朝7時20分、中央トレセン学園第1グラウンド。師走の中頃は驚くほどの快晴。前日に雪が降るなどもなく、わずかに朝露が光る程度で、芝のコンディションは最高だ。見上げれば冬独特の濃く鮮やかな青をした空。どこを探しても雲ひとつ見当たらない。刺すように冷たい風に吹かれながら微動だにせず、かつて7つの冠を戴いたときの栄華そのままの恰好で、シンボリルドルフは仁王立ちしていた。
「やっぱり、あれシンボリルドルフさんだよね」
あまりの寒さに手袋でウマ耳を抑えながら、栗毛の小さなウマ娘はグラウンドに仁王立ちしているシンボリルドルフを指した。前日にグラウンドには近寄るなと言われていたし、事実生徒会の見回りが行われている。そのため、この件に関係のないウマ娘たちは下手にグラウンドへは近づけない。しかし、今や時のウマ娘トウカイテイオーと、皇帝シンボリルドルフの一騎打ちという噂がこうして真実味を増して来たので、グラウンドが一望できる教室のや廊下の窓には最上階まで、ひとめそれを見ようとするウマ娘でごった返していた。
2分、3分。トウカイテイオーは現れない。見物客は今か今かとその登場を待ちわびているが、4分、5分経ってもその姿はない。
「おかしいですね、もう3分前なんですけど…」
中等部の、前髪にテイオーと同じようなメッシュの入った小柄なウマ娘が腕時計を見て呟く。
「大丈夫!テイオーさんはきっと来るよ!」
心配そうな黒毛のウマ娘を見て、鹿毛で額にダイヤモンドの抜けがあるウマ娘がそれを励ましていた。時計が7時29分を指そうとしていたそのとき。
「おい、来たぞ!」
どよめきに校舎が揺れる。グラウンドの外周中央を割るように敷かれた通路上に、トウカイテイオーはその姿を現した。およそ1年ぶりの、青と白を基調としたフォーマルよりの装い。誰もが知る“シンボリルドルフに憧れを抱いている”トウカイテイオーが選んだ勝負服だった。―一歩、また一歩、視線は常にシンボリルドルフに合わせ、ゆっくりとグラウンドへ歩みを進める。その度に、校舎のガラスが割れそうなほど大きな応援がテイオーの背中を押す。きっと彼女らにはこの併走が何を意味するのかは分からない。なぜ二人して勝負服を着ているのかすら理解できない。単なるお祭りのような感覚なのかもしれない。それでも、ここにいるウマ娘たちはグラウンドに立つ皇帝よりも、それに挑む帝王に声援を送った。
「ごめんね、遅くなっちゃって」
ついにグラウンド中央で対峙するウマ娘ふたり。テイオーは、とりあえずぎりぎりの到着になって非礼を詫びた。
「なに、構わんよ。しかし素晴らしい歓声だったな。みんなお前を応援している」
その言葉にちょっと照れ臭くなって、テイオーはつまさきで芝と遊んだ。
「そうだね。ボク、そんな応援されるようなことしてないんだけどね」
寮長や教官たちが必死にウマ娘らを廊下から押し戻すそうとするのが見える。それでもところどころ、“トウカイテイオー!”という声が聞こえてきた。
「それだけのことをしてきたから今こうなっているのだ。お前は私みたいに器用じゃない。すべてのことを一人かかえてこなすなどできない。しかしお前はお前なりに、みんなで力を合わせることを覚え、それで他のモノたちを導いてきた。それが今だ。あのときお前を選んだ私の目は間違っていなかった。誇りに思うよ」
「ボクを選んでなかったら、今頃こうはなってなかったと思うけどね」
それは耳が痛いな、と皇帝は笑って見せた。
「いいや、それでもお前はつっかかってきて、結局こうなったと思うぞ」
売り言葉に買い言葉をぶつけると、テイオーは膨れてそっぽを向いてしまった。
「ははは、そう膨れるな。2分半もたてばすべて終わっているはずだ。そうなれば、お前と私は、もとどおり先輩と後輩、そして友人だ」
「ボクはこの2分半のずっとずっとずうっと前から、カイチョーを追いかけ続けてきたんだけどネ」
笑いあいながら、ふたりはスタートラインに近づいていく。それにつれて口数は減り、ついには無言になる。―無言になってもわかる。トウカイテイオーが、シンボリルドルフをどんな思いで追いかけてきたか。今トウカイテイオーがシンボリルドルフに伝えたいことは何か。そしてまたその逆もしかり。喋らなくても、そこにいるだけでシンパシー。お互いがお互いを完全にわかっていた。
「このコースはちょうど1週で2000メートルになる。同時にスタートし、より速くここに帰って来た者の勝利。それでいいな?」
「うん、大丈夫だよ」
シンボリルドルフはごそごそとポケットをあさり、1枚のコインを取り出す。金色に輝く、500円玉よりも少し大きい程度のモノだった。
「まず、コース取りを決めようじゃないか。私はウラに賭ける」
「いいよ、じゃあボクはオモテで」
キイン、と金属音をたててコインが宙を舞う。ある程度の高さまで落ちてきたそれをシンボリルドルフは掴み、もう一方の手の甲へ移して、ゆっくりと手をどけた。
「ウラだな。内は私が貰った」
大人げないことするなあ、とあきれながらもテイオーはそれに従い、シンボリルドルフの外側に位置取った。なにせ二人しかいないものだから内外はあまり関係ない。抜くときにどうしても外から回らないといけないのは普通のレースも同じ。要は最後の直線で前に進めるかどうかが関わってくる。
落ちたコインを拾って、それを弾く右腕がちょうど自身とテイオーの間になるように再度シンボリルドルフは構える。
「これが落ちたらスタート。出遅れもフライングもなしの一発勝負だ」
「いやフライングはとってよ」
このような何気ない会話も、久しくしていなかったような気がする。2分半。この2分半さえ過ぎてしまえば、つまらないものはすべて水に流して、もとのシンボリルドルフとトウカイテイオーにもどることができる。この2分半を以て、新たな道に進むための気持ちの整理ができる。―それとは別に、テイオーは憧れを今度こそ超えるために。シンボリルドルフはトウカイテイオーを退けて心の安寧を得るために。前者は積極的に、後者は若干消極的な理由ではあるものの、それぞれ絶対に譲りたくない2分半でもあった。
ぴん、と軽く弾かれたコインは意外と高く宙を舞った。くるくると回転しながら弧を描き、やがてそれはかさりと音をたてて芝に吸われていった。
「 「 ! ! ! ! ! 」 」
それを見た両者がスタートを切る。見物人で溢れかえる校舎があっと沸いた。コインが落ちたら、という明確な指標があったので、彼女らの動き出しはほぼ同時だった。テイオーはストライド走法といって、後ろに蹴り上げる力を重視し歩幅を広くとった走り方をするのが特徴だ。それをもってなお、シンボリルドルフの方が歩幅は広い。そのぶんがアドバンテージになったのか、シンボリルドルフがわずか前に出る。20メートル、30メートル、距離が積まれていくにつれその差はじわり、じわりと広がり、最初のコーナーに突入することには2バ身ほどの”駆け引き“ができあがってた。
スタート直後、シンボリルドルフに前に出られたことでテイオーは驚いていた。テイオーはシンボリルドルフのことを下手なファンや専門家よりも研究している。そして、必ずというわけではないにしても、大事なレースは高い割合で比較的後方から“差し”てくることがわかっていた。
だから、テイオーはそのスタート直後からハナを獲って先行し、自分のペースを作るつもりだった。―ところがどうだろうか。その“差し”てくるはずのシンボリルドルフがテイオーを上回るスタートでハナを獲って来た。それがアタマに全くなかったわけではない。可能性をまったく考慮しなかったわけでもない。それでも現実としてテイオーは動揺した。スタートのっけからペースを乱されたうえ、その主導権をシンボリルドルフに握られてしまった。
コインをその親指ではじくその瞬間まで、シンボリルドルフはいつもと同じように、大事なレースを走るときと変わらず、後ろで様子を見て最後差して勝つつもりでいた。しかし、高速で回転しながら落下していくコインを見ているうちに、なんだかそれでは勝てないような気がしたのだ。なんとなく、今までの自分の殻を破らないと勝てないような気がした。
普段見せない走り―、それは、自らがハナを獲りに行くことだった。1対1の勝負に先行も差しも追い込みもあったもんじゃない。逃げるか、追うかの二択だ。
シンボリルドルフはいつも追う側だった。後方でゆったりと脚を整え、ほかのウマ娘たちに好きなようにレースを運ばせ、そのうえで、駆け引きなんか関係ない、ただただ圧倒的な能力の優勢さをひけらかして差し切っていた。それが皇帝の走り、皇帝の神威であった。
―のだが、今のシンボリルドルフは皇帝でもなんでもない、ただの一介のウマ娘でしかない。挑戦者の立場で走ることなど久方ぶりであった。挑戦者が王者に勝つ術として、奇をてらうことは充分に有効といえる。ゆえにシンボリルドルフは、挑みかかる帝王を前にして、“奇をてらって”逃げたのだ。
今の彼女には何もない。しかし、何もないからこそ、恐れるものもまた無い。たとえ弱く、平凡に成り下がった脚でも、踏み出すことを絶対に忘れない。過去の栄華も失敗も挫折も嘆きも、力の限り踏みしめて蹴り上げ、足掻いて藻掻いてそして立ち、この身は炎となるのだ。
使用楽曲コードにある楽曲から歌詞をもじって文章内に使用しています。