らの弱みを見せようとしているのだ。
《…?もしもし?テイオー?》
固まってしまって返事ができないテイオーを訝しがるシンボリルドルフ。
「―あ、ああ、うん。ごめんねカイチョー。こんな時間にさ」
《いや、私もちょうど息抜きの理由を探していたところさ。―それで、今日はどうしたんだ?》
いつもの、これまでに何度も聞いてきた、すべてを受け入れてくれるような、そんな安心感をくれる声。それを聞いてしまったとき、彼女の感情は不覚にも爆発してしまった。