情け容赦のない寒さの中にも、日光の慈悲を着実に感じられるようになってきた。草木は少しずつ芽吹きだし、小鳥のさえずりもいつもより多い気がする。本日は快晴。絶好のトレーニング日和だ。
「いいかテイオー、念入りに、念入りに、これでもかというぐらい脚の関節は慣らしておけよ。筋も伸ばして、万が一もないようにしてくれよな。」
チームルーム。テイオーはトレーナーの指導の下入念に―、もう20分以上はストレッチを行っている。リハビリが功を奏し、全力疾走でなければそれなりのペースまで耐えられるまでに脚の状態はもどっていた。トレーナーの方針で、これを機に徐々にトレーニングを本格化していくことになり、今日はその初日。とりあえず、今の時点でどのくらいのスピードまで乗れるのかを試すことになっている。
「もぉー、いちいちうるさいなァ。わかってるよぅ。―いちばん痛かったのはボクだし、そのせいでいちばん苦労してるのもボクなんだからね。」
「あ?最後の方なんて言ったんだ?」
知らないよォー、と舌を出したところで、バンと部屋の扉が開けられ、スペシャルウィークが入ってきた。
「おはようございます!―あ!テイオーさん!今日から復帰だって聞いて居ても立ってもいられずに来ちゃいました!本当によかったですね!また一緒に走れるときを楽しみにしています!」
「ありがとうスペちゃん!―でも、スペちゃんこそ進学テスト、大丈夫なの?もしかしたらボクと同級生になっちゃうかもしれないよ~?」
そ、それとこれとは話が別です!とスペシャルウィークはごまかしながら、体操服とジャージを引っ掴んで更衣室へ消えていった。そうしているうちにも、テイオーの足首はトレーナーによって丁寧にマッサージされている。まるでお姫様だ。
「―チームで唯一秋シニア、有マを獲ったお前だ。俺たちにとっちゃ間違いなくお姫様だよ。」
「… もしかして、声に出てた?」
「さァ、知らんなあ。」
なにさ。だったらもっとお姫様扱いしてくれてもいいじゃないか。口をとがらせ視線を逸らす。たぶん、それだけでトレーナーはテイオーが何を言いたいのかわかるだろう。
「ま、秋天獲ったら考えなくも無ェよ。」
言ったね?それを聞いた以上、ボクは止まらないよ。誰が出てきてもコーナーの向こう側に置き去りにしてやる。
すこしだけ本能に従った思考になっていると、トレーナーのマッサージはいつのまにか終わっていて、《やりきった》顔でこちらを見ている。
「もういいの?」
スタミナと踵の摩耗、あとは少しでも痛みや違和感を覚えたら直ちに止まること。とくに三つ目に関しては外に出るまでに耳にタコができるほど聞かされた。
久しぶりに《ちゃんと走る》ためにやってきたグラウンドの芝はどこか眩しさを感じる。つい先日メジロマックイーンとランニングをしたばかりだというのに、まるで初めて芝を踏んだときのような高揚を覚えた。やはり気の持ちようで、周りの景色や印象というのはがらりと変わるものだ。
見慣れた景色であるはずなのにまったく別の場所のような不思議な感覚のまま、トレーナーに連れられてコースへ誘導される。
「いいか?くれぐれも無理はするな。今日は好きに走ってもいいが、少しでも痛みや違和感を覚えたらすぐに止まって俺を呼べ。」
「そうだね。何かあったら呼ぶね!」
返事もそこそこに、もう待ちきれないという様子でテイオーは走り出した。
ジョギングとは違う、ちゃんと走るためのフォームでコースを駆けていくテイオー。少しだけ温かみのある風が身体を撫でていく感覚が気持ちいい。あのサイレンススズカがハマるのもわからなくもない。リハビリとランニングを繰り返していたおかげでそこまで鈍りは感じられない。スタミナや筋力的な衰えはあるかもしれないが、それはこれから取り戻していけばいい。
自分は今走れる。とにかく、その事実こそ重要だった。
少しずつ速度を上げながらコーナーにかかる。内側の脚に遠心力による負荷と、重心の移動に伴う重さが一度にのしかかる。が、問題ない。多少モタついた感は否めないが、それでもスピードには乗れている。トレーニングを重ねることで充分にカバーできる。
多少乱暴にはなりながらもコーナーを曲がり切り、再び直線。ここでいよいよ今回の目的「どこまでの加速に耐えられるか」を測る。
コーナーで体勢が斜めになり、重心の掛かった左足を、その重さを利用して踏み込み加速する。どん、どん、どんと、地面を跳ねるようにしてスピードに乗った。
この感覚は久しぶりだ。まるで自分がサイレンススズカにでもなったかのように、テイオーは本能的にスピードを求める。
ストライドの脚はどんどん回転を速める。地面を蹴る脚にも力が入る。
もっと速く。まだ走れる。まだいける。こんなもんじゃない。
もうひとつ先へ、自分のエンジンを限界まで回そうとして。
そのときだった。
「―うぇ?」
カクン―、と踏み込んだ右脚から力が抜けた。全速力に近い速さで走ってい慣性はそのまま残っているので、テイオーの左半身は加速しようとして前に出る。その場から動かない右脚と前進しない重心により釣り合いが崩れ、テイオーは尻餅をついてしまった。
「テイオー!」
トレーナーが血相変えて走り寄ってくる。
「テイオー!大丈夫かテイオー!」
ぁ、うん…。と呆けたままテイオーはそれに答えた。
「やはり全速力だと脚の筋肉が持たないか…。すまなかったなテイオー。明日からは脚の筋力を鍛えて、全速力に耐えうる脚を作っていこうな。」
いまだ脚に力の戻らないテイオーを担ぎ上げるトレーナー。そのまま学園へ引き返す。
たぶんこれは一日休まないと動けないやつなので、エアグルーヴやナリタブライアンにはまた迷惑をかけることになる。
「―ま、しょうがないよね。」
トレーナーの背に改めて安心したのか、テイオーはすぐに寝息を立て始めた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「―、んんー?」
トレーナーの背に眠っていたはずのテイオーが目を覚ました。―しばし、ここはどこだろうと考えるが、すぐに合点がいった。
「… 知ってる天井だ。」
それはそうだろうなにせここは自分の部屋だ。
身体を起こすと、枕元に書置きがあった。
《目が覚めたら連絡すること。生徒会には話はつけておいたので。今日はゆっくり休むこと。》
なるほど今日はもうなにもないらしい。もう、とはいってももはや夕食時だが。
とりあえずトレーナーに連絡しようと、スマートフォンを取りに立ち上がろうとする―が、足裏で床を踏む力が膝に伝わらずバランスを崩してしまった。今日は変に出歩かない方がいいかもしれない。
よたよたと壁や棚、机を伝ってスマートフォンのもとへ。メッセージアプリには、シンボリルドルフ、エアグルーヴ、ナリタブライアンからのものが入っていた。心配をかけていたようで申し訳なくなり、一人ずつ返事を送信する。こういうのは既読がつくと変な気になるので、そうなるまえに画面を切り替えた。
「―あ、もしもしトレーナー?」
次にテイオーが連絡をとったのはトレーナー。それはそうだ。連絡するように言われていたのだから。
「起きたか。脚はどうだ?」
「うーん、どうかな。まだ膝に力が入らないよ。明日になればまだ変わってるかもしれないけど。」
スピーカーの向こう側でトレーナーの「そうか」という声が聞こえてくるが、そのさらに遠くで、わいわいやっている声も入ってくる。
「そっちはいつも通りみたいだね。まだわかんないけど、明日また行くつもりだから。よろしくね。」
「ああ、しっかり休めよ。」
切れた電話をしばらく眺める。前の自分ならこのくらいの脚の異常でメンタルがどうにかなっていたかもしれない。それがここまで冷静かつ客観的でいられるのは、今までの経験が、助けてくれる仲間が、信じてくれるトレーナーが居てくれたからに他ならない。居場所があるっていいなと、改めて思ったテイオーであった。