「お母さんお母さん!おきてっ!お出かけ!」
朝日がまだ登りきる前。闇夜から抜け出す太陽の光が微睡むように溶け合う頃に、普段は起こしても起きない寝坊助のベルが母親の体を揺り動かす。
寝起きが決して良いとは言えない彼の母親は、胸の中で声を出して動く彼をさらに締め付けるように抱きしめて黙らせる。
「おはよう、ベル。今日は早いな」
「……キュウ」
「力を入れすぎたか。まあいい」
息子の気絶におおよそ母親の反応とは思えない淡白さ。だがそれが、静寂のアルフィア。
「……さあ、やるか」
彼女にしては珍しく両頬を叩き、気合を入れる。それもそのはず、今日はベルがまだかまだかとカレンダーを毎日見て、過ぎた日に×をつけて、あと何日かというカウントダウンをするほど楽しみにしていた日なのだ。
今日、ベルは初めてオラリオへ行く。母親の物語の中にしか出てこない夢の場所。英雄にならんとする者達が集う、世界の少年ならば1度はその目で見ておきたいと思うその場所へ行くのだ。気持ちは流行るし、最高潮。
しかし、今更になって母親は二の足を踏んでいる。
「行くべきなのか?いや、行かぬ方が安心出来る。しかし
そんな彼女の背中を押す、どころか突き飛ばす友人が1人。
「うじうじしないのらしくない!ほら、アミッドもベルもあんたを待ってるのよ?」
「そうだよ。それにそこまで心配しなくても、とりあえず来たという既成事実だけ作れれば後は俺達が噂として吹聴しておくさ。君を脅せるような輩は
アネットが指さす先にはヘルメス以下数名の団員と、ベル、アミッドの乗っている馬車。その中でベルとアミッドがまだかまだかと目を輝かせている。
「はあ……行ってくる」
「留守は任せて!」
半ば諦めたアルフィア。何故か上機嫌のアネット。なかなか
ベルとアミッドの真ん中に迎えられ、浮かない顔で乗り込む。途端、馬車は糸が切れたように動き出した。
「行ってらっしゃ〜い」
なんとも気の抜けた声で送られる3人。見送るその顔は少し寂しそうで、でもしてやったりの彼女らしい顔もしていた。
※※※
オラリオは私を心底嫌っているようで、馬車の主やヘルメスも驚くほどモンスターが寄ってきた。最初のうちはベルやアミッドが恐慌状態になってしまい非常に困ったが、いずれもゴブリンやコボルド程度だったので何とかなる。それを見て段々とアミッドは慣れたものの、ベルは最後まで怖がって私に引っ付いていた。オラリオに着く頃にはベルは私の膝の上でガクガクブルブルと震えてるものだから、隣のアミッドがヨシヨシとずっと撫でている妙ちくりんな光景に。ベルに耳があったらぺたんと倒れていただろうな……と、これは私の感想。
それでも、関所を抜けたら見たことも無い建造物がひしめき合っているのだ。ベル達からしたら全てが『初めて』に彩られている。それはもう、私が少し焦るほどに嬉々としてはしゃぎ回った。
「ねえねえお母さん!!!あれ、あれがバベルだよね??」
「その通り、あれがバベルだ。さっき居たゴブリンが何十匹といるんだ」
ベルの顔がスーッと青ざめてゆく。まだ先程の恐怖は消えていないらしい。
対照的に恐怖より好奇心が勝っているアミッドは、バベルにも怖気づかずあちこちを見回している。その中でも気になるものがあったようだ。
「アルフィアさん!あのおっきな建物は?」
「ここではアルさんだ。バレたら面倒なんだから」
「あ……ごめんなさい」
「まあいい。あれは……私も知らんな。少し行ってみるか?」
「うんっ!!」
アミッドが関心を寄せたのは広大な敷地を有する洋館だった。一際目立つ規模のそれは、まるで御伽噺に出てくるお屋敷のようで。
「わあ……!!」
間近で見上げ、言葉を失うほど魅せられていた。かく言う私も、かつて栄華を誇ったファミリアの思い出がほんの少し、少しだけ頭をよぎった。
〜〜〜
「お姉ちゃん!また壊して何やってるのよ!?」
瓦礫とそれに埋もれる1人の男を背にし、振り返る私。
「メーテリア、ちゃんと理由がある。コイツが覗きをしたんだ」
「ああ……」
またか……と嘆息するメーテリア。処女雪を思わせる長く美しい髪を少し前に垂れて文字通り頭を抱える。
「でも、壁を壊すこともなかったじゃない。後でヘラが五月蝿いわよ」
「む……確かにそうだな。次からは加減する」
「そうして。おっちょこちょいじゃ済まないんだから」
少しの静寂。その後2人でクスクスと笑い合う。血が飛び散る瓦礫とボロ雑巾のように横たわる男を背にして。
〜〜〜
「お母さん!何考えてるの!!」
「ん、ああ。どうしたベル?」
「何か良くないこと考えてたよね?魔法でバンッってすることとか」
「……そんなことない」
「何今の間!?」
良くないことかは知らんが、ベルはよく私の考えてることを当てる。メーテリアに似たのだな。愛いやつめ。
「どうしたの?いきなり撫でて」
「可愛いなお前は。いつまでもそのままでいてくれ」
「もっと大きくなるよ……」
「そうか……残念だな」
「ええっ!?」
「冗談だ。お前が1人前になってアミッドを守れるようになるのを待ち望んでるぞ」
「えへへ」
チョロいのは誰に似たんだろうな。
「ね、ねえアルフィアさん。何かちっちゃい人が近づいてくるよ」
今まで館に夢中だったアミッドが突然妙なことを言い出した。怪訝に思い、アミッドの指さす方へ視線を向ける。
嫌な予感は、当たった。
金色のウェーブがかかった髪。戦闘に要らぬものを全て取り除いたような引き締まった小さな体躯。年齢に見合わぬ幼い顔立ち。
……そして、こちらを向いて不敵な微笑を浮かべるやたらと良い勘。
間違いない、ここは【ロキファミリア】の本拠地。噂に聞いていた、【黄昏の舘】だ。
「アミッド、ベル。少し怖いかもしれんが我慢してくれ」
「「え?」」
私は両脇に2人を抱え、脱兎のごとくその館から逃げるように石畳の上を駆ける。余計な事を起こさぬように。
※※※
「団長!!!どこ行ってたんですか!今日までの書類結構溜まってるんすよ!?」
「ん……ああ、すまない。でも、何故か親指が疼いてね」
「ま、マジすか……?」
「あの家族がどうかは知らないけど……何か近いうちに、よからぬ事が起きるかもしれないね」
「縁起でもないこと言わないでくださいよ」
「備えあれば憂いなしさ。多少装備を整えさせておいて」
「は、はいっす」
※※※
よりにもよって
「お母さん怖いよ」
「ご、ごめん」
「でも速かった!もっかいやって!!」
「いや……二度とごめんだな」
「そっかあ……」
不安が表情に出て要らぬ心配をかけさせてしまったようだ。この子達には何も知らずに楽しんで欲しい。
「よし、2人とも。どこか行きたいとこはあるか?」
「私は……ベルの行きたいとこに行きたいな」
「お腹空いたよお母さん」
「そう言えばもう昼時か。角にある……あの店にでも行ってみようか」
そんな話をして、私達は【豊穣の女主人】なる店へ足を運ぶことにした。