少し冷えるけれど、色に例えるなら萌葱色をした爽やかな空気を目一杯吸い込む。
春の生徒会室。その早朝窓を開けたときにしか味わえないこの瞬間が私の楽しみだ。
あの日本ダービー以降いち度も芝に立つこと無く、私は高等部の3年生になった。学園内の大学へ進まない限りは、この空気を味わえるのも今年で最後になると思うと少し淋しくもなる。
照明をつけたり、コーヒーメーカーのスイッチを入れたりしていると、開け放しにしている入り口の扉が数度叩かれた。
「おはよう!爽やかな朝だな!」
この学園で最も偉い人とされる理事長。その当人、秋川やよいさんだ。
「おはようございます、理事長!こんな早くからどうされたのですか?」
「うむ!今日は《例のイベント》の調整にURAとU-NIONの連中を迎えることになっているからな!君たち生徒会の面々も、授業を欠席してこちらに同席することになっていただろう?
―いくつになってもこういう機会は慣れん。ソワソワしてしまって夜も眠れぬ始末だ!」
まったく、学園の最高権力者たる貴女がそうではいけませんよ―、と、彼女の秘書であるたづなさんが音も無く部屋へ滑り込み、勝手にコーヒーメーカーを使い始めた。
「朝イチで、という話でしたからね。私も、見知った顔とはいえ緊張してしまいますよ」
これからここへやってくる面々の顔は、それはもうよく知っている。それでもこう、構えてしまうのは、彼女たちの仕事の顔を想像できないからかもしれない。
《例のイベント》についての話し合いはこれまでに何度も持たれてきた。URAとU-NIONの共同開催ということで、六本木のURA本部、そしてここと会場を交互に設けてそれを進めてきた。
理事長いわく「オトナの世界に触れるため」だそうだ。
シンボリルドルフさんやトウカイテイオーさんの時代ならばともかく、学園の運営や自治のカタチも変わり、その殆どをオトナたちに任せっきり。殆ど形骸化してしまった生徒会にそれだけの価値があるかは、我ながら疑問が残る。
今の私達に、あの人達のような求心力があるとはとても思えないからだ。
たづなさんの淹れたコーヒーを啜っていると、半分閉じかけの扉が再び動いた。
「おはよう。―やけに冷えるね今日は」
紫色の瞳。見たもの総てを凍らせるといわんばかりだった光は今もなお輝きつつ、幾分か柔らかくなり、ささやかな暖かさも孕んでいる。本格化を終え、心の整理のついた境地にいるのだろう。
「おはようびーちゃん。今日は来客の日だからね、空気は入れ替えときたくて」
「そうかい。いつも準備を任せきりにしてすまないとは思っているけど、私は少し休ませてもらうよ」
びーちゃん―、ヴィオラブライト。クラシック2冠の後に春シニア、秋シニア3冠の同時達成。そしてジャパンカップ、有マ記念の3連覇。
ホープフルも含めると累計G1勝利数11という未来永劫誰も破られない記録を打ち立ている。
ある程度気心の知れてからわかったことだが、彼女は見た目やレースでの圧倒的強さに反して、私生活はどうにも怪しい。
生徒会長の椅子―の隣にあるソファに座るなり、テーブルに突っ伏して動かなくなってしまった。
「 弛 緩 ! ヴィオラブライトくんは君の前でだけは素を出すようだな」
呆れた―、しかし愛のある笑みで理事長は言う。それは認めざるを得まい。びーちゃんも、《最強》という仮面を着けさせられ、相応の振る舞いを求められているから。
そんな彼女がなぜ生徒会長の椅子に座らなかったか。それはあのときの言葉に端を発する。
びーちゃんはクラシックロードの終わった頃にはもう生徒会に引き入れられていた。
トウカイテイオーさんのように前倒しクラシックを走った、というわけではないにしても、中等部の生徒を入れておきたい狙いがあったと見える。
そしてすぐにびーちゃんは生徒会の中心となった。
実績においても、舌戦においても、実務においてもびーちゃんに勝るのは居なかった。副会長という立場に居ながら、その影響力は会長を遥かに越えていた。
高等部進学と同時に、副会長ながら学園の顔はびーちゃんになったのだ。
そしてそのときは訪れた。
高等部2年の秋。天皇賞の後、びーちゃんは私を屋上へ呼び出した。
「今年も走らなかったよ。卒業するまでジャパンカップと有マ記念に絞る。そう決めたんだ」
「新年からも続投する生徒会役員経験者は私ひとりだ」
「私以外皆卒業してしまうからね」
どうも後進に恵まれず、今の生徒会はびーちゃんと最上級生のみで運営されていたようで、新年を迎えると同時にびーちゃんを残して全員退任してしまうとのこと。
「それで君にお願いがあるんだ、みーちゃん」
そうきたか。びーちゃんの代わりに副会長。少なくともびーちゃんといちばん仲の良いのは私だと自認しているわけだし。学校生活を送る新しい楽しみという意味ではちょうど良いのかも知れない。
投票で決めるにしても、《あのヴィオラブライトの言うこと》だ、誰も逆らいやしないだろう。
そう楽観的に考えていたが、
「君に生徒会長をやってもらいたいんだ」
予想の斜め上から爆弾が落とされた。
は?
と思わず素の反応が出てしまった。
「は?え―?わ、私?ちょっと待ってよ、意味わかんないんだけど」
クラシック以降芝にも出ずに能天気におちゃらけて過ごしてきた私に、いきなり、生徒会長になれだって?
ふざけんじゃないよ、寝言にしてもタチが悪すぎる。
「そうだよ。みーちゃん。私は君に生徒会長になって欲しい」
いやいやいや。
じゃ、じゃあ理由を聴こうじゃない、理由をさ。
「ミスターシービーさんに、シンボリルドルフさんに、トウカイテイオーさん。この学園の生徒会長は、代々《最強》と語られる方々が就いていた」
そうだね。よくわかってるじゃん。
今の学園に、あんたを差し置いてその椅子に座れるモノなんて居ないと思うんだけど。
「いいや。ひとりだけ居るんだ。―目の前に」
ちょっと意味がわからなさすぎてアタマを抱える。
「君は、あの日本ダービーのときのこと覚えているかい?」
それはもう、そう。忘れるわけがない。昨日のことのように思い出すことができる。
「じゃあ、こう言ったことも覚えているね?《あんたが勝ち続ける限り、そのあんたを破った私が最強》だって」
言った―かもしれない。かもしれないが、あれは煽りというか、そういうモンじゃないの。
「あんたまさかそれを真に受けて―?」
「そうさ。あれ以来君は芝に出ていないだろう?リベンジはまだ果たされていない。私も10か11か、G1を勝ったけど、いつも君の幻影が私の前にいるんだ」
こいつ正気か?本気で言ってんのか?
G1累計11勝のバケモノ―シンボリルドルフすら頭を垂れかねない実績を引っさげたうえに、完全無欠の実務能力まで発揮して、
そのうえで私が―、ソウダミカドが最強だというの?
仕事しすぎてアタマがおかしくなったのかもしれない。
「ねえあんた、疲れてるんだって。いっかい休もう?ね?アタマ冷やしなよ」
しかしびーちゃんの決意は固かった。数年一緒に過ごして、彼女のことをよく知ってもなお、冷たいと感じる紫の瞳。この刺すような視線を久しぶりに受けた。
「いいや、やってもらうよ、《ミカドグラファイト》」
昔の名前を呼ぶのはやめて。
「やってもらうさ。―それを再び燃やせとまでは言わない。ただ、私の前では、君にはダイヤモンドであって欲しいと、そう思っているだけさ」
かくして私は、ヴィオラブライトの威光によって、生徒会長の椅子に《座らされた》のである。
ひとつ条件を出して。
「おはよー!…あれ、私が最後だった?」
その《条件》が数分遅れて生徒会室へやってきた。ビワハヤヒデも顔負けのホワホワした栗毛が、呼吸とともに大きく上下する。
「おはようえーちゃん。いいんだよ。コイツは相変わらずだし」
早くは来ても寝てしまうびーちゃんを、果たして本当に早くから居ると評するには、審議がいるかもしれない。
生徒会室、ソウダミカド。
同副会長、ヴィオラブライト。
同会計、エンターノット。
これが今の生徒会役員である。発足から3ヶ月、会からの通達などに反発する生徒たちも多かったが、びーちゃんが出ていくとみんな静かになる。
昔の面々に例えるなら、
トウカイテイオーさんが私で、
ナリブの姐さんとエアグルーヴさんを足したようなのがびーちゃんで、
メジロマックイーンさんのような緩衝材がえーちゃん
のようになるのだと思う。
全員揃ったのを見て、理事長さんは話を始めた。
「 注 目 ! 揃ったな!…ヴィオラブライトくんも起きてくれ!」
「実は今日、打ち合わせの前に、U-NIONの競技生代表である君たちに相談したいことがあるのだ!」
■□■□■
「 懇 願 ! ―というわけで、この《新競技場のオープニングイベント》に、君たち学生も運営の補助として参加して欲しいのだ」
秋川理事長の長年の(?)宿願。全距離全バ場全天候対応型未来形競技場。
学生スポーツのメッカともなりうるだろうそれが先日遂に竣工し、日本ダービーの終わる頃にオープニングイベントを予定している。
学生スポーツのトゥインクルシリーズ、さらにはプロスポーツとしての《興行》であるドリームトロフィーリーグまでをも巻き込んだ模擬レースや、
なんと往年のレジェンドたちを招待して、誰しもいちどは夢見たであろうドリームレースを開催するのだ。
客入りは必至、U-NIONもURAも臨時のイベントスタッフ探しに奔走している。
「模擬レースやドリームレースに出走するプロ選手についてはこちらで選定した。
君たちにはU-NIONの名義で、一緒に走りたいウマ娘を地方の学園まで広く集めて、抽選して欲しい。
―ああ、応募資格はプレオープンレースまでにしておいてくれたまえ!未勝だっていいさ。私がここに重視したいのは結果ではなく《継承》だ!」
あとは選手宣誓くらいだが、これは生徒会長のソウダくんでよいかな?
幼児と見紛うような瞳の秋川理事長に一瞬首を縦にふりかけるが、すんでのところで堪えた。
「目的としても、生徒会長よりも最強のほうが向いてるでしょ。ヴィオラブライト以外居ますか?」
「そのヴィオラブライトが最強と認める君が、いちばんいいんじゃないか、《ミカドグラファイト》くん?」
その名前はやめてくれってずっっっっと言ってるのに、こういうときだけ都合よく持ち出してくるんですね!
「 自 明 ! 君だってそうだったろう?いよいよクラシックを走るにあたり、トウカイテイオーくんに対してカッコつけたかったのだろう?これも同じではないか!」
かつかつと笑う理事長。
「君は、今ここにいる誰も辿り着けなかった領域に、ほんの数秒だったとしても届いたんだ。それを知るものと知らぬものとでは、紡ぐ言葉の重みが違う。
君の本気の言葉には、シンボリルドルフやトウカイテイオーの語り口と同じような質量が伴う。これも私は、若きウマ娘たちに見せる夢のひとつだと、そう思っているがね!」
私たちもうら若きウマ娘なんですけどね。
「かっかっか!君や君の周りのウマ娘たちがどのように思っていようと、わかる者が見ればわかるものだ!
いろいろ御託を並べているが君はもう既に来るところまで来てしまったんだよ、ソウダミカドくん!
君のダイヤモンドはもう存在しないのかもしれない!しかしそれが放った輝きは、見たもの総ての心に深く、それは深く刻まれているのだ。わかったら大人しく選手宣誓の任を受けなさい」
話は終わりだと言わんばかりに、理事長は部屋をどたどたと出ていってしまった。もう十数分後にはまたここに来なければならないのに。
「―ねえ、さっき理事長が言ってたことだけど」
頬が引き攣ってピクピクしている。恐る恐るびーちゃんのほうを見ると、目を閉じてうんうんと頷く素振りをしていた。
「理事長は私の思っていることをすべて言ってくれたよ、みーちゃん。君はただの気の良い遊びたい盛りのウマ娘だったのかもしれない。けれど、あの日、君の輝きを見た者は皆、君に脳を焼かれてしまったんだ」
この私みたいにね、と得意げのびーちゃんに、侮蔑を込めて視線を送る。
私は、私の知らないところで担ぎ上げられ、いつの間にか学園の象徴とまでされていたらしい。
走らない生徒会長。奇しくも在学時のトウカイテイオーさんと同じようなポジションだった。
「――、ああ、もうっ!」
ここで私が意を唱えたところで、びーちゃんがそうだと言えば皆それに倣うだろう。私に最初から勝ち目など無い。
「わかったよ!やるよ!やればいいんだろ! 」
久しく持ち合わせなかったヤケクソに近い感情。アタマを掻きむしってひとしきり暴れてみるが、このむしゃくしゃをどうにかできるだけの捌け口は見つからなかった。
「どーなっても知らないかんね!どうしてヴィオラブライトじゃないのか、なんて言われても私はなーーーんにも弁明しないから!」
ははは、とびーちゃんは笑う。何度も思うが、何も知らない一般ウマ娘が見ればイチコロの笑顔である。
「そのときは、私の口から、さっきまでのことを説明してあげるから。そうすれば、きっとそんなクチはきけなくなるはずさ」
こいつは自分の持つ影響力の使い方を心得ている。こと私を不法に持ち上げることにかけては見事で、舌を何枚にも増やす様が見えるようだ。
もう少し真面目な目的にそれを使ってくれても構わんのだがね?そうは思わんのかい?
数分、悶々としていると部屋の扉がノックの音をたてる。礼儀正しく3度。
「―失礼する。U-NIONのシンボリルドルフだ。例の件での話し合いに参ったが―、開けては貰えないだろうか?」
なんだか声が半トーン高い気のするシンボリルドルフ。私たち3人は顔を見合わせ、えーちゃんはコーヒーを淹れに、びーちゃんは資料を取りに、そして私は客人の案内をすべく扉へ向かった。
「ようこそ、シンボリルドルフさん。みなさんも」
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「それでは続きまして、トゥインクルシリーズ代表しまして、中央トレーニングセンター学園の生徒会長、ソウダミカドさんより、U-NION本部長への宣誓をしていただきます。どうぞ!」
真新しいスタジアム。芝も心地よさそうに揺れていた。
名前を呼ばれ、会場はわああっと盛り上がる。
この中に私が《ミカドグラファイト》だった時期を知っているファンがどれほど居るだろうか。居るだろうな。じゃなきゃこんな歓声にならないもんな。
恐る恐る芝に出ると、スタジアムの一角に黒と白の横断幕が掲げられていた。私はこの時になって、あの数秒のもたらしたモノが改めて恐ろしくなった。
本物のレース場の芝を踏むのなんて何年ぶりだろう。踏みしめるたびにシャクっと音をたて、柔らかくも固くもない地面はその圧を気持ちよく返してくれる。
ただの何でも無い駆け足が、妙に気持ちよかった。
ステージ中央の宣誓台で待つU-NION本部長―秋川やよいさん。幼い顔と肢体にそぐわない、総てをつつむ優しさをもって此方を見ている。
たん、たん、とタレットを上がり秋川さんの目の前へ。一礼して、右手を掲げる。瞬間訪れる、いっときの音の無い間。ふと仰いだ空は雲ひとつ無く、何処までもいつまでも澄み渡っていた。
―私の日本ダービー編:終―