ばしゅっ、とゲートが開かれて、テイオーを含む13人のウマ娘たちの天皇賞がはじまった。これまでのレースと同じように、テイオーは前方4~6番手につけて先頭の様子をうかがう《先行》のポジションに入った。メルヘンステージとネーロウシーザーがアタマふたつ抜けて先頭を争いペースを作る。ナイスネイチャとマチカネタンホイザは後方に控えて、早くも前方のウマ娘に睨みを聞かせている。
「―アタシのレベルが低いってんなら、みーんなそこまで落ちればアタシの勝ちってことでしょ」
―八方睨みである。
《さあ最初のコーナーを抜けてバックストレッチに入ってまいります天皇賞!まずはメルヘンステージとネーロウシーザーが抜いたり抜かれたり!その後ろぴったりビワハヤヒデ!やはり最強のウマ娘、冷静にレースを運んでいます!ほぼ横並んでフジケンザン!その1バ身後ろ団子状になってウイニングチケットか、ルールスアンドロイスか、セキテイリュウグウ通過してまいります!少し離れてトウカイテイオー、ステージチャンピオンちょっと苦しい位置か!マチカネタンホイザ、ユーシンザン、サクラチトセジョーがその後ろ並んで通過、ナイスネイチャが殿で前方を睨んでいるという直線展開!》
コーナーの流れが思ったよりも早い。テイオーは少し後退して10番手の団子に飲まれてしまった。バックストレッチの直線に入ってもペースは落ちない。テイオーの時計よりもコンマ3秒速いレースが続いている。逃げが掛かったのか、後ろがアガッているのか。わからないままに直線の中ほどまで来てナイスネイチャと肩が並んだとき、テイオーはようやく気付いた。
レース展開が速いのではない。自分が遅いのだ。
わかってしまえば何のことはなかった。トレーナーと走り込んできた1ハロンのタイムを、少しだけ縮めて走ればいいだけの事。3コーナーへ入る前にすくなくとも定位置、外狙えるところに居なければ勝機は無い。伸ばした両手の指を気持ち緩めて、前に出れるルートを探りにかかった。
《先頭のメルヘンステージが3コーナーに差し掛かりました!すぐ後ろネーロウシーザーぴたりとつけています!差は殆どなくビワハヤヒデとフジケンザン!1バ身離れてウイニングチケット健闘しています!ここまでが先行集団、後ろにセキテイリュウグウとロールスアンドロイス、ステージチャンピオン、トウカイテイオーちょっと苦しいか、続いておりますマチカネタンホイザ、不気味に息をひそめてユーシンザンとナイスネイチャ!最終コーナーになだれ込んでくるぞ!勝つためには、勝つためには先頭を取っておきたいネーロウシーザーとメルヘンステージ内ラチで火花を散らしている!最後尾ナイスネイチャも上がってきています!》
4コーナーを回るかというところに至っても誰も息を入れるそぶりを見せず、一息にここまで来てしまった。1ハロンをコンマ数秒速く駆けてきた代償。それはガス欠だった。
「ぜえっ、ぜえっ、―ひゅうっ」
呼吸が苦しくなったときはとにかく息を吐けるだけ吐け、と誰かが言っていた気がする。そうすればいやでも吸わざるを得なくなると。だからテイオーは吐けるだけ吐いてみた。吐いをぺちゃんこにする勢いで吐いた。―しかし、それで取り入れられる酸素は、今のテイオーにはあまりにも足りない。前へ進もうとする力が、気持ちが、呼吸に合わせて音を立てて崩れ落ちていく。スパートを掛けなければならない4コーナーに入っても脚が進まない。周りのウマ娘たちはまだ余力を残していたのか、テイオーの横をびゅんびゅん駆け抜けていく。まるで自分だけが時間に取り残されたような、そんな錯覚をテイオーは覚えた。前に進みたい。順位を上げたい。―1着を獲りたい。でなければ、あの人たちの想いにとても報いることなどできない。だって、今日この日の為に走り続けてきたのだ。最初はここで終わるつもりだった。けれど、トレーナーの夢を、メジロマックイーンの夢を着て、トウカイテイオーはここから新しく始まる。その為に、その為に倒れるほど走ったし、嫌いな野菜も食べたし、人一倍身体を気にしてきたのに。
10ヶ月というブランクは、あまりにも非情に、無慈悲に、物理的な“差”となってテイオーの前に立ちふさがっていた。
《今秋の天皇賞も遂に遂に最終直線にはいりました!以前先頭はメルヘンステージ、それを追うネーロウシーザービワハヤヒデ!セキテイリュウグウとロールスアンドロイスがものすごい勢いで上がってきている!ウイニングチケット、フジケンザン苦しいか伸びてこない!メルヘンステージもここまでか!先頭はネーロウシーザーとセキテイリュウグウこの二人の一騎打ちか!トウカイテイオーは12番手!懸命に走りますが前との差は縮まらない!ネーロウシーザーか!セキテイリュウグウか!ネーロウシーザー!か!ネーロウシーザー!ネーロウシーザーだ!ネーロウシーザー1着!今年の秋の盾はネーロウシーザーに齎されました!!!安定したレース運びから最後のスパートまで、決定力と底力の求められるココ東京競バ場において完璧なレースを見せてくれましたネーロウシーザー!2着にはセキテイリュウグウものすごい差し脚であとわずかというところでした!》
遮二無二腕を振って少しでも加速しようと、ひとつでも順位を上げようと奮戦するテイオーの耳に、先頭のウマ娘がゴールしたと、放送席から漏れ出てくる実況が入ってくる。ゴールしたウマ娘ひとりひとりにコメントをつけるのがこの実況者の常だ。もう何が何だかわからないまま走るテイオーに、12人目のウマ娘にそのコメントがつけられる。それを聞いて、テイオーは自分が一番後ろに居たことに気づいた。それも、前のウマ娘に対するコメントを言い終わってしまうくらいのタイム差で。
もうゴールは目と鼻の先だ。あと5、6歩も足を出せばレースは終わる。だのに、自分が最下位であるということが判った途端、その脚は、その身体は枷でもかけられたかのように重くなった。
めきりと、心が折れる音をテイオーはハッキリと聞いた。聞いてしまった。みんなの想いを、メジロマックイーンの、トレーナーから受け取った想いを裏切った。なにが1着だ。勝負にもならないじゃないか。途端にテイオーの心を黒い感情が塗りつぶす。
―そう、最初から無理だったのだ。勝てるわけがなかった。走る前、もっといえば出走申請時点から判りきっていたことだ。ただそれを言い訳にしたくなかった。“勝てないから走らない”んじゃなくて、“そこに賭ける姿を見せたい”から走った。
結果がこれだ。そこには、他のウマ娘より明らかに劣ると現実を突きつけられ、必死に繋ぎ止めていた心も完全に折れ、もはやその歩みすら止めようとするひとりのウマ娘の姿しかない。
もういいじゃないか。お前は充分に頑張った。あとは後ろに任せればいい。そんな声が聞こえてくる。それでいいじゃないか。ボクは充分頑張った。あとはエアグルーヴたちが何とかしてくれる。学園や世間は認めてくれる。そうやって“心の逃げ場”を見つけ安心したテイオーは、もうすべてを諦めて、これまで下げ続けてきた身体を起こし、頭を上げて、“ぶはあっ”とあからさまに息を入れようとした。
「 テ イ オ ー ! 」
誰かが自分を呼ぶ声がした。
顎が上がる直前、その声がした方を本能的に視線で追う。
エアグルーヴが。
ナリタブライアンが。
フジキセキが。
ヒシアマゾンが。
スペシャルウィークが。
サイレンススズカが。
ウオッカが。
ダイワスカーレットが。
ゴールドシップが。
メジロマックイーンが。
最後の最後まで、声を枯らして自身の背中を押してくれていた。
瞬間、テイオーを塗りつぶしていた黒い感情はすべて払われていった。
誰もまだ諦めていなかった。既に12人のウマ娘たちはゴールしていて、テイオーの最下位は火を見るよりも明らかなのに、仲間たちは誰一人としてその場を去らず、テイオーを励まし、激励し、その背中を押してくれている。そんな滑稽な仲間たちの姿に、テイオーは自然と笑みを浮かべた。
「―なにしてんのさ、みんな」
レースはまだ終わっていない。自分だけ諦めて下りるなんてカッコ悪い真似、出来るわけがない。みんなはまだ信じてくれている。トウカイテイオーがトウカイテイオーであることを信じて、最後まで応援してくれている。―自分のことは簡単に裏切れるかもしれない。けれど、“みんなが信じてくれている自分”はそうそうに裏切れない。
開きかけた口をもう一度結び、
上がりかかった顎を下げ、
起きそうになっていた身体を今一度沈め、
トウカイテイオーはトウカイテイオーのまま、ゴールゲートを通過した。
《トウカイテイオー、今ゴールイン!会場からは大きな拍手が送られています!今回長期離脱明けからの復帰レースでしたが―…》
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「はっ?!」
寝ているときによくある、階段を踏み外す夢を見て、びっくりしてテイオーは目を覚ました。―が、ここは自分の部屋ではない。状況が呑み込めず、ひとまず身体を起こしてから考えようとした。
「―痛ててっ」
―のだが、全身に走る筋肉痛のような痛みのせいでロクに動くこともできず、諦めてまな板の上のコイのようにベッドに横たわっていた。
外から聞こえてくるウマ娘たちの声から察するに学園の保健室であろうことがわかる。―起き上がれないのでうろつくことはできないが。
「あら、目が覚めましたのね」
がらら、という扉の音と共に、メジロマックイーンが部屋に入ってきた。小説らしい本と、湯気の立ったティーカップをひとつ持っている。
「ああ…」
何とも言えずにいるテイオーをよそに、メジロマックイーンはベッドの横のテーブルに本とカップを置いた。
「私が飲むつもりでしたが。口に合うなら飲んでください」
かなり長い間寝ていたのか頭痛がしていたので、砂糖入りの紅茶をありがたくいただく。メジロマックイーンは棚からコップを取り出してコーヒーを淹れていた。
「大変でしたのよ」
椅子に座ったマックイーンは、何か聞きたさげなテイオーの雰囲気を察したのか、あの時のことを話し出した。
「ゴール板を駆け抜けるやいなや、あなたは前のめりに倒れてしまいましたの。それはもうごろごろとコースを転がっていましたわ。あまりの疲労と体の酷使で意識を失ったと推察したトレーナーさんは、すぐに救護を呼んで、トレーナーさん自身もあなたのもとに飛んで行かれました。その場で担架に乗せられ、ウイニングライブそっちのけで病院に運ばれたあなたですが、身体的には何の異常もないということで学園の保健室預かりということになりましたの」
「そうなんだ…。心配かけたね」
ふるふる、とメジロマックイーンは首を振る。
「いいえ、いいんですのよ。ちなみに今は火曜日の午前11時ですわ。あなたまる一日以上寝ていたことになりますわね」
「そうなんだ。―そう聞くと、なんだかお腹が空いてくるね」
無意識のうちに過ごした24時間とすこしが、テイオーの腹の虫のご機嫌を知らず知らずに損ねていたようだ。
「―では、私が取って来ますわ。一緒に食べましょう」
「ねえ、マックイーン」
椅子を立って保健室から出ようとするマックイーンを呼び止める。
「なんですの?」
うしろめたさから自然とテイオーは伏し目になり、声も小さくなった。
「その、ごめんね。盾を獲るなんて言っておきながら―」
ぐじぐじ言っているテイオーに見かねたか、メジロマックイーンは再び歩み寄り、やさしく彼女を抱擁した。
「いいんですのよ。あなたは最後まで私たちの想いを受けてくださっていた。あなたはトウカイテイオーのまま帰ってきた。それだけで、私たちはよかったのですよ」
柄にもないことをしてしまいましたわ、と顔を若干赤らめながらテイオーから身体を放す。暗かったテイオーの顔はもとの明るさを取り戻していた。
「うん。少し元気が出たよマックイーン。ありがとう」
にんじんパンと、にんじんコーラと、はちみー。テイオーの昼食の希望を聞いて、―じゃあ、今度こそ行ってきますわね―、とメジロマックイーンは扉の向こうに消えた。