チョコレートわーくす 作:水代
全てが静止した世界。
維持できるのは一秒……どころか0.5秒あるかないかと言ったほどの本当に僅かな時間でしかない。
時間が止まった世界で0.5秒というのもおかしな話ではあるが、とにかく0.5秒ほどだ。
その0.5秒の静止の後、凡そ
そう、基本的に割に合わないのだ。
時間を止める、と言えばそれは大層な力だが一秒にも満たない時間を止めるだけ、しかも発動までに数秒の『溜め』を必要とするため咄嗟には使えない。
さらに言えば使ったらその後、身動きすることすら億劫なほどに虚脱感に襲われて丸一日は寝込むハメになる、となれば本当にこんな力使えない。
正直物理的な凍結術式の第一、第二までのほうが余程使えるし、アタシのスタイルを考えれば木剣に氷を纏わせてブン殴るのが一番効率が良く、使い勝手が良い。
それでもこの僅かな時間が、今の状況には必要だった。
とん、と靴に仕込まれた『ギミック』を蹴りながら発動させることで、足下に高圧蒸気が噴き出し、一気にその体を持ちあげる。
ナイトベルグは『蒸気と歯車の街』と言われるだけあって街中に歯車が使用されているし、動力としてもっぱら蒸気が使用されている。
この靴はそんなナイトベルグで作られた『魔道具』*1であり、ナイトベルグの上級警備兵たる『
本当ならば逃走の際や、追跡などに使うものなのだが、この短時間で一気に湖との距離を詰めようとするならばこれしかなかった。
一瞬にして足元に発生した高圧の蒸気がアタシの体を宙へ向けて吹き飛ばす。
同時に懐から取り出した小瓶の栓を抜き―――。
そして時が動き出す。
一瞬にしてその場から消えたアタシを水精霊が見つけるまで一体何秒か。
基本的に精霊というのは人間のような五感は持っていない。当たり前の話、体が湖の水そのものだというのにその端末のような存在の持つ目や鼻や口がそのまま人間と同じ役割を果たしているだけではないのだ。
では精霊は何を持って他を感知しているかと言われると、それは『マナ』だと言われている。
精霊とは『マナ』そのものであり、故にマナの動き、流れには敏感であると推察されている。
故に、マナ術式によって体内のマナを使い切ったに等しいアタシは相手からすれば極めて感知しづらいはずだ。
その『しづらい』が一体何秒分のアドバンテージになるのか、それが三秒もしない内に訪れるディスアドバンテージを覆すだけのものなのか。
そんなことは分からないが。
けれど確かにほんの僅かな時間、精霊の知覚からアタシという存在は消えた。
だが精霊の本体である湖へ向かって落ちてくる物体などいくらマナが希薄だろうと精霊がいつまでも気づかないはずがなく。
「ああああぁあぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
こちらに気づいたらしい精霊は叫びをあげながら、螺旋に渦巻くような水の『槍』とでもいうべきそれを最早術式の反動でロクに動くこともできないアタシに向けて。
―――真っすぐに射出した。
* * *
チルハの姿が一瞬で掻き消えた。
それが合図だった。
「こ、こ!」
三秒くれ、とチルハは言った。
それは単純に三秒時間を稼げ、ということであり。
それは『今この瞬間』を指していた。
三秒というのはつまり、奥の手を使うための『溜め』ではない。
寧ろ逆、奥の手を使った後の三秒間。
チルハがマナ術式の反動で動けなくなるまでの三秒間でケリをつけるために注意を引いてくれ、と言ったのだ。
故にこの瞬間だ、この瞬間にこそヨルもまた全て使い果たす。
「こっちを……見なよ!」
いつでも使えるようにと手の中に準備していた『球』を撃ちだされた水流の槍に向かって投げる。
確かにヨルのマナ術式は現状にそぐわないため使い道が無いかもしれないが、魔道具ならば話は別だ。
相手が『水』の聖霊ということで、チルハと合流していた時に密かに用意していたのだ。
―――『
たっぷりと込めたマナの影響で、一気に超高温へと熱されたエンジンが水流の槍へと触れると同時、鼓膜を震わせ地響きを立てるような轟音と共に水流が一気に蒸発し、急速に膨れ上がった体積が圧の限界を超えて爆発を起こす。
いくら放たれた水流が水精霊からすれば末端なようなものだろうと、湖の上で巻き起こった蒸気爆破は湖にすら影響を及ぼす。
当然湖を本体とする水精霊からすればそれは決して無視できない類のものだ。例えダメージが無いとしても、人で言えば背筋をなぞられたような怖気が走っただろう。
最早容赦ならないとばかりに水精霊が声を震わせると同時にその声に共鳴するかのように湖全体が震えだし。
「まず……ったかな、これ」
凄まじいまでのマナが湖を中心として渦巻き、その余りの力に大気すらも震えだして。
「いや……間に合ってくれたみたい」
直後、湖へと降り注いだ影を視界に捉えて。
「三秒、とっくに過ぎたよ、チルハ」
呟きの直後、水飛沫が舞った。
* * *
―――たく、ヨルはもうちょっと後先を考えなって。
突然下方の爆風に押し上げられ落下が遅くなったせいでタイムリミットを過ぎてしまい、全身に激しい虚脱感を感じながら湖に落ちる。
澄み渡った水が眼下に広がる、同時に手の中の小瓶の中身が水に溶けていく。
―――まあ、目的は完了。さて、これでどうなるのやら。
すでにこちらは全て出し尽くした。
これでどうにもならないならいよいよもって詰みということに他らならないのだが。
そんなことを考えながら水に溶け、キラキラと輝きながら消えていく小瓶の中身を見やり。
ふと、それに気づく。
―――ちょっと待ちな、この小瓶の中身、もしかして『精霊の涙』かい?!
余りの驚きに思わず口から空気が漏れ出し、泡となって浮かび上がって行った。
先ほどまで固形状だったため、気づくことが無かったが、こうして水に溶けた端からキラキラとまるでラメでもばら撒いたかのような光の輝き、そして何より水に溶けた瞬間から増していく強力なマナの反応に確信を抱く。
精霊の涙は文字通り精霊の流した涙……ではない、精霊というのは基本的に通常の生物と根本的に身体構造が異なるため涙なんて流さない。
では何かと言えば、精霊の涙は
精霊は原理は一切不明だが『生きている』。
当然生きている以上は死ぬこともある。
精霊に寿命は無いが、様々な理由で『マナを一定以上喪失』した精霊は自らの存在を維持できなくなり、死亡する。
その死亡の間際に自らの残ったマナを全て凝縮したもの、それが精霊の涙と呼ばれる物質だ。
本来形の無いはずのマナが超高濃度に凝縮され、精霊の力が加わった結果物質化したものであり、それ自体に途方もない力が秘められている。
だが当然、死亡することがある、と言っても精霊なのだ。可能性がある、というだけであって普通はそんなことあり得ない。
つまり世界中探したとしても数十年、下手をすれば百年に一度手に入るか否かと言ったほどの超希少品であり、同時にその力だけが良く知られた品でもある。
―――やっぱりそうだ。
徐々に全身の虚脱感が抜けていくような感覚。
それどころか、水精霊に叩きつけられたダメージ、マナ術式の使用のために使い果たしたマナ、それら全てがまるで時間を遡ったかのように徐々に戻っていく。
『状態回帰』。
それが精霊の涙の力だ。
本来は微量に削った粉末を水に溶かして飲む薬品のような扱いらしい。
間違ってもこんな塊の状態で湖に投げ入れるようなものではない。
その力はあらゆる状態を回帰させる。
服用した対象にとって最も良い状態へと回帰させる。
どんな万病も、どんな大怪我も、瞬く間に消し去ってしまう。
それは決して治療ではない、回帰、つまり遡って戻してしまうのだ。
原理も、理屈も、関係無い。
それがどんな病だろうとどんな傷だろうと、関係無いのだ。
時間を回帰し、状態を復元する、そのことにどんな因果も必要としない。
あらゆる道理をねじ伏せて、ただ最適な状態に戻ったという結果だけが残る。
故に精霊の涙を溶かしたその薬は『
今この湖は小瓶から零れた精霊の涙が溶け込んで、湖全てが『万能薬』と化している。
アタシの体が急速に力を取り戻しているのも湖に沈んでいる影響だろう。
―――どこでこんなもの手に入れたのかは知らないが、大した切り札だね。
この湖は精霊自身だ。故にその湖にこれを溶かした以上、精霊の状態も回帰する。
どうやら賭けには勝ったらしい、これで全部解決―――。
―――するはずだった。
* * *
これで状況は解決したと考え、湖面へと泳いで上がろうとした直後、視界の端のほう澄んでいたはずの湖に黒い靄が混じっていることに気づいた。
それが何かを考えるよりも早く、突如として湖の中で水が渦巻き始め、再び激しい水流を生み出す。
まるで洗濯機に入れられた洗濯物のようにぐるぐると渦に飲まれ、視界が回っていた。
―――正気に戻ってない?
そのことに気づくと同時に何故、という疑問が沸く。
万能薬はいかなる状態でも関係無く最善の状態に『回帰』させる。
治療するのではない、そもそも異常を無かったことにするのだ、故にどんな状態でも関係ない、万能薬を使った以上必ず戻る。
そのはずなのに、湖は荒れ狂ったまま精霊は正気を失ったままだった。
これで万能薬が偽物だったとかなら分かるが、現実にアタシの体は最善の状態まで回帰している以上、小瓶の中身は本物だ。
だとすれば何故?
直後に先ほど見た黒い靄を思い出す。
この澄んだ湖に似つかわしくないその黒は記憶に残っていた。
あれは一体何か、ぐるぐると回る視界の中でなんとか体勢を取ろうと苦心しながら、考える。
だがそれより先に限界が来る。
人より肺活量はあるほうだとは思うが、それでも五分も十分も潜っていられるわけではない。
徐々に苦しくなってくる息に、すでに限界は近いのだと悟る。
いくら万能薬が状態を回帰すると言っても、空気までは作りだせない。
あくまで万能薬は状態を戻す作用があるだけで、呼吸のできない場所に居続ければ結局それは……。
「っ!!!」
その可能性に気づいた瞬間、右拳を握りしめた。
―――
握りしめた右拳を起点として『凍結』術式が湖の水を一気に凍らせていく。
凍結によって水流が弱まり、視界が安定すると同時に下へ下へと向かって潜っていく。
呼吸の限界は近い、だがもし想像の通りだとするなら今この瞬間にしかチャンスは無い。
自らの体の奥深くへと沈んでいくアタシを排除せんと水精霊が湖に再び水流を作ろうとするが、その度に凍結術式を発動しながらそれを阻害する。
精霊相手にこんなことをしていれば普通はあっという間にマナが尽きてしまうのだろうが、今この瞬間だけは……
どれだけ凍結術式を発動しようとあっという間にマナが『回帰』する。
当然湖を凍らせても『回帰』してしまうので鼬ごっこに過ぎないが、それでも湖底にたどり着くまでの時間さえ稼げればそれで良かった。
湖の底、澄んでいたはずの上側と違い、そこにあったのは黒い淀み。
それは湖底に落ちた銀貨のようなものから滲み出ていた。
これが原因であると直感する。
これこそがこの一連の騒動全ての原因である、と決めつける。
見ただけで背筋が寒くなりそうな感覚を覚えるほどに悍ましい気配が滲み出ていた。
直接触れることすらはばかられるような感覚を受けるそれを周囲の水ごと凍結させ、手に取る。
回帰しそうになる氷を何度も何度も凍らせながら急いで湖の上面へと昇っていき。
「ぷはあ!」
湖面へと出ると同時に大きく深呼吸。
手に持った氷を湖の外へ向かって投げる。
瞬間。
ぴたり、と荒れ狂っていたはずの湖の全てが制止した。