「じゃ、トレーナー!行ってくるね!」
青葉賞当日。久しぶりの実戦に胸を躍らせている―ように見えるミカドグラファイトは、敬礼までして芝へ向かって元気に駆けて行った。
日本ダービーのトライアルレースである。ここを獲り切るためにミカドグラファイトはホープフル以降沈黙を貫き、皐月賞さえ出走することは無かった。
何度説得をしても返ってくる返事は同じだった。
《欲しいのはダービーを走る権利。そこを零したくないから、無理やり勝てないウマ娘と走って敗けるイメージをつけたくない》
言っていることは理解できるが、その裏に隠れていそうな闇を、どうにも予感せざるを得なかった。
《速い!ヴィオラブライト独走!ホープフル、弥生に続いて皐月も敵無しか!後ろは誰も伸びてこない!今!総てを置き去りにしてゴールを潜りました!クラシック1冠目はヴィオラブライト!春の空に咲くスミレは今まさに見頃であります!》
案の定、ミカドグラファイトの警戒する《その》ウマ娘が圧倒的な強さで皐月を獲った。内容を見るに、最後方に近い位置から総てを抜き去るあの末脚を持つウマ娘はクラシック級にはおそらく居ないし、逃げ切れるのも居ないだろう。
タイム的にも―、今のミカドグラファイトがどこまで通用したかは、どんなにいい言葉を使ったとしても「未知数」といったところだろう。
完全無欠。強靭、無敵、最強。何度も言われているが、まさにそれだった。
後の記者会見が始まるや否や、ヴィオラブライトは日本ダービーへの出走を宣言した。奴が避け続けてきた壁、どうしても勝てないと悟った相手と、最後の最後にぶつかる訳だ。
しかし、どういうわけか皐月のかなり前からミカドグラファイトの様子はおかしくなった。長々と説くまでもない。
死ぬまで走っていた。
これにつきる。
ただただ全力で、ただただひたむきに、ただただ実直に、
どこまでも素直に、
迫りくる何かから逃れるように、時間さえあればひたすら走りに殉じていた。
止めても聴かない。実力行使などもってのほか。こちらがやられてしまう。
私は、彼女を彼女のやりたいようにさせてやる他に無かった。できなかった。
日に日に彼女の顔は焦燥に染まっていった。目の下の隈はいよいよ隠せなくなり、食事や授業の時間ですら、脚は走らせろと震えた。誰が見ても彼女の様子は相当なものだったが、誰もそれに触れることは叶わなかった。
そうして迎えた青葉賞である。
久しぶりにみる綺麗な体操服。目元の隈や唇の傷などは化粧ですっかり隠されている。パッと見はこれまでと変わらない《元気な》ミカドグラファイトだ。
彼女はクラシックに進むにあたり登録名を変えている。いわばこれが《ミカドグラファイト》のデビュー戦であるのだ。
■□■□■
《10番、ミカドグラファイト。5番人気です》
それを聴いて、私はパドックに飛び出した。いつも通りに見えるように。元気な姿をファンの皆さんに披露する。
そこそこの歓声が私を迎えてくれた。―絶対に1着になることはないので、少しだけ申し訳ない気分になる。
《彼女はホープフルまで「ソウダミカド」として走っていましたね》
《ええ、どうも過去に中央の学園に在籍していた「ソウダシオン」の妹だそうです》
久しぶりに姉の名前を聴いた。姉もこうしてここで幾ばくかの歓声に包まれていたのだろうか。
ホープフルステークスで掲示板に入ったという割には、人気の度合いは高くない。
だがそれも知ったことではない。人気が高ければ強いというわけでもないし、逆もしかりだ。
私の下バ評は高くない。終わってからも同じ。
しかしこれでいい。今日ここで2着に入れば、私は日本ダービーに出られるのだ。
《12番、エンターノット。12番人気です》
裏でその名前を聴き、わたしは己の耳を疑った。
エンターノットだって?
彼女とは《えーちゃん》《みーちゃん》と呼び合う仲で、入学当初からずっと一緒だった。
名前を変える話だって、最初にしたのは彼女だ。
メイクデビューを勝ったことは聞いていたが、まさか一緒に走ることになるとは。
自分の陣営のことは話さないことが多いらしいが、私は彼女にほとんど―隠している走り方を除いて、洗いざらい話してしまっている。
私が今日ここに出ると知って合わせに来たのか?
疑問がぐるぐると頭を巡る地下通路。すると、パドックから降りてきたばかりの彼女―、えーちゃんと遭遇した。
「みーちゃん!」
えーちゃんは喜びの声を上げて抱きついてくる。
「え、えーちゃん!ど、どうしたの今日?!私、何にも知らなかったんだけど!」
えーちゃん尻尾を振りながら話を続ける。
「私ね!いち度でよかったの。たった1回でよかったから、みーちゃんと走ってみたかった。みーちゃんの狙いは日本ダービーだってのは昔から知ってたから。
皐月賞に出なかったから、もしかしたら今日来るかもって思って、トレーナーさんに頼んで登録してたの!」
なんと。この友人は私と走るためだけに、《私が出てくる確率に賭けて》、今日ここにいるのである。
無論、◯勝クラスやG3を勝ち抜いて。
つまりえーちゃんも私も、競技ウマ娘全体のほんの数パーセント未満、その狭いところに残っているってことだ。
「12人中12番人気だけど!人気は強さのものさしじゃないって、前みーちゃん言ってたよね!―私、頑張るから。お互いにベストを尽くそうね!」
その差し出されたあまりにも純粋で《夢》と《願い》に満ちた手を、私は取るか迷ってしまった。
入学以来最も時間を共にした友の手を。
躊躇ったのだ。
なぜなら私は《ベストを尽くす》走りをしないからだ。
ダービーの日まで。アイツに、ヴィオラブライトに勝つために、私の《全力》はひた隠しにしておかねばならなかった。
どんなに心が揺らごうとも。
どんなに純粋な目で見られようとも。
私は私の夢のために、やらねばならなかった。
■□■□■
《今ウマ娘全員のゲートインが終わりました!青葉賞!上位ふたりまでのウマ娘が、日本ダービーへの優先出走権を獲得することができます!》
スタートまでの僅かな時間。ここばかりは観客もその鳴りを潜め、会場を静寂が支配する。
自分の呼吸音と、心音までも感じられる程に。
刹那、カション、という軽い音をたてて、私の目の前を塞いでいた扉が開き、私の青葉賞が始まった。
《スタートしました!まずはミカドグラファイト素晴らしい加速でハナを奪います!続いてタカヒラダークネス、2バ身ほど空いたところにエンターノットとオオタグレイスがポジションを奪い合っています!一歩後ろでナリタジョウエノキミが不気味に息を潜めるか!》
スタートは上々。同じく逃げを打ってくると思われたタカヒラダークネスの前に躍り出ることに成功した。あとはこのまま付かず離れずに最終直線まで粘っていれば、なんとなく2着以内に入ることができる。
私の勝ちだ。