◇
涙の味というのは、感情で少し変わるらしい。
悔し涙や怒りの涙はしょっぱく、嬉し涙や喜びの涙は、少し甘く。好き好んで涙を舐めることなんてないけれど、泣きすぎて口に入ってしまうことは何度かあった。そう言われてみると、昔いじめられていた時に流した涙は海水のようで、そのあと親友が助けてくれた時にほろりと流れたそれは、なんだか砂糖水のように優しい味だったように思う。
ならば今自分の抱いている感情は何なのだろう、と口に入った雫を味わう。ごちゃごちゃしていて、よくわからなかった。
◇
「えー、であるからしてこの作家は────」
欠伸を噛み殺しながら、板書を手元のノートに写す。昼下がりの教室は春のうららかな陽気に当てられ、どうにも眠気を誘う。講義が単調なのも悪いよなあ、と己の不真面目さを教授に転嫁してスマホを開こうとすると、とんとん、と隣から肩を叩かれた。
「なんだよ」
要件を聞こうとすると、奴は口元で人差し指を立ててこちらを睨んだ。授業中だぞ、と視線が訴えている。とんとんと机を二回叩くと、ルーズリーフを一枚こちらに回してきた。
『寝るなよ』
「いや、寝ねえよ」
とりあえず否定しておく。奴は不満そうな顔をして、ルーズリーフを指差した。書け、と言いたいのだろう。今時の高校生でもこんな真似はすまい。
『LINEでよくね?』
『や、こっちのが風情あるじゃん。なんか懐かしいし』
そう書くと奴はこちらを見て、くしゃりと顔を歪めた。まあこういうのもたまには悪くないので、乗っかっておく。
『高校の時にこれバレて怒られたの忘れたのかよ』
『覚えてるけど俺は反省しない。つーかアレは、お前が投げ間違えたのが悪い』
『僕より君のが悪い。教室の端と端なのに紙飛行機でやり取りしようってのがそもそも馬鹿だろ』
『違ぇねぇ』
顔を見合わせて笑いを堪えていると、今度は後ろの席から背中をつつかれた。軽く振り返れば、女子二人が不満そうに俺たちを見つめていた。
「授業中に何やってんの?」
ウェーブのかかった赤髪を揺らして、
「お前らはわかってねえなあ、大学生だからこそ、この手紙を回す行為の楽しさが──」
「えー、ではここを──そこの君、答えてみて」
振り向いた教授が、龍二の逆立った後頭部を指差す。びくりと小さく体を震わせ「え、俺っすか!?」と焦る龍二に、周りの学生は明らかに笑いを堪えている様子だった。
「…………」
「んっ! や、えーっと……2番?」
「正解だ。ここの答えは────」
何事もなかったように黒板に向かう教授を尻目に、龍二が振り返って「歌穂、さんきゅ!」と親指を立てた。歌穂は照れたようにはにかんで「力になれたならよかった」と濡れ羽色の髪を撫で付けた。
「背中に文字書いてそれ当てるやつ、めちゃくちゃ懐かしいな! 今からやらん?」
「小学生じゃあるまいし」
「りゅーくんはまだまだ子供だね」
チャイムが鳴る。「そういうとこ結構好きだけど」と、舞奈が言った。
◇
僕と龍二は所謂腐れ縁で、小学校の頃から大学生の今まで、なんだかんだとともに過ごしてきた仲である。大学に入っていざ新たに交友関係を作ろうと思い立ったときに、たまたま出会ったのが舞奈と歌穂だった。彼女らも幼馴染同士で半ば姉妹のように育ってきたらしく、そういった相似点もあって、気づけば共に過ごすようになっていた。
「やっぱこの時間だと空いてていーね」
舞奈が唐揚げ定食を卓上に置いて言う。先程の三限が終わって今は、午後二時半。昼時に学食に来ると混むので、あえて時間をズラしているのである。「な、俺の言ったとおりだったべ!?」と、この作戦を最初に立案した龍二がドヤ顔した。
「講義中めちゃくちゃお腹すくから若干難しいところではあるけどね」
「それは虎太郎が朝メシ食う時間がはえーのが悪いだろ」
「いや、君みたいに昼前ギリギリに起きて慌てて朝ごはん食う方がおかしいんだよ」
「相変わらず仲いいねえ、ふたりは」
「お前らにだけは言われたかねえぜ」
お互いの頼んだものを全てシェアして食べている彼女たちを見て嘆息する。味が気になって少し分けてもらうのならわかるが、ほぼ毎日食べてる定食だし。まあ、もう慣れたから別にいいが。
「だって美味しいものはなるべく共有したいじゃん〜?」
舞奈が猫撫で声で微笑む。
「こたくんも食べる?」
「やめとけ舞奈、虎太郎に食わせたら全部なくなっちまうぜ。この前俺がやられた」
「それはこの前アイス食われた仕返しだよ」
彼女の甘えるような笑顔に、心臓が小さく跳ねた。それを悟られないように「大丈夫、僕少食だし」と誤魔化した。
「龍二くん、よかったら私のプリン食べる?」
「え、いいの!? さんきゅ歌穂!」
「歌穂さんはコイツに甘いな、もうちょい厳しくいったほうがいいぞ。すぐつけあがるから」
「プリンよりは甘くねーよ、たぶん」
甘やかされた男はプリンを一息に食べて、「やべ、そろそろ四限始まるから行くわ! んじゃまたな!」と忙しなく駆けていった。続けて舞奈も「あ、あたしも課題出すの忘れてた! ごめんこたくん、これよかったら食べちゃって! いらなかったら全然捨てちゃっていいから! それじゃまたね〜!」と嵐のように去っていった。
「…………」
残されたのは僕と歌穂と、卓上の定食たちだけ。「とりあえず食べきっちゃおっか」と彼女が気の抜けた声で言った。
◇
歌穂がどんな女の子かというと、静かで感情の起伏に乏しく見えるが、愛想がないわけではなくて、しかし内向的で自分からはあまり積極的に動かないものの、視野が広くて周りを気遣える──そんな人間である。
ただ、僕と彼女はそこまで仲がいいわけじゃない。お互いに内向的なタイプであり、自分から絡むことがないのが大きいのだと思う。少なくとも僕は友達の友達、といった認識だ。唯一、親しみを持っているところをあげるならば──
「虎太郎くん、あのさ……」
「ん、どうかした?」
食事を終え、お茶を飲んで一息ついたところで歌穂が話を切り出した。喉に何かがつっかえているように、しばらく言いあぐねている様子だったが、やがて決心したように「虎太郎くんってさ、その……舞奈のこと、好きだよね?」と言った。
「えっと……まあ、うん」
どういった意味合いの『好き』かが読み取れなかったが、好きではある。人としても、異性としても。
僕の答えを聞いて、歌穂はそうだよねと頭を振った。
「私ね、龍二くんのことが好きなんだ」
「うん」
知ってると思うけど、と後置きされた。確かに知っていた。隠し事のできない性格なのだろう、歌穂の抱く好意が近くにいるとありあり伝わってきて、何だか微笑ましく思っていた。肝心のアイツは、相当鈍いから多分気づいていないが。
「協力してほしいの」
歌穂の黒い瞳が僕を見つめる。泣き腫らしたような涙袋に圧を感じる。
「舞奈の好きなもの、嫌いなもの……色々わかるから、龍二くんのも教えてくれたら……」
僕は龍二の嗜好を知っているし、歌穂は舞奈の好みを把握している。つまり、効率的にお互いの恋の後押しを出来る。そういう取引らしかった。
「なるほどね────」
首を振りかけたが、視界の端に固く握りしめられた彼女の拳を見つけて、逡巡する。
「いいよ。取引しよう」
「……ありがとう。これからよろしく」
歌穂は申し訳無さそうに笑みを浮かべた。
◇
舞奈がどんな女の子かというと、自信家で、自分が可愛いことを自覚していて、でも嫌味なところはなく、むしろよく気が回り、軽そうな風貌と印象の割に芯がしっかりしている、そんな人間だった。
「次、何処行こっか?」
「あたしゲーセンいきたーい! プリ撮ろ、こたくん!」
週末。僕は舞奈と繁華街を歩いていた。「龍二の誕生日が近いから、プレゼントを選ぶのに付き合ってほしい」というのを口実にして。それ自体は嘘ではないんだけど、プレゼント選び自体はあっさり終わり、折角なのでとデートさせてもらっている。今頃、別の街で歌穂と龍二も同じように歩いているはずだ。
「変顔して撮っちゃおっかなー、まーでも一枚目はちゃんと撮るか!」
プリクラの画面の中に、
対して彼女は、ベージュのゆったりとした、白地の入ったニットのセットアップに、ブラウンのキャスケット帽とパンプスで合わせたカジュアルな出で立ち。休日だからか、普段会う時よりも少しめかしこんでくれている気がして、それが少し嬉しかった。
「ほら、次変顔いくよ!」
「え、ほんとにやるの!?」
「やるよー! 醍醐味だもん、ほら!」
シャッターのカウントダウンが近づき動揺していると、2の文字が見えると同時に、ほのかに甘い匂いがした。1と同時に頬をぎゅーっとつままれ、ぐにゅぐにゅと顔を変形させられる。確かなぬくもりを感じて、シャッター音とともに目をぱちくりとさせると、画面には変顔のぼくたちがいた。
頬を引き伸ばされ、口は大きく歪み、瞬きのタイミングのせいで半開きの白目をむいている僕は、ホラー映画に怪物役で出演してもおかしくない不気味さだった。対する彼女は、僕の
「ぷっ……ははははは!!!」
どちらからともなく笑い転げ出す。顔を見合わせ、画面を見て、自然と笑顔が溢れ出る。その後も数枚撮ったが、印刷したのは結局、最初の一枚と変顔だけだった。
◇
「めっちゃ楽しかったー! 今日はありがとね」
「こちらこそありがとう。舞奈さんのお陰でいいプレゼントも選べたし」
「りゅーくん、喜んでくれるといいな」
プレゼントの入った袋を大事そうに抱える彼女の横顔を、季節外れのイルミネーションの光がキラキラと照らす。共に歩きながらそれを見つめて、ライトアップされたオブジェの前で立ち止まった。
「舞奈さん、あのさ……」
「うん」
色素の薄い瞳が僕を見つめる。彼女の世界の中に、今は確かに自分がいるのだと、そう思う。思いたかった。でも舞奈が見つめているのは僕ではなくて、その先にいる
「また来ようね、ここ、冬場はもっと派手なイルミネーションやってるみたいだから」
「わー、いいね! 今度はみんなで来たいね!」
僕は、笑った。
◇
「もー、りゅーくんまた野菜残してる!」
「ちげーよ、食べたい人のために残してやってんだよ」
「じゃああたしが食べさせてあげる、ほら口開けなさい!」
「うげえ」
「学食で惚気んなよ」
目の前ではカップルの格闘が繰り広げられている。僕も歌穂も、それをみて呆れた顔を浮かべるばかりである。毎日こんな様子で、心底楽しそうだなと思う。
二人が付き合いだしたことを知らされたのは、あのデートから二週間ほど経ってのことだった。
龍二へのプレゼントを渡す際に、どちらからともなく告白したらしい。まあ龍二は最初から舞奈に気があるのが見え見えだったし、収まるべきところに収まったということなのだろう。
「そろそろ紅葉の見頃だからさ、週末みんなでみにいこーよ!」
「僕はパスかな、ちょっと忙しいから」
「私も用事あるから、大丈夫」
舞奈が「えー!」と不満そうに叫ぶ。
「全然気にしなくていいよ!? 誰と誰が付き合ってようが関係ないじゃん、楽しいのが一番だって!」
「それはそうだけどさ、付き合い始めの時期が一番楽しいって言うじゃん? だからその時間くらいは二人で楽しみなよ。っていうか普通に忙しいんだって」
「私もそうだし、そう思います」
僕たちの頷きに「ぐぬぬ……! な、なら冬は絶対みんなでスキー旅行とかしようね!? 約束だよ!?」と念を押した。
「うん、次は行こうね」と歌穂が微笑む。四人での旅行は、普通に楽しみだった。
◇
龍二がどんな奴なのかというと、爽やかで、情に厚く、涙脆く、面白く、大学デビューだからって派手な銀髪に染め上げるくらいカッコつけやすいところが玉に瑕だが、人懐っこい笑顔で引っ張ってくれるカッコイイやつで、一緒にいてつまらない瞬間が存在しない、そんな奴だった。
「んあ、そのハメ技は反則だろ!!」
「警戒してない方が悪い」
龍二の操作するキャラクターが、僕の操作するキャラクターによって画面端に追い詰められ、只管弁慶の泣き所を攻めるようなキックによる転倒と、立ち上がった瞬間の投げ攻撃を繰り返すことによってハメ倒されている。体力バーが空になったところで「あークソ、強すぎだろ」と龍二がコントローラーを軽く投げながら言った。
「やっぱ久々にやるとオモロイな、次はこうはいかねー」
龍二の部屋にて、俺たちはゲームに勤しんでいた。中学や高校の頃は散々こうしていたものだが、最近は頻度が減っていたので少しだけ懐かしい気持ちになる。
「お前から誘ってくるもんだから、てっきりこれの攻略法でも編み出したのかと思った」
「は、脳内では完璧だったんだけどな。そうそう上手くいかねーや」
そういって龍二は、煙草に火をつける。ボロアパートのくすんだ天井に、紫煙が昇って消えていく。
「虎太郎」
「なんだよ」
「この前はありがとな、誕生日の」
「ああ、別にいいよ。僕の時に3倍返しでくれれば」
「0.5倍くらいで返したるわ!」
龍二はお気に入りのドーナツ型のクッションに体を沈めて、ケラケラと笑う。
「っていうか相変わらず部屋汚すぎだろ、ちゃんと掃除しろ」
掃除が行き届いておらず衣服や空き缶で散らかり放題の四畳半は、二人が寛ぐには少し狭くて、必然的にくっつく形になるのがだいぶこそばゆい。
「舞奈さん呼ぶかもしんないんだから、退かれて愛想つかされるぞ?」
「俺ん家めっちゃ汚いよ、って話したらG出ないなら何でもいいよって言われたから多分大丈夫だ」
「豪胆だなあ」
「うむ、そういうところが好きだ」
惚気けやがってとぼやくと、奴は少しだけ申し訳なさそうに舌を出した。
「本当にありがとな」
ごめんな、という幻聴を、僕は無視した。
◇
日曜日。特にすることもないので、本を読んだり課題に勤しんだり、それなりに有意義に時間を過ごして、今頃あいつらは幸せに過ごしてるのかなと人並みに妬いたりして、手持ち無沙汰になったのでぼーっと居間のテレビを眺めていた。速報が入った。
「えー、たった今入った情報によりますと、──山にて落石事故があり、登山中だった男女二名が意識不明の重体とのことです。先日の大雨の影響による地滑りのようで、現場には────」
世の中には不幸なカップルもいるものである。折角の休日だってのにそんな悲惨な目に遭って、ご愁傷さまとしか言いようがない。お前らもそうならないように気をつけろよ、とせめて教訓にしてやろうと思って、龍二に電話をかけて──繋がらない。舞奈に電話をかけて──圏外。
龍二の両親に電話をかけてようやく、さきほど病院から連絡があったことを知った。舞奈を庇うように龍二が落石を受けたこと、それでも庇い切れていなかったこと──二人とも予断を許さない状況であること。
大変な時に失礼しました、と逃げるように電話を切ることしか出来なかった。未だに僕は、現実を理解できていなかった。龍二が岩に潰れてぺちゃんこになっているのも、舞奈が庇われながらも、結局轢かれてしまっているのも。タチの悪いギャグにしか思えなかったし、悪い夢としか思えなかった。とりあえず寝よう、と意識を闇に沈めて。いつもより早く家を出て。教室で歌穂と何気ない言葉を交わして、いつまでも来ない二人を待ち続けて。そうしてようやく、何か、取り返しのつかないことが起きたことがわかった。
「ああ、そうか」
事故に遭ったんだ、あいつらは。幸せの絶頂なのに。想いあって、ようやく結ばれたカップルなのに。
──僕たちがくだらない後押しをしたせいか?
──四人で行けば何かが変わっていたか?
──その時は────その時は、そうだ。龍二ではなく、僕が舞奈を庇って、そうして死ねただろう。アイツみたいに大事な奴でなくて、僕みたいにどうでもいいのが死ぬべきだった。せめてアイツらの役に立ちたかった。でもそれも、あとの祭りだ。みんなつまらぬ劣等感で消えた。卑屈さも気兼ねも矮小さも、二人とも十分知るところだったのに。それと図々しく頷くだけの勇気があればよかったのに。
それからしばらく、大学には行かなかった。引きこもって、ぼーっと奴らのことを考える。潰れた二人を想像する。寄り添って、共に眠る二人を夢想する。この上なく悲惨な状況なのに、それが何だかひどく牧歌的に思えて、羨ましいとすら感じる自分がいて、だから、そんな僕は死ぬべきなんだと思った。
髪を銀髪に染め上げて、マルボロを吸い始めて、アイツの好きだった服を着始めた。黒のジャケットにロックバンドみたいなガラのTシャツ、ダメージジーンズにレザーブーツ。そうしてようやく気持ちが落ち着いて、学校に足を運んだ。幽霊を見るような気味の悪い目で見られたが、それがむしろ心地よかった。
何を受けても、どこに行っても、教室には誰もいなかった。龍二も舞奈も歌穂も、僕も。
人の会話も講義の内容もすべてが空虚に思えて、俺は街に向かった。アパレルを見て回って、ゲーセンに向かって、無為に時間を過ごして、そうして夜になった。冬の骨身に染みるような、刺すような冷たさが気持ちよくて、足早に風を切る。例のイルミネーションは宵闇の中にキラキラと輝いていて、寄り添いながら眺めるカップルでひしめき合っていた。その中に、一筋の紅を見た。
「舞奈……?」
派手な赤髪が振り返る。潤んだ瞳がこちらを見つめる。
「りゅーくん……? りゅーくん!」
胸の中に温もりが飛び込んでくる。確かに生きているんだとそう主張してくる。
「もうどこにもいかないよね、ずっとここにいるよね!?」
「ああ、大丈夫だよ舞奈。俺はここにいるから」
優しく背中を摩る。彼女の髪が頬をくすぐる。顔を合わせて、力なく微笑む。イルミネーションの光を受けて、泣き腫らしたような涙袋がキラキラと煌めいていた。