「なあミカド。本当に弥生賞に出なくていいのか?皐月賞、走れなくなるぞ?」
トレーニングを終えた夜。もう何度目かもわからないトレーナーの説得が、寮へ戻ろうとした私を捕まえた。私も、もう何度目かもわからない同じ返事を返した。
「走らないよ。私が欲しいのはダービーの優先出走権。青葉賞に絞るって言ったじゃん」
それはそうだが―、とトレーナーが頭を掻いて不服そうにしている。
「皐月賞で掲示板に入っても、日本ダービーには出れるんだぞ?」
それはそうなんだけど。
「だから言ってンじゃん。皐月にはアイツも出て来んの。残りの4枠をG1の、しかも死ぬ気で獲りに来てるようなのと争うことになるんだよ?多分私の《今まで》じゃ入れないモン」
今まで。
私は本来の走り方をひた隠して学園にいる。それ以前のことを調べられたらすぐにわかってしまうことだが、私がいちばん得意なのは先行ポジションだ。
それを隠し―いや、本命のレースで最大火力を出す為に、今は逃げの作戦で諸々の権利を獲りに行っている。
当然皐月の掲示板も考えた。だがさっきも言った通り死ぬ気で獲りに来るのばかりだ。逃げていてはきっと掲示板は逃すだろう。
それに、アイツに敗けるイメージを、本命直前に植え付けられたくなかった。ついこの間ホープフルでアイツの勝ち名乗りを眼前にしたばかりだというのに。
すべての道はローマに通ずると誰かが言っていたけれど、私のすべてはダービーに通じている―、通すのだ。
トレーナーの放った新聞には1面にデカデカとアイツが皐月を明言した記事が載っている。
これまで無敗。きっとあのトウカイテイオーさんも、写真のアイツみたいなポジションだったんだろうな。強靭、無敵、最強。
じゃあ私は誰だろう…、ナイスネイチャさんあたりかな。漁夫の利じゃないけど、虎視眈々と長い期間かけて準備して、勝ちに行くタイプ。―彼女はなんだかんだ正々堂々出てきてたけどね。
「明日は授業の後生徒会室に行くから、トレーニングはお休みにしといて。―あと、よかったら会長のダービーのきれいな映像が見たいな」
わかったよ、という若干不貞腐れたような返事を受け、私は今度こそ寮へ戻ることにした。
■□■□■
堅牢な建物の中も、夜の静寂に支配されている。年始の折非常に冷える廊下をひとり歩いていると、壁の窓枠に人影があった。―アイツだ。
こんなところで、こんな時間に、何をしているのだろうか。
「―ねェ、門限、もうすぐなんだけど」
ぴく、とアイツの耳が反応してこちらを見た。紫色の綺麗な瞳だ。いつ見ても美しい。
「ん?…ああ、委員長か。今日は許してくれよ」
事と事由によるね。私もアイツのそばに腰を下ろしてみた。
「らしくないじゃん。何かあった?」
うーん、とアイツはしばらく悩んだ。
「トレーナーと揉めちゃってさ」
揉めた。
こいつが?
担当トレーナーと?
いったい何を揉めることがあるというのか。ここまで無敗、ホープフルを圧勝。クラシック3冠候補筆頭待った無し。
ここにきて何を意見が食い違う。私にはわからなかった。
「私は―、私は、ティアラを獲りたいんだ」
は?
なぜ?どうして?why?
メイクデビューも2000、◯勝クラスも全て2000、あまつさえホープフルを勝っておいて今更ティアラだと?
そんな暴挙が許されるわけないだろう。コイツの後塵を拝した者たちの気にもなってみろ。仮にコイツのいないクラシックを制したところで《真にクラシック最強はコイツ》ってことになるんだぞ。
「―うん、そんなことを言われた」
うわ、顔に出てたか。
「でもさ、あんた皐月に出るって―」
さっきの新聞を思い出した。圧倒的成績をもって皐月に出走。クラシック3冠候補筆頭待った無し。
「あれはトレーナーの意向なんだ。《君にはクラシックを獲れる脚がある。ティアラよりも余程重たい》ってね」
コイツのトレーナーもねじ曲がってるなあ…。
「そしたら、どうすンの?ダービー回避してオークスに行ったりするかもってこと?」
そうなってくれたら嬉しいななんて思ってしまう自分が本当に卑怯で嫌になった。顔には出さないけど。
しばらく考えてアイツはとんでもないことをクチにした。
「考えがあるんだ。桜花賞から皐月賞、オークスから日本ダービー、秋華賞から菊花賞。1週間空いてる。両方走って全て勝てば、問題ないだろう?」
問題無いわけないだろ。何を言ってる?
「そんなわけ無いでしょ。あんたの脚どうなっちゃうの」
「壊れるかもね」
じゃあ止めとけよ、って簡単に言えるほど、たぶんコイツにとってティアラは軽くないんだろう。
「別に一族の夢が懸かってるとかそんな大層なものじゃあないんだ。さしてティアラに拘る理由も無い。―けれど、人に決められたレールを歩くのは、面白くないよね」
人に決められたレールどころか、誰も歩まなかった道を往こうとしてるけどね。
「改めて訊くけど正気の沙汰じゃないよ?六冠なんて。あんたはこれから先もあるんだから、ちゃんと考えといた方がいいよ」
アイツはうんうん唸る。
「委員長は、どう思うかい?」
とうとう投げてきやがった。
「そりゃあ、私はクラシックに進むから、あんたはティアラに行ってくれたほうが色々助かるけど…」
どう思うかだって?訊かなくてもわかるだろう。
「そうか―。ふむ―。」
アイツはそれきり考え込んでしまった。
「委員長」
しばらくして、アイツは私を見た。些か険しいカオをしている。
「君は、本気で走ったことが無いよね?」
「は?」
思わず素っ頓狂な声で返事をしてしまった。
「君はどういうつもりか知らないけれど、あえて適性のない逃げを打って、あえて速度に乗らない走り方をして、しかしクラシックへのトライアルレース、そこへの権利は獲得できる程度に成績を《調整している》。違うかい?」
そ、そんなことは、とたじろいでしまう。何故、今、このタイミングで。
アイツの意図がわからない。
「ホープフルのときもそうだった。私に抜かれていく他の娘たちは皆必死の形相をしていたのに、君だけは《必死なフリ》をしていた」
そこまでバレていてはもう言い訳のしようもない。私は降参した。
「―そうだね。あんたの言う通り。私は日本ダービーを獲りたい。その為だったらどんな卑怯な手でも使うし、悪魔にだって魂を売る。そう誓ったんだ」
アイツからはへえ、という淡白な返事のみが返ってきた。
「つまり君は、日本ダービーを本気で走るんだね?」
何言ってんの、当たり前じゃん。今までの話は何だったの?
「そうか。委員長、私は決めたよ、ありがとう」
それはなによりだったが、いったいどうするのか。そこまで聴いてからじゃないと、夜も眠れなくなるかもしれない。
「私は本気の委員長と走ってみたい。だから私は、日本ダービーに出ることにするよ。―もちろん本気で。桜花賞もオークスも無し。君と本気で走る為に私は日本ダービーを選ぶ」
て、ティアラはどうすんの。
「いいんだ。《自分で決めた》から」
それでいいね、とひとこと残してアイツは去っていった。
私は、絶望に濡れてその場から動くことができなかった。